津野田 - みる会図書館


検索対象: 小説新潮 2016年12月号
33件見つかりました。

1. 小説新潮 2016年12月号

の糸が途切れ、全身の筋肉が一斉に弛緩するのが分かった。美留 津野田は、反対側の枕元に座る美留樹を見た。美留樹はうなず樹は強い脱力感に包まれながら、手足を伸ばして大きく伸びをし くと、手にした布巾を母親の口元に当て紅色の液体を拭った。傍た。 らには電気ポットと、そのお湯を満たした洗面器が置かれ、さら 「御苦労だったな」 に予備の布巾が五枚ほど積まれていた。 座卓を挟んだ向かいの座椅子に、津野田が腰を下ろした。『神 「お前は初めてだから不安だろうが、俺は何度も経験しているか梅』の使用に長けたべテランらしく、額がわずかに汗ばんでいる ら先の見当がつく。大丈夫だ。指示通りにやればうまくいく」 以外、特に疲れた様子は見られなかった。 津野田は断言し、頬を緩めた。その、いかにも年長者らしい 「ママの容態も安定した。熱は下がったし、毒条もあと一時間も 落ち着いた態度を見て、美留樹はようやく落ち着きを取り戻し すれば全て出る」 ( 0 津野田は白い歯を見せた。美留樹は座椅子に凭れながら、視線 津野田の言葉通り、母親から排泄される毒条は半流動性のもの を左前方に走らせた。津野田の肩越しに幾重にも重ねられた毛布 から流動性のものへと変化していった。それに伴い、鼻孔がメイ が見え、その右端から枕に頭を乗せた母親の顔が半分ほど視認で うっす ンだった排泄部位も口内、そして左右の外耳道へと拡大した。美きた。仰向けで天井を向いた顔はいつの間にか薄らと紅潮し、閉 留樹は黙々と毒条を拭き取り、布巾を洗面器で洗い続けた。お湯じられた唇は紅を引いたように朱色に染まっている。 が濁りきると津野田がシンクに運んで捨て、ポットの新しいお湯 「心配するな」津野田は美留樹の心を見透かしたように言い、背 で満たした。布巾は次々と交換され、いつの間にか予備の五枚全後を一暼した。 てを使いきっていた。 「毒条が抜けると血管が競い合うように拡張して、血液が物妻い 一一時間が経ち、時計の針が午後九時を回った頃、毒条は成分の勢いで全身を循環する。その際、毒条の沈殿量が最も多かった顔 四 % が液体となり、全身の毛穴から排泄されるのみとなった。津 面の毛細血管に、反動で血液が集中する傾向がある。一時的に変 野田は母親の腋窩を指先で拭い、分泌される液体の匂いを直接嗅色をきたしているだけで、すぐに治る」 いで確かめると、ようやく美留樹に清拭の終了を告げた。 「ふうん」美留樹は納得したようにうなずいた。詳細は不明だ が、とにかく大丈夫だと分かり安堵した。 「ちょっと一服しよう」 津野田は体ごと振り向き、布団の傍らに置かれていた電気ポッ 美留樹は居間の座椅子に座り、大きく息を吐いた。同時に緊張 トを引き寄せた。そして座卓の上から湯呑を取るど、中にお湯を る」

2. 小説新潮 2016年12月号

と維持された。美留樹はその軍隊の如き秩序だった行動に驚き、 留樹は極度の人見知りで、母親にも胸中を吐露したことはなかっ 笑い、呆れ、やがて感心するようになった。 たが、謎のセンセイには徐々に興味を持つようになった。そして 同時に津野田との同居をほのめかされた際の記憶がしきりに蘇同居開始から一か月が経ち、その存在を受け入れてしまうと、津 った。「なぜ知らない人と暮らすの ? 」としつこく尋ねる美留樹野田の存在はテレビやタンスと同義のごく自然なものとして目に に対し、母親は「立派になるには男親が必要なの」と同じ言葉を映るようになった。 繰り返したが、実際同居してみてその意味が分かったような気が 美留樹はその時初めて津野田との生活に安らぎを感じ、これか した。 らも一二人で暮らしたいと切望していることに気づいた。理由は明 それは美留樹にとって嬉しい誤算であり、夢にまで見た安息の 快で、それだけ自分を取り巻く環境が短期間で改善されたからだ 日々だった 0 った。特に恩恵を受けたのは母親で、その変わりようは激変を通 り越して奇跡に近いものだった。 美留樹の鼓膜には、今でも「まあくん、まあくん」という震え を帯びた声が脂のようにこびりついていた。それは昨年末、極度 母親は美留樹のことを「ミルちゃん」や「ミルミル」と呼んだ の不眠症に陥り、朝から晩まで酒をあおる母親が、別れた、とい が、津野田はただ「ミル」とだけ呼んだ。母親の、甘美ではある うか捨てられた元カレの名前を泣きながら連呼する際のものだっ がどこかべットを愛でるような物言いに不満を感じていた美留樹 た。タ・ハコの煙が充満し、床一面にゴミが散らばる八畳の居間 は、「ミル」と呼ばれる度に男として認められた気分になった。 で、裸体に毛布を被りウイスキーをラツ。ハ呑みするその姿は、不 さらに津野田は美留樹と接する時、母親のように上から教え諭す憫を通り越し、さらに恐怖を通り越して、ただひたすらに腹立た ことはせず、大人同士のように対等な口調で話した。 しかった。美留樹はその時、まさか無事に年を越すことができる ただそれだけのことであったが、美留樹は津野田に信頼されて ことも、さらに四か月後にまた満開の桜が見られる上、『救世主』 いると感じ、身の引き締まる思いがした。同時に、いつまで経っ が地味なスーツ姿でやって来ることも知らずに、もぐり込んだ押 ても自分を子供扱いして認めようとしない母親がひどく愚かに見人れの中でじっと息をひそめていた。 えた。 暴言・暴力とは無縁で『プロレス』も行わず、常に自分を「ミ ル」とだけ呼ぶ津野田は魅力的だった。生まれてから一度も集団 生活をしたことがなく、学校や塾はおろか、託児所すら知らぬ美 「散歩に行こう」 やに 109 マアメイド

3. 小説新潮 2016年12月号

脳裏の暗闇に、雄弁を振るう津野田の姿が映し出された。それ向けた状態で仰向けになり天井を仰いでいた。 美留樹は大きく息を吐き、肩を落とした。疲労感がどっと湧き はうっし世とも夜の夢ともっかぬ奇妙な記憶だったが、途方に暮 上がり、全てがどうでもいいような捨て鉢な気分になった。力な れる美留樹にとっては一筋の光明となった。津野田の腰にはウェ く振り向き、水切り棚に置かれたトラベルウォッチを見た。文字 スト・ポーチが巻かれたままだった。容器の取り出しは容易であ 、用法・用量も把握していた。後は劇的に回復するであろう津盤の針は午後三時を指していた。美留樹はもう一度大きく息を吐 こうとしたが、そこで何かを思い出したような顔をした。虚空を 野田に対し、何と言って謝るかだけだった。 不意に眠気を覚え、美留樹は大きなあくびをした。依然として見つめ、一呼吸分躊躇した後、意を決したように寝転がる津野田 の方を向いた。 頭蓋にぬるま湯が溜まっているようにだるかった。吐き気はいっ 「アンシュ ! 」 の間にか治まったが、今度は手足の先端に、血流が圧迫された時 美留樹は大声で叫んだ。声は四面に響き、キッチンの澱んだ空 のような痺れが起きていた。美留樹は″お湯割り〃の副作用の多 様さにうんざりしながら六畳間を出、居間に人った。すぐにでも気をわずかに震わせた。そのまま十秒ほど待ってみたが津野田に 変化は見られなかった。仰向けになったまま、積み重なった土嚢 座卓に突っ伏したかったが、寝る前にやることがあった。津野田 のように徴動だにしなかった。 のロは半開きになっており、錠剤の挿人に手間取ることはないよ また、外でカラスの鳴き声が響いた。手回しのサイレンのよう うに思えた。 に高く、間延びした声だった。そこで美留樹は、このア。ハートに 美留樹は「げきてきに、かいふく、する、げきてきに、かいふ く、する」と津野田のロぶりを真似ながらキッチンに向かって歩越して来てから一度もカラスの姿を見ていないことに気づいた。 じゃあ、あの声は一体何だろうと思いながら、シンクの上にある いていった。 出窓に顔を寄せ、頭上に巡らされた電線に目を向けた。 しかし相変わらずカラスの姿を捉えることはできなかった。 美留樹は視線をゆっくりと移動させた。 上空には鈍色の雲が立ち込めていたが、わずかに切れ目がで 海底からゆっくりと浮上するようにして美留樹は目覚めた。 き、隙間から青空が覗いていた。そのコ・ハルトプルーの色彩は、イ いつの間にか流しの下にしやがみ込み、眠っていたことに気づ いた。美留樹は体を起こすとシンクに手を掛けて立ち上がり、右皮膚の裂け目から露出する、ぬめった肉のように酷く鮮やかに見ア えた。 側の床に視線を向けた。 津野田は寝転がったままだった。足を冷蔵庫に、頭を食器棚に ( 了 )

4. 小説新潮 2016年12月号

心症の薬。血管を拡張させて血圧を下げるやつ。これをそん時も 津野田は小さく二回うなずくと、ウエスト・ポーチから携帯を 持ってて、こりやャパい死ぬって思って、外したウエスト・ポー 取り出し、どこかに電話を掛けた。 チ指さして『ニトロ、ニトロ』って叫んだら、アリエルがすぐに 気づいて、この錠剤を口の中に人れてくれた。二つ同時に。どう なったと思う ? ソッコ 1 で効いた。一分も掛からずに治った ね。劇的に回復するってやっさ。劇的に。回復。する。分割して その後の美留樹の記憶は酷く曖昧だった。憶えているのは、津 もいい言葉だ。つまりママは僕の命の恩人ってことさ。だから改野田が電話を掛けた後、しばらくして車の止まる音がし、二人の めて言う。アリエル、ありがとう。 男がやって来たこと。それが以前団地で見た、あの太った男と・ハ 二つ目は最後まで人魚の存在を信じてくれなかったことだ。こ ンダナの男だったこと。二人が布団に横たわる母親を持ち上げ、 れは不満を表明するってことだね。まず人魚といったら僕のママ ュニットバスまで運んだこと。そして中からノコギリで何かを切 だ。僕の母親。生みの親第一号。大好きで、好き過ぎて、十六歳るせわしない音がしばらく続き、その間津野田は居間で仮眠をと の時に解剖して腑分けした後、肝を食べたあの永遠のママ。永遠 っていたこと。朝になって、両手に黒いゴミ袋を提げた二人の男 のママはアンデルセンの人魚姫が大好きだったから、イコール、 と津野田が連れ立って出掛け、表で車のエンジン音がしたこと、 だった。 人魚認定して人魚たりえたんだけど、極まれに邂逅するママに激 似の女もイコ 1 ル、人魚認定するのは当然だった。今まで人魚認 定は六人いて、ママは、あ、こっちのミルのママだけど、ミルマ マは七人目だ。つまりミルママは自分が人魚だってことも、自分 の肝が万能薬の原料になって、六人の先達みたいに世界中の人々 どれ位眠ったのだろうか。 を救済するってことにも気づかずに意識を失ってしまったんだ」 美留樹が目覚めた時、居間には朝のまばゆい陽光が射し込んで 津野田は本当にがつくりと肩を落とし、沈鬱な表情をした。そ いた。目を擦り、座椅子の上に体を起こすと、隣のキッチンから のまましばらく眼前の虚空を見つめていたが、ふと思いだしたよ津野田が顔を出した。 うにこちらを向き、じっと目を凝らした。 「お早う」津野田はエプロンを首から掛け、右手にお玉を持ってイ ア いた。「・よく眠れたかい ? 」 「おーいミル、聞こえるか ? 聞こえるけど返事は無理か ? う マ ーん : : : お湯割りが大分効いているな。いい感じだ。よし、これ でいい」 美留樹は無言で首を傾げた。頭蓋にぬるま湯がたまっているよ

5. 小説新潮 2016年12月号

めった触手のような視線に圧倒され、反射的に「分かる」と答え が眼前に現れた。手前が棟、奥が棟で、二棟の間にはアスフ アルトの歩道があった。歩道は一直線に伸びており、突き当りに 「じゃあ、ママに薬のこと訊いてくれるね ? 」 は受水槽式の古い給水塔が建っていたが、その背後には二十階建 「訊くよ」 ての新築マンションが峭立し、白く艶のある壁面をまばゆく光ら 美留樹はまた反射的に答え、小さくうなずいた。 せていた 「ここも秋に取り壊すらしいが、立ち退きに反対してる住民がい てもめているそうだ」 津野田は歩きながら敷地内を見回した。 その後の津野田は上機嫌だった。母親の一件をよほど気に掛け 舗道に面した人り口部分には昔の名残で一対の門柱があった。 ていたらしく、口元に笑みを浮かべたまま下鎌田工リア内を闊歩左の門柱の側には屋根付きの駐輪場が舗道と並行して連なってい した。 た。横一列に三十台ほどの自転車が駐輪可能だったが、入居者が 新興の住宅街を抜け、大学病院の煉瓦塀沿いに歩いていき、突激減しているらしく数台の自転車が停められているだけだった。 き当りの角を右に曲がった。そこからイチョウ並木が続く舗道を 右の門柱の後ろには飲料水の自動販売機が設置されていた。傍ら さらに五十メートルほど進むと、左手に二棟の低層団地が重なり には同じ飲料水メーカーのロゴが人ったべンチが置かれ、二人の 合うようにして見えた。 男が腰掛けていた。 「『しもかまた団地』だ」 「ほら、反対派の奴らがいたぞ」 津野田が間延びした声で言った。 津野田はからかうように言い、右手を挙げて大きく振った。顔 『しもかまた団地』は自宅ア。ハートから徒歩十分ほどの距離にあ見知りらしく、べンチの男たちもこちらに向かって右手を挙げ、 った。築四十八年、階段室型の四階建てで、当初は二十二棟から 白い歯を見せた。津野田は小走りになるとそのまま門柱を通り抜 なる大型の団地群だったが、幹線道路の拡張や商業施設の増加、 け、べンチの前で止まった。 さらには建物の老朽化も加わって十年前から徐々に取り壊しが 「よお」津野田は二人の男と気軽に握手して、一番右端に腰掛け 始まり、現在は敷地の西端に建つ棟と棟だけが残されてい た。真ん中の男は四十代前半に見えた。かなり太っており、津野 ( 0 田と全く同じ野球帽を被っていた。左端の男は一一十代後半に見え 二人は道路を横断し、反対側の、団地に沿った舗道に移動し た。背が高く、頭に・ハンダナを巻いていたが、遠目でも日本人で た。進んで行くと、周囲を芝生で囲まれた灰色の壁のような建物はないことが視認できた。三人はだらしなくべンチに凭れなが

6. 小説新潮 2016年12月号

うにだるく、軽い吐き気がした。なんでだろうと記憶を辿り、や ップを口から離し、座卓に置いた。 がて紅色の″お茶〃が脳裏を過った。 「ママは ? 」美留樹が、唐突に訊いた。 「 : : : お湯割り」 「朝方、人院したよ」津野田が当たり前のように言った。「憶え 美留樹が声を振り絞っていった。しかし津野田は無反応だっ てないかい ? 僕の友人たち、あの団地で会った例の二人に来て た。そのまま何事もなかったようにキッチンに入ると、中から大もらって車で行ったんだ」 きな声で「もうすぐできるから」と叫んだ。 「どこの病院 ? 」 津野田は約束を守った。一分も経たぬうちに片手鍋とマグカッ 「大学病院さ下鎌田の。団地に行く時通ったろ ? 」津野田はまた プを持って戻ってきた。 当たり前のように答えた。 「おまちどおさま」 美留樹の脳裏に、煉瓦塀越しに見える古いビルが蘇った。 津野田は鍋敷きも敷かずに直接座卓の上に鍋を置いた。蓋はな 「病室は一人部屋で、冷暖房完備だ」 く、さきほどのお玉が突き人れられていた。津野田は美留樹の正 津野田が弾んだ声で言った。 面に座るとお玉を取り、左手のマグカップに鍋の中身を掬って人 その途端、美留樹の頭がカッと熱くなった。理由はよく分から れた。 ないが、なぜか侮辱された気がした。それも繰り返し、激しく、 「さ、召し上がれ」 これでもかという位踏みにじられた気分になった。頭の熱は瞬く 津野田はにつこりと笑みを浮かべ、座卓にマグカップを勢い良 間に伝播し、全身の皮膚が発火したような錯覚を覚えた。同時に く置いた。ダン、と音がして中を満たした飴色の液体が揺れた。 美留樹は片手鍋を掴んで立ち上がり、中身を思い切りぶちまけ 「なにこれ」美留樹はぼそりと呟き、カップと津野田の顔を交互 に見た。 「うわっ ! 」顔面にスープを浴び、津野田が仰け反った。美留樹 「強いて言えば : : : 」津野田は何かを思案するような顔をした。 は空の鍋を持って座卓に上がり、剥き出しの脳天に叩きつけた。 ゴッ、という鈍い音を立てて津野田が突っ伏した。美留樹は鍋を 「なにそれ」美留樹はカップの把手を持ち、鼻先に近づけた。一 振り上げ、もう一度脳天に叩きつけると座卓を下りた。 瞬無臭に感じられたが、少し遅れてカマンべールのような香りが 「この野郎」津野田がうめいた。顔が歪み、ロがへの字に曲がっ 徴かに鼻先を掠めた。美留樹はそのままカップの縁に口をつけ、 ていた。美留樹は津野田の背中に鍋を投げつけ、キッチンに駆け スープを啜った。匂い同様味もほとんどしなかったが、なぜか眼 込んだ。武器はないかと思い、すぐに包丁が浮かんだ。美留樹は 前に母親の顔が浮かび、胸の奥がじんと熱くなった。美留樹はカ流しの下を開け、扉の裏に刺した出刃包丁を引き抜いた。そして ・マアメイド・スープ」 120

7. 小説新潮 2016年12月号

海中に一匹の人魚が佇んでいる。腰まで伸びる金髪をなび かせ、瑠璃色の尾っぽを横に折り曲げて、じっとこちらを見てい る。切れ長の瞳は物憂げで、人間を憐れんでいるようにも、いた 翌日の昼過ぎ、図書館から帰宅した津野田に美留樹は″事後報わっているようにも見える。足元からは無数の気泡が立ち昇り、 告〃をした。 頭上からは桃色の光が降り注いでいる。 「そうか、ちゃんと飲んでるか」 全ての色彩はソフトフォーカスをかけたように白み、全ての描 津野田は弾んだ声で言い、満面に笑みを浮かべた。そして美留線はハレーションを起こしたように滲んでおり " 人魚姫〃を待ち 樹の右手を両手で握りしめると何度も礼を言った。 受ける悲劇的な結末を仄かに暗示しているようだった。 「他にもある 「それさえ確認できれば安心だ。やっとここまできたのにゴール 手前で失格したら台無しだからな。本当に助かった。お礼にいい 津野田は次々とページをめくり、書き溜めた作品を披露した。 ものを見せよう」 結局六枚の。ハステル画には全て人魚が描かれていた。構図も、背 津野田は美留樹を促して六畳間に人れた。襖を閉めさせ、イー 景も、佇むポーズも一見しただけでは見分けがっかぬほど似通っ ゼルの側に招き寄せた。キャンバス受けには昨日と同じように青ており、明らかに違うのは人魚の目や髪の色ぐらいだった。 い表紙のスケッチブックが載っていた。 「気に入ったか ? 」 「約束しただろ」津野田は表紙の厚紙を指で弾いた。未完の。ハス 津野田が自慢げに言った。美留樹は目を輝かせてうなずいた。 テル画のことだった。 津野田の容姿からは想像もできない華麗なタッチに驚きを隠せな かった。 「できた ? 」美留樹が思わず訊いた。 「まだだ。でも書き溜めたのがあるから、そっちを見せてやる」 「世界には七つの海がある。七つの海には七種族の人魚がいて、 津野田は口元に笑みを浮かべ、スケッチブックを手に取った。 七種族の人魚は七つの海に七百の村を築いて暮らしている。俺が 表紙を開き、初めの一枚を素早くめくった。美留樹は津野田の隣描いたのは、今までの人生で実際に目撃した数少ない人魚たち に移動し、手元を覗き込んだ。 だ。髪や目の色が全員違うのは種族が違うからだ」 「こんな感じだ」 津野田は芝居がかった口調で言い、含み笑いを浮かべた。セン 津野田が一一枚目を指さした。画用紙ではなく粗目の水彩紙だっ セイらしからぬトンデモ発言に美留樹は浮き立つような気分にな った。 た。初めて見る。ハステル画は想像していた以上に美しく繊細だっ た。美留樹は身を乗り出して食い人るように見つめた。 「何か訊きたいことはあるか ? 」津野田が泰然と言った。

8. 小説新潮 2016年12月号

隣の果物ナイフに手を伸ばした時、「クソガキ」という怒声が傍残り、渦を巻いていた。仰向けになった津野田が今にも起き上が りそうで落ち着かなかった。美留樹は息をするのも忘れて包丁を らで響いた。美留樹は反射的に飛びのき、食器棚の前に立った。 構え続けた。 出刃包丁を両手で構え、右側へ数歩移動した。 「ちくしよう、殺してやる」津野田は流しの下から果物ナイフを 引き抜くと、こちらに向かって突き出した。「殺してやる、てめ えも殺してやる」 遠くで救急車のサイレンが湧き起こった。それは波頭のように 「メルド ! 」美留樹が叫んだ。意味は分からなかったが、この場 うねりながら近づいてくると瞬く間に通り過ぎ、潮が引くように に相応しい気がした。 聞こえなくなった。 「メルド ! 」美留樹はもう一度叫び、左の中指を突き立てた。 美留樹はそこで我に返った。思わず顔を上げ、辺りを見回し 津野田が怒鳴った。声が割れて言葉は聞き取れなかったが、さ た。 らに激怒したことが分かった。津野田は傍らの冷蔵庫を蹴とばし 四畳半のキッチンはしんと静まり返っていた。いつものように て前に出ると、また何かを怒鳴ろうとした。 「あっ : どろりとした薄闇が漂い、冷たい雨のような匂いがした。四面の 壁は青墨色に陰り、まばゆい陽光に光るシンクの上の出窓だけが 不意に津野田が息を飲み、目を見開いた。同時に顔から怒気が 消え、代わりに怯えの色が広がった。津野田はナイフを持ったま酷く場違いなものに見えた。 美留樹は視線を床に戻した。津野田は倒れたままの状態で、そ ま左手を胸に当てると、信じられないといった表情でロを半開き こにいた。美留樹はそっと身を乗り出し、天井を仰ぐ津野田の顔 にした。歪んだ唇が動き、何かを呟いたが声は出ず、ゆっくりと を覗き込んだ。薄目を開け、ロを半開きにしたその表情は虚ろ 踵を返した。そしてこちらに背を向けた途端、上半身が大きく だった。能面にも似た無機質な強張りが額から頬にかけて広が 揺らぎ、そのまま伐採された樹木のように勢い良く後ろに倒れ た。 っていた。美留樹は一歩前に出て、津野田の双眸に視線を据え た。左右の瞳孔は丸く広がり、薄い膜がかかったようにくすん ドゴオッ、という地響きに似た音がし、同時に食器棚のガラス でいた。白目の部分からも艶が消え、貝殻のように硬く感じらイ が揺れた。美留樹は反射的に肩をすくめ、後ずさりした。頭の中 ア れた。 が真っ白になり、状況を把握することができなかった。美留樹は マ 美留樹は釈然としないものを感じ、眉根を寄せた。 包丁を床に向け、切っ先を津野田の頭部に合わせた。ほとんど反 眼前にいるのは津野田であって津野田ではないと思った。では 射的にとった行動だった。殺してやるという怒声が空気中に消え

9. 小説新潮 2016年12月号

ら、にこやかな表情で言葉を交わし合った。やがて太った男が傍 らのバッグから小包のようなものを取り出し、津野田に手渡し た。菓子箱ほどの大きさで、荷造り用の紐が十字に巻かれてい た。津野田は小包を小脇に抱えると懐から一枚の封筒を取り出 し、太った男ではなく、バンダナの男に手渡した。 それで " 取引〃は完了したらしく、津野田は立ち上がるとこち らを向いた。そして門柱の陰に立っ美留樹に向かい、ひらひらと 右手を振って手招きをした。美留樹は一一呼吸分躊躇した後、意を 決したように歩いていくとべンチの前で立ち止まった。 「紹介する。俺の相棒ー 津野田はず太った男に言い、続いて・ハンダナの男に外国語で 話しかけた。それは子供が聞いてもホンモノと分かる流暢な発音 で、笑いながら腕を広げる動作も自然だった。何を言っているの かは分からなかったが、よくテレビで耳にする英語でないことだ けは理解できた。津野田はさらに日本語で「なかなか見込みがあ る子なんだ」と言うとこちらを向き、小声で「自己紹介しろ」と 囁いた。驚いた美留樹は反射的に後ずさり、頭を横に大きく振っ た。しかし津野田はさらに顔を寄せると耳元である言葉を囁き、 これだけを言えと指示した。美留樹は戸惑ったが、早くこの場を 立ち去りたい一心で前に出ると「メルド」と叫んだ。同時に二人 の男が爆笑した。大口を開け、顔を紅潮させてゲラゲラと笑い、 べンチの上で身をよじった。特にバンダナの男はツボにはまった らしく、両手で頭を抱えながらポロポロと涙を流した。訳の分か らぬ美留樹は呆然と立ち尽くしたが、思惑通りの結果を出せたら しい津野田は、得意気な顔で眺めていた。 帰り道、美留樹は「メルド」の意味を尋ねた。 津野田は「愛している」と即答したが、表情で嘘だと分かっ た。しかし美留樹は敢えて反論せずに目を逸らした。「今度奴ら に会ったらアンシュと叫べ」と言い、津野田は楽しそうに笑っ その夜、美留樹は帰宅した母親に『薬のこと』を尋ねた。 「何でミルちゃんがそんなこと気にすんの ? 」 母親はいぶかし気な顔で訊き返した。美留樹は内心動揺しなが らも平静を装い「心配だから」と言い張った。しばしの押し問答 の後、根負けした母親は、津野田が日課のランニングに出掛けて 留守なのを確認した上でロを開いた。 「飲んでるよ、薬。一日三回、二丸ずつ。でも正直やめたい。な んとかならないかなあれ。理由 ? 飲み出して二か月目位から変 な夢を見るようになったから。最初は月に一回だったけど、それ が半月に一回になって、週に一回になって、今じゃ毎日。常識的 に考えてありえないよ。夢の内容 ? : : : 内容は言いたくない。し : ミルちゃんも やれにならないから。うんざりする。ヒント ? : 関わってる。親子っていうか、家族にとってある意味究極な事か もしれない。次のヒント ? もうない。終わり。その手には乗らイ ない。とにかく薬は飲んでるから心配するなって伝えて : : : 誰ア に ? 勿論センセイだよ」 母親はそう言って唖然とする美留樹を鼻で笑った。

10. 小説新潮 2016年12月号

案するようにうつむいた。 「よろしく」 津野田は抑揚のない声で言った。それだけだった。うつむいた まま、まともに視線を合わそうともしなかった。美留樹は戸惑い ながらも平静を装い「どうぞごゆっくり」とまた棒読みした。し かし母親は取り乱した。「息子」Ⅱ「連れ子」を津野田が気に人 らなかったと思ったらしく、卵型の小さな顔を強張らせると右手 で口元を押さえた。 「ごめんなさいウソ吐いて。この子バカなんです物妻く」 母親はあえぐように言った。騎士に命乞いをする魔女のような 口調だった。 「平仮名と片仮名は読めるけど漢字はダメなんです。計算も一桁 専門で、一一桁以上は無理なんです。でも会話は問題ないし、挨拶 は丁寧だし、手伝いもするし、約束も守るし、殴っても泣かない し、基本的に小食で」 「問題ない」津野田は母親の声を強引に遮り、座椅子にもたれか かった。 「え ? 」母親は間の抜けた声を上げ、隣に座る津野田を食い人る ように見つめた。その姿は厳格な父と対峙する情緒不安定な娘の ように見えた。 「どういうことですか ? 」母親が絞り出すように言った。 「言った通りだ。問題ない」 津野田は同じ言葉を繰り返すと茶托から湯呑を取り、緑茶を一 気に呑み干した。 「じゃあ、あたしたちと暮らしてもいいってことですか ? 」 母親が目を見開いた。津野田は、空になった湯呑を勢い良く茶 托に置いた。タン、と音がして美留樹の肩がびくりと震えた。 「この子は良い子だ」津野田は独白するように呟いた。「きれい な目をしている」 「ありがとうございますセンセイ」 母親は声を震わせた。唇が歪み、目から涙が溢れ出た。堪えき れずに両手で顔を覆うと、押し殺した嗚咽が漏れた。津野田は小 刻みに上下する細い肩に手を回し、おもむろに抱き寄せた。母親 は胸元に顔を埋めると子猫のような声を上げて泣いた。 ア。ハートは一階、二階とも三部屋ずつあり、計六世帯が住んで いた。 美留樹たちの住む部屋は一階・東端の一〇一号室だった。小さ な玄関を人ると四畳半のキッチンとユニットバスがあり、その奥 に襖で仕切られた八畳と六畳の和室が連なっていた。六畳の南側 には小さなべランダがあり、洗濯機と物干しスタンドが置かれて いたが、密接する隣家の壁に阻まれて日当たりは極めて悪かっ 三人の共同生活が始まったことで、美留樹の日常生活にも相応 の変化が生じた。 母親は毎朝十時に起き、一時間ほど掛けて人念に化粧をするとア 食事も取らずに仕事へ出かけた。美留樹はその際の、乱暴にドア が閉まる音で目を覚ますのが常だった。時計を見ると大抵午前十 9