んわりと柔らかいのに、切実とした思いが の、もっさりした大のやつ。あれ、おもし まっすぐと届いてくる。俺や先輩とは違 「三日したら慣れるから」 ろいよな」 う、きちんと生きてきた人のきちんと考え 俺はそう言いながら、リビングに行くと昨日、帰る間際に電話がかかってきて、 テレビをつけた。けれど、鈴香は変わらず奥さんは俺にそう言った。病室のべッドでた言葉。そんな重みがあった。 そうだ。もう始まってしまったのだ。奥 こっそりかけてるからすぐに切らなきやと 玄関から動かない。 「そうだな、何もかもいやなんだよな。ほ言いながらも、奥さんは鈴香の様子をこまさんの人院生活も俺の・ハイトも。あの夏の ごまと聞いてきた。俺が尋常じゃない泣き駅伝と一緒。タスキを受け取ったら、うま ら、始まった ! また大が踊ってる」 くいこうがいくまいが、倒れようとも前に 方を話すと、「やつばりそうだよね」と苦 「ぶんぶー ! 」 「ぶんぶはわかったからこっち来いよ。一笑しながらも、「でも、三日したら今まで進むしか選択肢はない。 のが何だったんだってくらい、鈴香も慣れ俺は大きく深呼吸をしてみた。何をしょ 緒に見ようぜ」 うとしたって鈴香は泣くんだ。ここはどん るから。だから、あと少しだけ我慢してく 「ぶんぶー。ぶんぶー」 ドアを開けようとしているのか、鈴香はださい」と力強く言っていた。奥さんの話と構えて様子を見ながらできることをする 泣きながら取手に手を伸ばしている。だけでは子どもはだいたいなんだって三日で順しかない。 ど、まだ 7 、センチ程度の身長しかない応するらしい。授乳をやめた時も、先輩と「おい、ぶんぶー。大が折り紙で何か作り から、体をピンと立たせたって、取手にはの留守番も、三日目で平気になった。そう始めたぜ。あ、花作ってる ! ほら、鈴 届かない。俺の手のひらで包めるくらいの言っていた。けれど、今回ばかりは何ヶ月香。すげえ。こりや楽しそうだ」 俺はテレビの前に座って何度も「おお、 小さな頭を揺らし、俺の片腕で持ち上げらもかかりそうだ。 れそうな小さな体を伸ばして、無謀なこと奥さんと話していると、本当に俺が引きおもしれえ」と大げさに言ってみた。けれ を繰りかえしている。そんな後ろ姿を見て受けてよかったのだろうか。そうロをついど、鈴香は聞く耳も持たず、頑固にドアに て出そうになった。俺では鈴香がかわいそ向かって「ぶんぶー」と叫んでいる。それ いると、なんだかこっちが悲しくなってく ら うだと。それを察したのか、奥さんは「私でも俺は、何度でも声をかけた。 る。母親がいなくなって、金髪のヤンキー 走 を に面倒を見られるんだ。そりや、わけのわはもうこのべッドから動けないし、大田君「おお、きれいな花じゃん。ぶんぶー からない言葉を叫びたくもなる。まだ一一歳に任せるしかないから。本当にお願いしまお、次はひょこみたいなのが出てきたぞ。 にもなっていない子どもに、そんな事態をす」と電話口からでも頭を下げてるのがわかわいいひょこだ」 「ぶんぶーってひょこが踊ってるぜ。お かる丁寧な口調で言った。奥さんの声はふ わかれというほうが酷だ。
もない場所だった。瑤子はペンション裏のナは心配だね、とも、レナはきっとよくな 「獣医さんには、見せたんですか」 「ええ、もちろんー 川沿いをぶらぶらと歩いた。イヤフォンでるよ、とも、泉は言われたくないだろうと リンド・リンディの「ベルー」を聴きなが思ったからだ。泉がレナを弟みたいに思っ 母親と同じ年頃の愛さんがむっとしたよ ら、ベルーのことを考えた。 ていることをよく知っていた。 うにそう答え、病院には何度も通ったが、 「それ、何聴いてんの」 具合が悪いのは年齢のせいなのでどうしょ数メートル先の向こう岸で、何かが動い うもないと言われたこと、強制給餌や点滴たと思ったら、それが泉だった。瑤子の姿泉が先に口を利いた。彼が近づいてきた で無理やり長らえさせるのはやめようと家を見つけて立ち上がったらしい。最後に会ときにプレーヤーはオフにしたが、イヤフ オンはまだ耳に装着したままだった。 ったのは去年の秋だったが、そのときから 族で話し合ったことなどを、佐和子さんが 「リンド・リンディ」 さらに背丈が伸びたように見えた。白い e 早ロの小声で説明した。 シャツにデニム、黒い。ハーカという格好が その名前を口にできることにほっとしな 「今日は、泉くんは ? 」 がら瑤子は言った。 父親が話題を変えた。泉は愛さんの息子みように大人っぽい。笑っていないせいか もしれない。子供の頃から知っているけれ「最後の ? 」 で、瑤子と同い年だ。 「うん。ベルー」 ど、たいていいつも笑っている男の子だっ 「あの子がいちばんまいってて」 こ 0 音楽の話をこれまで泉としたことはなか 硬い口調のまま愛さんが答えた。 どきっとしたのをごまかすように、瑤子ったけれど、リンド・リンディの名前や、 夕食までの間に、両親は近くの共同温泉 に入りに行った。瑤子ひとり宿に残ることは勢いよく手を振った。泉は手をふり返さ彼が死んでしまったことは知っているよう については、母親は何も言わなかった。きずに近づいてきて、そうすることをようやだった。いつも有夢とやっているように、 く思い出したように片手を挙げた。でも笑イヤフォンを泉に貸して、「ベルー」を聴 っと父親とふたりきりで話したいことでも あるのだろう。宿泊も両親の部屋と瑤子のいはしなかったし、何も言わなかった。いかせたい、と瑤子は思った。聴いてみてい い ? と泉が言えば、すぐにそうしただろ 部屋、ふたつが取ってあって、こうした旅つもなら、ふざけたりからかったりするの う。でも泉は言わなかった。また黙り込ん 行が彼らにとって日頃の何かを修復あるいに。 あたしがなにか言うのを待っているのだでしまった。 は修正するための機会であるということ ろうし、あたしがなにか言うべきだ、と瑤「ベルーに行きたいんだ、あたし」 も、瑤子はもう察している。 それで、瑤子はそう言った。 温泉に人らないとすればあまりすること子は思ったけれどやつばり黙っていた。レ せん 1 28
ことだった。 「え : : : 」と響子は漣を見る。「さっきっ 都に行くから。その時は、三人で会おう品 て、刑事さんたちといた時の話 ? 」 ついさっきの着信だったことを確認しね。そしてまた、昔みたいに、色々な話を 「そう」 て、響子はすぐに折り返しの電話を人れるしよう」 うん : 視線も合わさずに言う漣に、 と、当の文香が出た。そこで、留守電の件 、と文香は受話器の向こうで頷 「庇ってなんかいないわ」響子は答える。 は了解したと伝える。続けて、深河亜紀子いた。 や悟の事件の顛末を話す。すると文香は驚「楽しみにしてる」 いて聞いていたが、つい先ほど貴船神社奥そしてお互いに「じゃあ、また」などと 「いつもは、もっと冷たいくせに」 「冷たくなんかないわよ」わざとムッとし宮の杉の木で、首を吊った自殺者が出たと言い合って、電話が切れた。 しかし たふりをする。「私は、漣に何を言ってもいう話をした。 いいの。小さい頃から、あなたを良く知っ 「それは : : : 誰 ? 」 一人になって、響子は思う。 てるから。でも、漣を殆ど知らない人たち 恐る恐る尋ねた響子に文香は、 今回は、響子の常識と思っていたもの に、あなたに関して余計なことを言って欲「土橋清香っていう、女の人だって」 が、全て大きく崩れ去ってしまった。だが しくなかっただけ」 ほぼ予想していた名前を告げた。 こうして考えると、今まではただ覚えてい 「 : : : ありがと」 やはり、そういう結末だったのか : さえすれば良かった日本の歴史は、将門の とだけ言うと、漣は相変わらず視線も合府警も間に合わなかったらしい。というこ話だけでなく、実はまだ数多くの謎や秘密 わさずに、唐揚げを食べてビールを飲み続とは、彼女は将門の真実を知らずに、あのを内包しているのかも知れない。 ける。その前で響子は、徴笑みながら冷酒世に旅立ってしまったことになる。 そんなことを思って窓の外の夜空を見れ を傾けた。 やりきれない思いで胸が潰されそうになば、七月の月が美しく街を照らしていた。 る響子に、 さすがに、少し飲み過ぎたと思いなが「嫌だね : : : 恐い」 《エピローグ》 ら、響子は漣と別れて部屋に戻った。する文香は、震え声で言う。もともとこの子 と、留守電のランプが赤く点滅していた。 は気が小さかった。響子は、文香の泣きぼ 誰だろうと思いながら再生すると、文香くろを思い出しながら、 次の日曜日。 からだった。急に都合が悪くなってしまっ 「依理に慰めてもらいなさい」わざと、明響子は、一人で等々力不動尊に向かっ て、この休みには東京に行かれないというるく笑いかけた。「私もそのうち、必ず京た。 「本心で言っただけ」
った。そのメールアドレスに、荷物は無事道成くんは汚れたスニーカーに履き替え「うわあ、大変だね。でも、さすがは郁だ 集荷の人に渡せたことを報告すると、本当ると、外に飛び出していった。 よ。読書感想文で代表になるなんて、わた にありがとう、と即行で返ってきた。面倒「道成くんと喋っちゃった。どうしよう しには、一生かけても無理だもん」 なことに巻き込んでごめん、とも。道成く 明日花がわたしのシャツを掴み、泣きそ わたしはあまり本は読まないけれど、作 んは、茜音たちとは違う。 うな顔で言う。 文を書くのは結構好きで、今までにも何度 ただ、向かい合う二人のシルエットは完「近くで見たら、睫毛が長くて、ますますか賞をもらっていた。読書感想文で代表に 璧だった。少女漫画なら、間違いなくヒー雄飛に似てた」 選ばれると、コンクールに応募する前に、 ローとヒロインで、互いが互いのために生「そうかなあ、雄飛のほうが格好いいと思誤字脱字を直したり、分かりにくい表現を まれてきたように見えた。胸が痛いくらいうけど」 書き換えたりしなくてはならない。つま にざわざわして、とにかく気持ちが落ち着「当たり前だよっ」 、宿題がひとっ増えることになる。で かなかった。 いつにない俊敏さで言い放った明日花にも、明日花がとても喜んでくれるから、毎 「すごいな。おれ、読書感想文って、夏休ほっとした。けれども、わたしと道成くん年つい張り切ってしまう。それに、家族 みの宿題の中で一番苦手かもしれないー のあいだに二人だけの秘密があると知った も。特におばあちゃんは、おじいちゃんも 「そういう子は多いよね」 ら、この子はきっと怒るだろう。でも言えよく素敵な手紙をくれてね、と、にこにこ 「感想って言われても、なに書いたらいいない。あんなに真剣だった道成くんを裏切顔になった。 のか分からないんだよな」 ることは、さすがにできない。それに、も「うちの。ハ。ハとママも、いつも郁のことを わたしの後ろに身を隠した明日花が、分しも約束を破ったことがおばあちゃんに知褒めてるよ。勉強もできるし、去年はクラ かる分かる、とか、わたしも、とか、相槌れたら、めちゃくちゃ怒られる。ごめんス委員長だったし、明日花も少しは郁ちゃ を打っている。その声は、微炭酸水の泡みね、と思わず謝ると、明日花は雄飛の話のんを見習いなさいって。これ、ママのロ たいに儚かった。道成くんまで届くことな続きだと捉えたみたいで、分かればよろし癖」 く、弾けるように消えていく。わたしに仲いのだ、と冗談めかして頷いた。 「大丈夫だよ。ほら、三年生になったら、 介を求めているような雰囲気もあったけれ「それより、一橋先生、なんだって ? 」 毎日学校に残って一緒に勉強しようねっ ど、気づかなかったことにした。 「よく書けてるって褒めてくれたけど、来て、約束したじゃない。わたし、本気で教 けんど 「じゃあ、おれ、行くよ。健吾たちからサ週の頭までに二、三ヶ所、書き直すことにえるから。明日花の成績を上げてみせるか なった」 ら」 ッカーに誘われてるんだ」
審者を見かけなかったか、などである。挙ることが習慣化していた。いつものことない ? 」 動に怪しい点がないかも観察する。要するのだろう。昌夫は小さな抵抗を覚え、箸を「いや別に。そもそも親しいってわけじゃ 付けなかった。供応の換わりに交通違反をないしね。奥さんが生きてた頃だって、わ に、住民も疑っているのである。 事件現場と常磐線の線路を隔てているせもみ消してやったり、ネタと引き換えにやたしら下々とは付き合わないって感じだっ たし。子供が四人いたけど、みんな私立 くざの微罪を見逃してやったりする、そう いか、住民の大半は事件のことを知らなか った。応対した主婦たちは一様に目を丸くいった昔ながらの刑事が、昌夫はあまり好で、地元の学校には通ってませんでした して驚いていた。被害者・山田金次郎のこきではなかった。戦後日本の社会が大きくよ」 とを聞くと、「ああ、あの大きな家の」と変革したように、警察も変わらなければな「ふうん。三女の夫婦は近所に住んでるん だろう ? 」 いう答えが返って来て、地元では知られたらないと思っていた。 人物らしかった。ただし、親しい間柄の者昌夫のそんな意思を感じ取ったのか、大「近所ったって、東京スタジアムの向こう 側で、こっちの商店街では見かけないね はいない。被害者は近所付き合いをあまり場は不機嫌になり、ロを利かなくなった。 ずずっとそばをすする音だけが響いていえ。で、どうなんですか。殺人事件って、 してこなかったようである。 下町ではちょっとないから。物取りの仕業 大場と町を歩いていると、あちこちからる。 「ご苦労さんです」と声がかかった。大場「よう大将。八丁目の事件のことは知ってなんですか。それとも怨恨ってやつです か」 はその都度「よう」と片手を挙げて応えるかい ? 」 た。昌夫は、このべテラン刑事が南千住署食べ終えると、大場が厨房に向かって聞店主は仕事そっちのけで事件のことを知 いた。 りたがったが、大場が適当にあしらい話を 管内では顔役であることを理解した。 「そりやもちろん。山田さんは昔からのお終わらせた。会計はざる蕎麦の分だけを 十軒ほど回ったところでもう昼になり、 大場に連れられ、駅前の蕎麦屋に人った。得意さんだもん。よく出前に行きますよ」別々に払った。テープルに残った一人分の 天ぶらについては、誰も触れなかった。 顔馴染みと思われる主人に声をかけ、ざる店主が興味津々の体で出て来た。 蕎麦を二枚注文すると、頼んでもいない天「いつも一人前かい ? 」 ぶらが一緒に出て来た。「ここのはうめえ「そう。でも釣りをチップ代わりにくれる午後一時に南千住署に上がった。立番かの おかもち ら駐車場に行くよう指示を受け、裏手に回 んだ」大場がそう言って箸を伸ばす。所轄からね。岡持はよろこんで行きますよ」 7 るとトタン屋根の駐車場があり、すでに男 では、飲食店が刑事の飲み食い代を安くす「近頃、なんか変わったことはあったか
ずだ。しかし、それを指摘するほど野暮ではない。 「相変わらず大変だな」 いきなり湯浅が話題を変えた。 「緑川とは、その後どうなってるんや ? 今日は会うたん か ? 」 「さっき会った。でも、別に : : : 」 そもそも、彼女と付き合ったのは、わずか三か月だ。始ま る前に終わったようなものだから、未練もない。向こうもお そらくそうだろう。この二年間、メール一本よこさなかっ こ 0 「仕事が順調そうで、よかったとは思うけど」 湯浅は顔をしかめながら首を振った。 「順調だなんてとんでもない。あいつ、助教にまったく向い てないわ。学生の指導がエライ苦手でな。口を開けば、愚痴 のオン。ハレードや。学生のほうも、あの助教の指導はさつば り分からんて、プープー言うとるし、教授も困り切っとる」 そう言うと、湯浅は上目遣いで智次を見た。 「悪口言いたいんとちゃうで。俺なりに気い揉んでるんや」 智次はうなずく。湯浅は他人を羨ましがっても、妬むよう な人間ではない。 「頭が切れすぎるから、学生にイ一フつくんだろうな。でも、 そのうち慣れるさ」 「まあ、慣れるほかないわな。学生の相手や、くだらん書類 仕事は、ポストとセットになってる」 そのとき、裕美が会場から出てきた。誰かを探すように庭 園を見回している。智次が手を上げると、すぐに気づいた。 分かったというようにうなずくと会場へと姿を消す。 どうしたのかと思っていると、裕美はすぐに再び姿を現し た。驚いたことにべイカー博士を伴っている。二人ともワイ ングラスを手にしていた。 智次と湯浅は慌てて立ち上がり、二人を迎えた。 「会えて嬉しいよ」 べイカー博士が満面に笑みを浮かべながら、右手を差し出 した。それを力強く握り返し、ノーベル賞受賞のお祝いを述 べる。久しぶりにロにした英語は流暢とは程遠かったが、べ イカー博士は嬉しそうにうなずいてくれた。 「ありがとう。でも、運がよかっただけだ。僕より優秀な人 間は、たくさんいるよ。たとえば、ここに一人」 べイカー博士は、裕美の肩を親し気に叩いた。秋に博士の ラボの特別研究員として渡米するのだという。 湯浅が目を丸くする。 「そんな話が進んどったんかいな。まったく知らんかった 「ようやく決まって、ほっとしました」 裕美が、白い歯を見せる。 誇らしげな笑顔がまぶしかった。突き上げる羨望を無理や命 り飲み下し、智次は徴笑む。 「おめでとう。大変だろうけど、緑川ならきっと大丈夫だ」
調子づいた。 「まだ内々の話やから、他言はせんといてくれよ」 「誰に話すんだ ? 俺にはそんなこと、興味もねえ」 そっぽを向いた。そこに図師の太い市腕が伸びてきて、肩 を鷲掴みされた。 「そうつれないこと言うな。地検ものは、警視庁と政治部と 連携が取れんかったら、全部後手に回るんやからな」 手を組む気などないくせにそう言ってきた。 新聞協会賞を取った政治家逮捕の発端となる記事では、政 治部の先輩記者が本人に当てるまで待ってくれと頼んできた のに、図師はそんな悠長なことをしていたら他紙に追いっか れると強引に書いたそうだ。警視庁担当と地検担当が同じネ タを追いかけることは今後いくらでもあるだろう。だがこの 男が情報を寄越せと突っついてくることはあっても、自発的 に流してくることは想像がっかない。 「それだったらええわ。この件は知っとうのはおまえと野見 だけや」 意外な名前が図師から出てきた。 「なぜ野見に話した」 「そんな怖い顔せんでもええやろ。たまたまあいつが来てた から話しただけや」 「来てたって、野見が会社にか ? 」 「あいつ、運が悪いやっちゃの。部長が山本と佐藤をこっぴ どく叱ってる時にのこのこ来たもんやから、そこのソファ 1 でえらい説教されとったで」 ぎよろりとした目を剥き、窓際に置かれている来賓用のソ ファーセットに向けた。 植島にはすべてが初耳だった。一課長宅に朝駆けした後に 電話で話したが、野見は部下が呼ばれていると話しただけ で、自分も行くとは一言も言っていない。 津野が抜かれた記者に「敗者の行進」をさせたことも、そ のことで記者たちがやめてしまったことも野見に話した。 ーー特オチした一課担の人だって悔しさは感じていたんで すよね ? それなのに津野部長はそんな酷いことをさせたん ですか。 野見も好奇な目に晒された記者の心情は分かっていた。 必ずやり返してやるという反骨心は持っていたさ。だ から俺は彼らに新しい一課長の名前を教えた。 実際、そこまで強い執念を感じたわけではない。だが負け て「仕方ない」で済ませてしまう記者ではない。それくらい の教育はしてきたつもりだ。 部下がなぜそういう行動を採ってしまったのか、それ を頭ごなしに非難するのではなく、まず理解しようとするの が上に立つ人間の役目だろ。 さすが植島さんですね。津野部長はその気持ちを分か ろうとさえしなかったんですね。 ああ、あいつは普段から自分の身を守ることしか考え てないからな。 206
い、鈴香、びつびだ、びつび 行進してる。ほら」 何はともあれビスコはようやく効果を発 鈴香があまりに言うのがうつったのか、 鈴香は少し泣く勢いを弱めて、俺のほう揮してくれたようだ。少しでも泣きゃんで 思わず俺も「ぶんぶー」と口をついて出をのぞいている。 くれたのなら十分だ。結局鈴香は、「ぶん た。二歳前の子どもが連呼するぐらいだか「次はねこさんだ、ニャンニャンだ、ぶんぶ」と言いながら、ビスコを三個も食べ こ 0 ぶ 1 かわいいなあ」 ら、言いやすくて、愉快な響きの言葉だ。 「おい、ぶんぶー。びつびびーって歌って「お、なんだこれは、そうだ、ぶんぶ 1 「やれやれ、ぶんぶだ」 る。ぶんぶー、見てみろよ、おもしろい コアラだ。動物ぶんぶー勢ぞろいだな」 機嫌がすっかり直るとまではいかないも ぜ」 あと少しだ。俺はせっせとぶんぶと言いのの、ビスコを食べ終えた鈴香はぐずぐず 「次はなんだ、子どもが出てきた。お前みながら、鈴香に声をかけた。鈴香はドアを泣きながらも寝転がったり座ったりしつ たいなぶんぶーだ」 見るのはやめ、体をすっかりこっちに向けつ、を見始めた。 なんだか調子づいてきて、俺はぶんぶとている。今がチャンスだ。 画面では、大が「むすんでひらいて」を 掛け声のようにロにした。 「おい、ぶんぶ ! 食おうぜ。ぶんぶ」歌っている。この歌は俺も知っている。子 「ぶんぶー、おい、こっち来いって。そっ俺はビスコを開けて鈴香に見せた。きつどもは今も同じような歌を聴いてるんだ ちでぶんぶー言ってるより、こっちでぶんとあれだけ背伸びして泣き叫んでいたらおな。と鈴香のほうを見ると、かすかに手を ぶテレビ見たほうが楽しいぜ」 腹もすいているはずだ。 動かしている。泣きながらも踊っているら 「鈴香、ぶんぶー、ほら、玄関はぶんぶ暑鈴香はビスコを見ると、「ぶんぶー ! 」しい。 いだろ ? 」 と言いながら、ちょこまかと俺の前まで走「この歌、好きなのか ? 」 「ぶんぶ」という言葉が気になるのか、 ってきて、手のひらを広げた。 早戻ししてもう一度「むすんでひらい 「ぶんぶ」には子どもだけにわかる特別な「おお、食うか。ほら」 て」を流してやると、鈴香はさっきよりも 意味でもあるのか、だんだん鈴香はこっち俺が手のひらにビスコを乗せてやると、 はっきりと手を握ったり開いたり叩いたり をちらりとうかがいはじめた。 鈴香はさっとロの中に押し込んだ。 した。小さな指を音に合わせようと動かし 「お、ぶんぶ、おもしろいぜー。次はぶん「なんなんだ、その早業。お前は猿かよ。 ている様子は思わず見人ってしまう。歌が ぶ、ライオンが出てきた」 ありがとうとかいただきますとか言えよ終わると、鈴香は「むすんで」に合わせて 「ぶんぶ、いろんな動物がぶんぶーって、な」 手を握ったまま、俺の顔をじっと見た。 0
「そうなんだ。憶えていたかったなー、も囲 「あーもうオムレッ最高だよ。えーとね、 「あけてみていいですか ? 」 ったいない。でも私たしかに、夢の中で自 「もちろん」 卵ふたつにたいして小さじ二分の一かな。 梅村さんは長い脚を組んで、私の反応がプレンドしてる塩がまたよくて、すこしで分が男ってこと、わりにある気がする」 「現実と夢の性別がちがうことはめずらし 楽しみというように見つめてくる。赤い缶もバッチリ効く」 のふたを回すと小さな穴があらわれて、手なんて楽しそうに、商品のことを話すのくないですよ。そのときによって女だった さいきんか。こういう人が世の中に楽しみを生みだ り男だったり、両性具有だったり、そもそ のひらにすこし出してみると も人間のすがたをしてなかったり」 して、豊かにしていくんだなあ。 かいだ記憶のある香りがした。 「あ、これ、この匂い」 「そういえば、梅村さんは夢の中で男の人「へー」 でした。この香りがする街をどこかへ向か梅村さんは赤い缶の底で机をコッコッと 「え ? 知ってるの ? 」 って急いでいましたね。とちゅうで目的地鳴らしながら、感心したような表情をす 「そうか、梅村さんの夢の中の空気が、こ る。 がわからなくなったみたいに、立ちどまっ の匂いでした。この香りが空間全体にただ よっていたんです」 てあせっている感じで : : : 憶えてます「耳内さんはどう ? 夢の中で自分の性別 は」 か ? 」 「ええー ? 」梅村さんは愉快そうに膝をた 「夢の中で、私は男」 「え、私ですか。そうですねーー意識した たき、「私、夢の中までこの香り ? まっ ことないけど、しいていうなら無性、かな 梅村さんは宙を見てつぶやく。 たく仕事の鬼だね」 「いつもこのハープのことを考えていたか「憶えてませんか」 「憶えてない。私、夢の情報をダウンロー 「ムセイ ? 性が無い ? 」 らでしようか」 私はうなずく。 「どの農園のどのグレードのハープを使う ドできなかったのかな」 「いえ、ダウンロードはできてます。私た机のうえにいささか前のめりぎみだった か、原料を決めるときも試作品ももう鼻が 麻痺するほどテストしたもん。家でも食事ち、ふだん夢を見ても起きたときにその内梅村さんは、すうっとうしろに身を引いて のたびにこれ使って、海鮮焼きうどんには容を忘れてることがおおいじゃないですいう。 合う、かに雑炊には合わないとかやって」か。それとおなじで、ダウンロ 1 ドした情「なんか : : : 達観してる感じだよね、耳内 「かに雑炊は徴妙そう」味を想像して私は報も、無意識ではきちんと処理されているさんは」 笑い、「卵料理がすきでオムレッよく作るんですけど、憶えていないことというのは「えっ ? 私 ? どこがですか ? 」 ふつうにあります」 んです。さっそく使わせてもらいますね」 「老成してるというか。ばっと見十代みた
けるなと思ったよ。これ以上は無理だろ 里子の場合は、己に非があるというはつうがそのうちわかってくれると、簡単に考 う、って。でも、まさか会社を勝手に辞めきりとした自覚があった。おれから離れてえてた。おれは、人との付き合い方を知ら て島から出ていくとは思わなかった。そん里子が幸せになるならそれでいいと、他人ないんだ。松太郎さんが去り、里子が逃 なに島の生活がいやだったとは、おれも辛事のように考える自分がいた。そんな小五げ、そして啓太もいなくなった。みんな、 いよ」 郎だからこそ里子は去っていったのであおれから離れていくんだ」 耕一はぼそぼそと喋る。耕一自身がくが り、やむを得ないことだったと諦めがつい 涙は出なかった。しかし、悲しみがしん まったろう 出身だからこそ、自分のことのように責任た。松太郎を選んだ里子を、見る目がないしんと胸の底に積もっていくのを感じてい た。悲しみだけがおれを満たしていく。お を感じるのかもしれない。要約すれば、こなと嗤ってやりたい気持ちもあった。 んな島にいられるかと啓太は出ていったの しかし今回は、避けることができたのでれはどこで間違い、何を捨ててここまで来 だ。後足で砂を引っかけられた側の人間とはないかという悔いがある。啓太の鬱屈てしまったのだろう。そんな問いが、悲し しては、悲しさと不快さ、そしてもどかしは、かなり前からわかっていた。わかってみが積もる心の中で反響した。 さを抱えてこらえるしかない。啓太のためいたのにどうしてやることもできず、啓太「そんなことを言うな、小五郎。おれがい にもっと何かできなかったのかと、小五郎の意見を受け入れもせず、結局は追い込んるじゃないか。おれは去らないよ。おれは は今も自問している。 でしまった。己の狷介さを、これほど疎まずっとここにいるから。お前が悪いんじゃ 「おれ、あいつの言葉にまるで耳を貸さなしく思ったことはなかった。 ない。人が去っていくのは、定めだ」 「いや、おれはそうは思わないよ。前にも かったかな。あいつの言うことを、ことご そうだ、耕一がいる。耕一がいてくれ とく撥ねつけてたかな。だから、悩んでて言ったけど、啓太は甘えてたんだ。公平にる。究極の悲しみが孤独なのだとしたら、 も相談もせずに、いきなり去っていったん見て、小五郎の方が正しいことばかりだつおれはまだ悲しみに呑み込まれてはいな だよな」 たよ。意見を聞いてもらえないからってい い。むしろ、こんな友を持てた定めを幸運 に思うべきだった。 人に去られるのは初めてではない。比較じけるのは、啓太が子供だったからだ」 「ありがとう」 すれば、里子に逃げられたときの方が辛か耕一は慰めてくれる。だが、まだ小五郎 ったはずだ。しかし、何度経験しても慣れの胸には染み透らなかった。 小五郎は万感の思いを込めて、礼を言っ るものではない。さらに言えば、里子のと「子供だからこそ、もっと気を使ってやるた。小五郎の思いが、耕一に伝わったかど きよりも今回の方が傷ついている気がし必要があったんじゃないかな。おれは、あうかはわからない。ただ耕一は、よけいな いつをわかってやろうとしなかった。向こ ことはつけ加えずに「うん」と頷いただけ さとこ