俺は妙なことに感心しながら、鈴香の横に 「わかった、わかった。ぶんぶ 1 だな」 そうで」 俺は何度も、「むすんでひらいてーを流奥さんはそう肩をすくめていた。カレ腰を下ろした。 「よし、昼にしよう。ほら、炊き込みご飯 してやった。 、中華丼、肉じゃが。子ども用のインス だぜ」 二十回近く「むすんでひらいて」を聞いタント食品もいろんな種類があるものだ。 ただろうか。さすがに鈴香も飽き始め、こ鈴香が好きなのだろう、俺は一番たくさん俺は鈴香の分の「いただきます」を言う れ以上聞いたら俺も頭がおかしくなりそう用意されている炊き込みご飯を選んで、皿と、まだ自分ではうまく食べられないとい だとうんざりしながら時計を見ると、もうに移しレンジで温めた。三十秒で出来上がう鈴香のために、スプーンにご飯を乗せ て、ロの前まで運んでやった。。だけど、鈴 。本当に簡単だ。 十一時三十分を過ぎていた。鈴香の昼ご飯 の時間だ。俺は鈴香をテレビの前に残し俺用にも、冷凍食品やインスタントのラ香はぎゅっと口を結んで顔をそむけた。 ーメンが山盛り用意されている。腹は減っ「あれ ? お腹すいてないのかよ」 て、そっと台所へ向かった。 泣いてひっくり返って、わけのわからなているけど、鈴香にご飯を食べさせるの俺はもう一度、ロのそばまでスプーンを い言葉を叫んで、を見て、昼ご飯。は、きっと至難の業だ。まずは鈴香をかた持っていってみた。それでも、同じ。鈴香 はぶいと顔を横に向けるだけだ。温め過ぎ 子どもなんてそういうものかもしれないけづけるのが先だな。 ど、泣いて遊んで食べて一日を過ごすなん俺は、鈴香用のスプーンとお茶を用意して熱いのかと触ってみると、そうでもな て、炊き込みご飯を食卓に並べると、テレい。 て、えらく気楽なものだ。 台所には、鈴香用のレトルトの幼児食がビの前に寝転がっていた鈴香を抱えて、キ「炊き込みご飯、嫌いなのかよ。おいしそ ティちゃんの絵が描かれたビニールの低いうじゃねえかー 置かれている。二十個以上のカラフルな。ハ そうは言ったものの、小さい子どもでも ッケージのレトルト。ハック。こう並べられ椅子に座らせた。加キロあるらしい鈴香だ ると、まだまだ先は長いと思い知らされけど、柔らかい体のせいか重さはそれほど食べやすくするためか、どろっとやわらか せ ら 感じない。腕の下に手を人れて持ち上げるくなった炊き込みご飯は、どうしたってう 「生魚や刺激物じゃない限り、普通に食べと、いつもそうやって座らされているのまそうには見えない。にんじんも鶏肉もくを られるから、本当は作って準備しておけばか、ぐずぐず言いながらも鈴香は暴れるこたっとして、素材なんてまるで生かされて となくすんなりと椅子に収まった。子どもやしない。 いいんだけど、料理得意じゃなくて : 「まあ、味はわかんねえけど、ちょっとだ幻 これなら簡単だし、私が作るより栄養ありってこんな簡単に持ち運べてしまうんだ。
い、鈴香、びつびだ、びつび 行進してる。ほら」 何はともあれビスコはようやく効果を発 鈴香があまりに言うのがうつったのか、 鈴香は少し泣く勢いを弱めて、俺のほう揮してくれたようだ。少しでも泣きゃんで 思わず俺も「ぶんぶー」と口をついて出をのぞいている。 くれたのなら十分だ。結局鈴香は、「ぶん た。二歳前の子どもが連呼するぐらいだか「次はねこさんだ、ニャンニャンだ、ぶんぶ」と言いながら、ビスコを三個も食べ こ 0 ぶ 1 かわいいなあ」 ら、言いやすくて、愉快な響きの言葉だ。 「おい、ぶんぶー。びつびびーって歌って「お、なんだこれは、そうだ、ぶんぶ 1 「やれやれ、ぶんぶだ」 る。ぶんぶー、見てみろよ、おもしろい コアラだ。動物ぶんぶー勢ぞろいだな」 機嫌がすっかり直るとまではいかないも ぜ」 あと少しだ。俺はせっせとぶんぶと言いのの、ビスコを食べ終えた鈴香はぐずぐず 「次はなんだ、子どもが出てきた。お前みながら、鈴香に声をかけた。鈴香はドアを泣きながらも寝転がったり座ったりしつ たいなぶんぶーだ」 見るのはやめ、体をすっかりこっちに向けつ、を見始めた。 なんだか調子づいてきて、俺はぶんぶとている。今がチャンスだ。 画面では、大が「むすんでひらいて」を 掛け声のようにロにした。 「おい、ぶんぶ ! 食おうぜ。ぶんぶ」歌っている。この歌は俺も知っている。子 「ぶんぶー、おい、こっち来いって。そっ俺はビスコを開けて鈴香に見せた。きつどもは今も同じような歌を聴いてるんだ ちでぶんぶー言ってるより、こっちでぶんとあれだけ背伸びして泣き叫んでいたらおな。と鈴香のほうを見ると、かすかに手を ぶテレビ見たほうが楽しいぜ」 腹もすいているはずだ。 動かしている。泣きながらも踊っているら 「鈴香、ぶんぶー、ほら、玄関はぶんぶ暑鈴香はビスコを見ると、「ぶんぶー ! 」しい。 いだろ ? 」 と言いながら、ちょこまかと俺の前まで走「この歌、好きなのか ? 」 「ぶんぶ」という言葉が気になるのか、 ってきて、手のひらを広げた。 早戻ししてもう一度「むすんでひらい 「ぶんぶ」には子どもだけにわかる特別な「おお、食うか。ほら」 て」を流してやると、鈴香はさっきよりも 意味でもあるのか、だんだん鈴香はこっち俺が手のひらにビスコを乗せてやると、 はっきりと手を握ったり開いたり叩いたり をちらりとうかがいはじめた。 鈴香はさっとロの中に押し込んだ。 した。小さな指を音に合わせようと動かし 「お、ぶんぶ、おもしろいぜー。次はぶん「なんなんだ、その早業。お前は猿かよ。 ている様子は思わず見人ってしまう。歌が ぶ、ライオンが出てきた」 ありがとうとかいただきますとか言えよ終わると、鈴香は「むすんで」に合わせて 「ぶんぶ、いろんな動物がぶんぶーって、な」 手を握ったまま、俺の顔をじっと見た。 0
ると、鈴香は手を合わせて拍手をした。小か。お前、勝手なうえに、ケチだなー さな手では何度合わせても、ピタピタピタ「ジュージュー」 「朝も夜も食べてつから、昼ぬいたって全 という音しか出ない。だけど、拍手を送ら「はいはい。がんばって作ってくれよ」然問題なし。心配すんなって」と先輩は言 れるとなんだか誇らしい気分になって、俺鈴香は、少し唇を突き出し、瞬きもせずっていたけど、朝は。ハン、夜は先輩のラー はフライ。ハンの中の米を何度も揺らして見大きく目を開いたまま、真剣そのものの顔メンやコンビニ弁当を分けて食べていると せた。 でフライ。ハンを揺すっている。子どもっていう。せめて昼ぐらいまともに食わないと 「よし、出来上がり。鈴香も作ってみつ瞬時に没頭できるようだ。ゾウも助かった栄養が偏ってしまう。 し、鈴香の機嫌がいいのなら何よりだ。こ レトルトの。ハッケージには、「鉄分、た 俺がフライ。ハンを渡してやると、鈴香はれで一息つける。俺は大きく伸びをしながんばく質がたつぶり」だとか、「お子様が 「ぶんぶー ! 」と威勢のいい声を出して、 ら、小さな体を必死で動かしチャーハンを一日に必要な野菜の三分の一が摂れます」 さっそく「ジュージュー」と揺すり始め作る鈴香を眺めた。 だとか、いかにも体に良さそうなことが書 ( 0 かれている。 白い小さな粒が動くのがなんとも楽しい ままごとで楽しく遊んでいたのに、機嫌「これ、食べたら元気元気になるんだぜ。 らしく、鈴香はフライ。ハンの中を目を凝らは悪くないはずなのに、鈴香はやつばり昼鈴香、本当は腹減ってるんだろう ? して見つめている。 ご飯は食べようとしなかった。 「なあ、おいしそうじゃん。食ってみろっ 「ゾウより、楽しいだろう」 さっき米粒を見ていたからカレーライスて」 にしたのに、見向きもしない。一緒に食べ何を言ったって、鈴香はかたくなに拒否 「やつば、日本人は米なんだよなー るほうがいいのだろうかと、俺も大人用のをするだけだ。一緒にご飯を食べるほど俺 レトルトのカレーを温めて横で並んで食べには心を許してはないということだろう せ 「お、どれどれ。いい焼け具合なんじゃね」ようとしたけど、何の効果もなかった。 米粒を出してきたのは俺なのに、俺がフ せつかく用意はしたけれど、俺だけ食べを いつもと同じ、スプーンを口の前に持っ ライ。ハンに触ろうとすると、鈴香はぐいっていくと、ぎゅっと口をふさいで横を向いるわけにもいかず、冷めていくカレーを前 と自分のほうへ引き寄せた。 てしまう。ここに来て四日、鈴香がビスコに、鈴香の横でため息をつくだけだった。 「なんだよ。見ようとしただけじゃねえ以外の物を口にしているのを見たことはな ( つづく )
とを繰りかえすしかない。昨日一日でそれせてもビスコを見せても「ぶんぶ」 - と連呼省略するものだ。まーすはいただきます で、ごによによったはごちそうさまでし がわかった。 するだけだ。 「ほら、ゾウにリポンにハート。いろんな「まったく意味わかんねえな。ぶんぶってた。なるほどな。で、肝心のぶんぶーはど ノート : あ、そうだ ! なんなんだよ。 こだ。これだけ鈴香がロにしてるのにどう シールがあるぜ」 して書いてないんだと思ったら、最後の行 俺がシールを手に近づくと、寝転んでいだ、ノート」 た鈴香はすっくと立ち上がり、玄関のほう奥さんが渡してくれたノートには、確かにやっと見つけた。 「鈴香あったぞ。えっと、ぶんぶーは : へと泣きながら走っていった。 鈴香の言葉が何を指すのかまとめたページ もあったはずだ。 あ ? 」 「なんだよ。どうしたんだよ 「ぶんぶーーはその他いろいろ。お腹すい 俺が追いかけていくと、鈴香はドアに向「えっと、待てよ」 たときや眠たいとき、何かしてほしいとき かって「ぶんぶー」と叫びだした。 俺は次々と。ヘージをめくった。 5 のノ ートは、まるまる一冊、鈴香についてぎつややめてほしいときなどに言います。と書 「外に行きたいのか ? 」 しり書かれている。病気かどうかの見分けかれている。 「。ハ。ハに早く帰ってきてほしいんだな ? 何を聞いても素知らぬ顔で、鈴香はドア方、誤飲した時の対処法。いつも行く公園「なんだよこれ。そんな便利な言葉がある にびたりとくつついたまま「ぶんぶー」との地図、鈴香の好きな歌の歌詞に振り付けわけねえだろ」 わめいている。 の絵。丁寧できれいな文字だけど、読破すぶんぶーで、すべてを表現しようなんて どんだけ横暴なんだ。俺が困ってる横で、 「ぶんぶーってなんだよ」 るのに半年はかかりそうだ。 「ぶんぶって、おんぶかよ ? してやろう「あったあった、鈴香、これでわかるぞ」鈴香は変わらず「ぶんぶー」と泣いてい か ? ほら」 最後のほうのページに、鈴香の言葉変換る。意味はわからないけれど、何かしてほ しくて何かやめてほしいのだ。 表を見つけた。 俺が近くで背中を見せてしやがんでも、 「わかった、わかったからさ。とりあえ ニャンニャンはねこ、ワンワンはいぬ、 鈴香はちらりとも見やしない。 「ぶーってことは、そっか、お茶か ? 喉びつびはとり。案外そのままなんだな。こず、部屋に人ろうぜ」 玄関はクーラーがきかないし、狭いし、 れなら俺もわかると思いきや、ワニはハッ 渇いたのか ? 」 「違うんだな。そしたら、ああ、ビスコだハとなっている。なんだよ、ワニってそん居心地が悪すぎる。それに、ここで泣いて な。持ってきてやるからな」 な鳴き方するのかよ。ジージンはにんじんいたら、近所の人に丸聞こえだ。 どちらも外れのようで、鈴香はお茶を見で、リンゴはゴで、・ハナナはバ。ずいぶん「な、ほら、昨日の、見ようぜ。あ
「おい、こら、何すんだよ ! けでも食えよ」 魔をしていたくせに、片づけが終わるころ 「ほら鈴香、あーんしてみろー たまりかねた俺が大きな声を出すと、鈴に都合よくころっと眠り始めた。 何度チャレンジしても、鈴香はまったく香はスイッチが人ったように椅子の上での「なんだよ寝るのかよ。お前、結局、ちっ 口を開けようとはしなかった。先輩は少々けぞって泣き始めた。 とも食ってねえじゃねえか。 : いや、ま ご飯を食べなくても大丈夫だとは言ってい 「ああ、もう。わかった、わかったから泣あいいかー たけれど、鈴香は昨日も昼ご飯を食べていくなよ。朝十分泣いただろう」 昼ご飯を一切食べていないのが気にはな ない。さすがに連日昼を抜くのは良くない慰めなど聞きもせず、鈴香は体をひねつるけれど、ようやく平和が訪れたのだ。こ だろう。 て泣きながら、そのままころりと椅子からのまま寝てもらわない手はない。俺は鈴香 「食べなかったら、しんどくなるぜ」 転げ落ちた。低い椅子から転がっただけでを慎重にリビングの隅に敷かれた布団の上 「一口でいいからさ」 たいして痛くもないだろうに、床の上で鈴に運ぶと、起こしてはなるものかと、静か 香はおおげさにぎやーぎやーと泣き叫んでに息をひそめてただじっと先輩の帰りを待 っこ。 いる。 「ほら、ロ開けろって」 「お前、どんだけ勝手なんだ。って、ちょ 俺がしつこく迫るのに、鈴香は手をバタっと、おい、もう汚くすんなって」 バタと振って抵抗し、近づけたスプーンを鈴香が床の上をあちこち転がるから、炊 思いっきり払いのけた。その拍子にスプ 1 き込みご飯が体中にくつついて広がり、床 バイト三日目は月曜日で、土日に会わず ンは勢いよく転がり、どろっとした炊き込はいっそう汚くなっている。 にいたせいか、鈴香は二日目以上に泣き叫 みご飯がべたりと床に飛び散った。 「勘弁してくれよな」 んで昼ご飯も食べずに、疲れ果てて寝るだ 「うわ、なんてことすんだ」 、 ' , 机や床や鈴香の体。そこら中にへばりつけだった。 こぼれたご飯を慌てて俺が拭いているいたどろどろのご飯を拭きながら、「泣き ところが、四日目。「三日で慣れる」と と、鈴香は「ぶんぶー」と叫び次は食卓のたいのはこっちだ」と俺はつぶやいた。こいうのはまるつきり嘘ではないようで、鈴 上の皿を払い落した。皿はさかさまにひつんな仕事、いくらバイト代をもらったって香は先輩が家を出た後いつもどおり泣いて くり返り、床は炊き込みご飯でべたべた割に合わない。 はいたものの、二十分ほどで泣きやみ、寝 鈴香はさんざん泣きながら暴れて俺の邪転がっていた体を起こすと、ちょこんとリ 4
た。今すべき正しい判断が何なのかはわか荷物を運び始めた。奥さんは時々鈴香をあてね。鈴香、元気元気してね」 らない。でも、ここで俺が出せる答えは一やしながらも、てきばきと家の中を片付け奥さんは何度も何度も鈴香を抱きしめて っしかない。 ている。母親が不在になる前の空間というは繰りかえした。鈴香は、ただならぬこと 「えっと : ・ : とりあえず、どうすればいいのは、こんなに慌ただしい空気になるのが始まるということだけはよくわかってい んすか ? 」 だ。俺は何を手伝うべきかわからず、おろるようで、「やいやいやい」と言いながら 俺はそう聞いていた。 おろするだけだった。 泣き叫んでいる。 「本当、ありがとうございます。よろしく「そろそろ、行かないとやばいぜ」 2 お願いします」 先輩に声をかけられ、奥さんは、「大丈 ひととおり片づけを済ませた奥さんは、夫だよ。鈴香、そんなに泣かないで。おに 「おお、来た。本当に来てくれたんだな。改めて俺にしつかりと頭を下げた。 いちゃんと、楽しい楽しいしてね」とさら 大田、マジありがとう」 「いえ」 に強く鈴香を抱きしめた。鈴香のほうはま 翌日、家に行くと、ドアを開けるや否や「それで、何度もうっとうしいかもしれなた一段と泣き声を強め、首を激しく振って 先輩は俺の手をしつかりと握りしめた。 いけど : : : 」 奥さんにしがみついている。涙だけでなく 「いや、まあ」 奥さんはそう断ってから、鈴香について鼻水もよだれも大量に流れている。小さな 「本当、頼むな。嫁さん病院に送って行っ俺に説明をした。一日の過ごし方、おむつ体でこんなにも力強くなりふりかまわず激 て、俺はそのまま仕事行くわ。今日は会社の替え方、食事に用意してあるベビーフー しく泣くのだ。その姿を見ると、ひるみそ うになる。 には挨拶だけして、できるだけ早く、昼まド。好きなおもちゃに必要なものがしまっ でには帰れるようにすっから」 てある場所に近所の小児科医について。昨「もう、間に合わねえから。行こう。大 時計は九時を回っている。昼までの三時日の午後、教えてもらったことばかりだ。 田、マジわりい。頼むな」 間程度。それならなんとかなる。来てしま「ノートにも書いてあるから、また見てみ先輩が玄関に向かうと、奥さんはそっと ったものの、すでに泣き始めている子どもてください。病院からも何度か電話人れま鈴香の体を離して、 の顔を見たとたん不安になった俺は、そうすー 「しばらくは泣き叫んでいるだろうけど、 自分に言い聞かせながら「了解っすーとう「わかりました」 あきらめるから。心配しないでね。本当、 なずいた。 「鈴香、おにいちゃんの言うこと聞いてよろしくお願いします」 鈴香がぐずぐず泣いている横で、先輩がね。鈴香、おりこうにしててね。がんばっ と、俺に言った。
とにかく鈴香を座らせてやろうと手を出もシールを渡すと機嫌よく遊びだしたりす ここまで来たら、腹をくくる以外ない。 してみるけれど、鈴香の腕はやわらかすぎる。と奥さんは言っていた。 「大丈夫です」 何の自信もないのに、俺はそう言って二てどの程度力を人れて持てばいいのかわか俺は引き出しからシールを出して、ウサ らない。俺のごっごっした手でつかんだらギの絵のをはがすと、寝転がっている鈴香 人の背中を見送った。 痛いだろうかと躊躇しているうちに、鈴香の手の甲に貼りつけてやった。シールを貼 に思いっきり手を払いのけられた。小さくった俺の指先に、手の甲からぶにつとした これが最大限だと思っていたのに、ア。ハ ートのドアが閉まると、鈴香は泣き声をひやわらかな腕は、見た目に反して力強い。感触が返ってくる。小さな体なのに、細部 ときわ大きくし、身をよじって、ごろごろ「しかたねえからあきらめろって。泣いてまでふつくらと弾力があるのだ。指先に残 る感覚に感心していると、シールをちらり 転がりながら泣き叫びだした。頭もごんごても疲れるだけだしさ」 今手を出すと、よけいに鈴香を暴れさせと見た鈴香は、本当に一瞬静まっただけ ん床にぶつけている。 で、また、同じ状態で泣き始めた。 てしまうようだ。俺は、手を引っ込めて、 「おい、大丈夫かよ」 「なんだ、泣きやまねえのかよ。ほら、ネ 「なあ、鈴香」 静かに声をかけてみた。 声をかけても、泣き声にかき消されてし「ほら、えっとお茶でも飲むか ? 喉渇くコとイヌのシールもあるぜ」 だろう ? まう。 いろんなシールを目の前で見せても、泣 くことに必死で鈴香は見向きもしない。シ 「なあ、おい、ちょっ・と落ち着けって。頭「そんなに体ぶつけたら痛いだろ ? とり ールは何の効果もないようだ。 あえずいったん座ろうぜ」 痛いだろう ? 」 抱き起こそうとそっと鈴香の腕に触れた どう言ってみても通じるわけもなく、鈴「一時間でも泣いてるだろうけど、心配し 俺は、その熱さに驚いた。泣いて暴れてい香は泣き叫んで床の上を転がるだけだ。涙なくて大丈夫。泣いてるのに付き合ってた るせいもあるだろうけど、俺の体温よりずや鼻水は床にまで垂れているし、暴れていら、大田君もたないから。泣くのが子ども っと高い。奥さんから「これくらいの子どるから、汗で髪もぐちゃぐちゃだ。クーラの仕事だと思ってね」 奥さんはそう言っていたけど、目の前でら ーがきいているのに、部屋の中はじっとり もは大人より一度ほど体温が高いものだか ここまで号泣されて、放っておくのは難しを ら、三十七度前半くらいなら心配ない」とと暑い。 どうしたらいいんだ。奥さんに受けた説い。もう三十分は経つのに、鈴香の泣く勢 聞いてはいたけど、一度の違いは体感でわ いは全く衰えない。このままではどこか体 かるほどに大きいのだ。 明を頭に巡らせてみる。そうだ。シール 「なあ、ほら」 だ。鈴香はシールが好きで、ぐずりだしてに異常をきたしてしまいそうだ。だけど、ロ
だから何炒めたっていいけどさ」 ンに人れさせるわけにはいかないけれど、 まさか大きくなって実際にアイスをフラ俺はその辺の適当なおもちやをフライ。ハまたいつもみたいに泣きつばなしになるの イ。ハンに人れるわけでもないだろう。まじンに突っ込んで揺すって見せた。せつかくは避けたい。何か焼いておもしろいものは めに考え過ぎだな俺と、自分に苦笑してい機嫌よく遊んでいたのに、泣かれたら困ないだろうか。フライ。ハンに人れて楽しい ると、今度は、鈴香は小さな動物のおもちる。 もの。炒めるのにいいもの。鈴香の気分が やを出してきて、ゾウをフライ。ハンに人れ「ぶんぶ ! 」 そうだ、 持ち直しそうな愉快なもの : 出した。悪びれもせず、すました顔で「。ハ 「えっと、ほら、何かいいものねえかな」俺の得意料理だ。 オーン」と言いながらフライ。ハンを揺すっ おもちゃ箱をひっくり返してみる。いち俺は台所へ行くと、米びつから米粒を一 ている。アイスはいいとして、動物を焼くごに卵にス。ハゲッティ。それらを次々フラつかみ取り出して、変わらず「やいやいや のはだめだ。 イ。ハンに人れて見せても、鈴香の機嫌は直い」と言っている鈴香の目の前で、フライ 「おい ! お前、ゾウなんか食わねえだらない。 。ハンにじゃらじゃらと人れてみせた。見た ろ ? ってか、ゾウが熱がるじゃねえ「ほら、ハンバーグだぜ。ジュ 1 ジュ ことがないものだからか、音に惹かれたの おいしそうだろ」 か、鈴香は目をばちばちさせ米粒を覗き込 俺がゾウをもぎ取ると、鈴香は「ぶんぶ「ぶんぶー」 んだ。 ! 」と叫びだした。 鈴香は座ったまま足をバタバタと動かし「これ、本物の米だぜ。こうして炒めた 「お前、なんでも炒めりやいいってもんじて、涙を流し怒っている。泣くようなことら、チャー、 ノンができる。おもちゃより、 ゃねえだろう。ゾウだぜ、ゾウ。こいつはかと言いたくなるけど、相手は二歳にもな炒めがいあるだろう」 本当はお前よりもっとでかいの。反対に食らない子どもだ。俺はぐっとこらえて、 俺がそう言いながらフライ。ハンを揺する われるぜ」 「なんだよ。ほら、鈴香。じゃあ、またアと、鈴香は泣いていたのなど忘れたかのよ 俺の理屈なんて聞くわけもなく、ゾウをイス焼いてくれよ。な」 うに「うわー」と歓声を上げた。 取られた鈴香は怒って泣き始めた。 とフライ。ハンを握らせようとしたけれ「ジュージュー 。こうして手早く炒めるの 「おい、泣くなよな。ほら、ほかの物焼けど、鈴香はすっかりふてくされて、「やいがコツなんだ」 ばいいだろう ? 焼くのなんていつばいあやいやいーと叫ぶだけだった。 おもちゃのフライ。ハンの中で米粒は勢い るじゃねえか。肉に魚に、ほら、ジュージ どうすればいいだろう。動物をフライ。ハよく動く。俺がスプーンでさっとかき混ぜ
俺が抱こうとすれば、余計に火が付いたよ そうだ。お菓子だ。もう一度奥さんの話打ち付けている。 うに泣き叫ぶし、鼻水を拭こうとしただけを頭に浮かべて、思い出した。外出先とか 「なんなんだよ。ビスコだぜ。お前、これ で足を・ハタバタさせて激しく拒否する。 で泣きやまなくて困ったとき、いつも食べ食えばおとなしくなるんじゃねえのかよ」 せめて少しでも鈴香の気を紛らわせよう させる、いざってとき用のお菓子があると あまりの強烈な泣き声に、俺はビスコを と、お気に人りだと渡されていたを奥さんが言っていた。俺も昔食べたことが手にしたままそっと離れるしかなかった。 流してみた。でかいぬぼっとした大の着ぐあるビスコ。それが鈴香の大好物らしく お気に人りのおもちゃもお菓子もだめ。 るみが踊っている映像が流れだしてテレビ 「どんなに騒いでいてもビスコを食べると俺が何かすればさらに強く泣く。結局俺は のほうをちらりと見たものの、シールの時おとなしくなるの。でも、あんまり食べさ火に油を注いでいるだけなのだ。小学校で と同じく鈴香の気がそれたのはほんの少しせると、ここぞってときに効果がなくなる教師に「お前は人を怒らせる天才だ」と言 だけだった。 から気をつけてね」と。今こそ緊急事態われたことを思い出した。どうやらその才 「おい、そろそろ泣きやめよ。頼むってー だ。俺は台所のかごからビスコを持ってく 能は今でもしつかり残っているらしい。鈴 「わかったからさ」 ると、一つ鈴香の前に差し出してみた。け香はまだ力を緩めず、小さな体を震わせ必 「鈴香、大丈夫かよ」 れど、鈴香は泣き叫んでいるから気づきさ死に泣いている。そんな泣き声を聴いてい 泣き過ぎで、鈴香の顔や手足は真っ赤だえしない。 ると、どんどん気がめいる。まったくどう し、色白のおでこには血管まで浮かんでい 「おい、ビスコだぞ。ビスコ、お前、好きしろっていうんだ。打つ手なんて一つもね えじゃねえか。 る。こんなに激しく泣いていて弱っちまわなんだろう ? 」 ないだろうか。いったいどうしたらいいん ロのそばに持っていっても、「やいやい俺は部屋の隅に座り込んだ。 だ。病院に行くのは違うだろうし、下の階ゃい」と首を振っている。 子どもを預かるんだ。たいへんなことに よしだ の吉田さんは同じ年くらいの子どもさんが「頼むから、これでも食って機嫌直せよ」なるのは想像していたはずだ。簡単にいく いて、いろいろ手伝ってくれるはずとは聞食べさせてやればいいのだろうかと、俺わけないし、俺なんかができるわけがな いてるけど、初日から助けを求めるのは早はビスコを鈴香のロの間に少し差し込んでい。そうわかっていた。 いだろう。そもそも、こんな出で立ちの俺・みた。そのとたんだ。驚いたのか、鈴香は けれど、どこかでなんとかなると踏んで が行ったら、泣く子を増やすだけだ。先輩ギャーと手も足も激しく動かし、これでもいた。だいたいのことは、なんとかできる の仕事場に電話しようにも、まだ病院かも かというほどけたたましく泣き叫びだしようになっているんだとどこかで思い込ん しれない。 た。お腹をよじらせ、体をがんがんと床にでいた。でも、実際はそうはいかない。そ
「なんか子宮が破裂しそうで危ないからっ 「まあ、俺は大丈夫なんすけど、全然泣き俺が言うと、 て、陣痛を止める点滴ぶら下げてた。これやまなくて」 「そうだったつけ。ま、お前がまだ続いて が二十四時間つけつばなしなんだって。絶俺はおにぎりをぼそぼそと口にしながいるほうが奇跡だけどな」 対安静で動けねえのがつらいって言ってたら、鈴香のほうに目をやった。きれいに閉と先輩は笑い、 わー じられた瞳に寝息でかすかに揺れる肩。っ 「一年しか高校生活持たなかった俺が言う 「たいへんっすね」 いさっきまでは、こんなふうに静かに眠るのも、あれだけど、一ヶ月だしさ。頼むなー 「マジ、子ども生むのって苦労だわ。俺、姿など想像もできないほど、泣き叫んでい とまた俺に頭を下げた。 たのだ。 絶対安静なんて三十分ももたねえもん。で 3 も、女ってすげえよなあ。突然の人院とか「ま、この年の子どもなんて泣いてなんぼ でも、まあしかたないねってすんなり受けだからな。俺が最初に鈴香と二人で留守番 人れられるんだもんな」 したときも三時間泣き続けてたぜ」 翌日。少しは慣れてくれているだろうか 先輩は。ハンの包みを触りながら言った。 「三時間 ? 」 とかすかな期待をしてみたが、そんなうま 「俺なんかが見てると思ったら、鈴香のこ 「そう。すごいだろう。で、最後に疲れ果 くいくわけもなかった。鈴香は昨日のこと とも気になるだろうし。奥さん、居ても立てて寝るっていうのが鈴香得意の。ハター が何もなかったかのように、また俺を見る っても居られないだろうな」 ン。まあ、懲りずに頼むぜ。仕事って意外と初めて会うような顔で「やいやいやいー 俺は朝何度も鈴香を抱きしめていた奥さと休めなくてさ。俺的には、超一大事の緊と泣きだし、先輩が「じゃ、頼むな」と家 んの姿を思い出した。 急事態なんだけど、世間的には休むほどのを出ると、さらに声を荒げた。 「それがさ、病院までの車の中ではどうしことじゃねえんだよなあ、これが。高校な「おい、昨日も会っただろう ? 」 ようって涙ぐんでばかりいたけど、いざ病んて休み放題だったのによ」 「鈴香、そろそろ状況わかれよな」 院に着くと腹が座ったみたいでさ、頼んだ先輩は。ハンの包みから手を離すと、お茶どんな言葉をかけても焼け石に水で、鈴 からには任せないと大田君にも失礼だし、 を一口だけ飲んだ。まだ何も食べ物を口に香は寝転びながらひたすら泣き叫んでいら 走 を 頼んだ意味がない。って、どんとかまえてしてはいない。陽気な口ぶりで話してはいる。 たぜ。母は強しっていうけど、あれだけはるけれど、きっといろいろ不安なのだ。 「シールでも貼って遊ぼうぜ」 が 本物だな。それより、お前は大丈夫だっ 「先輩が勝手に学校行かなかっただけじゃ泣きやませようとしても、俺ではどうし た ? 」 ないっすか」 ようもない。とりあえず、鈴香の好きなこレ