中では当然のことであろう。 容をチェックしてみたが、あれをそんな 親しくハグして 私は当時たまたまお一一人と同じテレビ四 ふうに誤解する方が悪い。バカはそちら いつもこの方を引き合いに出して恐縮番組に出演していたが、曽野先生と南ア で、私はちっとも悪くないーと「釈明」 する人間がいてしかるべきと思うが、なだが、昨年 2 月、曽野綾子先生が産経新フリカ大使が、見解の相違は相違として かなかそうはならない。みんな、さしあ聞に「南アフリカ共和国の実情を知って残しながら、親しくハグして友人関係を たりその場を収めるのを優先して、「私以来、居住区だけは分けて住む方がいい強めておられるのを目の当たりにして感 はバカでごめんなさい」と認めるのであと思うようになった」と書き、「ア。ハル銘を受けた。文明人とはこういう人達の トヘイトを許容するものだ」と囂々たることだろうと思ったのである。むろんこ るから、要するにケンカをする人間より もバカの方が望ましいと思われているこ非難にさらされた。曽野先生の書かれたの場合、南アフリカ大使が、「言い方が とになる。 ものをきちんと読み、そのお話をまじめ悪い」「誤解を招くのは良くない」の一 必然の論理的帰結として世の中には無に聞けば、そんな「批判」が「誤解」で点張りで聞く耳もたない、という壬人口い 能な人間が溢れることになるが、実際にあることは、私の如き愚鈍なものでもすではなかったことが最重要ポイントであ そうなっていると思う。「誤解」があるぐ分かるが、ここでは内容を詳細に検討るが、曽野先生の「適当に謝って、逃げ てしまう」という友朿をとらない姿勢は といけないので補足するが、私はそのこする紙数はない。 それよりもポイントはその後の対応で尊敬に値する。 と自体を良いとか悪いとか言っているの ではない。みんなが争うより、仲良くバ あって、曽野先生はすぐに南アフリカ大さて私自身、最近はなにかと物議を醸 力でいる方がよほどマシ、という考え方使と連絡をとり、面会して真意を説明なす、つまりは「誤解も招いている」こと さり、さらにはさまざまなメディアで継を主張している。反発の声も当然頻繁に は十分に成り立つ。 だが私はひねくれているので、たまに続して自説の主張を続けられた。その際、耳にする。なるべく謙虚に受け止めるよ あくまで「自分は悪くない」と主張する、「誤解を招いて申し訳ない」という常套うに努めてはいるのだが、実際には、批 もしくはなおも相手を説得しようとする句を使って、ご自分の発言を撤回したり判もしくは非難を受けて、「こいつは分 人が出てくると、なんとなく肩をもちたはされていない。南アフリカ大使とは、かっていないな」とか、「どんな頭して くなる。そっちのほうが、遥かに知恵と表現を巡って最後まで音覚の相違点があいたらこんなふうに間違って解釈できる ったようだが、それはむしろ人係ののか」とか思うことの方が多い。わが編 労力を必要とするはずだからである。
ない。さりとて靖国は政争の具にないますが、その状態が、ある時に「死」 防衛省 ( 市ヶ谷 ) には殉職者慰霊碑がってしまって久しい。 で終焉するわけです。その「死ーをどう 建立されているが、一般の人が気軽に訪月衛官が戦死する。そのときどう弔う迎えるのかは、やはり年とともに考える れるような場所にはない。国家元首が訪のか。「死」を意識しない国家の基盤はようになりました。 れる場所として想定されているわけでも脆弱であると言わざるを得ない。 国 人間爆弾と言われた特攻兵器「桜花」 の第一志願兵で、生き残った林冨士夫さ んにお会いしたのが、そんな思いを抱え 方 ていた頃で、この作品を作ろうと直感的 に思いました。うちの父も兵隊として大 陸で戦争を体験していたものですから、 特攻隊の映画を撮「て 集 戦争を映画として自分の中で捉えてみた いという思いが以前からあったことも理 1985 年渡仏。映画製作会社 Comme des Cinémas をパリに設立。プロデュー 由の一つです。 澤田正道 サーとしての作品に「あん」 ( 河瀨直美 映画プロデューサー・監督監督 ) 、『淵に立つ」 ( 深田晃司監督 ) 等。 当初は私がプロデューサーで、若手の フランス人に眷を任せようと考えてい 第一一次世界大戦時の神風特攻隊を題材リス人の友人は突然の死でした。その時ました。日本からは距離も遠いフランス にした『人間爆弾「・桜花」ー特攻を命じまで、あまり自分の死を音したことはの、戦争体験もない若いが、日本人 た兵士の遺言ー』 ( 8 月下旬よりシアタありませんでした。相次いで親しい人間の死生観をどう捉えるかといったことも ・イメージフォーラム他にて全国順次を失い、改めて自分もいっかは死ぬのだ含めてドキュメンタリーを撮ってほしい 公開 ) を撮ろうと思ったのは、ちょうどと音したのです。 と企画したのです。最終的にはフランス 死生観について考え直す機会が重なった それともう一つ、私はフランスに三十人の若いでは手に負えなくなって、 時期でした。 年以上住んでいるものですから、デラシ私が自ら監督することになりました。 2005 年にイギリス人の親しい友人、ネ ( 故郷喪失者 ) の状態が続いています。林さん以外にも何人かの戦争体験者に 翌年に私の父を亡くしました。特にイギこれからもデラシネで彷徨っていくと思お会いしたことがあります。林さんが他 さわだまさみち A 叩び 2016 64
いもので、夫の世界を借りてしか安らぎ誰かと生きるということはいつも不確飲んだのだ。そうするしか生きる方法が は得られないと思っていた。それまでの実で、変化し続けるものだ。私と夫はいなかったから。放射性はほとんど尿 私は、いわば人生を夫に裏書きしてもらつの間にかその変化を「頼る人と頼られになって排出されただろう。けれど「誰 っていたようなものだ。それがようやく、る人」という関係に固着して楽をするよも私の人生を引き受けてはくれない。自 自分の手の中にすんなりと、己が命が降うになっていた。それが彼の退職を機に、分で決めるしかないのだ。日々絶え間な 、すべてのことを」という切実さは骨 りてきた。それは今まで経験したことの岩盤の歪みが剥がれるように劇的に変化 した。少なくとも私の方が先にその歪みの髄まで沁みわたった。 ない、健やかで自由な心持ちであった。 自立とは、上手に依存する力のことだのエネルギーを放出したわけだが、しか安全だという物語を信じていただけで、 という。歳にして、ようやく安心してし人生には固着しないと生きて行けない世界は初めから安全ではなかった。肪年 「私は誰とでも生きて行けるだろう」と時もある。私たちにはそうやって歪みをの阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件で 考えることができるようになった。それ溜め込むことで、しのいできた場面もたそう実感したはずなのに、まだ私は幾つ は「あなたなしでは生きられない」と夫くさんあるのだと思う。この先もその繰もの都合のいい神話を生きていたのだ。 に負ぶさる生き方ではなく、彼の人生をり返しだろう。 ム昌取も広く信じられているのは、人生 人生は常に「現在」しかないのだとい部年神話だろう。だけど私はこれをどう 尊重することでもあるのだと思う。 そこで早速、めでたくそんな心境になうことは、 3 ・Ⅱの震災で痛感した。あしても信じられない。周囲の誰に聞いて ったことを夫に報告したら、激しくショの日を境にはっきりと、生きることは不も皆までは死なないと思っている。 ックを受けていた。彼は私に依存される確実であると考えるようになったし、 何を根拠に ? もっと具体的に、なん としても生きねばならない年齢を考えて ことに依存していたのだ。まさしく私た日々を生き延びることが奇跡になった。 ち夫婦は互いの自立を妨げる共依存でああのとき、目の前のセシウム入りの水道みると、歳が一つの目標になる。次男 った。その解体が行き着く先はどこなの水を飲むか飲まないかは、自分にしか決は歳だ。もう独り立ちしているだろう。 か今はまだ見えないが、共に生きるといめられなかった。それが正解かどうかはもしも間歳まで生きることができたらと うことと、互いを自分の命の保障にする誰にもわからない。結果も自分で引き受ても嬉しい。中年になった息子たちに会 ことは、似て非なることではないかと今けるしかない。そして私はあのとき、ごえる。今はそれ以上考えられない。とに 漠然と感じている。 く微量のセシウム人りの味噌汁を作ってかく働いて、生きねば。 August 2016 32
だと思う ( 笑 ) 。鼻の穴の位置が、空気を吸うために上のほ市川本当にそうなんです。ジュゴンはピョピョピョピーヨ うにある。あれが下のほうにあると不細工になると思うけれという鳴き方をするんですけれども、実は鳥も森の中で鳴く引 ど、上にあるから何かがある。おいらはかわいくてしょ時はそういう鳴き方をするんですね。というのは、森の中で うがない。 は風が吹くと木の葉がザワザワと音を立てうるさいからです。 市川そうですね。私もこの十何年か研究して今ではかわいそもそも森の中では、鳥の鳴き声が葉っぱに当たって相手に いと思っていますが、初めて見た時はその顔に驚きました。届きにくい。そういう状況では鳥もジュゴンと同じような鳴 たけし鼻が上を向いていてプタのようなイメージがあったき方をします。ピョピョというのは、相手に「今から重要な から、プープーと鳴きそうなのだけど、これが違う。 メッセージを送りますよ」という合図で、それで注意を引い 市川私もプヒプヒと鳴くのかなと思ったのですが、ピョピておいた上で、ピーヨという少し長めのメッセージのある音 ョと鳥みたいに鳴く。第一印象では「不細工だな、こんな変を出すようです。ジュゴンも非常にうるさい環境で鳴いてい るので、同じような鳴き声をするのかもしれません。 な顔の奴がいるのか」と思っていたら、その鳴き声が実はと てもかわいらしい、鳥のような声を出すので、衝撃を受けまたけし水の中もうるさいんですか。 した。それで興味を持ってしまったんです。 市川ジュゴンが棲む浅い海では、テッポウェビが出す。ハチ 。ハチっていう音がずっと鳴っています。ジュゴンの鳴き声、 なぜピョピョ鳴くのか ピョピョという短い音は相手にとってみればどこから聞こえ たけし先生がジュゴンにおいて一番研究されているのは鳴てきた音かって判断しやすい音なんですね。そうすると、ピ ョピョと鳴ければ、「私はここです」って分かってもらえて、 き声だそうですが、あれはイルカのようなエコーロケーショ 注意を引いた後でいろいろなメッセージを伝えればいい。 ンをしているのではないんですか。 市川エコーロケーションの場合は超音波を出します。音にたけし音というのは空気を振動させるわけだけど、水の中 すると、。ハツ。ハツ。ハッという短い音です。ジュゴンのほうはではどうするんですか。 可聴域の鳴き声で、ピョピョピョという短い音と、ピーヨと市川発音機構についてはまだ分かっていません。何らかの いう長い音の両方を出しています。 方法で体内の空気を振動させて音を出してると思います。 たけしヒョコみたいですよね。もしかすると鳥の鳴き声をたけしとなると、ジュゴンの近くで泳いでいると、聞こえ ることもあるんですか。 調べると共通点があるかもしれませんね。
たけしもっと一般の人にも広くアピールしたほうがいいん美味しいという人もたくさんいるので。 じゃないですか。おいらも沖縄にジュゴンがいるのは知ってたけし近江牛なんかと同じで、いいものを食わして、あま り泳がせないように飼育すれば、脂が乗って旨いかもしれな いたけど、三頭しかいないとは思わなかった。 い ( 笑 ) 。食べられている割には、ジュゴンを神聖な動物だ 市川明治の頃だったら、もう数百頭いたんですけれども。 とあがめている地域も随分とあるようですね。 たけしいなくなった原因はやはり人間ですか。 市川当時は積極的な狩猟の対象となっていました。琉球王市川神聖だからこそ効能もあると思われていた。その涙が 朝の頃は珍味として日本に献上されていたようです。租税を媚薬になるとか、骨を粉末にすると漢方の滋養強壮になると 課せられていて納めようにも穀物が育たない時には、その代か信じられていたようです。また、ジュゴンにまつわる伝説 が、アジア圏のいくつかの海域で共通しています。文化的に わりにジュゴンの肉を献上した記録があります。 たけし琉球王朝は中国にもいろんな品物を献上していたはおそらくその辺の交流はなかった地域なのに、どうしてなの か。特に、ジュゴンはどの文化圏でも女性視される。人魚伝 ずだけど。ジュゴンは日本側に献上していたんですか。 市川中国にも献上していました。 ~ 〕緩贈呈品のリストにジ説もそうですが、なぜ女性として扱われるのか、そこにも興 ュゴンの肉が人っています。塩漬けにしたり、干し肉にした味がありますね。その理由はまだ分かりません。おそらく授 乳シーンが理由ではないかと思います。 りしていたみたいです。 たけし子どもをいつも連れて授乳していると、人間はそこす たけし珍味になるぐらいだから、ジュゴンはおいしいんだ。 ま 先生の次の本は『ジュゴンの上手な食べ方』はどうですかに母性愛みたいなものを見るのかもしれませんね。 て 市川それも興味深いところで、そういった分野の研究もしつ ( 笑 ) 。先生はジュゴンの肉を食べたことはないんですか。 ていきたいなと思っています。生態や鳴き声も含めて、これ 市川食べたことはあります。スーダンで魚網にひっかかっ 正 の て死んだジュゴンを村人が解体して食べていたのですが、そから少しずつ分かっていくことが多いと思います。 たけし不細工にもかかわらず、女性視され人 れを少し分けてもらいました。 て、声は鳥のようにかわいいって不思議だな。 たけしそれは旨かったですか。 まだまだ地球上には人類にとって謎が多い生達 市川獣の匂いがして、あんまり美味しくな き物がいつばいいるんですね ( 笑 ) 。 かったです。あと肉が硬かった。ただ、部位 によるんじゃないかと思います。ジュゴンを
あり方を思いはしても、祖母のあり方を「お祖母ちゃん、寒いよ。まだ閉めないうことにならないよう、なにか趣味を持 私は不思議に思いませんでした。 の ? 」と言うと、十分に老い込んでいたつべきだ」と言われてしまうところだろ 私の叔母である末の娘の結婚式に出席祖母は、「まだ、あの子達が来ないから」うが、私はそうは思わない。小学生の頃 するため、家族と共に家を空けた祖母は、と言って同じ姿勢を取り続けていた。祖から「お兄ちゃん、ちょっと見といて 式が終わって帰り着くとすぐに自分の店母の葬式に制服姿の彼等がやって来てくよ」と言われて祖母の店の店番をしてい を開けた。それを見て私はなんだかほっれて、私は「本当にありがとう」と頭をた私にとって、祖母のような「生きるこ とした。店の奥の定位置に座って客が来下げました。 と」と「働くこと」がイコールであるよ るのを待っているのが、祖母にとっては祖母のやっていた店がそんなに儲かつうなあり方は、特別でもなんでもない。 一番リラックス出来ている状態のようで、ていたわけではないし、祖母の生活は私「ライフワークは ? 」と問われても、私 そういう環境で育った私は、祖母の店のの父が支えていたから、生計を立てるたの頭の中にはなにも湧かない。「どうし カーテンが閉まって暗くなったままでいめでもない。祖母にとって「店を開けてだ ? 」と考えると、私の頭の中には るのを見ると、「お祖母ちゃん、どっかる」ということは、、そのまま「生きるこ「ライフはワーク」という考え方しかな 悪いのかな ? 」と思うようになっていまと」だった。だから、立って店に出るこい。用があって家を空けて、しばらくし した。 とが出来なくなった時、もう人生は終わて戻って書きかけの原稿用紙が広げられ 祖母の店は、菓子屋から牛乳とアイスったに等しい。生きることで体を十分にている机の前に座ると、不思議な安堵感 クリームを売る店になって、店の前の道使い果していた祖母は、それから一年近を覚えてしまう。祖母の影響だとしか思 を通学路とする高校生が部活帰りに寄っくかけて崩壊して行った。だから私は、えない。 て自後を、一をするような場所になっていた。 ミイラの一歩手前のような祖母の死に顔別に「働かなきやだめだよ」などと祖 まだ付近にコンビニはなくて、腹を減らを見て、「やつばり」と思った。それ以母に一一一口われたわけではない。生きること した男亠局校生が食べるためのカップラ前から私は、「人間は一生働いて、それを一緒にしている内に、それが当たり前 ーメンと湯を用意して、冬の暗い時間まで体を使いきって死ぬものなんじゃないになった。 で待っていた。店の戸は開けっ放しで、 か ? 」と思っていたので、「やつばり」私がやたらと仕事ばかりしているのは、 一につ ( 0 寒風が人り込む中、一人で石油ストー 借金の返済に追われる以前からのことで、 プに当たって店番をしている祖母に、 今なら、「仕事一筋でポケるなんていなんでそうなのかと言えば、私の中に August 2016
続けながら日常を取り戻すことができた。 そんな身の上にも拘わらず、一一人の息もかなりの心理的なダメージだと思うの げばく そのあたりの詳しいことは、拙著『解縛子の長期留学のために、思い切ってオー で、部屋をきれいにしておくのがせめて 、母の苦しみ、女の痛み』 ( 新潮文庫 ) ストラリアに引っ越してしまった。夫はものおもてなしだ。遺品整理をする夫の をお読み頂きたい。 家事と育児とに専念し、私は日本と手間も考えて、なるべくものは少なく。 現在、その歳となった私は、死ぬのオーストラリアを 3 週間すっ往復する出出かけるときには、このまま戻れなかっ が怖くて仕方がない。理由は一一つある。稼ぎ生活だ。他人の人生に巻き込まれでたときに人に見られても大丈夫かどうか 一つは、漠然と芻ぐらいで死ぬと思ってもしない限り、発想の転換はできない。 を考えて点検する。脱いだ下着が落ちて いたから。そしてもう一つは、 3 年前に今は私の代を奴のデュアルライフにいたり、飲みかけのコーヒーがテープル 夫が仕事を辞めて今は私が唯一の働き手巻き込んだ夫への恨みは咸対に変わってに置いてあったりすると、いかにもつい であるというプレッシャーだ。 いる。こんな面白い暮らし、あなたが仕さっきまで生きていたという生々しい印 病気と育児と仕事で激動の代をなん事を辞めなきや思いっかなかったねと。象になってしまう。なるべくきっちり片 とか終えた時には、これでやっと平穏な自分が一家を支えるなんて、うかつに付けて擁機的な印象にしておけば、多少 もまるで人生の「主疋になかった。プレツなりとも妻惨さが軽減されるのではない 日常が訪れると嬉し涙にくれたものだ。 なのにその翌年、夫が仕事を辞めた。おシャーで久々に。ハニック発作がぶり返しかと思うのだ。 いおい、差刄読めよと言いたくなるが、 た。寝不足で死ぬんじゃないかというぐ 健やかで自由な心持ち 決めてしまったものは仕方がない。こうらいハードに働いているので、身体的な しかし片働きになって、楽になった一 して、想定外の女片働き世帯となった。危機感もある。代は何があっても不思 面もある。輝くために働くとか、仕事の それにしても世の畧が、これほどま議ではない。 でにしんどい思いをしているとは知らな出稼ぎ中、束示の一人暮らしの部屋で発とか、どうでもよくなったのだ。と かった。一家を養うってことの重さを初べッドに入って目を閉じるたびに、このにかく一家を養う。ご飯を食べさせ、学 めて実感した。まして不安定なタレントまま目が覚めなかったらどうしようと思校に通わせ、家賃を払う。そのためだけ 繁。明日仕事があっても来年は無職かう。だからいっ何があってもしくなに働けばいいのだから、「私にとって仕 もしれない。もしも私が倒れたら、と考いよう、常に部屋を片付けている。どな事って ? 」なんて悩む必要はない。どう えるだけで足がすくむ。 たかわからないが一を見つけるだけでりで畧誌に「俺と仕事ーなんていう特 かか August 2016 30
「実は。ハリで、ロシア高官と会わなけれ 「さあな」 らくは、江島内閣の閣僚の一人なのだ。 「なんだ、保守党は・ハラバラとでも言い立ち上がった高遠は、そのままの姿勢ばなりません。それも緊急に、一人で」 ロシアによる日本国債の大量買い取り たいのか」 でコーヒーを飲み干した。 の件で、総理がロシア大統領に親書を送 「さあな。いずれにしても、江島総理は ったと聞いたが、その任は盛田に託され 裸の王様じゃないのかな。大臣も皆、選十分、実情は把握した。 プラフにしては、高遠は自信を持ちすたということか。 挙区を抱えている。末来の日本のためと それは、ありえないな。そういう類い か偉そうなことを言っても、選挙区が被ぎていた。保守党内に裏切り者は確実に の使命を盛田さんは蔑できそうにない。 害を受けるような政策を本気で支持する複数いるということだ。 ならば、保守党内の知り合いにも会っ「もしもし ? 周防君 ? 聞こえていま と思っているなら、甘すぎるだろ」 すか」 裏切り者は複数いると考えるべきなのておくべきだと思った。 「もちろんです。それは大役ですね」 適任者を思案していたらスマートフォ だろうか。それとも、本当にプラフか。 「左様。突然、政局が動き始めたせいで、 さすがに、大勢の大臣が反旗を翻してンが鳴った。 シャルル・ド・ゴール港に到着したら、 いるとは考えにくい。もしかしたら高遠 ~ が良くないのか、ノイズが激しい。 は誤情報を流して、内閣の一枚岩を崩そ「あなたに相談したいことがあります」すぐにロシア高官に連絡しなければなり うとしているのかもしれない。 「盛田さんですか。今すぐ参りましようません。もし、君ならどうしますか」 この人は何を聞きたいんだろう。もし 「悪いことは言わない。バカげた政策をかー 撤回して、江島さんには潔く身を引いて「それは無理ですね。私は今、政府専用かして不安でしてきたのか ? この 俺に ? もらえ。おまえも、あんな頭のネジが数機内におりますので」 本飛んだドン・キホーテを早く見切らなつまり、副大臣の訪欧団に何してい答えは簡単だった。 ン るということか。 ~ すればいい。だが、盛田はそれをョ いと、将来を棒に振るぞ」 レ メンバーに、盛田の名前なんてあったしているらしい。「主疋にないことを 見事な捨て台詞を吐いて、高遠は立ち オ つけ。 するのが苦手だからだ。 上がった。 「それは失礼しました。で、ご相談と笑ってはいけないとは思うのだが、気 「不信任で勝てる目算があると思ってい は」 を抜くと、吹き出しそうになった。 るんだな」
一がちなノックの後、一一等書記官がいるんですよー 「なぜ私が会う人物が女性だと思うんだ 戻ってきた。 「はい、承知しております。どのようなね」 「クールセル通りに『ヒルトンアルクこ一にもお応えするようにと一一一口われて「先程、参事官は密会とおっしやったの ドウトリオンフ。ハリ』があります。そいます」 で、当然」 こがよろしいのではないでしようか。こ「ならば、既に許可を得ているじゃない盛田はようやく相手が誤解しているの こからなら歩いて五分もかかりません」ですか。頼みます」 に気づいた。 彼は地図を広げて場所を示した。大使一一等書記官はそこで引き下がった。 「バカか君は ! 私がその部屋を使うの 館から目と鼻の先だった。 「では、私はこれから大切なをするは、総理の代理人として某国高官と会う 「よろしい。地下鉄の最寄り駅はどこでので席を外してくれたまえ」 ためだからだ」 すか」 「承知しました。参事官、大変失礼です「失礼しました。私はてつきり」 一一等書記官が舜そうな裔で、地図が、お相手の方も同時にチェックインさ「下がりたまえ ! 」 を指し示した。 れますか」 どいつもこいつも、なぜこうも愚かな 「三〇〇メートルほど北西のクールセル 「私が先に人って、しかるべく間を置いのだ。 駅だと思います」 て呼ぶことにするよ」 部屋の片隅に用意された水差しからグ 指先にメトロ 2 号線の駅があった。 「なるほど。あと、費用は参事官の方でラスに水を満たし、一気に飲み干した。 「では、そこの部屋を予約してもらえるお持ち戴けるのですよね」 そして、もう一度気持ちを切り替える かね」 「何を言っているんだね。私は公務でそと、自身の第から、コルコフに電 「承知しました。お名前は ? J のホテルを利用するんだ。大でしか話を人れた。 暫し考えた。盛田の名前を記録に残さるべく処理するのが筋では。何か贈が驚くことに、相手はすぐに出た。しか ない方が良いのかも知れない。 あるかね」 も、日本語で。 「大矗名で取れませんか」 「いえ、失礼しました。では、男女お一一 7 「おそらく大丈夫だと思いますが、その人でご利用とだけお伝えしておきます」 場合、上の承認が必要です」 なぜ、この男はこれから会う者が、女 「私は総理の代理人として、。ハリに来て性だと思っているのだ。 午後十一時に、土岐、周防、中村の三 August 2016 162
なるとか楽になるとかだけではなく、も 私はここ数年、「あと五十年生きる」きれいな死に顔だから」と言いました。 っと広く言えば、モノは幸せに寄与すると公言している。人と長く繋がっていた私は、「言われなくたって見るよ、俺は と思うのだ。 いという気持ちが常にあり、そう考えるお祖母ちゃん子だったんだから」と思っ 以前、小児ガンに罹ったお子さんがいようになった。何をして生きていくか、 て、祖母の眠る棺に向かいました。そし た。両親は息子さんに一眼レフカメラを課題はいくらでもある。音ある人生とて、少し驚きました。ちっとも「きれい 買い与えたところ、写貢に夢中になり、は成功を指すのではなく、充実しているな顔」ではなかったからです。 闘病にも前向きになった。その後、病をか否かだから。死後にそうした私の姿勢それまでにもそれ以後にも、何人もの 克服しお父さんの仕事を手伝うまでになも含め偲んでもらえたなら、こんなに幸死に顔を見てはいますが、祖母ほどひど 国 ったと聞いた。それが、モノの価値だ。 せな人生はない。 いものはありませんでした。肌の色は土 気色を通り越して、本当に泥のような色 で、頭蓋骨が縮んでしまっているようで 方 した。小柄な人ではありましたが、「お 祖母ちゃん、こんなに頭が小さかったっ け ? 」というのがその印象です。 体を使いき「て死ぬ 集 仏様になった人の顔を見て「きれいな はしもとおさむ た 死に顔」以外のことを言わないのは礼儀 1948 年東京都生まれ。東京大学文 学部国文科卒。小説・評論・エッセイ・ かもしれません。だから「お祖母ちゃんは 橋本台 ◆◆′古典の現代語訳など、多彩な執筆活動を 死 作家行う。「窯変源氏物語」など著書多数。汚くなって死んだ」なんてことは誰も一言 いません。しかし、自分は誰よりも祖母に 昭和が終わる一一年前の暮れに、祖母がもう棺の中に人っていて、そのそばには愛されていたという自信のある私は、「お 死にました。明治生まれで享年八十四だもちろん家族もいましたが、古くから私祖母ちゃんはこんなひどくない、もっと ったと思います。祖母のいる実家とは離の家で働いて家族同然のようだった人もきれいだったはずだ」と思って、そう思う れたところで暮していた私は、「死んだ」いました。その人は、やって来た私の顔と同時に「やつばりーーー」と思いました。 と聞かされて実家に戻りました。祖母はを見て「お婆アちゃんの顔見てやって、 年の暮れに死んだ祖母は、その年の初 August 2016 38