昭和 - みる会図書館


検索対象: 新潮45 2016年8月号
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1. 新潮45 2016年8月号

略を打破しろ」という演説が受けたのだ。戦論に興味を持ち、貴族院議員になって窺周辺の人はそのように信じている。 もし四王天がフランス陸軍という友人をからは治安維持法に反対する革新派だっ 喧嘩で始まった話し合い 持たなかったら、昭和陸軍の指導者になた。矗には「革命は芸術なり」との信 っていただろう。 念があった。大正、昭和初期には石川二 昭和三十 ( 一九五五 ) 年に左右社会党 兼好法師の言う「わろき者」に「謀略四郎らのアナキストから大川周明らの右の統一、保守合同により、日本は五五年 ( はかりごと ) 好む者」という一項を加翼までの運動を支持、莫大な運動資金を体制と言われる「二大政党 ( 実際は一・ えてもいいのでは : : : と思いたくなる。提供した。 五大政党だが ) 」時代に人る。この保守 いや「わろき者」の最初に、「高くやん昭和六年の三月事件 ( 大川や橋本欣五合同の立役者となったのは、鳩山一郎の ごとなき人」を挙げるのだが、これもま郎、それに陸軍の現役幹部、国家社会主日本民主党の霧会長だった一一一木武吉、 たはたして「わろき者」なのか、あるい義者などが加わってのクーデター未遂事自由党霧会長の大嵂睦らの、いわゆ は「よき友」なのか、迷うところだ。 件 ) 時には、密かに大川や右翼の清水行る近代政治の理知とか理性からは距離を 大正期半ばから昭和初期にかけて「最之助に一一十万円の資金を渡した。決行予置く政治家であった。三木は「政界の寝 後の殿様」と称されたのが、徳川矗で定者には、まさに「よき友」だった。 業師」と言われ、大正六年に衆議院選挙 あった。もともとは越前福井藩の藩主・ もうひとっ付け加えておけば、戦後すに当選、以来、政界をかき回し続けてい 松嶽の子。春嶽は八代将軍・吉宗のぐに社会党が誕生したとき、窺は清水る。大野はいわば院外団上りと言われた 直系で、十歳のときに越前松光豕に十から返却された一一十万円にさらに現金を政治家で、情一本やりの政治家だ。昭和 になった。矗はその後継役として明治加え、風呂敷に包んで、「社会党を作る一一十年代に国家予算の総額を巡って論争 十九年に生まれた。一一十歳のときに尾張のにはカネが要る。これを使いなさい」が起こると、「 ( 両者の額を ) 足して二で 徳川家に鶩十になる。このときに徳川家と関係者に託している。鈴木茂三郎など割ればいいではないか」との迷 ( ? ) 解決 は積極的にを口説くのだが、うまくは「そのようなカネは使わなかった」と案を示して、政界を驚かせた人物である。 いかない。そこで長州閥元老の井上馨に自伝に書き残している。実際には昭和一一保守政党の乱立は国家の損失と、まず 説得役を頼み、矗も渋々と養于になる十年十一月一一日に社会党は創立大会を開花火を上げたのは一一一木、癌を患っていて のを引き受けた。明治四十一年だ。 くのだが、窺の資金をもとにと言われ叩限りありと言われているだけに、和 矗は学習院で学んだが、平民社の非ている。歴史の闇に消えている話だが、服姿で眼光鋭く国会内を闊歩する。その August 2016 248

2. 新潮45 2016年8月号

髪に濃緑の木の葉をつけて は以下である。 ン・キーツの長詩「エンデイミオン」を 「愛」のさすらうあたりに 「絃は地にも空にも 少しずつ訳し、かたわらキーツの評伝を 美はしい音楽をかなでる、 「で読んでいる。キーツと西脇の因縁 すべてのものは音楽にうなだれ 河べりに絃はまた はあまりにも有名である。やはり昭和八 しづかにかなでうたう 柳がすれ合ふところにも。 年に刊行され、西脇の名を轟かせた第一 そして両の手の指は 詩集『 AmbarvaIi ( アムバルワリア ) でも たてごとの上をさまよう」 音楽が河に沿うて聞えるのは っとも人口にする三行詩「天気」は、 『室内楽』冒頭の江藤訳である。三十六 愛の神がそこをさまよふから、 キーツ抜きにはありえない作品である。 くつがヘ 篇の恋愛詩をとびとびに訳しながら、江彼の外衣の上には淡い花をつけ 「 ( 覆された宝石 ) のやうな朝 藤は「期待をよろこびに、暑を悲しみ 彼の頭髪には暗い葉をつけて。 何人か戸口にて誰かとさやく に、翡を追憶へと変質させて行く、お それは神の生誕の日。」 そろしい魔術師、「時間」のうたを」聴真にひそかに、かなでる この「 ( 覆された宝石 ) 」こそはキーツ いている。ノートはしかし、第五篇の詩 頭は調べに項垂れて、 の「エンデイミオン」から引用してきた までで未完になっている。江藤の興味が指はさまようて 詩語である。引用であると明小するため 別の作家へと心変わりしたからとも考え 楽器の上を。」 に、西脇はわざわざ ( ) を使用したの られるが、それ以上に考えられる事情が西脇が訳詩集を出すのは、昭和一一十七だった。 ある。『室内楽』は昭和八年に、他のジ年のエリオット『荒地』までない。戦前 強奪される「宝物」 ョイスの詩とともに邦訳され、『ヂオイの西脇唯一の訳詩集が『ヂオイス詩集』 ス詩集』として第一晝房から出ていたのであった。 「ジョイスの恋愛詩」の次に創作ノート だ。訳者はといえば、西脇順三郎である。江藤と西脇の誧する英詩人は重なつに書かれた論文は同人誌「 若き江藤浮の鼻をへし折る訳業が、戦ている。その当時の詩人で一一人ともが一 」創刊号に発表された。「— 争を間にはさんで、一一十年も前に西脇教番高く評価していたのは、デイラン・ト 」は日比谷時代のライバルで、東大に 授の手でなされていた。本邦初訳の栄光マスだった。江藤の小説「沈丁花のある進んだ安藤元雄が中心になった同人誌で は奪われたのだった。冒頭部分の西脇訳風景」では、英文科生の主人公はジョある。江藤は安藤に誘われて同人に加わ しら

3. 新潮45 2016年8月号

り食材や器に凝る渋谷の小料理屋のガンもっとも多かった世代だ。つまり一一↓た。 コ親爺のゴーストをしていたから私は前後で戦争を迎え、一一十五歳前後で敗戦彼らだけでなく、大西巨人や鶴見俊輔、 となる。 『新潮菊』の愛読者となった ) 。 加藤周一、吉本隆明といった大正生まれ だがこの世代は、戦争を生きのびたあの人は長生きした。 「高齢化社会」という問題 と、まるで " 第一一の青春〃をむかえたか つまり、「高齢化社会」から「超高齢 その頃、「高齢化社会」が問題になつのように若々しく活躍する。 社会」へ、である。 ていた。 そのエネルギーは還暦を過ぎても衰え それに合わせて、今回、このような特 六十五歳以上の人口比率が七。ハーセンなかった。 集が組まれたのだろう。 トを超える「高齢霧会」に日本が人っ作家を例にとれば、阿川弘之や安岡章だが、私は、待てよ、と言いたい。 ていったのは一九七〇年で、有吉佐和子太郎、庄野潤三という大正九年十年作家、たしかに大正生まれは「超高齢社会」 の『の人』は一九七一一年のベストセもう少し年上の小島信夫といった〃第一二を生きた ( 生きている ) 。 ラーになったが、それがいよいよ鬮化の新人〃の作家たちは六十歳過ぎてますしかし、それに続く世代はそれ以上に したのが一九八〇年代半ばだった。 ます健筆を揮った。同じ " 第一一一の新人〃高齢化を生きるのだろうか。 六十五歳以上の人口比率を「高齢程の作家でも吉行 / 」介や導滕周作ら、若私はそう思わない。 会」の指標とするのは不思議な感じがすき日に肺病を患った人は還暦過ぎてから『東示人』時代に私が親しくしていただ る。 の衰えが目立った ( 安岡章太郎も若き日いた常盤新平さん、山口昌男さん ) それ 一九八〇年代半ば、と書いたが、例えに病を患らったがそれは脊椎カリエスでから憧れを持って接した野坂昭如さんは ば一九八五年は一九一一〇 ( 大正九 ) 年生肺病とは違う ) 。 皆、昭和一ヶタ世代だ。 まれの私の父がまさに六十五歳になった還暦どころか私の父は七十代に人って常盤さんと山口さんが昭和六 ( 一九三 年だ。 も、いや八十代になっても元気だった。 一 ) 年、野坂さんが昭和五 ( 一九三〇 ) しかし父に老人感はまったくなかった。 さすがに九十歳が近づく頃に衰えは年生まれだ。 父が例外であったわけではない。 じめ九十一歳で亡くなったが、先に名つまり私が『示人』 2 者だった 大正九年とそれに続く大正十 ( 一九一一前を出した阿川弘之や安岡章太郎や庄当時の彼らの年齢は、ちょうど今の私と 一 ) 年生まれは太平洋戦争での戦死者が野潤三や小島信夫も同じくらい長生きし同じくらいなのだ。 A 2016 48

4. 新潮45 2016年8月号

イの趣があるという ( 前述書 ) 。青年、 期には、なぜ青年のさや健康人 を嫌うのだろうと思ったが、老いるに従 昭和史の い、向う見すで礼儀知らずの若者に腹を 立て、健康を繰り返す輩には心底か ら怒りを覚える。六十代も半ばを過ぎて 人間学証 からの集まりでは、〈孫自慢、病気自慢、 ◆わろき者 年金への愚痴〉が三といったところ 人目も憚らずだきあってオイオイ泣いた元老、一生 なのに ( これはこれでイヤなのだが ) 、 を棒に振った軍人 : : : 。まさに人生は友次第 やたらに元気で、「風邪ひとっ引いたこ 兼好法師の『徒殊草』を、高校時代に 私は一一百四十三段の中で、好みの項にとがない」などという者は疎まれる。 読みふけった。その人生観や他人を見つ一級、一一級、三級 : : : とランクをつけて「あんな奴、呼ぶのはやめようよ」 めるときの諧謔や悟りを、私はほとんどいるのだが、一級のひとつに「第百十七と誰もが兼好法師の側に立って、仲間 理解できなかったのだが、年齢を経るに段」がある。さして長くないので、まずはずれを作っていたりする。 つれ、次第にこの法師の冷めた目が好きは全文を引用しておくことにしたい。 兼好法師のこの「友とするにわろき になった。 〈友とするにわろき者、七つあり。一つ者」と「よき友三つあり」を下敷きにし 木藤才蔵校注の『徒然草』 ( 新潮日本には高くやんごとなき人。一一つには若きて近代日本史、あるいは歴史の中から幾 古典集成 ) によると、兼好の和歌の中に人。三つには病なく身強き人。四つにはつかのエピソードを抜き出してみるのも は、〈俗世間の交わりを厭う心が次第に酒を好む人。五つにはたけく勇める兵。一興である。「よき友」の例で私がすぐ そらごと 高じて来て耐えがたい思いにかられなが六つには虚言する人。七つには欲深き人。に思い出すのは、明治の元勲の伊 ~ 文 ら、出家に踏み切ることもできずにいた よき友三つあり。一つには物くるる友。と財政家の井上馨である。一一人は長州時 くすし 時分の兼好の心〉が反映している歌もあ一一つには医師。三つには智恵ある友〉代からの盟友だ。井上が毋症で倒れた るらしい。やがて出家遁世に踏み切り これは『論語』にある〈孔子曰はく、のは明治四十一年、自宅で療養したが、 には自由人となったようだ。 住一一友、損者三友〉をもじった。ハロデ死が近いと言われた。伊藤も井上邸に陣 ノンフィクション作家 1939 年札幌市生まれ。 2004 年、一連の 昭和史研究で菊池寛賞を受賞。 , 「あの戦 争は何だったのかれ崩御と即位日本 原爆開発秘録ⅱ昭和天皇実録その表と 裏』など著書多数 のたま つはもの August 2016 246

5. 新潮45 2016年8月号

では、日本の詩を朗読して聞かせていた。西脇は八十八歳の大往生を遂げていた。 とに送り込んできた研究者は、アメリカ 「早い話が、もし私が西脇順三郎の、中いくつもの雑誌が追悼号を出し、追悼記の日本文学研究を牽引しているといって 野重治の、伊東や一一一好にの詩を取事が新聞や雑誌に溢れ、『回想の西脇順いい。村上春樹を翻訳しているジェイ・ り上げて、その美しさを語って聞かせな三郎』という本も出た。それらに江藤のル 1 ビン、コロンビア大学教授のポー ければ、技術の家たらんと志し追悼文が載ることはなかった。西脇と江ル・アンドラなどがいる。彼らの研 ている私の学生の大部分は、一生詩歌に藤という師弟関係が大猿の仲だったこと象は、漱石や谷崎、有島武郎や徳田秋声 親しむよろこびを知らずに終ってしまうは周知の事実だったからだ。その江藤がといった江藤が深く関心を寄せる作家た かも知れないからである」 日経新聞の随筆で、西脇の名を詩人ちであった。江藤が晩年になって、その さりげなく書かれているので、ど一たちのトップに置いた。「詩人」西脇順中に西脇研究者を含めたのである。西脇 しかねないが、ここに西脇の名が書かれ三郎への江藤なりの追悼であった。 のテキストを読み込んで、指導したわけ ている。西脇以外の名は、江藤が誧し西脇の名を記したもう一つの例が「三だ。 ていることを公言してきた詩人たちであ田文学」 ( 平 8 夏号 ) にある。佐藤朔追 三田の「マンモス」たち る。中野の詩「雨の降る品川駅」を講義悼の文章で、例によって受験の面接で名 で朗読した時には、「ある感動が胸に迫前を失念したことを回想した一文だが、 中上健次との対談で、「僕の大学時代 って一瞬読みつづけられなく」なったこ最後に西脇の名が出てくる。佐藤朔先生の先生だった西脇順三郎が」と話し出す ともある ( 『昭和の文人』 ) 。伊東の詩集が「イエール大学大学院から私の所に来のは、昭和の終わりである。西脇がある 『反響』は絶望に襲われていた少年の日ていた訪問研尢に会って下さり、西脇 。ハーティで見かけた作家の佐多稲子を料 の江藤を救済してくれた。ここには名が順一一一郎と日本のモダニズムの話をして下亭の女将と勘違いした話を扱露している。 挙がっていないが、中也や萩原朔太さったこともあった」。佐藤朔は西脇門「西脇さんという人は、モダニズムだか 郎や北厚日秋にもよく一一一口及してきた。そ下として出発し、フランス文学へと進んら、〔プロレタリア作家の〕佐多稲子も れらの詩人をさし措いて、西脇の名が突だ工旧だった。 中野重治も知らないんですよ。 ( 略 ) だ 然トップに躍り出ている。 ここで驚くのは、江藤が西脇を研究すけど勘はよかった。料亭の女将で、あん この原稿が書かれたのは昭和五十八年る米人学者を引き受けたという事実だ。 なきれいな人はいないと。あんな教養あ ( 一九八一一 l) 二月で、その前年六月に、 エドウイン・マクレラン教授が江藤のもりげの女将は、どこの料亭の人だ。こん August 2016 266

6. 新潮45 2016年8月号

でも、その人自身のくだらない亜思や、ったものを見つけたとしても、その人がニートであっても生活には困らなかった。 しかし私は働きたかった。 最低な自亠艤も尊いと言いたい。自分よその人自身のために、世界に軽薄になる 国〕者志望で、大学室業時に出版社の りも美しいもの、愛したいもの、そうい瞬間はあり続けてほしいと思う。 試験に落ちてしまった私は、私の腕をた めしてみたかった。 大学院に進学したのは仮の姿だった。 訪厄年にサイホーグに 者になりたいとずっと思っていた。 一九八七年、もうこれが最後だ、無理 かもしれない、と考えていた。 なってしまった私 つほうちゅうぞう 三十にもなって未経験者など、たとえ 1958 年東京都生まれ。早稲田大学大 学院修了。「東京人」編集部を経て執筆 小さな〕フロダクションでも ( むしろ 坪内祐三 活動を開始。著書「昭和の子供だ君たち 死 そういう所の方が即戦力を必要とする ) 評論家・エッセイストも」「酒中日記」「昭和にサヨウナラ」等。 やとってくれないだろう。 それがギリギリで間に合ったのだ。 強い亠嶸を持っている。 『新潮色一九八七年九月号 ニート生活を終え、私が『泉人』の当時の私は人の「死に方」や「生き 私 「死ぬための生き方」という『新潮』者になったのは一九八七年九月半ば。方」にまったく興味を持っていなかった つまり、最初のが組まれた時、私 ( 実はそれは今も同じ ) 。 の撲のことはよく憶えている。 しかし私はそのそのものには目をはまだニートで、一一度目の撲が組まれただ、三十歳を前に初めて就職出来たっ た時は「示人ーの者になったばかその時と同じだったから、こののこ 通していない。 グ りだった。 では何故憶えているのか。 とを憶えていたのだ ( これは余談だが当 私は一九五八年五月八日生まれだから、時の『東示人』第長だった粕谷一希さ 最初にそのが組まれたのは一九八 七年九月号。 当時、一一十九歳。一一十售取後の年だった。んの所に文春の者だったさんがよ 一一度目は同年十一、月万。 時代はバブルに向って行く頃だったし、く訪れフランス人を妻に持っさんは この日附けというか時制は私にとって私の父は大手出版社の社長であったから、『新潮菊』に偽外人として文章を書いた

7. 新潮45 2016年8月号

『聞いてないよ』って言われました」 「考えなかったんです」 スリのスリル だが、スリの動機はまるで見えてこな か細い声でそう言うと、堪えきれなく いのだ。 なったのか、ハンカチで涙を拭った。 さと婆は、昭和 7 年 7 月生まれ、本籍 どうして被害者の財布をスルこと最後に裁が問い質した。 は東示都江東区南砂 5 丁目である。終戦 にしたんですか ? どうして自分はこういうことを繰時は歳で、さを婆の住んでいた辺り一 「財布が見えてきたから」 り返してしまうのか考えたことはありま帯は、東京大空襲により焼失しているか つまり財布が見えたら、条件反射で盗すか ? ら、戦争孤児であった可能性も考えられ る。 ってしまうということだろうか。 「考えたけど、手が出ちゃう」 続いて検呂が問う。 スリやるときに、被害者のことを 絽歳頃からスナック従として働き 刑務所で服役しているときには、考えて歯止めにならないんですか ? 始めたさと婆は、四歳でスリを覚え、服 今後スリをしないために何か心がけてい「被害者に悪いと思います」 役を繰り返すようになったらしい。その たことはありますか ? ではどうしてやるんですか ? 後、結婚し 1 男 1 女を儲けるが、のちに 「はい。もう絶対、人のものに手をつけ「手が出ちゃったんです」 離婚。登記簿や地元建築会社の話を総合 ないよう考えていました」 こういうことしたら被害者にはすすると、昭和年に現在の土地に、仲介 スリをしないよう考えて服役してごく迷或をかけることになる。いけない翆を通してア。ハートの形にリフォ 1 ム いたということですね ? ことだと考えられないんですか ? させた建物を購人。平成 4 年には、現在 「はい。真面目に」 「考えてたんだけど、手が出ちゃった」 のア。ハートに建て直し、その際に銀行か それは何でなんですか ? ーーー家族からは、一人で外出しないよ ら借り人れた 2000 万を、獄中にいる うに言われていたんですか ? 間の平成年に〈完済している。 「はい。一人で家にいるときは、お祖母ついには押し黙ってしまった。どうやさと婆を昔から知るという、近所に住 ちゃん絶対出ないでねって、鍵を閉めらら自身でも説明がっかないようだ。悪いむ女性はこう語る。 れて家にいました」 と分かっていても手が出てしまう。さと「最初は別の姓だったんですよ。離婚し ーー今回、スリをするときにご家族の婆をスリ行為に駆り立てているものはいて神山に戻ったみたい。 ことは考えませんでしたか ? ったい何なのか 指輪やネックレスをいつばいつけてい August 2016 234

8. 新潮45 2016年8月号

私が還暦を過ぎても九十歳近い彼らとしれない ( 先日亡くなった鳩山邦夫のよ戻ることはあり得ない ) 。 好きな食べ物屋も次々と消え、例えば 一緒に遊べるだろうと私は考えていた。 うに ) 。 しかしどの人も、もういない。 となると、 " 人口の逆ピラミッド〃問私が八十歳まで生きたとして、その内何 軒残っているかわからない ( ゼロかもし 八十歳を過ぎても大正生まれは元気だ題も解消する。 ったと私は述べた。 れない ) 。 もう死んでいる 渋谷が準地元だったから、東支化会 だが、昭和一ヶタ生まれの人たちには、 さて、では私自身の死生観だ。 館 ( 私が生まれる少し前に出来た ) や東 八十の壁があるのだ。 その壁を前に、亡くなったり、倒れた先にも述べたように私はそのことに殆急プラザ ( 私が小学校に人学した時に出 りする。 ど関心がない。 来た ) は私の馴染だった。大好きな空間 ふたたび作家を例にとれば、その壁を廻りの人たちにはかけたかもしれだった。 越えてもお元気なのは小林信彦さん、筒ないが ( ゴメンナサイ ) 、私はとても楽その二つをこんなに早く失うとは思っ ていなかった ( 少なくとも私が死ぬまで 井康隆さん、山田稔さん、それから石原しい人生を送って来たと思う。 慎太郎さんら数えるほどだ ( そうそう五色々な人たちと出会えたし、私なりに存在すると考えていた ) 。 とは言ってもオプテイミストの私は、 木寛之もいた ) 。 力を込めた作品を何冊も残せた ( それら さらに。 の作品が一冊もなかったら六十歳近い私毎日楽しく生きている。 私 ちょうど二十一世紀に人ろうとする頃、 これは私の思い込みだけれど、昭和一一の音はまた別のものになっていたかも 一一〇〇〇年暮、私は新宿で事故に遭い、 ケタになると、その壁がもう少し手前、しれない ) 。 て 七十五歳ぐらいになっている気がする。 私はペシミスティックなオプテイミス死にかけた。 な トだ。。へシミスティックというのは、つ死にかけた、というのは大げさではな 久世光彦さん、宀女西水丸さん、赤瀬川 グ 、臨死体験をした。 原平さんといった人たちがその壁の前後まり、将来に対して。 事故に遭い、救自董・で運ばれ、緊急手 で亡くなっている。 アベノミクスの失敗や成功に関係なく、 年 術が行なわれた。 団塊の世代の高齢化によって局輊時代はますますひどくなって行く。 厄 会の到来が心配されているわけだが、実私の好きだった建物や空間や道がこわ家人によると、宀罍しておいて下さい、 は団塊の世代の壁は七十歳であるのかもされ、街歩きの楽しみが減った ( それがと言われたという。

9. 新潮45 2016年8月号

死ぬた き方 昭和 57 年 第三種郵便物 平成 28 年 8 月 18 日 ( 毎月 18 日一 ( 7 月 19 日ゞ 第 35 巻気 兄が生きた年月をも一つ超えた橋本大ニ イ死刑判決「執行猶予」の我が身、加藤廣 人の死はその人ののではない「高田明 欧を徘徊する「懐疑主義」という妖怪木村正人 ヒラ . ーが嫌われや四つの理由」春原剛 、地タ ) ナ・テロ事件「紙一重」の恐ろしさ 000 = 2016 0 0 、。核宣特別養子縁組で「母と子を救う石井光太 フ開 カ全 犯人よ ( 聞いでくれ清査 特集 横山ゆかりちゃん誘拐事件」加年 徳市立図聿館一般 160968323 をソ

10. 新潮45 2016年8月号

一犯人による湮祝犯行である可能性もう 供を翻し、刑務所の中で〔を主張して再鑑定が行われることになる。 かがわれる状況にあった〉とした。昭和 いた。もしも彼が犯人でなければ一連のその鑑定結果は不一致。 菅家氏は、犯人にはなりたくてもなれ六一一年の事件とは、「大沢朋子ちゃん事 事件の見方は変貌を遂げる。私の「ゆか 件」だ。つまり検察は四件の事件の机 りちゃん事件」の取材は湮祝事件へと波ない人だったのである。 性を認めざるを得なくなったのだ。 及し、結果「足利事件の冤罪取材」に転 冤罪捜査が招いたもの だが肝心の「ゆかりちゃん事件」だけ 舵せざるを得なくなった。 疋していた「足利事件ー裁判の膨大菅家さんが〔なら仮定どおり五件のには全く触れておらず、その後も同じ状 な記録を紐解き調査を続けた。最大の証事件は同一犯の手によるのではないの態が続いた。いったいなぜか ? 一一〇一一年三月の参議院予会で 拠とされた九〇年当時の科宀子警察研究明か ? 司法はこれをどう説明したか。 問われた国家公安百長中野寛成氏 ( 当 の z 型鑑定には大きな疑念があるこ足利事件再審の罪判決が出た一一〇一 とを確信し報じ続けた。結果、最新の鑑〇年、局検がまとめた捜査・公判活動時 ) がようやく答弁する。 定方法を用いて菅家氏とシャツの z の鬮点報告書では、足利市内の三件の「御指摘の三件、また合わせて申し上げ 事件についてれば五件と言っていいのかもしれません。 市 〈同一犯人によいずれも幼女を対象とする誘枚人・死 る可能性もある体事件でありますこと、行方不明に 事案であった〉なった場所及び亠場所が足利市内 田④ としたうえで、 の近接した場所であるということ等から、 場 〈かっ昭和年一般的には同一犯人による犯行の可能性 見発見見 市 れ 発体発発拐にも足利市にほが否定できない」 て 。県体遺体体誘 玉遺ん遺遺ん ど近い群馬県の警察組織の頂点が「ゆかりちゃん事 聞 ち美ちちり現太田市内でも件」を含めた五件の事件が同一犯である よ 桐太 人 有子実か 犯 部朋真ゅ同様の事件が発可能性にようやく言及したのだ。 島谷田山 馬市。崎 福長松横生するなど、同いったいなぜここまで「ゆかりちゃん ①② 3 0 3 尾 島 3 轗高 事件を含めて同事件」を検察と警察は切り分けようとし 織姫山 △ 0 2km 太田市 、 . 、大泉町 1 栃木県 。佐野市 茨城県