4 億と試算された恒久施設費を計画ればそれで良かったということのようだ。 残らない。 せつかく世界都市・束示のトップらししたのは、石原ー猪瀬・、・舛添と継承され舛添さんは石原知事を首似て放埒を続 く、ファーストクラスで旅何しスイートてきた似た者知事と彼らを支えてきた自け、少しだけ石原知事が破壊したを ルームに泊り、湯河原の別荘への週汞通民公明政府であった。過大な計画を立て拾った。そして石原ー猪瀬知事がこだわ いもしてきたのだから、辞任表明の記者た側が、そに行き詰って内部った束示オリンピックを、自らの神殿、 会見 ( 年 9 月 1 日 ) で、鋭くするで破裂しただけである。大悪のなかでの祭典にしようと励んだ。舛添さんの心境 小さな修整、こんなことのために知事をに立てば、指摘された疑惑はそれだけの 記者に「私は自分自身を客観的に見るこ 些末なことなのに、「日本の恥」とまで とはできるんです。あなたとは違う」と選んだのか。 答えて退席した福田康夫さんのように自同じことは、石原慎太郎知事が、無意何故言われるのか、分らないだろう。石 滅すれば、東京都民の期待をまっとうし味に創った「新銀行東京」と地銀グルー原慎太郎に許されて、自分には許されな たことになったのに、彼は小才に溺れた。プとの経営統合についても言える。ずさいことがある。それはおかしいと思って 8 いるのであろう。 2014 年 2 月より 2 年 4 カ月、舛添ん融資で経営が行き詰まり、東京都は 0 知事はどんな仕事をしたのか。 6 月日年に 400 億円を追加出資していた。す 何のための知事か の都議会で辞職表明した彼は、自らの功でに隠しきれなくなっていた。だが新銀 績として、首都直下地震への備えを書い行示 ( 石原銀行ともいわれた ) の禾ここで束都知事の役割、仕事につい朝 11 の た防災ブック「束示防災」を挙げた。レから破綻までの調査、責任追及は束示都て再考してみよう。東都知事は、 事 ジ袋を使った簡易おむつなど避難生活でによっても、都議会によっても、ほとん 00 万人を超える束都に住む絽歳以上 の工夫を載せ、都内全世帯に萪配布しど行われていない。石原知事が解体したの男女有権者に直挙きれる人である。 た。ところで、どこかの一者、コンサ東示都立大学、新たに再粡した首都大学その候補者としての人選、および集票運る 動は既成政党に大きく依存しており、加考 ルタントに頼んでもよい仕事のために、東示については、何が破壊されたのか、 で 大政治家を知事に選出したのだろうか。何か創造されたものがあるのか、検証さえて選挙時にたまたま人気のある位置に 2020 年の束示五輪・。ハラリンピッれていない。四度も選出した石原慎太郎いただけの人が、勝っための有力候補と舛 クの会場計画見直し。これはそれなりのさまによって、示を掻き混ぜてもらっして人選される。つまり知事候補、東示 ただけであり、その時どきの話題性があ都民、既成政党、時の人気の 4 構成から 仕事として評価される。だが局 458
が話題にして全世界に流し、都庁役人はスラム国 ) や政県、反政府軍に少なく横切りインド亜大陸を突っ走り、無事わ 一躍グロ ーバルな英雄になるだろう。 とも三度は殺されているだろう。一九六れわれを待っ貨招に間に合った。あげ ええ加減を言っているのではない。私四年には、シリアの修羅場を通る前に、 く神戸に着いた一一一台を鹿児島に回送、聖 は実際にその手法でホテルを見つけたこギリシャとトルコの一触即発の国境を越火リレーのコースを辿って、開会式数日哩 とがある。 えるという危険な業があった。 前に束示・国立競技場の聖火台の前に安 いまを去る五十数年、示にオリンピ ギリシャとトルコは、キプロス贈で着した。 ックがあり、私は三十四歳だった。今日睨み合っている。 私はしたいのではない。全世界何 では死語になったが、「昭和ヒトケタ」。 国境は、どうにか越えた。だがイスタ十万人ものバック。ハッカーが、これと同 大阪社会部でサッ回りをしているとこンプール到着が「主疋より大幅に遅れた。 じ方法で地球を歩いているのである。体 ろへデスクから命令が下った。 ホテルの予約はしていないし、クルマの面があるから、リオで舛添さんと同じク ギリシャのオリンピアへ赴き、そこか旅では予約できるわけがない。 ラスのホテルに泊まりたい ? 冗談はよ ら国産車一一一台を駆って束泉の国立競技場さいわい広場で深夜の歌謡ショーをやしてくれ。税金で行くのだ。 へ開会式までにユ 1 ラシア大陸を走ってっている。大勢の客がいる。そこへ、私 英語にしにくい言葉 こいという。 たちは一一一台の日本国産車を停めた。寄っ 「ギリシャからインドのカルカッタまで、て来る人々に向かって、私は叫んだ。 それまで「月砕身」していた舛添さ 聖火の中継点を全部縫ってこい。ダイハ 「示でオリンピックがある。われわれんが、花束の一つもなく、束泉都け ツがクルマの ~ 家を四人出すが、隊長は、ここから東示まで帰る。誰かこの近たった八人の曇りを受けて一一年四カ月 ( 実際は渉外係 ) はお前だ」という命令所にホテルを知ってませんか」 の職場を出たと聞いて、私はただ黙って であった。 英語で奴隲った。すると三度目くらいいた。栄枯盛表は世の常である。 アテネの外港。ヒレウスへ車を送り、オに反応があった。 舛添氏が買い集めた「美術品」は、ほ リンピアで村長とのインタビューをし、 「ホテルは知らんが、ついその先にスタとんどが裸婦画だというネット上の噂だ 走りながら計算すると、インドのカルカジオがある。泊めてくれるはずだよ」 が、本当だろうか。元のヤメ検弁 ッタには五十日後に着かねばならない。 この一声で、私たちのホテル贈は解護士が、木更津の龍宮城ス。ハ・ホテル三 いまなら通過するシリアで、 ( イ決した。以後五十日、イラク、イランを日月の客を「関係者です」と逃げたのを
00 万円を超える。飛行機はファーストになり、傲慢を極め、出勤は週 3 日、海区にある自宅に立ち寄って湯河原に到着 クラスで 266 万円 ( 舛添一人分、往外旄付の経費は 4 億 6652 万円に上っしている。走行距離は往復 200 キロを 復 ) 、ホテルはスイートルームで一泊 た。次第に批難がうるさくなり、十分に超え、約 6 時間かかる。東から湯河原 万 8000 円 ( 知事一人分 ) 。随行者も王様になりきったと思い込んでいた彼は、への海岸部は関東大震災で寸断された危 多い。東示都条例では知事の宿泊費の上ノンフィクション作家・猪瀬直樹副知事険地帯であり、次の東海大震災でも交通 限は 4 万 200 円となっているので、何に若い日の小石原を見出して、移譲の王不能になる恐れが高い。大震災が襲った のための条例なのか、分らない。 とき、自治体のトップが決断しなければ 命を下し、衆議院選挙に移っていった。 ファーストクラス、〕ホテルのスこの場合は、かって小説家から議員になならない項目は多い。束泉都直下地震が ィートルーム、ともに舛添さん本人がこっていったときと違って、奥の院への鎮襲った場合、湯河原からどうやって都庁 だわったためといわれている。彼にして座のつもりであったのであろう。さぞ枢へもどるのか。これほどまで愛着する温 みれば、世界の示のトップがファース密院か、貴族院があればよいと思ったで泉つき約 300 坪の別荘は、「舛添政治 トクラス、スイートルームを予約しなくあろう。 経済研究所」の所有となっている。 てどうする、軽重のバランスを欠くとい 舛添さんは湯河原通いについて、「危 ああ言えば一っ言う う思いであったであろう。だがファース 機管理上万全の体制を講じており、鬮 トクラスに乗り、スイートルームに泊っ これだけの濫費が続いていながら、東はない」と答えている。万全の体制は不朝 たからといって、彼が大人物になれるわ京都のいかなる部局、労働組合も点検機可能だろうが、都の運転手使用を一例との けではない。 カ作られて知 能をはたさなかった。 4 月末、『週刊文して相当の無理を強いる能勢 : すでに一一代前の石原慎太郎知事のとき春』 ( 5 月 5 日・肥日号 ) が、舛添都知いたかもしれない。彼は地理的に区切ら から、観光視察と称して巨額を濫費する事の公用車による週汞湯河原別荘通いをれた示都を領土とする王の亠艤だけでる 海外王様旅行は鬮にされてきた。 19 、丁る。この一年間で計回、一年をなく、束示首都圏を統治する王の高攀一 99 年 4 月から 2012 年川月末まで 4 週としてほぼ毎週末 ( 行かなかったの重複させていたのであろう。伊 ~ 文、 期知事選を勝ち抜いた石原さんは、相手は正月と 3 月絽日のみ ) 、隣県の湯河原昭和天皇、吉田茂等、近代の権力者の何 をみて、状況を読んで、攻撃的になり虚を往復している。ほぼ決ったように金曜人かが神奈川県の海岸部に別荘をかまえ 勢を張る性格を臆面もなく轡王するよう日の午後 2 時半すぎ都庁を出発、世田谷てきた。まして高速道蕗、情報化で首都
年上の人は常に乗り越えられない存在でらない。なので、皆さんも「よくぞここどこの世界に飼い主に噛みつくボチがい あると同時に尊敬し、自分も穏やかな死まで生きたものだ」と、アトランタ五輪るだろう。とにかく舛添事件は、首都に を迎えたい。いや、その前にさっさと隠女子マラソンで銅メダルを獲得した時の波乱を残して終わった。目が悪く、テレ 居したい。にしてこんなことを考える有森裕子のごとく「自分で自分をホメたビを見ることの出来ない私もひと息つい い」と自信を持っていただければ幸いでた。と思っていたら某週刊誌から ~ 男請が ほど、人生は黄付の湮祝である。だが、 あった。舛添氏の代りに啝示都から誰か 我々はカネを稼ぎ、生き続けなくてはなす。 がリオデジャネイロの閉会式へ、五輪旗 を受け取りに行かねばならない。リオの ホテルはどこも満員で、予約を取ろうと 訪老人は 思えば六千万円掛かる。舛添氏の予約は すでにキャンセルされている。どうした らよかろう、というのである。 気兼ね」ばかり 私は答えた。 た 193 。年大阪生まれ。京都大学文学部 英文科卒。毎日新聞社に入社。社会部記 ぬ 「受け取りに行く人に伝えて下さい。ナ 徳岡孝夫 者、バンコク特派員、サンデー毎日記者、 死 ッブザックにパスポートとシュラーフを ジャーナリスト学芸部編集委員などをつとめ年に退社。 入れ、安いリオ行きの便に乗るようにと。 例の舛添要一・前束示事の公私混訴された暴力団の親分を「傷害致死にしホテルの空いた部屋が完全ゼロなんて都 同、。ハリその他への大尽旅行を調査したてやった」とニンマリ笑って話すのが、会、この地球上に存在しませんよ」 か 弁護士先生が記者会見して「結論を申し士先生のお仕事の一部分ではないん私はそう答え、週刊誌の記者は得し た。もし本当に空き部屋ゼロならコバカ兼 ますと違法性は認められませんでした」だろうか。 気 バーナでもイ。ハネマでもいい、冬の浜辺 そのうえ弁護士の先生方は、に定 と語ったのを書斎のラジオ・ニュースに は められた基本的人権をお守りになると同にシュラーフを広げて寝ればいいのであ人 聞いて私は成程なあと思った。 そりやそうだろう。弁護士方には前も時に、舛添氏を依頼人とする法律のる。東示の都民税を節約するため、ここ って謝った上で申し上げるが、殺人で起家である。この比喩をお許し願いたいが、に寝ておりますと言えば、ロイター通信 とくおかたかお 国
鈴木俊一知事への批判、政府のひとつの取り組んできた。知事が石原さんにもか労働力人口は 768 万人、労働力人口 省、東京省のごとき政策への批判によっかわらず、都行政はゆっくりと動いてい比率は・ 4 % 、就半は・ 1 % ( 全 て選ばれていた。彼は鈴木知事が企画した。海外不に濫費し、都庁への出勤は国では労働力人口比率浦・ 6 % 、就業翆・ 療・ 6 % ) だ ( 2015 年、『東京の労 た世界都市博覧会を中止させたものの、さぼり、三宅島オートバイレース大会と 臨海副都心開発に引きずられ、部とか、公営ギャンプル再開とか、珍奇な提働力』、束泉都による ) 。 しかも歳から歳までの働き盛りの 都議会保守派に抵抗できずに 1 期で辞め案をし、束泉都立大解体、新銀行東京の た。タレント知事が東京劇場のドラマに業などによって、後々まで東泉都民は人々が多数を占める ( % 、別歳、男肥万人、 躍り出ることもなく、幕の裏に消えていッケを払うことになる。小奛諸島を買い女芻万人。肪、囀歳、男 110 万人、女四 4 5 歳男 9 万人、女肥万人 ) 。 とろうとし、政府・民主党を翻弄した挑万人 ったのであった。 石原さんは第 1 期に鳩山邦夫、舛添要発は日中関係の緊張を煽り、都民だけで産業別就業者数の構成比を比べると、 一、第 2 期に樋口專十、第 3 期に浅野史なく日本国民全体が被害を受けて今に到情報通信業 ( 束示 9 ・ 1 % 、全国 3 ・ 3 郎、第 4 期に東国原英夫を対立候補としっている。都市外交なるものが、国の外 % で約 3 倍 ) 、学術研究・専門・技術サ ービス業 ( 東京 5 ・ 7 % 、全国 3 ・ 4 て競った。いずれも話題性、タレント性交をふりまわした。太陽族のまま生枯れ において、石原さんと比べようがなかって老いた。だが、すべては石原慎太郎な % ) 、金融・保険業 ( 東京 3 ・ 5 % 、全 た。石原さんは作家としても、政治家とるが故におもしろいとされてきた。それ国 2 ・ 4 % ) 。正規職員の割合は男行 % 、 女絽 % 、平均で % 。学歴は高く、恵まの しても一一流であり、見識ある人とは言いは何故か。 知 束示都民が都政に期待するものが変っれた人びとであろう。 がたいが、向うウケを計算してマスコミ 都 一世帯あたり年平均一カ月の消費支出棘 を騒がせ、叩きやすい相手を見つけてのたからではないか。 ( 2015 年 ) は万 6795 円。全国る のしり、自らを強者・勝者に見せかける束泉都民は世界有数の経済力のある、 ことへの執念はすさまじい。東国原さん働き盛りの人びとである。中央集権国の万 8326 円の 1 ・倍となる。全考 題 もタレントだったが、石原さんの忿怒の家・日本のメガロポリス、もともと巨大国平均には束示都民の高消費が含まれる 都市である上、 1980 年代より金融、ので、東示を除外して比較すると差はも舛 心性を持ち合せていなかった。 石原知事の年間、泉都職員はよく情報が・し、薮の若者を引きよせてっと大きくなる。 計部は勤労者世帯の消費支出の川 頑張り、福祉や教育、交通にそれなりにきた。
まだひなびた湯治場の雰囲気を残していと分かる。寅が、昔、世話になったそのう莪夢中でその飯をかきこんでいるう る。バス停の前の小島旅館は撮影時にス女学生の母親に、毎年、正月に御礼の手ちに、涙がポロポロポロポロ、涙が出て タッフが泊った旅館。ほぼ当時のまま。紙とお金 ( といってもわずか五百円 ) を仕方がなかったよ。その時、俺にはお雪 玄関をあがったところの廊下には、渥美送り続けていたので、女学生は寅が父親さんが観音さんに見えたよ」 清のや倍賞工思子の写真が飾ってあと思い込んでしまっていた。 「風来坊の孤独」がよくあらわれている。 っ ( 。 ここで寅は、お雪さんという女性とはテキャ繁の旅は、野垂れ死にと紙一重 おかみさんはいう。「いまでも時々、何もなかったとこういう。「俺は、お雪にある。このお雪さんは寅の話で語られ あなたたちみたいな『男はつらいよ』のさんには指一本、触れていねえ」。いつるだけで、映画のなかに登場するわけで ファンが訪ねてきますよ。ほんとに暇なものことながら寅は、かたぎの女性にははないのだが、「男はつらいよ」の忘れ られないヒロインになっている。 人たちよね」。マナスル登頂で知られるストイック。 登山家、槇有恒の色紙もあるが、「こっ そして寅は、十六、七年前の冬のこと修学何で寒河江から示に出て来た ちは誰も見ないの。寅さんばっかり」。をとらやの一同に語り始める。 順子という女学生から、母親は去年亡く さがえ 山形県の寒河江という町でのこと。雪なったと聞いた寅は、すぐに墓参りに寒 また苦笑六」れた。 の降る晩、寅は無一文で歩いていた。 河江へ出かけてゆく。 風来坊の孤独 「何をやってもうまくゆかない時でな。 寅だけではない。この映画を見たら誰 「風来坊の孤独」が寅の口から語られる腹は空いているし、手足は凍えてくるし、でも寒河江に行きたくなる。「奮闘篇」 一篇がある。第十六作「葛飾立志篇」矢も楯もたまらなくなって則の食堂にの花十の家があった驫木の集落を訪ねた 飛び込んだんだ。そこがお雪さんの店よ。あと、秋田、山形を経由して寒河江に行 ( 年、樫山文枝主演 ) 。 ある日、とらやに、修学旅行で示に俺は手に持っていたカバンと腕駐Ⅲを差った。 あてらざわ 来た女学生 ( 桜田淳↓が立寄る。まだし出して、これで何か食わせてくれって山形駅から左沢線というのローカ 会ったことのない寅を父親と思いこんでいったんだ。お雪さんは『いいんですよ、ル線が出ている。山形から奥羽本線に沿 いて、とらやの一同は、寅に子供がいた困っている時はお互いですからね』、どうように北西に走る。終点の左沢まで約 とびつくりする。 んぶりに山盛りの飯と盪刄の立った豚汁一一十六キロの盲腸線。〈開業は大正十 そこに寅が旅から帰ってきて、誤解だとおしんこを置いてくれたつけ。俺はも一年。東示でいえば郊外暈になる。 August 2016 280
たいがための作り話。実際には父子は平を稼いでいた。大軍は船団を組み、鬲の老一官はなぜ、明に誠をひたすら尽く 戸をじきに離れ、台湾や福建で商売を続から逝江と海路を北上した。だが、途中す一徹なインテリなのだろうか。白一帝に けた。この時代の海外貿易だから商船はで嵐に見舞われた。大損害を出した。に諫一一一口し、容れられずとも忠を尽くし続け 武装している。略奪したりされたりが日もかかわらず軍団を再粡し、盛り返した。るのだろうか。作劇上の必要からだろう 常茶飯事。いわゆる海賊船とイメージと一六五九年、激戦を勝ち抜き、南泉に迫か。そうかもしれない。けれど、之龍 った。明がついに盛り返すか。全東アジとは別の実在の人物の影がどうもちらっ してそう区別のつくものではない。 一六四〇年代、明が衰え、北京が墮洛アが注目した。 し、清が明に取って代わると、芝龍と成近松が『国性ロ戦』の幕切れにした製功の南示攻略軍に加わった一徹者 のはこのくだりである。国性爺は合戦ののインテリが居た。高名な老儒工旧であ 功は共に明朝冉興を目指す側についた。 まず仕えたのは、明の皇帝の一族で、末、南示を回復する。明の復活が都で宣る。製功とも深い信頼関係があり、攻 代々が唐王を名乗る家からたてられた隆言されて結ぶ。しかし、それは事実と大略軍でもどうやら枢要の地位を占め、勇 武帝。福建の福州を仮の都とした。製いに異なる。もしもそうなら歴史が覆る。戦虚しく敗れたあとも、製功とともに 功に明の国姓、朱を与えたのは、この隆実際は南示を目前にして、製功の大軍生き残り、なお「復明」の夢を捨てず、 武帝である。だが一六四六年、清に敗れは清軍の奇襲に虚をつかれた。あと一歩再起を図るべく負け戦の年のうちに日本 て捕えられ、自ら命を絶った。このときでまさかの逆転負け。このとき「抗清復に逃れてきた。市泉の戦のときはもう還 明」の夢はついに終わりを告げたと言え暦。芝居の老一官と妙に重なる。彼はそ 之龍も諦めた。清に降伏し帰順した。 だが息子の製功は清に逆らい続けた。るだろう。中華民族は北方異民族に敗れのあと四半世紀を日本で過ごした。近松 の芝居では老一官は三〇年も滞日する。 明朝第一四代皇帝、万暦帝の孫にあたる去った。功はついに台湾に逃れた。 永暦帝に仕えた。広東あたりを根拠にしもちろん父親の之龍も近松の芝居の老時の長さも似ている。近松の老一官は、図 た。大陸の南も南。広い中国とはいえ、 一官とはえらい違いだ。一六四六年に裏実際の之龍よりも、この儒工旧を呱 の もうその先はあまりない。イチか・ハチか。切ったままで、息子とは反目し続けていしているのではあるまいか。そんなこと 学 を考えたくもなる。その人の名は朱舜水。 功が仕掛けた一六五八年の大反撃はた。 まさに最後の賭けだった。一〇万の大軍実説はそうなのに、しかも本物の之徳川光圀の師である。 を編成した。製功は海上貿易で軍資金龍は豪胆な海商なのに、『国性爺合戦』
でも、その人自身のくだらない亜思や、ったものを見つけたとしても、その人がニートであっても生活には困らなかった。 しかし私は働きたかった。 最低な自亠艤も尊いと言いたい。自分よその人自身のために、世界に軽薄になる 国〕者志望で、大学室業時に出版社の りも美しいもの、愛したいもの、そうい瞬間はあり続けてほしいと思う。 試験に落ちてしまった私は、私の腕をた めしてみたかった。 大学院に進学したのは仮の姿だった。 訪厄年にサイホーグに 者になりたいとずっと思っていた。 一九八七年、もうこれが最後だ、無理 かもしれない、と考えていた。 なってしまった私 つほうちゅうぞう 三十にもなって未経験者など、たとえ 1958 年東京都生まれ。早稲田大学大 学院修了。「東京人」編集部を経て執筆 小さな〕フロダクションでも ( むしろ 坪内祐三 活動を開始。著書「昭和の子供だ君たち 死 そういう所の方が即戦力を必要とする ) 評論家・エッセイストも」「酒中日記」「昭和にサヨウナラ」等。 やとってくれないだろう。 それがギリギリで間に合ったのだ。 強い亠嶸を持っている。 『新潮色一九八七年九月号 ニート生活を終え、私が『泉人』の当時の私は人の「死に方」や「生き 私 「死ぬための生き方」という『新潮』者になったのは一九八七年九月半ば。方」にまったく興味を持っていなかった つまり、最初のが組まれた時、私 ( 実はそれは今も同じ ) 。 の撲のことはよく憶えている。 しかし私はそのそのものには目をはまだニートで、一一度目の撲が組まれただ、三十歳を前に初めて就職出来たっ た時は「示人ーの者になったばかその時と同じだったから、こののこ 通していない。 グ りだった。 では何故憶えているのか。 とを憶えていたのだ ( これは余談だが当 私は一九五八年五月八日生まれだから、時の『東示人』第長だった粕谷一希さ 最初にそのが組まれたのは一九八 七年九月号。 当時、一一十九歳。一一十售取後の年だった。んの所に文春の者だったさんがよ 一一度目は同年十一、月万。 時代はバブルに向って行く頃だったし、く訪れフランス人を妻に持っさんは この日附けというか時制は私にとって私の父は大手出版社の社長であったから、『新潮菊』に偽外人として文章を書いた
五十日でした。 突っ込まれ「関係者は : : : 関係者です」ズをとらなかった。 舛添氏が。ハリその他で誰と会って何を と苦しまぎれに逃げたとき、十八年昔の次期オリンピック主催地のガバナー 司法記者、十八年前の都庁担当記者なら ( 知事 ) だと言えば、。ハリやジュネープしたか、私は知らずに書いている。だが 「ふざけんな。どういう種類の関係者かの社交界は狂喜して迎えるだろう。そし推察するに彼はフランス語の世界に没頭 と聞いとるんだ」と一喝したことだろて英仏語が。ヘラベラと判れば、なおさらしすぎ、束示都という田んぼを見回り、 だろう。社交にともなう準備があるので田夫野人と日照りについて談笑するのを 。ハリに行った。五輪会の交際は夫婦少し怠ったのではあるまいか。 私と舛添氏の間には十八のトシの差が ある。昔の都け担当記者は社会部の花形、が単位だから、夫人を連れていった。そ彼は礬後っ子である。空腹は憶えてい るかもしれないが、天から降って来る焼 下手な切られ与三みたいな逃げセリフでれが噂になって束示で話題にされると、 「うーん、そこまで女房を連れていった夷弾の雨音、情け ( 發なく引っぱたいた ャメ検を逃がしはしなかっただろう。 しかし私もトシを取ったのだから、せのか。知事の要職をマイ・ホーム主義で配を知らない。欲望は解放され、 めて老人のあの通弊、若者を罵ることだやられちゃ堪らんな」「公私混同だ。ケ自治体の長には恐れる者は一人もいない。 気兼ねすべき場所は一つもない。 けはしないでおこう。気兼ねしながら花シカラン」と、風向きが変ってしまう。 鳥風月を友とすることほど、年寄りに相庄屋には庄屋の付き合いがあるのを、百大阪・船場の我が母校 ( 鉄筋三階 の正門には、「長靴・下駄の方は御遠慮 応しい生き方はない。生き方 ? むしろ姓は理解しないのである。 そこらの庶民には、五輪らがレマ下さい」と書いた水の筒と靴プラシが置 逝き方というべきか。 ン湖のほとりで談笑している風景は、さいてあった。近くの住友銀行本店、横浜 気兼ね。英語にしにくい一言葉である。 これは自分の権利である、自分が貰ってぞ異様に映ることだろう。だが野球を五正金銀行支店も同様だった。幼い私は か 当然の取り分なのに手を出さない。黙っ肌技に人れたり出したりする芸当も、「ははあ、遠慮した気分で人りなさいとば ね て辛抱する。今の中国に持っていけば実を言えばロ火は白鳥に。ハン屑をやりないう凜だな」と解釈した。 兼 気 いまや時代は変わった。時代に浮きっ 誰も買わない美徳、それが気兼ねであがら ( 東洋の山猿の陳情などは届かない は る。 ところで ) 切られた。私はギリシャから沈みつしながら生きてきた我が処術も、人 舛添氏は、気兼ねしなかった。少なくインドまで行く先々の五に会って、変更をなくされた。 その一端を見ながら、ユーラシア大陸を生活の新規申盟旧のうち、高齢者 とも気兼ねしていると民に思わせるポー
り食材や器に凝る渋谷の小料理屋のガンもっとも多かった世代だ。つまり一一↓た。 コ親爺のゴーストをしていたから私は前後で戦争を迎え、一一十五歳前後で敗戦彼らだけでなく、大西巨人や鶴見俊輔、 となる。 『新潮菊』の愛読者となった ) 。 加藤周一、吉本隆明といった大正生まれ だがこの世代は、戦争を生きのびたあの人は長生きした。 「高齢化社会」という問題 と、まるで " 第一一の青春〃をむかえたか つまり、「高齢化社会」から「超高齢 その頃、「高齢化社会」が問題になつのように若々しく活躍する。 社会」へ、である。 ていた。 そのエネルギーは還暦を過ぎても衰え それに合わせて、今回、このような特 六十五歳以上の人口比率が七。ハーセンなかった。 集が組まれたのだろう。 トを超える「高齢霧会」に日本が人っ作家を例にとれば、阿川弘之や安岡章だが、私は、待てよ、と言いたい。 ていったのは一九七〇年で、有吉佐和子太郎、庄野潤三という大正九年十年作家、たしかに大正生まれは「超高齢社会」 の『の人』は一九七一一年のベストセもう少し年上の小島信夫といった〃第一二を生きた ( 生きている ) 。 ラーになったが、それがいよいよ鬮化の新人〃の作家たちは六十歳過ぎてますしかし、それに続く世代はそれ以上に したのが一九八〇年代半ばだった。 ます健筆を揮った。同じ " 第一一一の新人〃高齢化を生きるのだろうか。 六十五歳以上の人口比率を「高齢程の作家でも吉行 / 」介や導滕周作ら、若私はそう思わない。 会」の指標とするのは不思議な感じがすき日に肺病を患った人は還暦過ぎてから『東示人』時代に私が親しくしていただ る。 の衰えが目立った ( 安岡章太郎も若き日いた常盤新平さん、山口昌男さん ) それ 一九八〇年代半ば、と書いたが、例えに病を患らったがそれは脊椎カリエスでから憧れを持って接した野坂昭如さんは ば一九八五年は一九一一〇 ( 大正九 ) 年生肺病とは違う ) 。 皆、昭和一ヶタ世代だ。 まれの私の父がまさに六十五歳になった還暦どころか私の父は七十代に人って常盤さんと山口さんが昭和六 ( 一九三 年だ。 も、いや八十代になっても元気だった。 一 ) 年、野坂さんが昭和五 ( 一九三〇 ) しかし父に老人感はまったくなかった。 さすがに九十歳が近づく頃に衰えは年生まれだ。 父が例外であったわけではない。 じめ九十一歳で亡くなったが、先に名つまり私が『示人』 2 者だった 大正九年とそれに続く大正十 ( 一九一一前を出した阿川弘之や安岡章太郎や庄当時の彼らの年齢は、ちょうど今の私と 一 ) 年生まれは太平洋戦争での戦死者が野潤三や小島信夫も同じくらい長生きし同じくらいなのだ。 A 2016 48