川浜市鶴見区に引っ越し、長男は川り仕切っている会社ですから、重要書類ほうから船会社でロシア語ができる人間 崎にあった東芝のトランジスタ工場に勤が山ほどあるわけです。それを随時コピを求めているという話があった。これは めることになった。 ーして渡すだけでなく、公にできない活すぐに就職させられると、兄は東洋共同 そこで一家はそれぞれ大きな転機を迎動もしていました。弟も別の会社に就職海運に、弟は別の運輸会社の横浜支店に えることになるのだ。 させるということでした」 就職させました」 堂上氏は、昭和三七年に鬚学校に人 ソ連に留学し語学が堪能ということで、 公安警察と吉田家 兄弟とも公安警察からリクルートされた学し、翌年から神奈川県警の戸 . 部署、横 まず長男について。 というのである。昭和五一年のことだ。浜水上署、本部外事課、鶴見署などに勤 さらりと驚くべき話が攜された。そ にわかには信じがたい話だが、当時、務し、公安擎鬚の最前線で諜報活動を行 ってきた人物である。途中、ロシア語の の話を聞いた時、何度も聞き返さずには彼を勧誘した神奈川県警の刑事にもイン いられなかった。 タビューすることができた。仮に堂上明教育も受けている。 「公安警察の方から、日ソ合弁の船会社氏とするが、七八歳の彼の記憶は鮮明だ彼は吉田家と非常に親密な関係を築き、 で働かないかという話があったんです。った。 一家ぐるみの付を答いに発展する。清治 そこでロシア語ができる人を探している「東芝の。ハーツ工場にソ連の大学を卒業氏の妻フサ工さんは昭和五四年に死去す ので、人社して彼らを監視してほしい。 した人物がいるという情報が人ってきて、るが、その葬儀を取り仕切り、翌年の次 横浜港に人るソ連船の船舶業務を全部取会いに行きました。当時、水上警寂旧の男の結婚式にも親族として出席している。 築和 朝本人へ伝えたいごど ( , で平 季登輝 物トニ、 旧で戸 も李登輝 定価】本体 1100 円 ( 税別 ) 日本人へ ーダー不在、 哲人政治家・元台湾総統が叱咤激励 ! ゼロ ( 米一国支配終焉 ) 時代のニッポンの進むべき道。 毎日新聞出版 〒 102-0074 東京都千代田区九段南 1 ・ 6 ・ 17 httø://mainichibooks ℃ om/ 65 慰安婦問題を作った男の肖像
苦難の中で家族を想い望郷の念も空日本からの出国と帰国のスタンプはある然ながら日本の右翼を激怒させた。長男 のですが、韓国への人国、出国のスタンが言う。 しく貴い命を奪われました 私は徴用と強制連行を実行指揮した日プが押されていない。なぜかと聞いたら、「訪韓後しばらくして、父は笹川良一氏 本人の一人として人道に反したその行為韓国の港につくやいなや韓国政府の人に呼び出され、顔面蒼白になって帰宅し と綿を潔く反省して謹んであなたがやってきて特別室に案内され、そのまたことがありました。尋常でない様子に 声を掛けると " 韓国に連行の碑を建 まソウルの街に出たんだそうです」 に謝罪いたします てて謝罪して回っているそうだが、今後 さらにこうもる。 老齢の私は死後もあなたの霊の前に 拝跪してあなたの許しを請い續けます「いずれはご長男も韓国に来てもらってこういうことをしたら命はないものと思 韓国を好きになってもらわなきや困りまえと脅された〃と語ったのです」 合掌 すと偉い人から言われたそうです。立派 1983 生・肥月日 寂しき晩年 なことをやっているんだと、そう私に自 元霧報國會徴用隊長吉田清治〉 時期的に考えて、吉田清治氏がそれに それは例えば「たった一人の引 ( 写慢したのを覚えています」 一方、謝罪の旅をテレビで見ていた、屈したようには思えない。「尉女婦狩り」 真付 ) 」 ( 朝日新聞一一一月一一四日、取消記 事 ) のように、新聞テレビなど各メディ先の神奈川県警刑事・堂上氏はこんな感の語り部としての活動は、平成三、四年 年くらいまで続く。朝日新聞の取消記事 慨を抱いた。 アで大々的に取り上げられた。 「正直なところ、可哀そうだなと思いまは、平成一一一年と四年で六本もある。 だがこれについても、長男は、 「石碑を建てたり、韓国に行ったりするした。本当のおやじさんの顔じゃなかつ「女たちの太平洋戦争従軍慰安婦木像 お金は、うちにはありませんでした。あた。痩せちゃっているし、怯えている姿剣ふるい無理やり動員」 ( 平成三年五月の れはいろいろな人からの支援だと思いまそのものでしたよ。自得だな、しょ二二日 ) 作 うがないなとは思いましたが、最後には「女たちの太平洋戦争従軍尉女婦乳 題 と言う。そしてこんな話を打ち明ける可哀そうになってきた。このあと飲み子から母引き裂いた」 ( 平成三年一 婦 安 のだ。 << に殺されなきゃいいな、とも思いまし〇月一〇日 ) 慰 「窓論説委員室から従軍慰安婦」 た」 「韓国から戻ってきた後、父の。ハスポー 一方、訪韓謝罪。ハフォーマンスは、当 ( 平成四年一月二三日 ) トを見てびつくりした記憶があります。
然、鶴見署へ私を訪ねてきた。昭和五五社を訪れ、退職させてきました。でもこ親としての責任は感じていないのか、い 年の梅雨時のことです。玄関で土下座しのままうちに帰れば、息子たちに殺されったいあなたにそう言うのはどんな組織 て私を呼んでいると連絡があったので行てしまいかねない。どうか息子たちとのの人なんですかと聞いたら、ロごもって ってみると、清治氏がいて奇妙な話をし間に人って、彼らを納得させてほしい 〃ましたが、やがて鷺の人ですと言いま 始めた」 した。古と言っても一一つあるから、ど 堂上氏は語る。 それはこんな内容だったという。 「私としては、苦労して一一人を会社に人ちらですか、と重ねて問うと、韓国です、 " 息子がお世話になっています。実はあれているわけだから、それを勝手に退職と。実は私は聞いた時から ( 韓 る人から、「お前の息子たち兄弟は敵国させて、間に人ってくれなんて馬鹿な話国霙情報部 ) だと思っていました。そ であるソ連のために働いていて、けしかはない。そもそも就職させたときにれを口に出させようとしたんですが、結 らん。こういう状況ではこれまで進めたひとつなかった。いったい何なんだろう局、最後まで " ある組織〃とだけしか言 いませんでしたね。その組織がいつも二、 こと、これから進めることにあんたは参と思いましたね」 三人、そばについていて、もう自由に行 加できなくなる。即刻、兄弟をソ連のた それで堂上氏は難詰した。 めに働いている会社から退職させなさい。「清治さんの勝手な行動で、かって息子動ができないとも言っていました」 あとの就職についてはこちらで面倒を見さんは大学を辞めて戻ってこなければな「ある組織」とともに、吉田氏は活動し る」と言われまもた。 らなくなった。それなのに今日も土下座てきたというのである。もっともその組 それで息子たちに内緒でそれぞれの会までして、会社を辞めさせてきたという。織は吉田兄弟が堂上氏の要請で潜人して 0 タフな教室のタフな練習活動在と不在のパラドックス社 , 5 0 英語授業が思考のふり巾を広げるには 日欧の現代演劇論 し 0 〔著〕泉康夫授業規律が著しく崩れたタフな教室にあって、分かった 〔著〕平田栄一朗逡巡する胆力を鍛える、観劇という遊戯的経験のダ 瞬間を積み上げることのできる生徒と、その瞬間たけで終わってしまう イナミズムーー。演劇理論におけるプレゼンス論とアプセンス論を踏ま 3 鳳 0 えながら、観客が舞台作品を見る際に衝動や葛藤に駆られる内的で動的 生徒の力を共に伸ばそうとするとき、ハードルを下げ、間口を広くした 帯学習は優れて有効性が高く、とりわけ基礎を固めるには最適。教育困 なプロセスの多様性を、上演分析によってあざやかに解き明かす。 ◎ r-ØOO 円 + 税 ◎ØOOO 円 + 税 難校で効果的だった帯学習の実践集。 〒 67 慰安婦問題を作った男の肖像
いました」 ってくるとスーツと行くんだ。距離感を動で応えるしかなかった」 つかみ取るんだ」 と束示五輪のフリースタイル・フライ と、先の吉田は畏怖しながら言う。 集まった新聞記者たちに、八田はそう級金メダリストの吉田義勝は一言う。 レスリング大国の誕生 こんなこともあった。昭和肪年のロー 説明した。実際にライオンと睨み合いを した弟子の今泉雄策全国少年少女レスリマ五輪でのこと。この大会で日本レスリ その畏怖心を八田は、最大限に利用し ング血会長が振り返る。 ングは銀 1 個という不本意な結果に終わた。そのハチャメチャな指導法には、し 「ライオンと睨めつこしたから強くなるった。すると、八田は見事な銀髪をバッ かし、したたかな計算もあったという。 なんて誰も思っていないよ。あれは八田サリと切り落としてきた。それを見たコ ライオンとの睨み合いは、実は束尺の さんの屁理屈みたいなもの。でも屁理屈ーチたちは慌てて床屋に走って頭を丸め、青山から上野までの往復一フンニングの中 とわかっていても選手にはありがたい選手たちは陰毛までも剃らされた。八田のメニューで、ライオンはマスコミを取 " 神の言葉〃として伝わってましたね」 は「これで強くなる」と言ったという。材にこさせるネタだった。八田は常々 八田はまた、「いつどんな時でも寝ら以来、「剃るぞ ! 」はレスリング界のた「マスコミを味方につけろ」と言ってい れる訓練」を選手に課した。これまた奇だの懲罰行為の域を超えた。八田は『剃た。マイナースポーツのレスリングの普 天烈なもので、合宿中は明かりをつけたるぞ ! 』という本まで出している。 及や選手の強化にはマスコミの存在が不 ままにし、夜中に叩き起こして点呼を取「ぶてば痛いし恨みが残る。毛を剃れば可欠で、選手たちを発奮させるのが八田 った後にまた寝ることも行った。八田に風呂に入る度にあられもない姿に、そのの狙いだった。 言わせると、この積み重ねで、試合を控原因となったことを反省する。生え揃う『日本レスリングの物語』を書いたノン えて緊張している時でもぐっすりと眠れまでの 1 カ月間、その屈辱に耐えることフィクションライタ 1 の柳澤健氏は、八 るとのことだった。 になり、効果は十分に見込めた」 田を「天才コピーライター」だと評する。 「日中の厳しい練習で疲れて寝人ったと と先の今泉会長は一一一一口う。現在なら確実「日本選手は周囲の期待や応援に支えら ころを起こされるのはキッいし、頭に来にアウトだが、それが許されたのだ。 れているという亠呱が強く、それゆえ辛 た。でも私たちを叩き起こす八田さん自「みなあの方の言うことに間違いはないい練習にも耐えられる。八田さんはマス 身も夜中に起きてきて、″元気か ? じと信じ込んでいた。だから常軌を逸してコミと選手を巧みにコントロールしてこ ゃあ寝ろよ〃と言うわけだから、直立不いるとしか思えないアイデアにも従っての特性を活かした。ライオンとの睨めつ September 2016 222
「慰安婦像を 次 目 クレーン車で撤去したい 慰安婦問題を作った男の肖像大高未貴 インタビュー 参院選四万オタク票」旋風を巻き起こした 「ネット政治」の作り方 未解決「タイ邦人女性殺人」遺族たちの巡礼水谷竹秀 娘が語る、新小岩「台湾人ママ」惨殺事件岩井志麻子 「名古屋アベック殺人」無期懲役少年のいま佐藤大介 追悼一永六輔 矢野誠一 「旅の達人」との半世紀 「 ( アニメか ~ ) 」のひと言で炎上した「文学」中川淳一郎 事件の深層を読む 吉田菁台 衝撃部白 , 」長男、 山田太郎 104 248 冖表紙写真〕 韓国の日本大使館前の 反日デモ ( ⅱ時事 ) 〔扉〕 高木亮・ 居酒屋チェコ亭 和風イカフェオガワチェコ・ デサイン・ : 大野リサ + 川島弘世 目次・特集扉写真提供 時事通信社、読売新聞 / アフロ
や 0 ースがあり、せめてスタッフくらいは何囲気。それは仕切りの向うの各政党の控ンの宮嶋茂樹であった。日焼けした浅黒 かこう、ギリギリまでバタバタしてるのえ室も同じで、数人ずっちょろちょろ政い肌に、大きな体嘔。「ダーツハッハッ」 かと思いきや、彼らもすっかり諦観モー治家が集まり話をしているのだが、どこと笑い声がよく通り、他社のカメラマン 中継の打ち合わせも、各社代表を集も政治の話はゼロ。「夏バテにはスイカや記者たちがちょっと修しに来たりし めて「当確後、来てして、各社が効くらしいね」なんつって、既にこのて、なかなかの存在感。顔役みたい。会 に答えまーす。時間はまだわかりませー選挙は終わったこと、いや、なかったこ則の会場の様子を写舌【に撮って回って ん」なんちゅう適当なもの。各クルーもとにし、あえての雑談だけが交わされてるのだが、またその姿が。まるで西部劇 の早撃ちガンマンのように、弧を描いて 「ふあーい」くらいの熱量ゼロの受け取いる。 四時半を過ぎると、ボランティアな市カメラを構える。クルツ、スチャツ、カ り方でまた時間潰し。さすがに所内でポ クルツ、スチャ ケモン 0 やってる人はいなかったが、民らも入ってきて、場内にうごめく人数シャカシャカシャッ ! ツ、カシャカシャカシャッ ! でつかい 皆ぼんやり携帯タイム。 はドッと数倍に膨れ上がる。撮影クルー やることないので時過ぎ、モニター も持ち場に。社章を見ると、ほとんどテカメラを両眉にたすを掛けの二丁拳銃ス にのニュースが映るボランティアレビ局の人間ばかり。「週刊誌はカメラタイルで、所を取り目立つのだが、 コーナ 1 へ。ここの椅子も、会見場の椅マンくらいで記者はほとんど来ないでし周囲も「不肖・宮嶋だもの」というメン 子も「ボランティアスタッフが使いまよう。週刊じゃ速報できませんから」とタリティで、名物男のエクストリーム撮 す」と事前に説明されていたが、座っていう第者の予報通り、出版社の社章を影を受け止めている。彼の付けた「文藝 いたのはまだ数人、それも取材の人間だっけている人はほぼ皆無。女子アナも、春秋」の社章が際立つお陰で、私の「新 ったので、ちょっと失礼して私も。時テレ東の相内優香と、の吉田明世潮社」の社章が目立たずラッキー ) 両録 くらいで寂しい現場。吉田アナは「サン社とも、この事務所の中はアウェイ中の見 肥分、ニュース速報が人りザワつくが、 ズ デージャポン」のマイク持って、既に報アウェイだからなあ。 テロップの文字は「千代の富士死去」。 マ なあんだ、てつきり : ・ : という失笑が漏道色ゼロだったし。主力は皆今頃、小池 マ 鳥越の最後っ屁 れる。 百〈耳ナんとこに詰めてるんだろう。 武士の情けということなのか、会場内有名人含有量の少ない現場で、目立っ壇上の脇に小さめのテレビモニターが は敗戦について「みなまで言うな」な雰ていたのが「不肖・宮嶋」ことカメラマ設置されているのだが。 3 、 2 、 1 で
郎が亡くなったあと、父を飛ばして雄兎だ学部、卒業したか中退したかは定かでけれども、結核ではない病気なんだそう です。それで軍の徴用を免除され、軍属 ない。法政大の名簿にその名前はない。 が戸主となっているのだ。 みたいな形でいろいろな仕事をしまし その経緯は不明だが、祖父・藤太郎はその後は何をしていたのか。 遠賀郡にあった三菱石炭鉱業の灰場の前掲書では、昭和一一一年に満州国国務た」 そして、 主任をしており、当時は羽振りが良かっ院地籍整理局、昭和一四年から一年余り た。芦屋の役場の向かいに土地を買って陸軍航空輸送隊の嘱託、一五年に中華航「上海の航空隊とか、満州で地籍整理を 家を建てたのは、この藤太郎だったとい空上海支店に勤務していたという。同年やっていたのは聞いています。満州では、 う。急死した原因は、当時大流行したス六月に金九 ( 朝鮮独立運動家 ) を輸送し一年間現地の学校で勉強して中国語がし ペイン風邪。地元の福岡県立門司商業咼たかどで逮捕され、懲役一一年の判決を受ゃべれるようになった。それで部下の朝 校 ( 門司市立商業局校の後身 ) の記念誌け、昭和一七年に諫早刑務所から出所し鮮人一一人、中国人を五人から一〇人くら にも、大正七年から八年にかけ北九州でたことになっている。そして同年、贈い、馬車や馬、ラ・ハに乗せて調査に行っ の山口県労務報国会下関支部の動員部長た。そこでは航空写貢をもとに中国人が 大流行とある。 測量し、彼らを朝鮮人に管理させていた 幼くして祖父から直接家督を相続したに就任したというのだ。 清治氏だが、この他にも吉田家には不可これには以前から疑義が差し挟まれてということですー 解な記録がいくつもある。清治氏の従兄きた。歴史学者・上杉千年氏の調査では、清治氏はこの満州で李禎郁という人物 従弟として他家から一一名が人籍している中華航空社員会で清治氏を記憶する人はを十にしている。昭和一一一年四月のこ ほか、清治氏と四歳しか違わない朝鮮人なかったし、逮捕についても先の秦郁彦とだ。清治氏と四つ違いだから一九歳の像 が清治氏の鶩十となっているのだ。これ氏の追及に「アヘン密輸に絡む軍事物資若者である。氏はその五年後、満州の た 嵋」と答えたことがある。また逮捕で日本人と結婚する。 は後に詳しく記す。 吉田氏は門司市立商業咼校に学び、昭された人物が出所後すぐ、呂半民の半清治氏は前掲の自著で、束泉生まれの 和六年に卒業。そして、「東京の大学をば公職に就くおかしさも指摘されている。傘水達なる人物を昭和一一一年に鶩十とし、 同年小学校教師の日本人と結婚、直後に安 でる」と、自著『朝鮮人慰安婦と日本長男が言う。 「父は胸のレントゲンを撮ると白い影が書に人り、昭和一三年九月、中国 人』 ( 新人物往来社 ) には記している。 どうやらこれは法政大学らしいが、進ん写ったんだそうです。蘰と間違われるの間島省で戦死したと書いている。
マンガ熱第 執る歴史研究家の朴慶植氏である。が請求権を放棄した日韓基本条約。それ わ部分だけでも手慣れた文章である。何文献のバイプルとされる彼の『朝鮮が結ばれた昭和四〇年前後の数年間、吉 最後の一文など非常にドラマチックで、人連行の記録』に引用されるのだ。田清治氏は、一家で小野田セメントの子 ただこの時点では、記事は労務報国会会社「小野田化学工業」の寮の住み込み 話を盛り上げて書く手法を持っているこ とがわかる。 の仕事の範疇での体験であり、「慰安婦管理人をしていた。 長男はこの投稿について少しだけ父か狩り」をしていたとも、済州島に行った「ここから自高校に通いました」 と長男は振り返る。 とも書いていない。 ら話を聞いていた。 「労務報国会で雇っていた朝鮮人の大半次に彼が労務報国会兀費部長として当時、生活に大きな変化があったのは、 は共産宀貲だったそうです。終戦の八月書くのは、昭和五一一年。最初の著作『朝その長男と次男だった。相次いでソ連に 一五日か翌日、家に集まってきた彼らに鮮人慰安婦と日本人』である。一四年後留学しているのである。 軍刀を振り回したというのは嘘だと言っのことである。 当時はまだ留学はおろか、海外に行く ていました。当時、軍人でもない父に、 この間の吉田氏の足取りはこれまでいことさえ非常に難しかった。このため、 っさいわかっていなかった。 一部では、一一人の息子のソ連留学に関し、 軍刀は支給されていなかったのです」 清治氏はソ連のス。ハイではないのか、コ それなら話自体の信馮桂も疑われるが、 長男次男のソ連留学 ミンテルンに関係しているのではないか、 この内容を事実としてすぐに著作に取り 八億ドルの援助資金と引き換えに韓国などと囁かれてきた。 込んだ人物がいた。朝鮮大学校で教鞭を マンガの面白さとは何 8 か。ちばてつや、大友克 洋、藤田和日郎、田中相 、くら物みふさ - 一 = べテランから気鋭圭日一 一ⅲ もはて 3 までが熱気あふれるマ摩 誉一第 ンガの〈現場〉を語りつ ン セ くしたインタビュー集。 ス マンガ家の現場ではなにがこっているのか ・本体 1800 円 + 税 サ なにが起こっているのか 63 慰安婦問題を作った男の肖像
ある。その好奇心が、なんとなく釈然と日立、博多、柳川、宮崎、富山城端、郡 どがしのばれる。 海外吟行では、受け人れ側が連日そのしない世の動きにむけられると俄然ラジ上八幡、上州安中、信州諏訪、箱根、浅 土地ならではの美味を供するレストランカルになり、すぐさま行動にうっすフッ皿泉、伊昱下田 : : : と順にたどって際 トワークのよさには感心させられた。尺限がないばかりか、句友あつめて、 で接待してくれるのだが、明日は日本と いう最後の食事は和食でというケースが貫法の復活、米通帳廃止、天皇に和服「業務連絡、業務連絡、明日の出発は 多い。せつかくやって来た外国で、いまを着ていただこうという「天着連」運動 などなど、その出発点はすべて彼の好奇と例の里局い声はりあげての報告や、 さら懐石料理なんてと不満をもらすと、 アルコールなしには食事のできない桂米 心によっている。 旅の幹事水六輔は言うのだ。 「いま世界一高い食事は日本食なんです。自身が患ったパーキンソン病に対して朝、三田純市、江國滋それにやつがれな 接待する側がふだんはなかなか行かれな徹底的に向きあった根っ子にも、持ち前どに、 い ~ 〕日本料理店でご相伴にあずかりたの好奇心があった。客観的に病を見つめ「はいツ、酒部の皆さんはそっちのテー いという気持を忖度してあげてくださたい思いから、六丁目という俳号をいっプル」 と手際よく指図したさまなど思いうか たん。ハ 1 キンソンと改名しながら、すぐ 自前で出かける国内吟行でも、女中やまた元の六丁目に戻したのは、同じ病にんで、寂しさばかりがこみあげてきて、 紀 仲居の不手際にいらいらしてる句友がい苦しんでいる人たちの気持を慮ったからどうにも気持のおさまりがっかない。 世 半 の るのを察すると、その人に代って大声でにちがいない。病状の進行ぐあい、介護 される側の体験などを、ときにというよ 叱りつけるのも永六輔の役目だった。 人 りつねにユーモアを交じえながら、句会 の 小津との本当の関係、唯一の恋、 すべては好奇心から 旅 の席で伝えてくれた。その句会に顔を出空白の一年、そして引退の真相ーー・・。 さなくなって、一年ほどしてふれた計報 東京やなぎ句会発足時のメンバーで、 永 すでに世に出ていたのは永六輔と小沢昭だった。 原節子の真実 一くらいだった。とくに永六輔の八面六永六輔の月番幹事による吟行先を、高 石井妙子◎定価 ( 本体 16 。。円 + 税 ) 社追 尾山、浜松、信州戸隠、大阪、京都、安 臂の活躍ぶりには目を瞠るものがあり、 伝説を生きた女優の真実を鮮やか新 に甦らせた、決定版の本格評伝。 好奇心の旺盛なことに舌を巻いたもので土、城ヶ島、山梨橋倉温泉、秩父、吉野、
治 だったと思います」 れは、出版社や周りにいた人たちに発言 田 『私の戦争犯罪』が出る前年、清治氏はをしていただきたいんです」 吉 講演会で幽女婦狩りを語り、それが「朝出版直前に、清治氏と長男は、品川区 す 謝鮮の女性私も連行暴行加え無理やりー 上大崎に再度引っ越した。 ん という朝日新聞の記事 ( 昭和五七年九月「父が勝手に不動産屋に行って決めてき 順 二日、取消記事 ) になっている。さらにました。それまでは家賃四万円くらいだ 学 九月と一一月には、サハリン残留韓国・つたのが、一二万円くらいになった。さ の 朝鮮人帰還訴訟、いわゆる樺太訴訟で一一すがに無茶だと思ったんですが、父は五 元椡度にわたって法廷に立ち、一度目は樺太〇〇万、一〇〇〇万はすぐに人るから心 への男十の朝鮮人狩りを、一一度目は済州配しなくていい、家賃どころか過去のお 前に掛けた苦労は全部返すから、と言っ 僻島での尉女婦狩りを証一一一一〔している。 成 ちょうど執筆と重なる時期、次々に慰ていた。でもそれがのちに家計的にすご 平氏 く負担になってしまいました」 ったんですね。金石範の『火山島』を読安婦贈を語り始めていたのだ。 んでましたから。済州島蜂起の話をした その頃、長男は東洋共同海運を辞めて、先の一一一角氏によれば、同書は一一一刷まで ら、″あっ、そう言えば〃という感じで新橋にある翻訳会社に勤めていた。住民して合計で約八〇〇〇部ほど発行された したね」 票も東京に移し、父とともに束示都文京という。印税は一〇〇万円ちょっとであ ろう。清治氏に何かあてがあったのだろ 済州島での尉女婦狩りはこうしたきっ区に越してきた。 かけで書き始められたのだ。 その長男が衝撃的な証一一一一口をする。 同書の序文には、清治氏の週刊朝日の「父は済州島には行っていません。それ昭和五八年一一一月、清治氏は韓国忠清 投稿文を自著に引用した朴慶植氏が一文は父から聞いています。それで父は、済南道天安市を訪問、私費で建てたとされ 州島の地図を見ながら、原稿用紙へ原稿る謝罪碑の前で土下座した。その「望郷 を寄せている。 の丘」の碑にはこう刻まれている。 「これは僕が依頼しました。ただ吉田さを書いていました」 〈あなたは日本の侵略戦争のために徴用 んと朴さんは本が出る前から知り合いと ではなぜあれほど克明に書けたのか。 いうか、古くからお話をされていた関係「はなかったはずです。ですからそされ強制辿何されて強制労働の屈辱と 第 September 2016 70