吉田 - みる会図書館


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1. 新潮45 2016年9月号

や杉浦信之取締役らが会見を開き、卵世界大戦終了時に行われた米軍の「慰安されていないのだ。「 ( 幽女婦は ) 残虐性 婦」等への聞き取り調査とともに、吉田と規模において前例のない一一〇世紀最大 するに至ったのだった。 規模の人身亠貝のひとつである」という あれから一一年。 証言が重要な証拠として出てくる。 アメリカ合衆国下院一一一一号決議は、い 国内では、教科書から慰安婦贈の記中にはこうある。 述が消え、ある程度決着がついたように「強制連行を行った一人である吉田清治まも生きている。 見える。だが、海外では解決どころか更は戦時中の体験を書いた中で、国家雋慰安婦鬮最大の焦点は「日本軍が慰 なる悪化を見せている。慰安婦問題を員法の一部である国民勤労報国会の下で、安婦を強制連行」したかどうかである。 「最終的かっ不可逆的に解決する」とう他の朝鮮人とともに 1000 人もの女性だが日韓両政府が血眼になって記録を調 たった昨年末の日韓合音創後にも、アを『墨女婦』として連行した奴隷狩りにべても、それを証明する公文書資料は見 つかっていない。だから山口県労務報国 メリカやオーストラリアで、在米・在豪加わっていたことを告白している」 韓国人、中国系活動家らによる反日ロビ平成一一六年、外務省の佐藤地人権人道会下関支部の部長だった吉田清治氏 ー活動に拍車がかかり、新しい幽女婦像担当大使は、作成したラディカ・クマラの「軍の命令で朝鮮人女性を強制連行し 設置の動きも加速している。また史実にスワミ女史と面会し、朝日新聞の吉田証女婦にした」という証一言が重要だった そぐわない慰安婦鬮の記述が米国力リ言による記事は麕であったとする訂正わけだ。だがそれがであることは、 フォルニア州の高校教科書に掲載される報道に従い、吉田証一一一口の引用部分の撤回朝日新聞の撤回を待たずともはっきりし ことが、今年七月、教ム暠会の満場一を申し人れた。だが彼女は「吉田証一一一口はていた。当の清治氏自身が、週刊新潮の 像 致で決定された。これが他州に及ぶ可能証拠の一つに過ぎない」とし、いまだそ取材にこう答えているのだ。 「まあ、本に真実を書いても何の利益もの れに応じていない。 性もある。 何より問題なのは、「吉田証一言」を根また、韓国政府も平成四年に「日帝下ない。関係者に薑一かけてはまずいか 拠とするクマラスワミ報告が撤回されな軍隊尉女婦実態調査中間報告書」を作成ら、カムフラージュした部分もあるんでを かったことだ。 して吉田証一一一口を採用しているが、それをすよ。事実を隠し、自分の主張を混ぜて 婦 書くなんていうのは、新聞だってやって安 クマラスワミ報告は平成八年、国連人取り消したという話は聞かない。 権会の決議に基づいて提出された日朝日新聞が吉田証一一一一〕の記事を撤回しよることじゃありませんか。チグハグな部 7 本への非難勧告書だ。そこでは、第一一次うとも、国際的には事態がまったく改善分があってもしようがないー ( 平成八年 くに

2. 新潮45 2016年9月号

ういう話を聞きました」 子である。 ターの上杉攪の紹介で、大阪の講演会 堂上氏はその訓まで覚えていないが、〈隊員に肩をつかまれた若い娘が、悲で会いました。吉田さんは何人かいる報 これは李のことを指しているとしかをあげて隊員の手を振り払った。年取っ告者の一人だったように記憶していま 考えられない。もともとあった事実に話た女が、娘を抱きしめて叫び立てた。隊す」 を加えて虚実綯い交ぜにするのは吉田氏員は年取った女を突きとばし、娘の顔を、すでにそこで女婦の藺連行につい の接だが、このやりとりからすると昭音を立てて平手打ちした。女たちの群れて話していたという。 和五五年頃、氏と連絡を取り合ってが、かんだかい声でわめきたてると、隊原稿を頼んだのは、第一作が出てから いた可能性が高い。さらに兄弟の留学に員たちが奴台万して襲いかかった。隊員にだった。 反抗してはげしくもみあい、服が裂け、 「まだ十分に語り尽くしていないんじゃ も関与している旨述べたという。 労働贈を扱っているという点では、胸もとが裸になった娘が泣き叫んで、塩ないかという気持ちがあって、もう少し ずっと吉田清治氏と関係があってもおか かますにしがみつくと、隊員に腰を蹴ら加害者として、普通ならば自分の口から しくない。あるいは、元朝鮮人という点れて床に転がった。この島の娘は、足は言いにくいことまで含めて全部赤裸々に 素肌で、ばたっかせて暴れたが、隊員は圭けないものかと考えていたんです。 が重要だったのか。 当初吉田さんは慰安婦狩りについて この氏は昭和五八年、福岡市南区足くびをつかんで、笑いながら引きずり " そこまでは書きたくなかった〃と言っ で死去した。氏の長男にも取材して出した〉 みたが、養十人りの事情など「何も存じ労務報国会下関支部留部長の吉田清ていました。それでも彼が勇気を持って あげません」とのことだった。 治氏が済州島の「塩乾魚の製造工場」へ告白したのは、彼女たちが儒教文化の中像 でその経験を生涯口に出せず、墓場までの 慰安婦狩りに行ったときの十である。 慰安婦問題の「語り部」誕生 同書のを担当したのは同社の〕持っていくしかなかったからです吉田 作 その昭和五八年、吉田清治氏の第一一作者で、現在は労組交流センタ 1 をすさんはその体験をわが身を削って記し 題 目『私の戦争犯罪』が、三一晝房から出る三角忠氏だ。担当者としていまも清治た」 済州島については「私の方からヒント安 版された。奥付には七月三一日発行とあ氏の証一一一口を支持している。 る。済州島で尉女婦狩りをしたことが詳「初めて会ったのは前の本が出るちょっを出した」という。 「私がもともと済州島に非常に興味があ 細に書かれている本だ。例えばこんな調と前のことで、日本の戦争責任資料セン

3. 新潮45 2016年9月号

て厳格でしたので、家では歌謡曲など聞昭和三八年、週刊朝日が「私の八月十色していった」 かせてもらえなかった。でもこの時は楽五日」の手記を鞏し、結果が同誌八月「奴隷狩りのように」と吉田氏自身もい しそうな様子に思わず笑みがこぼれたと一一三日号に掲載された。特選は一名、後 う。その最中にはいったのが終戦のニュ いう内容で、短い文章の中に幸せな家族に作家、エッセイストとして知られる近ースだった。朝鮮人の報復への恐れは、 2 盟示が浮かぶと高い評価を得たのです。藤富枝である。記事には他に人選五名、直ちに頭に浮んだ。帰宅した吉田氏の家 父は福岡に行って表彰され、賞金をもら佳作一〇名の氏名が出ている。その佳作の前には、案の定、一一十人ばかりの朝鮮 ってきた。あの頃が吉田家が一番幸せだのひとりに吉田東司の名前がある。それ人が集っていた、費された朝鮮人の行 った時かもしれません」 は清治氏のことだった。 先を教えろという。問いつめられた吉田 この頃、清治氏は朝鮮人の経営する。ハ人賞作までは全文掲載されているが、氏はついに捨てばちになった。 ン屋に勤めていた。 佳作は者が抜粋しながら紹介してい 「私は靴ばきのまま座敷にかけ上がると、 「その経営者は戦前からの付き合いだつる。以下、引用する。 床の間の軍刀をつかんで玄関へとび出し たので、父の首を切るにも切れない状態〈特選から佳作に至るまでの各編は、すて叫んだ。 だったそうです。だからその社長はこれべて、戦争の被害者としての立場から、 『どうせ戦争に負けたんだから、いまこ で辞めさせることができると喜んだ。一八月十五日を想起したものばかりであっこで死んでやる。おれのしたことに文句 家はその賞金で引っ越すのですが、父はた。しかしただひとりだけ、下関市の会がある奴は、殺して道づれにするから前 そのお金で三回も四回も引っ越せると言社員吉田東司氏 ( 四しは、加圭署の立場へ出ろ ! 』 っていました」 からあの日を回顧する。 私は気ちがいのように逆上し、軍刀を 清治氏によれば、員に ~ 釁したのは「私はそのころ山口県労務報国会動員部抜いて彼らに近づいた。彼らはわめきな これだけではない。 長をしていて、日雇労務者をかり集めてがら逃げ散った。私はこれまでにしてき 「彎のほか、ラジオとかテレビのモ一一は、防空壕掘りや戦災地の復旧に送たことも、これからしなければならない タ 1 もよくやっていました」 っていた。労務者といっても、そのころこともわからなくなって、真夏の太陽の いまで一一一口う投稿マニアだったのか。 はすでに朝鮮人しか残っていなかった。下でむなしく軍刀をふりまわしていた」〉 やがて清治氏はもう一つ、大きな員私は警察の特高係とともに、炬疋の洛山口県労務報国会下関支部の元留部 で佳作となる。 を軒なみに尋ねては、働けそうな男を物長・吉田清治としての活動の始まりだっ

4. 新潮45 2016年9月号

五月一一・九日号 ) ってきたのは、思いもよらない新事実だたが、その卒業名簿 ( 平成一〇年発行 ) また自ら済州島の調査を行い、すでにった。 では第一一回卒翆の者のほうに人 っている。 平成四年に産経新聞で証一言の信用性につ 謎の生い立ち いて疑義を投げかけた現代史家の秦郁彦 今回、長男から見せてもらった資料か 氏もこんなエピソードを書いている。 長男は関東北部の県で質素な一人暮らら、清治氏は、大正一一年一〇月一五日生 で清治氏と話した秦氏が、「『著書しをしていた。現在六六歳。翻訳で生計まれとわかった。出生地は、福岡県鞍手 は小説だった』という声明を出したらどを立てているという。小柄で温厚、とて郡宮田町大字長井鶴。本籍は福岡県遠賀 うか」と勧めたところ、「人権屋に利用もまじめそうな風貌だった。 郡芦屋町大字芦屋である。 された私が悪かった」「私にもプライド「父が犯した幽女婦強制連行の捏造につ本人は本籍などを山口県としていたが、 はあるし、八十五歳にもなって今さらいて、吉田家の長男として、日本の比お隣の福岡県で生まれ育ったわけである。 ・ : このままにしておきましよう」と話にたいへん申し訳なく思っております。そして本名は、吉田雄兎という。これは したという。 できることなら、世界中の幽女婦像をクすでに判明していた事実だが、長男によ 吉田清治氏は亠的に歴史を捏造した。レーン車で撤去したい。父の過ちを糺しれば、 それは明らかである。ではなぜ、何のた たい、少しでも罪滅ぼしをしたい、そう「本来でしたら雄治という名前になるは めにそうしたのか。の証一一一口を続けていう気持ちから、私の知りうることをすずだったのですが、役場が書き間違えて きた動機は何なのか。それらはいぜん謎べてお話しします。私自身、なぜ父があ治を兎としてしまった。父は、本名が好 のままである。いやそれどころか、実はんなことをしたのか知りたいのです」 きではないと言っていました。それで。へ 清治氏がどんな人間であるか、どんな経と、吉田清治氏の長男は語り始めた。 ンネームをつけて清治としていたのでし 歴であるか ーーどこで生まれ育ち、何を清治氏は平成一一一年七月三〇日に死去すよう」 とのことだ。 してきたのか、その学歴も職歴も実はよるが、それまでずっと一緒に暮らしてき くわかっていないのだ。 たのが、この長男だった。 父は音吉、母はタメ。長男だが、姉が いったい吉田清治とは何者なのか。 清治氏は、その生年からしてはっきり三人いたという。 今回、私は吉田清治氏の長男のロングしていなかった。出生地も諸説あった。 清治氏は、大正八年、わずか五歳で吉 インタビューに成功した。そこからわかさらに言えば、門司市立商業咼校に通っ田家の家督を相続している。祖父の藤太

5. 新潮45 2016年9月号

こはそのためのコピーです」 「 8 個の金メダルを獲れ」と言った。 ていた吉田は、 八田には、「ハッタリ一朗」の異名も体格や。ハワーで見劣りする日本にとっ 「この人のためにも、金を獲る」 あった。だが選手たちは八田への畏怖心て、軽い階級でのメダルは取りこぼしが と奮い立った。そして 5 回戦でアリエ ゆえにハッタリをそのまま信じ、結果を許されない。そのフライ級で八田は、全フを下すと決勝に進み、見事、金メダル 出していったのだった。 日本選手権 3 度優勝、プレ五輪優勝の今を獲得するのだ。 日本が五輪のレスリングで初めて金メ泉雄策を外し、今泉に一度も勝ったこと結局、この示五輪では金 5 個、銅 1 ダルを取るのは、昭和年のヘルシンキのない吉田義勝を指名した。誰もが不審個を獲得、次のメキシコ五輪でも金 4 個 大会である。フリースタイル・バンタムがる裁定だった。 銀 1 個を獲って、日本はレスリング大国 級の石井庄八だ。その決直前に、八 八田の頭にあったのは、世界選手権をの仲間人りをしたのだった。 田はとんでもない ~ 付動に出たという。 3 しているソ連のアリ・アリエフと 八田は、身なりや礼儀に厳しかった。 マットに上がりかけた石井を試合会場の対戦だった。今泉をはじめ日本選手は「食事のマナーを知らなければ、欧米遠 の一番上に陣取る日本のラジオ実況席にみなこのアリエフにねじ伏せられてきた。征などで見下され、相手に優越感を与え 呼びつけ、「インタビューに応じろ」と だが、吉田はまだ日本大学 4 年と若く、てしまう、と言っていた」 ( 今泉 ) 指示した。決勝に向け、雑音を排し、試変則的な動きで戦い、アリエフとの対戦他競技団体も合宿する施設でレスリン 儀 流 合に集甲すべ時である。石井は「これ経験がない。八田はそこに賭けた。 グの選手だけが食事の際、学生服かワイ から試合です。頑張ります」と日本に肉ところが試合の 4 日前、その吉田が風シャッ着用を義務付けられた。身なりをて 声を送るやマットに戻った。果たして結邪を引いた。開会式はべッドで迎えた。正し、礼儀作法を身に付けることが勝ち 果はーーー金メダルだった。 発熱して体力が落ちる中、試合のためににつながると考えていた。 の 吉田はこう語る。 次のメルポルン五輪では、金 2 個に銀減量を続ける吉田に八田は、 者 リ、ヾ ノカじゃないか、飯を食えよ。 「八田さんは″敗戦国〃の名を着せられ導 1 個と勢いづいたものの、続く口ーマ大「お前 会では銀 1 個の惨敗に終わった。先のメダルよりも命が大事だろ。 8 個と言っ た日本の外国人コンプレックスから脱却 「剃るぞ ! 」はこの時の話である。 たけど 7 個でいいから飯を食え」 しようとの熱い思いがあった。レスリンん そして昭和明年の東示五輪。八田は自 と声を掛けた。思いもよらぬ言葉だっグを通じて『日本よ、胸を張れ』と言い 3 たかったのではないか」 身の苗字の八、全階級の八をひっかけ、た。きつく叱責されるものとばかり思っ

6. 新潮45 2016年9月号

「窓論説委員室から歴史のために」そして平成八年に冒頭で書いたクマラまいか。 ( 平成四年三月三日 ) スワミ報告書が提出され、平成一〇年に そんな清治氏の生活を支えたのも長男 「今こそ自ら謝りたい連行の証一言者、旧ユーゴスラビア戦時下の女性暴力鬮だった。清治氏と長男は昭和六一年から 7 月訪韓」 ( 平成四年五月一一四日 ) に付属して幽女婦鬮で日本の責任を追千葉県の我孫子市に居を移していた。長 「元慰安婦に謝罪ソウルで吉田さん」及するマクドウーガル報告書が出される男の勤める翻訳会社の子会社がそこにで 頃には、吉田清治という人物自体の信用きたためだ。 ( 平成四年八月一一一一日 ) 一方で、取消記事のピークの平成四年性は限りなく失墜していた。 「一〇年くらいそこで働いて、フリーに には次々とその証言の信を疑う報道朝日新聞もすでに平成九年三月三一日なりました。朝から晩まで、ときには職 が出始める。前述の通り四月には、そのの記事で、吉田証一言の「真偽は確認場へ寝袋を持ちこんで、仕事ばかりして 証一一一口に疑問を感じた秦郁彦氏が済州島でできない」としている。 いました。忙しい日々でした。とにかく 調査を行い、吉田氏の体験のような事実担当者の三角忠氏が語る。 生活費を稼がなきゃいけなかった。当時 が出てこないことを産経新聞で発表した。「吉田さんが一番こたえたのは、幽女婦は統合失調症の弟の面倒も見なくてはな 週刊誌などでもその発一一一口を疑う記事が出贈に取り組んできた中央大学の吉見義りませんでした。離婚して私たちと同居 始める。 明さんや関東学院大学の鶯史さんなどするようになっていたんです」 平成五年に河野談話、七年には村山談が学術的な資料としてはちょっと使えな そして平成一一一年七月三〇日、以前か 話が発表され、民間での賠償を行うアジいと言い出したことなんですよね。お一一ら直腸癌を患っていた清治氏は、結核性 ア女性基金の枠組みができると、幽女婦方には、そういう言い方をするとこの本の肺炎を起こして死去した。享年八六。 贈の盛り上がりとは逆に、メディアはの歴史的証言を貶めることになるんじや「亡くなる五年くらい前から寝たきりで、 吉田清治氏の証一一一一口を取り上げることにたないですかと言ったんですがね。唯一、 一人で用を足すこともままならず、おむ めらいを見せるようになった。 西野瑠美子さんだけがいまもこの本を事つをあてがっていました。何度も人院を 舞台は韓国に移っていた。すでに幽女実だと言ってくれている」 勧めたのですが、医者と当工旧は嫌いだと、 婦であると実名で名乗り出て日本政府に そう言う一一一角氏も一〇年近く会っていかたくなに拒否して家から離れませんで 引と補償を求める女性が、メディアのなかったというから、晩年の清治氏は失した」 中心にいた。 意のなか、寂しい老後だったのではある新聞に計報は載らなかった。もはや誰 September 2016 72

7. 新潮45 2016年9月号

「慰安婦像を クレーン車で去したい 慰安婦問題を作った男の肖像。、、、、 生年も出身地も定かでなく、学歴も経歴も不明。そして名前はいくっ もあったー。謎に包まれてきた「吉田清治」の正体を長男が語った。 おおたかみき 1969 年生まれ。フェリス女学院大学卒。一〇 0 か国以上を放浪、ダライ・ラマ一四世、アラファト ジャーナリスト 議長などにインタビューした。主著に「—co—co 大高未貴 イスラム国残虐支配の真実」。 て「女婦贈どう伝えたか読者の ここで同紙は、初めて「慰安婦狩り」 止まらない日本バッシング 疑問に答えますーと題する同贈の検証をしたと話してきた吉田清治氏の証言を 平成一一六年八月五日、朝日新聞は朝刊記事を掲載した。八〇年代から同紙が執「虚偽」と判断、一六本の記事を撤回し 一面で「慰安婦贈の本質直視を」と拗に報道してきた尉姜婦贈の記事にった。だが、一一日続いた検証記事では卵 昇の立場を説明する記事を掲載したういて、各界から疑問や批判が高まったたの一一一口葉がなく、そこにも批判が集甲した ため、九月一一日、ついに木村伊旦経長 えで、一六、一七面の品き全面を使っめ、やむなく対処した格好だった。 「吉田清治」長男、衝撃の告白 1 剽プ 写真読売新聞 / アフロ ( 左 ) 、時事通信社

8. 新潮45 2016年9月号

もともとあった事実を歪めて話を作っど何も聞いていない。ただし、これだけいました」 ているわけだ。 は訴えたいとこう述べる。 調べてみると、昭和一一五年九月一八日 「若い頃、正義感に燃えてナにしてや「労務報国会の下関支部は朝鮮人男ナの付で「下関肥料株式会社」という会社が川 ったと父は言ってましたが、どこまでが労務というか、下関市内の大工、左官、登記されていた。取締役一一名に続き、 ほんとのことなのか。私は会ったことが土木工事の方々を雇って日当で払う仕事「会社を代表する取締役ーとして吉田雄 ありません。ただ養十にしたことで、親の現場みたいなものですから、従軍兎の名前がある。昭和一一六年に取締役一 戚から戸籍を汚したと、非難されたよう幽女婦とは何の関係もない。そのことは人が辞任し、清治氏の妻フサ工さんに替 です。また職場からもよく言われず、そ長男としてはっきり言っておきたい」 わっているから、この頃までは活動して れが刑務所に投獄される理由になったと労務報国会は日雇い労働者の組織化をいたのかもしれない。 言っていた。ただ詳しくはわからないの図るため昭和一七年六月に設置された半同時期、清治氏は下関市議会議挙 です」 官半民の組織である。吉田清治氏が在籍に共産党から立候補して落選している この養子を巡って何があったのか。 戦前にには一一人の子供が生れた。も見つかっていない。ただ長男はこ「雇っていた朝鮮人がみんな共産党で 長男は昭和一八年に福岡で出生、次男はんなことを言う。 それで立候補したんじゃないかな。担が 昭和一一〇年八月に中国・一市で生まれ「終戦時、父は労務報国会で物資の管理れて、その後は共産党とのかかわりなん ている ( 翌年瀋陽で死去 ) 。だから日本をしていたそうです。だから礬後、そのて一回もないです」 と大陸を行を莱していたことがうかがえ物資を自由に隠匿できた。後一番必要と長男はそっけない。 る。戦後は日本に来て、吉田家の籍からになるものは何かと考えると、食料です。時代を少し遡るが、清治氏が結婚した は昭和一三一年に抜けているが、その後もそれを作るためにお百姓さんには肥料がのは、昭和一九年五月のことである。下 清治氏の人生に影を落としていく。 必要ですから、そこにあった配給の余り関市に婚姻届を出している。妻フサ工さ ものの肥料を隠匿して『下関肥料』といんの実家は、農業のかたわら、煙草と塩 吉田清治の戦後 う会社を作った。一時はもうかったようの専売店を営んでいたという。戦後の混 「尉女婦狩り」をしたという山口県労務です。ただ父は商売の経験がない。どん乱期は実家かその付近に住んでいたよう 報国会下関支部について、長男はほとんぶり勘定であっと言う間に倒産してしまだ。

9. 新潮45 2016年9月号

いることを把握していなかった。諜報機らにいろいろ尋ねている。だが昭和一二年に吉田清治氏が十とした 関とすればお粗末な話であるが、堂上氏とは最後まで言わなかった。そして「電四歳下の韓国人・李禎郁氏のことである。 はと確信した。 車賃もなさそうだったので」五〇〇円く すでに彼は昭和一七年に日本人と結婚 まだ金大中事件が記憶から薄れていならいを渡して別れたという。 し、日本と中国で一一人の子供をもうけた い時期だった。昭和四八年八月八日、民公安警察はこうした事実を知りながら、ことまでは記した。では、その後、彼は 主活勲豕だった金大中は、白昼、束示都吉田清治氏の背後関係を調査した形跡がどうなったか。 千代田区のホテルグランド。ハレスから拉ない。それはなぜなのか、 礬後は日本に戻り、福岡市でさらに一一 致され、密かに日本から連れ出された。 「私はこの話を上司にはしていません。男をもうけている。 そして橆経て、事件から五日後にソこの話をすれば息子たちが知り、ソ連か そしてその頃、彼は福岡市板付の米軍 ウル市内の自則で発見された。これをらの情報収集に支障をきたすからです」基地 ( 福岡港 ) で、〈留軍労働組合 実行したのが、だった。 だからこの一件は吉田兄弟も知らないの活動家になっていた。長男は、 それにしても、なぜ清治氏はそののだという。 「一度も会ったことがない。〈労にい と動いているのか。そのの言いなり 長男に確認すると、困惑気味にこう話たことは聞いたことがあります。上京し になっているのか。当然、堂上氏がそこす。 た父と付き合いがあったかはわからな へ切り込むと、こう答えたという。 「おそらくそれは父の作り話です。子どい」 ″若干、お金を借りています。これは息もでもあるまいし、親が勝手に本人の許と一言うが、先の堂上氏はこんな証言を 子たちに言っていません。わたしがちょ可もなく会社を辞めさせることはできまする。 っと困った様子を見せたら、これを使いせん。私は自分の亠坐心で川崎から新橋の「あの日、あなたはなぜ韓国に興味を持 なさいと渡されました。三〇万円くらい翻訳会社に転職しました。がよかっ っているかを聞いたんです。そうしたら、 です。私がいまやっていることについて、たからです。父は私たち兄弟をダシにし " 私はいいこともするんですよ、全駐労 その人たちはいろいろ教示してくれまて何かの理由で堂上さんに接触を図った って知ってますか。〈労の人とも私、 す〃 のではないでしようか」 お話ししてます。労の初代長、 その後、堂上氏は、川崎のステーショ ここでもう一つ、知られざる事実に触韓国人なんですよ。でもそれじゃ困るか ンビル最上階の食堂に清治氏を誘い、されておかねばならない。 らと私の籍にいれさせたんですよ〃、そ

10. 新潮45 2016年9月号

も付を入口っていなかったのだ。 部分にしても、あってしかるべきだと。 を出す一一、三日前に、私を訪ねてきまし 三角氏が当時を振り返る。 歴史的事実としてそれはあるわけですかた。取材というよりは最初から筋書き通 「亡くなる一か月ほど前に一時間ほど電ら。それにやつばり亡くなる前、死期がりの形式的なをして三〇分ほどで引 話で話しました。当時、家水三郎さんか近づいている中で言ったことは重いですき揚げていきました。平成九年の段階で ら電話があって、『私の戦争犯罪』といよ。今から思うと、それまでくぐもったなぜ父に直接取材をしに来なかったのか。 言い方だったのがあの時はとても潔かっその時に真相を究明していれば少しでも う本が偽書だと言われているようだが、 私はそうじゃないと思う。非常に優れたた」 幽女婦報道の歪みが正されていたのでは 本だ。他の人がいっさい口をつぐんでい だが、長男はまったく正反対の思いでと思います」 る加害の事実をよくぞここまで書いたと、いる。 一一年前に弟が死去した。長男は生涯独 そんなことをおっしやられて、ぜひ吉田「父は結果として大変誤った歴史を作り身だが、父と弟の世話から解放され、い さんに会いたいと一一一口われたんですね。そ出してしまった。これは私が生きているま人生で初めて一一四時間を自分一人だけ こで吉田さんにした。 うちに直さなきゃいけないと思っていまのために使える生活が訪れたという。私 そうしたら吉田さんは、あの本の内容す。軍が民團体に軍の命令書を発行すの目にも長男は静謐な日々を送っている はまったく真実です、人から聞いて書いるわけがありません。労務報国会というように見えた。 たこともデタラメを書いたわけではない、圭昌半民の組織や民間織が軍命で朝鮮八月四日、こんな新聞記事が掲載され と話して、いま自分は気力が本当に失せ人女性をトラックに載せて集めるなんてた。 てしまってお話しできるのはくらいことができるわけがない。これは歴史的「ソウルの日本大前にある幽女婦を像 で、家水先生とお会いしてお話しできる事実として、長男の立場から真実を定着象徴する少女像と同種の像の除驀付事が、の ような状態ではないと。もう体力的にもさせていかなければならない。父が暴走 8 月中にオーストラリアの最大都市シドた 作 衰弱している状態だったんです」 し始めた時に私がストツ。ハー役になってニー郊外を含め川カ所で行われ、年内に 題 三角氏はいまも本の内容を事実であるいればと、悔やんでも悔やみきれませは像の建立地が韓国内外でカ所を超え 安 ん」 と考えている。 る贔しとなった」 ( 産経新聞 ) 慰 「僕は済州島にも行ったと確信していま そして朝日新聞についてはこう語る。 始終やかに語った長男の胸中に、真 す。他から聞いて主語を自分にしている「二年前、幽女婦報道について訂正記事の平穏が訪れる日は遠い。