話 - みる会図書館


検索対象: 新潮45 2016年9月号
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1. 新潮45 2016年9月号

ことをスクープといって語るが、必ずしと言うなりポケットからピストルを取り部下というところだろうが、「よき友」 もご本人の取材話ではないなど、気を付出して天井に一一、三発ぶっ放したそうでの枠内に人れてもいいのではないか。 けなければならない。ここ二十年ほど大ある。記者たちは逃げるやら伏せるやら、 作家とアナキスト 学の大衆化ということか、新聞記者出身大騒ぎとなった。すぐに警察官たちも飛 が講師となってメディア学とか新聞・テんで来て、本当に実弾を撃ったのかどう さてこれもまた「よき友」と言うべき レビ論の授業が活発になっている。とこか調べたという。しかし弥団次は実弾をか否か、当にとって結論が出せない ろが新聞記者の授業は、初めこそ学生に撃っていないというので釈放された。とエピソードだ。大正時代末期から昭和の 面白がられるのだが、やがて自慢話の繰ころがこの一件は「ピストル弥団次」と初めにかけてのアナキストたちに、彼ら り返しだと、嫌われてしまうのだとか。 して報道された。浜口首相は謹慎を命じの私生活について質したことがある。高 それで私も彼らの取材話はときに眉にたが、公賣の減俸贈はウャムヤにな贔の『いやな感じ』がこの面の実態を ツバをつけて聞くことにするのだが : る。浜口はこの弥団次の所業が何とも理描いた小説なのだが、昭和十一年の農村 一一十年ほど前になろうか、老いた元記者解出来ず、それでも弥団次の差し出した青年社事件 ( アナキストたちの革命計画。 から「君はピストル弥団次って知ってい辞表を、「お前にも女房、子供がいるだしかし何らの行動も起こしていない ) の るか」と聞かれた。「いつごろの話ですろう : : : 」とあっさり破り捨てた。 被告の証言は、「リヤク」の実態をよ か」「そうだな、浜口内閣のころだから その後、浜口首相は、泉駅で右翼青く示している。リヤクとは略奪の略だが、 昭和四、五年だな」「そんな昔の話、聞年に襲撃される。その折りに「男十の本それほど暴力的ではない。 いたことありませんよ」と答えると教え懐」と言ったとされるが、どうやら浜口大正時代末期、アナキストたち、ある てくれた話だ。 首相にはそういう体力がなく、これは弥いは一部のポルシェビキたちは革命活動 首相官邸で、緊縮財政の折り官吏の給団次が浜口の意を察して用いた語と言わの資金を獲得すると称して、企壟豕や作 与を下げるという案を巡って閣議が揉めれている。この話は報知新聞の政治記者家、さらには有産階級の人々を直接訪ね間 の ていて、新聞記者が玄関口に数多く詰めだった小楠正雄が、「政治記者会報」て、「われわれの革命が成功したら、お 史 ていたそうだ。そこへ首相秘書官の由島の第一一十九号に書いていて、小楠が弥団前はギロチンだ。それがイヤなら運動資昭 弥団次なる人物が、一一階から降りてきて次から聞かされた言ともいう。 金を出せ」と脅すのである。いわば、革 記者たちに「おい君ら何しているんだ」浜口首相と中島秘書官、よき師、よき命に名を借りたゆすりのようなものだ。

2. 新潮45 2016年9月号

俊彦訳の「退屈な話ーー或る老人の手記くなっている。江藤の年制作者である者。後に慶大英文科教授 ) と私に全 からーーー」である。「そこには軽々しく武藤康史と一緒に藤井昇から話を聞いたると書いてあったらしい」 も仰々しくもない一一一口葉があり、その一一一一口葉のは平成十一年九月で、江藤の死の衝撃昭和何年のことだったか、藤井先生に はあり来りの言葉を受けつけなくなってがいまださめやらぬ頃だった。藤井名誉はっきりとした記憶はなかった。それが いる私の心のもっとも深い場所に沁み人教授はその時七十三歳で、上越新繽の昭和二十九年の夏であることは、自伝 り、いつまでも消えない波紋を描きはじ上毛高原駅から車で三十分ほどの老人ホ『なっかしい本の話』で確認できる。と めたからである。 ( 略 ) つまりそのとき、 ームに暮していた。 いうよりか、藤井先生の話を踏まえれば、 私はここにまぎれもない人生の真実が描「今まで誰にも話さないできたけれども、江藤は自殺未遂の事実を『なっかしい本 かれていると思ったのである」。短篇小もう言ってもいいでしよう。江藤君は学の話』の中に、かなりはっきりと書き込 説の近くを引用した後、江藤は「そ生のとき、自殺未遂をやってるんだ。慶んでいるのだった。「その夜、私は深く の夜、私は深く眠った」という一行を記子さんが真っ青になって三田 ( 大学 ) へ眠った」と、大胆といっていい書き方で。 している。 来て、それで私は学校の仕事 ( 通信教育「チェーホフの、、、『退屈な話』を読んでか 天井を見つめてまんじりともしない部の講師 ) を放り出して、江藤君の家にらというもの、私はしばらくのあいだ書 「眠られぬ夜」が来てもおかしくない精一緒に行ったんだ。田町駅から一緒に電物を手に取りさえしなかった。 神状態のはずなのに、「その夜、私は深車に乗ってね : 。王子 ( 十条仲原 ) のそれはかならずしも、私がこの小説に く眠った」というのは、考えてみれば、三井銀行の社宅で、西陽のあたる八畳ぐ " 文学的〃に参ってしまったから、とい 引っかかる表現である。この一行が「文らいの部屋にね、蒲団敷いて寝てましたうわけではない。この世の先には、なに 学的」なものへの嫌悪の始まりであった。よ。私が駈けつけた日にやったのか、そもないのだ、という恐しい啓示が、この の前か、そこまではわかりません。 ( 手小説を読んでいるうちに、私をしたたか 「恩師」藤井昇先生の証言 段は ) 薬だったんじゃないかな。その日、に打ちのめしたからである。 そのことを示唆してくれたのは、慶大何を喋ったかは覚えていません。慶子さ その空間は暗く、寥々としていて、風 一年生の江藤に英文法を教え、江藤の才んの話では豸しきものがあって、 が蕭々と吹きわたっていた。しかも、そ 能を愛し、英文科進学を勧めた「恩師」江藤君は自分の蔵書を大橋君 ( 大橋吉之こに佇む私は一人きりで、心は薮にみ 藤井昇だった。笄は江藤の四年後に亡輔。一年の時の担任だったアメリカ文学ち、どんな光を見ることもできず、誰の

3. 新潮45 2016年9月号

川浜市鶴見区に引っ越し、長男は川り仕切っている会社ですから、重要書類ほうから船会社でロシア語ができる人間 崎にあった東芝のトランジスタ工場に勤が山ほどあるわけです。それを随時コピを求めているという話があった。これは めることになった。 ーして渡すだけでなく、公にできない活すぐに就職させられると、兄は東洋共同 そこで一家はそれぞれ大きな転機を迎動もしていました。弟も別の会社に就職海運に、弟は別の運輸会社の横浜支店に えることになるのだ。 させるということでした」 就職させました」 堂上氏は、昭和三七年に鬚学校に人 ソ連に留学し語学が堪能ということで、 公安警察と吉田家 兄弟とも公安警察からリクルートされた学し、翌年から神奈川県警の戸 . 部署、横 まず長男について。 というのである。昭和五一年のことだ。浜水上署、本部外事課、鶴見署などに勤 さらりと驚くべき話が攜された。そ にわかには信じがたい話だが、当時、務し、公安擎鬚の最前線で諜報活動を行 ってきた人物である。途中、ロシア語の の話を聞いた時、何度も聞き返さずには彼を勧誘した神奈川県警の刑事にもイン いられなかった。 タビューすることができた。仮に堂上明教育も受けている。 「公安警察の方から、日ソ合弁の船会社氏とするが、七八歳の彼の記憶は鮮明だ彼は吉田家と非常に親密な関係を築き、 で働かないかという話があったんです。った。 一家ぐるみの付を答いに発展する。清治 そこでロシア語ができる人を探している「東芝の。ハーツ工場にソ連の大学を卒業氏の妻フサ工さんは昭和五四年に死去す ので、人社して彼らを監視してほしい。 した人物がいるという情報が人ってきて、るが、その葬儀を取り仕切り、翌年の次 横浜港に人るソ連船の船舶業務を全部取会いに行きました。当時、水上警寂旧の男の結婚式にも親族として出席している。 築和 朝本人へ伝えたいごど ( , で平 季登輝 物トニ、 旧で戸 も李登輝 定価】本体 1100 円 ( 税別 ) 日本人へ ーダー不在、 哲人政治家・元台湾総統が叱咤激励 ! ゼロ ( 米一国支配終焉 ) 時代のニッポンの進むべき道。 毎日新聞出版 〒 102-0074 東京都千代田区九段南 1 ・ 6 ・ 17 httø://mainichibooks ℃ om/ 65 慰安婦問題を作った男の肖像

4. 新潮45 2016年9月号

いることを把握していなかった。諜報機らにいろいろ尋ねている。だが昭和一二年に吉田清治氏が十とした 関とすればお粗末な話であるが、堂上氏とは最後まで言わなかった。そして「電四歳下の韓国人・李禎郁氏のことである。 はと確信した。 車賃もなさそうだったので」五〇〇円く すでに彼は昭和一七年に日本人と結婚 まだ金大中事件が記憶から薄れていならいを渡して別れたという。 し、日本と中国で一一人の子供をもうけた い時期だった。昭和四八年八月八日、民公安警察はこうした事実を知りながら、ことまでは記した。では、その後、彼は 主活勲豕だった金大中は、白昼、束示都吉田清治氏の背後関係を調査した形跡がどうなったか。 千代田区のホテルグランド。ハレスから拉ない。それはなぜなのか、 礬後は日本に戻り、福岡市でさらに一一 致され、密かに日本から連れ出された。 「私はこの話を上司にはしていません。男をもうけている。 そして橆経て、事件から五日後にソこの話をすれば息子たちが知り、ソ連か そしてその頃、彼は福岡市板付の米軍 ウル市内の自則で発見された。これをらの情報収集に支障をきたすからです」基地 ( 福岡港 ) で、〈留軍労働組合 実行したのが、だった。 だからこの一件は吉田兄弟も知らないの活動家になっていた。長男は、 それにしても、なぜ清治氏はそののだという。 「一度も会ったことがない。〈労にい と動いているのか。そのの言いなり 長男に確認すると、困惑気味にこう話たことは聞いたことがあります。上京し になっているのか。当然、堂上氏がそこす。 た父と付き合いがあったかはわからな へ切り込むと、こう答えたという。 「おそらくそれは父の作り話です。子どい」 ″若干、お金を借りています。これは息もでもあるまいし、親が勝手に本人の許と一言うが、先の堂上氏はこんな証言を 子たちに言っていません。わたしがちょ可もなく会社を辞めさせることはできまする。 っと困った様子を見せたら、これを使いせん。私は自分の亠坐心で川崎から新橋の「あの日、あなたはなぜ韓国に興味を持 なさいと渡されました。三〇万円くらい翻訳会社に転職しました。がよかっ っているかを聞いたんです。そうしたら、 です。私がいまやっていることについて、たからです。父は私たち兄弟をダシにし " 私はいいこともするんですよ、全駐労 その人たちはいろいろ教示してくれまて何かの理由で堂上さんに接触を図った って知ってますか。〈労の人とも私、 す〃 のではないでしようか」 お話ししてます。労の初代長、 その後、堂上氏は、川崎のステーショ ここでもう一つ、知られざる事実に触韓国人なんですよ。でもそれじゃ困るか ンビル最上階の食堂に清治氏を誘い、されておかねばならない。 らと私の籍にいれさせたんですよ〃、そ

5. 新潮45 2016年9月号

新小岩で店を経営していた、三十五歳だが、直感で決めつけられるものでは改めて読み返しても、怖いというよりひ の台湾人ママ。彼女は日本人との間に娘ない。別の古い記事を探したら、そちらたすら悲しい事件だった。再び南島さん をもうけたが、その最初の夫とは離婚には本名が出ていた。内容を伏せ、南島に、美麗の母は高雄出身と記事にあると し、事件当時は何度目かの日本人の夫がさんに訊ねた。美麗のお母さんの名前わ聞いてみたら。 いた。 かりますか。 「美麗、ちゃんと高雄まで墓参りに行っ 彼女の店は表向きはスナックだが、雇しばらくして、もともと美麗と親しいてますよ。でもあの子のスマホには母の っているタイ女性達は店で酒の相手をす南島さんは返信をくれた。そこに書かれ墓と骨壺まで写真は保存されてますが、 るホステスではなく、店外に連れ出されていた美麗の母の名前は、新小岩の惨殺なぜか母の顔写真は一枚も無いんですよ て近くのホテルで売春させられていた。事件の被圭署のそれと完全に一致した。ね」 ママに。ハスポートも取り上げられ、借金隠すのも不自然なので南島さんに事件のさて、久しぶりにに書かせてもらう 話をしたら、しばらく絶句していた。 も作らされ、ほぼ不状態にあった。 ことになり、さんとは面識がなかった 売春は強要される、借金は減らない、 次に私は、『週刊新潮』の r-n くんにこので一度会いましようとなった。それが 逆らえばママに殴られ罵倒される。もうの話をした。ときおり名物連載『黒い報六月某日になったと南島さんに伝えたら、 耐えられないとタイ人ホステス達はママ告書』を書かせてもらっていて、彼はそ「私、ちょうどその日に東京へ戻りま を六人で襲い、ママはメッタ刺しにされの担当だ。 ( 0 「そりやすごいですね、まさに黒い報告 と驚きの声を上げられた。これはもう、 血だまりの中、牛刀が首に刺さったま書です」 南島さんも呼ばなければならないとなり、 まの母の惨殺死体を発見したのは、当時くんは、その話を『新潮菊』のさ新宿のファミレスに四人集まったが、台 まだ高校生だった一人娘だ。娘は事件後、んに伝えた。さんは事件当時、関係者 / 湾で取材するなら同行すると約束してく 母の故郷である台湾に戻った。加圭暑のヘ取材して記事を書いていたのだ。さられた。 タイ人達はかなり情状酌量され、殺人でに生々しい話を聞かされ、改めて美麗の 台湾取材の調整をしていた頃、立て続 はあるがみな十年以下の刑となった。 母親の事件を扱った記事のコ它ーや資料けにまた誰かの見えざる、いや、かなり ・ : 何の確証もないのに、惨殺されたをもらった。 見え見えの手に首根っ。こをつかまれた。 登場人物を目の当たりにしてきた後でその手は血の臭いをさせながら、どこか のは美麗の母だと身震いした。 September 2016 106

6. 新潮45 2016年9月号

聰応対の仕方とか、待ち合わせ場所のうまい父は、出版社何社かを訪ねてい 3 、 4 時間は聞いた。 の選び方とかいろいろ厳しい教育を受けけば簡単に出してもらえるって思っ、てい ( 中略 ) 当時の記憶は薄らいでいるが、 ました。誰かの手帳を翻訳したり、ロシたんじゃないでしようか」 それでも、彼の話には辻褄が合わないと ころもあった〉 アの軍艦が人港した時には乗員名簿をコ ただ、と長男は続ける。 ピーしたり。やつばりお国のためですし、「経験していないことは書けるはずがな そう書きつつも、この前川氏は三月 言われた通り頑張りました」 い。一冊、空想で書くことは不可能でし七日の紙面で「連載韓国・朝鮮人 2 長男が公安のために働くようになった よう。だから誰か手助けした人がいる。 ) 命令忠実に実行抵抗すれば木剣」 翌年の昭和五一一年、父の清治氏はデビュでも私はその頃、過労死寸前くらいに働と題する記事を書き掲載した。これは取 ー作『朝鮮人幽女婦と日本人』を出版すいてましたから、ずっと家にいた父とは消記事のもっとも古いものとなる。 る。版元の新人物往来社で担当したのは、ほとんどかかわっていないんです」 わざわざ ~ をしているのは、 ~ 釁や 後に草風館という出版社をおこすことに同書にある朝鮮に出張しての畧モニター好きの性向が頭をもたげてきた なる内川千裕氏である。在日朝鮮人やア労務者の強制徴用や下関での幽女婦調達からなのか、それともこの贈を広めね イヌ関係の書物を数多く出版してきた人の内容に関して、当時、さして反響があばならないさし迫った理由があったのか。 物だが、平成一一〇年、鬼籍に人っている。ったようには思われない。そのせいなのどちらにしても清治氏は積極的に動き出 したがって出版の経緯を彼の口から聞くか、昭和五五年、清治氏は朝日新聞川崎したのだ。 ことができないが、週刊朝日の投稿以来、支局に売り込みの車をかけている。そ 土下座事件 長らく咸むてきた清治氏がここで出版れを受けた前川惠司氏が『朝日新聞元ソ したのは、何らかのきっかけや理由があウル特派員が見た「慰安婦虚報」の真この時代の清治氏について、驚くべき ったはずである。 実』の中でこう書いている。 証一一一口をする人がいる。先の神奈川県警刑 「もともとは自分の自叙伝を書くつもり〈「朝鮮人の徴用について自分はいろい事の堂上氏だ。 くらいだったんじゃないでしようか」 ろと知っているので、話を聞いて欲し「お父さん ( 清治氏 ) とは、奥さんの葬 と語るのは長男である。 式にしても次男の式にしても、すぐ 「私が本を出したのを見て、それも口述と ~ 男請してきたのが、吉田氏だった。 その場からいなくなってしまって、ちゃ で本を出せたわけですから、私より文章横浜市内の彼のア。ハートを訪ね、話をんと話をしたことがなかった。それが突

7. 新潮45 2016年9月号

すのに 「百鬼夜行」する選挙 選挙となれば、政治家は媚びへつらう。でも、地金は見えたまんまなんだよね 自宅から最寄の駅に向うとき、よく通いフンだから、同一犯と思われる。犯行世の中には「邪悪」としか形容できな る道がある。大通りにつながる住宅街の時刻は人通りの少ない深夜だろう。要すい人間が一定の割合で存在する。 細い道だが、そこに犬のフンがよく落ちるに犯人は、住民が切実に被害を訴えるある酒場で政治の話題になった。興味 ている。昨日今日の話ではない。少なく中、一〇年以上にわたり大のフンを撒きーはなかったが、議論をふつかけられたの で、いくつかの事実のみを指摘した。す とも一〇年前には「ここにフンをさせな散らしているわけだ。 モラルがない人間にモラルを求めてもると彼は都合が悪くなったのか、まった いでください」という張り紙があった。 仕方がない。防犯カメラを訊したり見く関係ない話を始めてごまかした。私は 道沿いの家の多くが被害を受けており、 わずか五〇メートルほどの距離に張り紙張りをつけて犯人を特定したところで、酔っ払っていても話のスジは追っている 逆ギレされる可能性もある。警察を呼んので、それを指摘すると逆ギレした。 が一〇ヶ所以上ある。 立場が違う人間、考え方が違う人間と でも、交番で説教されるくらいだろう。 長い文面もあった。 「飼い主さん ( 。モラルを忘れないで。乱暴に身柄を拘束すれば、住民側が罪に議論することはできるが、邪悪な人間と ご自身の自則にフンがあったらどう思問われかねない。窈な警告を与えるこは無理である。そのとき私は、橋下徹が とができたとしても、犯人は翌日から一書いたいくつかの文章を思い出した。 いますか ! 」 私がいつも見かけるのは、細くて小さ本隣りの通りで大の散歩を始めるだけだ。《交渉において非常に重要なのが、こち 1975 年山梨県生まれ。早稲田大学で 西洋文学を学び、ニーチェを専攻。近著 に「デモクラシーの毒」 ( 藤井聡氏との 共著 ) 「ミシマの警告」「現代日本バカ図 鑑』「死ぬ前に後悔しない読書術」など。 てきなおさむ 作家・哲学者 September 2016 196

8. 新潮45 2016年9月号

日本の未来よしこ 顔を思い浮べることもできなかった。中不完全な「死」の時間といえばいいのだたのだった。以後の江藤の田絜と文筆は、 有の闇、というものがあるとすれば、そろうか。「中有の闇」を体験 ( 擬似体験 ) 「あれ」への接近であり、「あれーの感触 れはこんなものなのかも知れないとも思し、その闇から「どんな径路を辿ってを五感で ( 見北的に確かめることであった か」帰ってきた。そのことを『なっかしのかもしれない。 われた。 「藤井昇先生が、私を見舞に来て下さっ 『退屈な話』は、そういう場所へ私を連い本の話』は告げている。 江藤の生涯の主題となる『老子』にったのは、ちょうどこのころのことであ れて行き、そこに私を置き去りにした。 いての言及が、先の引用のすぐ後にくる。る」と『なっかしい本の話』は続く。 もう少し向うまで行けば、なにかがあっ たのか、それともあの空間がどこまでも「のちに私は、『老子』という古い書物を「小柄で、で、いつも紺サージの背 続いているだけなのか。いずれにしても、読んだ」。その第一一十五章を読み、「私は、広を着ておられる藤井先生と、蒲団の上 に坐り直して対座」する。藤井先生は原 私は、そこまでしか知らず、そこからど老子もあれを知っていたのかと思い」、 んな径路を辿ってか引き返して来て、茫「私は、もう少し辛抱していれば「天下書のラ・フォンテーヌ『靄集』を手渡 の母」に包まれていたのかも知れない」して、「病気のときには、こういうもの 然としていた」 「中有」とは仏教用語で、「中陰」ともと思う。「『老子』は単に黙示しているのがいいと思ってね」とやさしく声をかけ 言われる。死後四十九日、あの世に旅立ではなくて、むしろあれを描写しているる。江藤は「はい。本当に、病気のとき つまでの間、この世の闇をさまよっていのだと思われた」。「あれ」としか表現でにはこういうものがいいです」と返事を きないもの、そこに江藤はその夜、触れした、と。藤井先生に確認すると、『寓 る期間である。此岸と彼岸の間にある、 弱体化するアメリカに代わり、今こそ世界のメインプレーヤーに躍り出よー 日米はもとより、軍事的膨張を続ける中国など近隣諸国への対処など、我が国の未来を 確かなものにする指針と方策を示す。「週刊新潮」好評連載、書籍化ー・◎定価 ( 本体 1500 円 + 税 ) 189 江藤淳は甦える

9. 新潮45 2016年9月号

マンガ熱第 執る歴史研究家の朴慶植氏である。が請求権を放棄した日韓基本条約。それ わ部分だけでも手慣れた文章である。何文献のバイプルとされる彼の『朝鮮が結ばれた昭和四〇年前後の数年間、吉 最後の一文など非常にドラマチックで、人連行の記録』に引用されるのだ。田清治氏は、一家で小野田セメントの子 ただこの時点では、記事は労務報国会会社「小野田化学工業」の寮の住み込み 話を盛り上げて書く手法を持っているこ とがわかる。 の仕事の範疇での体験であり、「慰安婦管理人をしていた。 長男はこの投稿について少しだけ父か狩り」をしていたとも、済州島に行った「ここから自高校に通いました」 と長男は振り返る。 とも書いていない。 ら話を聞いていた。 「労務報国会で雇っていた朝鮮人の大半次に彼が労務報国会兀費部長として当時、生活に大きな変化があったのは、 は共産宀貲だったそうです。終戦の八月書くのは、昭和五一一年。最初の著作『朝その長男と次男だった。相次いでソ連に 一五日か翌日、家に集まってきた彼らに鮮人慰安婦と日本人』である。一四年後留学しているのである。 軍刀を振り回したというのは嘘だと言っのことである。 当時はまだ留学はおろか、海外に行く ていました。当時、軍人でもない父に、 この間の吉田氏の足取りはこれまでいことさえ非常に難しかった。このため、 っさいわかっていなかった。 一部では、一一人の息子のソ連留学に関し、 軍刀は支給されていなかったのです」 清治氏はソ連のス。ハイではないのか、コ それなら話自体の信馮桂も疑われるが、 長男次男のソ連留学 ミンテルンに関係しているのではないか、 この内容を事実としてすぐに著作に取り 八億ドルの援助資金と引き換えに韓国などと囁かれてきた。 込んだ人物がいた。朝鮮大学校で教鞭を マンガの面白さとは何 8 か。ちばてつや、大友克 洋、藤田和日郎、田中相 、くら物みふさ - 一 = べテランから気鋭圭日一 一ⅲ もはて 3 までが熱気あふれるマ摩 誉一第 ンガの〈現場〉を語りつ ン セ くしたインタビュー集。 ス マンガ家の現場ではなにがこっているのか ・本体 1800 円 + 税 サ なにが起こっているのか 63 慰安婦問題を作った男の肖像

10. 新潮45 2016年9月号

美麗も華子も若く見えるが実年齢はけたい空気に油断していると、思いがけなヤクザ寄りの日本人、母親が水商売の台 っこういっていて、水商売はべテランだい暗がりに引きずり込まれ、想定外の悪湾人。 また鷺さんと訪ねた。一一人の可憐 った。というより、他の職に就いたこと党に襲われるのだ。 がないという。一一人ともいろいろな過去そんな台北の路地を歩いていると、暗な日台混血娘とはやつばり、再会しても や苦労があるとしても、良くも悪くもあがりにふっと古い日杢豕屋にしか見えな他愛ない話を楽しくしただけだったが。 りふれたものだろうと感じたし想像した。い家が現れて驚かされる。それはまった美麗からは、前回は出なかった身の上話 を聞かされた。 そのときは鷺さんと普通の観光だけくもって、見た目の通りだそうだ。 して帰国し、それでもぼんやり台湾を舞「ここは日本統治時代、大正町と呼ばれ母親が束示で店を持っていたけれど、 台に書いてみたいと思い始めてちょうどてたんですよ。大正時代に区画整理され今の自分より若いとき東京で死んだと。 た ~ 〕綫住宅地で、総督府に勤める日本人私はなぜか、言いようのない不安感を 一年後の春、また台湾に飛んだ。 抱いた。東京で店を経営していた台湾女 南島さんだけでなく、日本で修業の後なんかが住んでいました」 に台北で日本式居酒屋を経営している台鷺さんの説明によると、その後は飲性は美麗の母だけではないし、若死にす 湾畧とも親しくなり、この大将の店に食店の立ち並ぶ繁華街となり、今現在はる人が極端に珍しいわけでもない。なの このように歓楽街、風俗街になっている。に、尋常でない何かを嗅き取った。美麗 行く楽しみもできていた。 件 ちなみに大将の店は台北の中心地にあだけでなく、ほとんどの店が日本人駐の後ろにいる誰かが、私をじっと見つめ殺 るが、は独特の歓楽街にある。ずらり在員や日本人の観光客を相手にしている、ているような気がした。 マ いったん帰国した私は、ネットでも検マ と日本語の看板が並んでいるのだ。私の今も日本人街なのだそうだ。 目には、もはやホームタウンとなった新戦争が終わって統治が終わって独立し索したし書棚から古い雑誌なども引っ張 宿歌舞伎町ではなく、錦糸町とか新少石て、 ~ 〕住宅地から風俗街となって町名り出した。そして十年くらい前の『新潮曙 も変わっても、変わりないのは今も昔も菊』を見つけ、その中に美麗を見つける つぼく映った。 のだ。 歌舞伎町は最初からみんなある程度の日本人街であるということだ。 そうだ、私は美麗に母の話を聞いたと娘 そこに馴染む、そこで生きるしかない 警戒心や宀みたいなものを持って来る から、さほど怖い目にも遭わずに済む。美麗と華子。すでにちらっと本人や周りき、この記事を確かに思い出したに違い だが、ゆるい雰囲気や安心できるっの人達にも聞いたが、ともに父親がややない。