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検索対象: 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学
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1. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

11 う最終講演ーー哲学と文学工ルンスト・マッハをめぐって 「現代が哲学をもっていないわけは、現代が哲学を創造できないためという より、むしろ、現代は、事実に合わない申し出を拒絶するがためである。 ( 実例の欲しい方は、控え目に自然哲学的試みと銘打たれた書物、若きベルリンの 哲学者、ヴォルフガング・ケーラーの『静止と恒常状態における物理的ゲシュタ ルト』を読まれるとよい。そして、それを理解されるだけの知識をおもちの方な けいじじようがく ら、きっと事実についての科学の次元から、太古の形而上学的難問の解決が暗示 されていることに気づかれよう ) 」 ( 『ムージル著作集』第九巻、田島範男、長谷川 八ページ ) 。 淳基訳、松籟社、一九九七年、一二 フッサール、ケーラー コフカらの織りなす ムージルの創作活動が、マッハ、 世紀転換期オーストリアの思想圏で営まれていたことは明らかなようです。 マッ八とヴァレリー ( 一八七一—一九四五年 ) とマッハの関 最後にもう一人、ポール・ヴァレリー 。についてふれておきたいと思います。これは、実はごく最近フランス文学の清

2. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

念を機能概念に解消することによって実証法学を構築し、第一次大戦後それにも とづいて起草したオーストリア憲法が、初代大統領となった政治的盟友カール・ 。レンナーによって採用されたこととか、マッハをめぐってまだ語るべきことは多 め をいのですが、いまはもうふれている暇がありません。テーマに掲げたマッ ( を介 しての「哲学と文学」の関わりの話に入らなければならないからです。 マ ホーフマンスタール ス すっかり話が散漫になってしまいましたが、先ほども申しましたように、 学八〇年代半ばのほとんど同じ時期に、マッ ( とニーチ = はきわめてよく似た思想、 社きわめてよく似た世界像を提示しております。しかし、この二人の属する知的文 哲 脈があまりにも違いすぎるので、私たちが彼らのこうした関係に気づいたのはご 演 く最近になってからのことなのですが、実はすでに世紀転換期にこの二人を結び 講 最つけて考えていた一群の文学者がおりました。 それは、アルトウール・シュニツッラーやペーター・アルテンベルク、ヘルマ フォン・ホーフマ ン・くール、レオポルド・フォン・アンドリアン、フーゴ

3. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

名古屋大学出版会、一九九〇年 ) や他の伝記作家たちが明らかにしているように、 ハイデガーのこのナチスへのコミットは、彼自身が後年、雑誌『シュ。ヒーゲル』 のインタヴューで言っていたような、自分が引き受けなければ事態がもっと悪く 哽なると思ってやむをえずといったようなものでもなければ、けっして一過性のも 思 のでもなく、かなり本質的な思想的根拠にもとづいてのものであるし、彼にはむ しろ「民族の教師としてヒットラーを思想的に指導してやろうというくらいの を 邯気持があったようである。 とでは、『存在と時間』のどこにそれを予感させるようなものがあるのか。少な 第くともこの本の既刊部でそれを指摘するのはむずかしい。だが、先にも述べたよ うに、この本は未完成品である。ハイデガーがこの本の「序論」で提示している プログラムに照らしてみると、刊行された上巻には予定された全体の三分の一し 講かふくまれていない。はじめに述べたように、私は『 ( イデガー『存在と時間』 最の構築』でこのプログラムと前後の講義録を使って、書かれなかった下巻の再構 成を試みてみたが、この下巻には、彼をナチスにコミットさせかねない思想動機 がひそんでいたように思われる。まずこの本の構想の成り立ちから考えてみよう。

4. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

1 ろ 2 してみせようと意図されたイディオムによって碑文調の異様さをかもし出す。ヒ ットラーの言語は、ロゴスに対する反物質のようなものだ、と言った上で、スタ イナーはこう要約する。 「要するに、第一次大戦後のドイツ語は、他のいかなゑ = ロ語よりもいっそう 意識的に、 いっそう暴力的に、また事実上ダダの影響ーー時代の絶望と希望 とを表明しうる人類の新たな一一一一口語をもとめるその絶望的な呼びかけの影響ー ーを受けてきたそれなりの流儀で、過去との断絶をもとめているのである。 特に可動的な構文法を賦与され、語や語根をほとんど意のままに砕いたり融 合させたりしうる可能性を賦与されたドイツ語は、刷新の誘因として、過去 のものとしてハ た、つまりマイター ックハレトやべーメやヘル シュルレアリスム ダーリンを選び現代のものとしては、超現実主義や映画のような革新、 を選んでいるように見える。『救済の星』やプロツ。 . 赤のメシア信仰的著作群、 バルトの聖書解釈学、そしてなかんずく『存在と時間』は、もっとも革命的 な性格の言語活動である」 ( 前掲訳書、七 5 八ページ )

5. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

ンヨルンユ ハタイユ、オクタビオ・パス、パウル・ツェラン、ルネ・シャール、 ジョルジュ・ブラックと第一級の文学者・詩人・画家がその思想に傾倒した。二 〇世紀を代表する哲学書であることに間違いはない。 史 だが、実はこの『存在と時間』は、予告された全体の半分も書かれずに放棄さ 想 れてしまった未完の書なのである。 ( イデガーは、この本の究極の狙いは「存在 一般の意味の究明ーにあると言うのだが、既刊部ではそうした究明はまったくお を こなわれていない。そのための準備作業である人間存在の分析に終始しているの とである。結局は本論の入口までもいっていない未完の書だということになる。そ れにもかかわらず、この本がこれほどまでに大きな影響力をもちえたというのは まことに驚くべきことである。 説 / ハよ、、 補 ノイデガーのこの『存在と時間』を読みたい一心で哲学の勉強をはじめ た男であり、ほとんど半世紀間この本を読みつづけてきた。さすがに少し分かっ 最てきたような気がする。私は、この本は、ハイデガーが。フログラムだけ残し、実 際には書かないでしまった未刊部を考慮に入れて読むべき本だと思っている。拙 著『ハイデガー『存在と時間』の構築』 ( 岩波現代文庫、二〇〇〇年 ) で、未刊部

6. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

112 ろう。〔 : ・ : 〕といのも、神は世界を作りながら、この世界は別様でもありう るだろうと考えているのだからーと書いているそうです ( 大川勇「可能性感覚の 射程」、前掲『ムージ思惟する感覚』所収、二九九ページ ) 。この大川さんも書い ているように、むろこれはライプニツツの『弁神論』を裏がえした考え方です が、一方、ムージルこの〈可能性感覚〉にはフッサールの〈本質直観〉に近い ものも感じられますフッサールの言う〈本質〉というのも、現実的なものが生 起してくる際にのつるべき規則のようなものであり、彼はこれを、ゆるがしが たいものとされる現を相対化するための手段として使っているのです。後期の 『デカルト的省察』〔一九二九年〔においても、フッサールは自分の〈現象学〉を、 「純粋な可能性 ( 純、な表象可能性、純粋な想像可能性 ) の領域のうちに身を置く ア・プリオリな学、 : つまり超越論的存在の現実性についてではなく、むしろ そのア・。フリオリな口能性について判断し、そうすることによって同時に、もろ もろの現実にア・プリオリな規則を予示するような学」〔『フッサリアーナ』第一 巻、五六ページ〕と定しています。彼の言うア・プリオリな本質の領域とは、 ムージルの言う「 いだ目ざめぬ神のもくろみーに当たるようです。

7. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

マッ八主義 ードリッヒ・アードラーは、第二インタ 先ほどちょっとだけ名前を出したフリ ーナショナルのもっとも有能な指導者でもあればオーストリア社会民主党の創設 者でもあったヴィクトール・アードラーの息子ですが、彼はまたチ = ーリッヒ連 邦工科大学でアインシュタインの親友でもありました。フリードリッヒはきわめ て感受性が強く純粋で理想主義的な性格で、少年時代からマルクス主義に心酔し、 大学入学直後にも父の意に逆らって、鉱山や機械工場で労働運動に身を投じよう とさえしました。結局は父に説得されて物理学を学ぶことになり、アインシ = タ インに出会ったのもこのとき、一八九七年でした。二人は、少し前までローザ・ ルクセンブルクの住んでいた学生下宿に住み、アードラーはローザの使っていた その同じ部屋を使っていたといいます。アードラーは、物理学者としてはマッハ の現象学的物理学や進化論的認識論・科学論を信奉し、自然科学は純粋に経験に のみもとづいて形成されねばならないと考えていました。アードラーの理論物理 学に関する論文は、アインシュタインの特殊相対性理論に関する論文と同じ一九

8. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

〇五年に出版され、マッハに推奨されたそうです。アードラーはマルクス主義と マッハの進化論的認識論・科学論との統一を目指し、その後も社会主義の雑誌で 矼論陣を張りつづけました。レー = ンとも親交がありましたし、第一次世界大戦前 め七年にわたってウィーンに滞在していたトロッキーとも親しく、トロッキーはア ードラーを自分の「思想上の同志にして友人ーと呼んでいたといいます。 マ 同じ頃イタリア ( カプリ島のゴーリキーの別荘やポロ ーニヤの党学校 ) に亡命し スていたポグダーノフや、チューリッヒでアヴェナリウスに学んだルナチャルスキ それにバザーロフ、ヴァレンチーノフといったロシアの亡命者たちも、一九 工 学世紀科学を基礎に据えたエンゲルス流の唯物論を批判し、マッハやアヴェナリウ スの経験批判論によってマルクス主義の改造をはかろうとしていました。最初に 学 ふれたいわゆるロシア・マッハ主義者たちです。当然レーニンやトロッキーを介 ードリッヒ・アードラーのあいだになんらかの思想的交流があ 演して、彼らとフリ 終ったと思われるのですが、具体的な事情は分かりませんでした。 ードリッヒ・アードラーは、一九〇九年に自分の権利を譲るかのようにし て、当時ベルンの特許局で働いていたアインシュタインをチューリッヒ大学の教

9. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

ハイデガーのこういった基本 『行動の構造』〔一九四二年〕を読んでいるうちに、 的概念の意味が分かるようになったのです。 メルロ日ポンティが『行動の構造』を書いたとき、彼はまだ『存在と時間』を 読んでいなかったのですから、その『行動の構造』を読んで『存在と時間』を理 解するヒントを得たというのもおかしな話ですが、あとから考えると、これにも それなりの必然性がありました。それはこういうことです。メルロ日ポンティは サルトルとほとんど同じ一九三〇年代の半ばに、ドイツの現象学をフランスに移 む 植した人ですが、サルトルがフッサールの『イデーン』第一巻あたりを中心に現 読 一象学を学んだのに対して、メルロⅱポンティはアロン・ギ、ルヴィッチという、 デドイツを経由してロシアから亡命してきた人に現象学の手ほどきを受けたようで すし、このアロン・ギ = ルヴィッチが、マックス・シ = ーラーに近い線で現象学 義を理解していました。つまり、現象学を、当時進行中だった心理学を中心とする 生命・人間諸科学の方法論的改革の流れのなかにあって、その方法論的改革を統 一的に推進しようとする企てとして理解しようとしていたのです。 したがって、サルトルとメルロ日ポンティの現象学理解にはかなり違ったとこ

10. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

を、その頃暮していた山形県の鶴岡という町に出来たばかりの県立の農林専門学 えたじま 校で過しました。第二次大戦の敗戦のときには江田島の海軍兵学校にいましたが、 もともと満洲 ( 中国東北部 ) 育ちでしたので、一年後には満洲から引き揚げてき た家族を迎えて、鶴岡に住みつきました。そこで市役所の臨時雇やら小学校の代 もう 用教員やらをして家族を養っていましたが、兼業の闇商売で一儲けし、その学校 に人ったのです。その頃は父がまだシベリアに抑留されていて、生きているか死 んでいるかも分からない状態でしたし、とても卒業するまで在学できるなどとは 思っていなかったので、ひどく悪質な不良学生でしたし、もともと農業の勉強な どする気はまったくないので、小説ばかり読んで暮しました。 吉川英治の『宮本武蔵』を読むと、関ヶ原の合戦のあと、落武者になって故郷 たくあん に帰り暴れまわっていた武蔵が沢庵和尚にとりおさえられ、姫路城の天守閣に三 年間押しこめられて本ばかり読んで暮す話が出てきます。私もあとから考えます と、むろん武蔵とは比べものになりませんが、鶴岡で文学書ばかり読んで暮した ぜいたく この三年間がひどく贅沢な、貴重な時間だったような気がします。七〇年の人生 でも、文学書をあんなに集中して読んだことは二度とありませんでした。