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検索対象: 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学
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1. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

この時代のドイツの知識人が共感したのは〈下からの革命〉、それも「・種り永久ー 革命を説く撃隊 - のイデ矛目ギにであった。だが、政権の座についたヒットラ ーにとっては、財閥や国軍との妥協は不可避であり、不断に革命を繰りかえそう 哽とする突撃隊はじゃまものでしかない。こうして一九三四年六月三〇日、いわゆ る〈サーベルの夜〉のナ・ヂズ・親衛による突撃隊の大粛清がおこなわれることに なるのであるが、すでにそれ以前から大学の学生組織の主導権は突撃隊系列から 親衛隊系列に移っており、フライブルク大学においても学生組織が ( イデガー統 時 長のコントロールのきかないものになっていた。いわばナチス内部のイデオロギ 在 第ー闘争に敗れて、ハイデガーは一年後に総長を辞任することになるのである。こ のあたりの事情については、ヴィクトル・ファリアスがよく調べあげている。 説 補 一九八七年に刊行されたこのファリアスの『ハイデガーとナチズム』がきっか 講けとなって烈しい ( イデガー批判が再燃したが、その前後ジャック・デリダが 最『精神について』〔一九八七年〕 ( 港道隆訳、人文書院、一九九〇年 ) を書いて、一種 ガイスト のハイデガー弁を試みた。。 テリダはハイデガーの〈精神〉という一言葉の使い方 の変遷を跡づけて、結局のところ ( イデガーはナチズムの〈精神化〉を企ててい

2. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

『現象学の根本問題 それはともかく、ハイデガーは、『存在と時間』出版の直後に、どうやらその 失敗に気づいていたものらしく、その同じ一九二七年の夏学期には、明らかにそ のやりなおしと思われる『現象学の根本問題』という講義をやっております。こ の講義録は、 ( イデガーの生前の一九七五年から刊行されはじめた『 ( イデガー 全集』の第一回に配本された重要なものなのですが、この全集版の本文の第一ペ ハイデガーは「『存在と時間』第一部第三篇の新たな仕上げーという脚 注を付けています。しかし、読んでみると、この講義は、『存在と時間』全体の やりなおしとしか思えません。しかも、そのやりなおし方が面白いのです。『存 在と時間』の序論で提示されていた構想をそっくり逆にして、『存在と時間』で は未刊の第二部でやるはずだった歴史的な考察から論じはじめ、次いで第一部第 三篇でやるはずの「存在一般の意味の究明。をし、最後に第一部第一、二篇に当 たる人間存在の構造分析をおこなうという構想になっています。これもコ。ヒーを 見ていただきたいのですが、この講義は三部構成になっています ( 三六 5 三七ペ

3. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

になって、彼の性格の悪さのようなものが分かってきたことです。 ハイデガーがナチスにコミットしたということ自体は、これは一つの政治的決 断ですから、当時の歴史的状況のなかでファシズムなりナチズムなりのもってい た意味や、同じナチズムのなかにも幾つかあった路線の違い、そのイデオロギー 闘争のなかで ( イデガーがとった立場などを十分に検討した上で評価をくださな ければならない問題だと思いますが、それとは別に、レーヴィット、ファリアス、 オット、ザフランスキーらの伝記によって、この時代に時流に乗ったハイデガー が見せた性格の悪さや、親しい者に対する背信だの密告だのの事実が次々に暴露 一されてきました。 日本には、学問を学ぶと共に、人格的にも師に同化しようとする儒学の伝統が あるからでしようか、自分の勉強している哲学者の人柄が悪いと、ちょっと困っ 義てしまいます。ですから、ハイデガーのばあいも、彼が一九三三年、ナチス政権 樹立の直後にフライブルク大学の総長になり、ナチスに入党し、いかにもヒット ラーへの忠誠を誓うような「ドイツ大学の自己主張」という就任講演をおこなっ たという事実を、ドイツでも日本でもハイデガー信奉者たちは、一種の国内亡命

4. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

45 最終講義 ドイツでも ) がみな分かっていなかったようです。いや、いまでも分かっている ハイデガーの言葉 人はほとんどいないのじゃないか。みな、そのへんにくると、 かんじん をお経のように繰りかえしてるだけのようです。いちばん肝腎のこういう概念が 分からないのじゃ、話になりません。私も、ハイデガーについてはさつばり書く ことができませんでした。次々に出る彼の論文集や講義録は丹念に読んでいまし たが、論文一つ書くことができないでいました。書く方は、フッサールやメルロ ⅱポンティで書いて誤魔化していたのです。 読肝腎なことが分か 0 ていないということと、もう一つ、 ( イデガーという人は、 一ものすごくレトリークが強い。そのレトリークからはずして、彼の言っているこ デとを自分の言葉で言いなおそうとしても、なかなかうまく一一 = ロえません。これはヘ きようじん ーゲルと似ています。カントやフッサールにはそういった強靭なレトリークはな いので、彼らの考えていることを自分の言葉で考えなおすことができますが、ヘ ーゲルやハイデガーは、それが難しい。言おうとすると、結局彼らの言っている ことを一言葉どおり繰りかえすことになってしまいます。しかし、読んでは面白い。 読んで面白いものは、なかなか書けない。書けるものは、読んでもそれほど面白

5. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

152 イデガーの『存在と時間』、ウイトゲンシタインの『哲学探究』がテキストと して選ばれたが、そのいずれにも何年にもわたる・じ、づ、に・下寧な御ど、一」・ざ扣 『ハイデガー』 ( 岩波書店、一九八三年 ) を執筆中であっただけに、 『存在と時間』にたいする先生の取り組みには一種鬼気迫るものがあった。 先生はこうした研究姿勢をそのまま教育方針にされていた。先生は日頃こんな ことを口にされていた。 「哲学者は育てられないが、哲学教師なら月てることができゑそり最瓊隱がん ほかの学問はどうかわからないが、こと哲学にかんするかぎり、その内容をた だ要約してみてもあまり意味がない。そこになにが語られている力をそれがと のよう冫一口 しる力としうことカり離せオしし、後者を理解しないでは 前者をほんとうに理解したことにはなりそうにない。 たとえばヘーゲルの『精神現象学』とか、ハイデガーの『存在と時間』といっ た哲学史上の主著ともなるととりわけそうである。そのかわりその哲学者独特の 考え方のくみたいなものがわかってくると、それまで難解にみえた内容も比較

6. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

般の意味ーの具体的究明は見当たりません。「存在一般の意味の究明ーとは、「あ るということは一般にどういう意味かを考える」ということのはずなのですが、 『存在と時間』で問題にされているのは、もつばら人間の存在だけで、「存在一 般」は問題にされていないのです。 未完の書としての『存在と時間』 その食い違いの意味がはっきり分かるには、ずいぶん時間がかかりました。し かし、ぼんやりとした見当なら、二回目に読んだあたりでついてきました。食い を 違いがあっても当然なのです。というのも、この『存在と時間』という本は未完 ガ デ成品だからです。 ( イデガー自身、「序論」で全体の構想を提示しているのです が、この本はお手元のコ。ヒーをご覧いただけばお分かりのように ( 次ページ参照 ) 、 義二部六篇から成る予定でした。しかし、一九二七年に出された上巻には、第一部 の第一、二篇しか入っていません。つまり全体の三分の一しか書かれていない未 完成品なのです。「存在一般の意味ーを究明する本論は、どうやら下巻の方にま わされ、書かれた部分はそのための準備作業に終始したということになります。

7. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

非本来的にもなりうる、と考えるのです。非本来的な生き方をしている人たちは、 本来的に生きている人たちの一部として、その欠如部分として捉えられ、非本来 生は本来性のヴァリエーションにすぎないことになります。こういう考え方には、 キルケゴールの「あれかこれか」のような切羽つまったところがありません。実 存的な思索をもとめるなら、キルケゴールの方が遥かに適切に答えてくれそうな のです。 それに、、 / イデガー自身、『存在と時間』は人間存在の分析を目指すものでも ないし、実存哲学の書でもないと終始言いつづけているのですから、それを実存 哲学の書として読んで、当てがはずれたと言うのも妙なものです。私は、最初読 んだときから、どうもそういう読み方は、ハイデガーの意に反しているらしい、 ハイデガー自身の一一一一口いたいことは、もっと別のことらしいという感じだけはもっ ていました。しかし、それがなにかはどうもびったりとは分かりませんでした。 ハイデガー自身は、『存在と時間』の究極の狙いは「存在一般の意味の究明ー にあるのであり、人間存在の分析はあくまでその準備作業でしかないと言いつづ けていました。しかし、『存在と時間』をいくら引っくり返してみても、「存在一 はる

8. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

〈存在と時間〉 ハイデガーは、西洋哲学のこうした見なおし作業の視座として、〈存在と時間〉 の関係に目をとめました。「時間と存在」という表題が予定されていた第一部第 三篇で、〈存在Ⅱ生成〉〈存在Ⅱ被制作性〉といったさまざまな存在概念に、それ それ特有の時間的意味がふくまれていることを問題にし、いわゆる〈存在了解〉 が現存在 ( 人間 ) の時間性ーー人間がおのれ自身を時間として展開する仕方 と密接に連関し、時間性が変われば、つまり人間がおのれ自身を時間として展開 する仕方が変わり、自分自身の未来や過去とかかわる仕方が変われば、存在了解 も変わり、そこから異なった存在概念が形成される、ということを明らかにする はずでした。そこには、マックス・シ = ーラーから教えられた同時代の新しい生 物学思想などもとりこまれ、実に = = ークな思想が展開されるはずだったのです が、このあたりにこれ以上立ち入る時間はなさそうです。このあたりのことにつ いての私の推測も、『 ( イデガーの思想』 ( 岩波新書、一九九三年 ) などに書きま したので、お読みいただければ幸いです。

9. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

170 ドウルーズ『経験論と主体性』 ( 上記『ヒュームあるいは人間的自然』の改訳版 ) 河出 書房新社、一一〇〇〇年 みすず書房、二〇〇一年四月 『メルロポンティ・コレクション』 1 二〇〇一年七月 二〇〇一年九月 二〇〇一一年一月 二〇〇二年四月 二〇〇二年七月 二〇〇一一年一〇月 アンドレ・コントⅡスポンヴィル『哲学はこんなふうに』 ( 小須田健、コリーヌ・カン タンと共訳 ) 紀伊國屋書店、二〇〇二年一〇月 シンポル パノフスキーズ象徴形式〉としての遠近法』 ( 新版 ) 哲学書房、二〇〇三年四月 ( イデガー往復書簡一九二五ー一九七五』 ( 大島かおりと共訳 ) みすず書 房、二〇〇三年八月 アンドレ・コントⅱスポンヴィル『幸福は絶望のうえに』 ( 小須田健、コリーヌ・カン タンと共訳 ) 紀伊國屋書店、二〇〇四年二月 マーティン・ジェイ『アドルノ』 ( 上記同名のものの文庫化 ) 岩波現代文庫、二〇〇七 『アーレント日

10. 木田元の最終講義 : 反哲学としての哲学

名古屋大学出版会、一九九〇年 ) や他の伝記作家たちが明らかにしているように、 ハイデガーのこのナチスへのコミットは、彼自身が後年、雑誌『シュ。ヒーゲル』 のインタヴューで言っていたような、自分が引き受けなければ事態がもっと悪く 哽なると思ってやむをえずといったようなものでもなければ、けっして一過性のも 思 のでもなく、かなり本質的な思想的根拠にもとづいてのものであるし、彼にはむ しろ「民族の教師としてヒットラーを思想的に指導してやろうというくらいの を 邯気持があったようである。 とでは、『存在と時間』のどこにそれを予感させるようなものがあるのか。少な 第くともこの本の既刊部でそれを指摘するのはむずかしい。だが、先にも述べたよ うに、この本は未完成品である。ハイデガーがこの本の「序論」で提示している プログラムに照らしてみると、刊行された上巻には予定された全体の三分の一し 講かふくまれていない。はじめに述べたように、私は『 ( イデガー『存在と時間』 最の構築』でこのプログラムと前後の講義録を使って、書かれなかった下巻の再構 成を試みてみたが、この下巻には、彼をナチスにコミットさせかねない思想動機 がひそんでいたように思われる。まずこの本の構想の成り立ちから考えてみよう。