『存在と時間』の当初の構想では、西洋文化形成の基底に据えられた〈存在Ⅱ被 制作性〉という存在概念、ないしはそれに由来する〈物質的自然観〉ーー自然を 制作のための死せる材料としてしか見ない自然観ーーは、人間の非本来的な時間 性ーー〈現在〉だけが優越する時間化の仕方ーーを場にしておこなわれる存在了 解から生じたものだということが明らかにされるはずでした。その上でハイデガ ーは、人間を非本来性から来性に立ち返らせることによって存在了解を変え、 と見るような存在概念、そして、自然 それとはまったく異なった〈在Ⅱ む を生きて生成するものと見る自然観を復権し、文化形成の方向を転換しようと企 読 一てるつもりだったようです。 むろん人間が生き方を変えるといっても、一人や二人の人間がそんなことをし てもどうなるものじゃありません。しかし、世界史を領導することのできる一つ 義の民族が、全体としてその生き方を変えるようなことが起これば話は違ってきま ふうび 終 す。ハイデガーも当初は、彼の青年時代にドイツを風靡した「ドイツ青年運動ー 最 のようなものにその期待を寄せたようですが、のちにはナチスにその夢を賭けよ うとしたようで、彼のナチスへのコミットもここにつながるのだと思います。
1 ろ 6 『存在と時間』は二部から成るはずであった ( 本書三二ページ参照 ) 。第一部では 第一篇と第二篇で準備作業として人間存在の分析がおこなわれ、第三篇で〈存 在〉と〈時間〉との関係が問われる ( が、実際には第二篇までしか書かれなかった ) 。 第二部では、第一篇カント、第二篇デカルトとスコラ、そして第三篇アリストテ レスと、時間の順序を遡りながら、西洋哲学史の見なおしが企てられるはずであ った。いわば歴史的考察であるが、ここはまったく書かれないでしまった。では、 この構想はどんなふうに発想されたのか。 一九二三年に書かれ、ハイデガ 一九八九年に発見された「ナトル。フ報告」 ーが『存在と時間』の最初の下書きと呼んでいたが、永いあいだ所在不明であっ たもの に照らしてみると、こういうことになる。もともとアリストテレス研 究者として出発したハイデガーは、アリストテレスのテキストや中世スコラ学者 によるその注釈書を丹念に読み解き、さらにデカルト、カントら近代の哲学者の テキストを読み進むうちに、西洋哲学史にはプラトン / アリストテレス以来〈存 在〉を〈被制作性〉と見る、つまり〈ある〉ということを〈作られてある〉と見 る特殊な存在概念が、さまざまに変様されながらも一貫して承け継がれ、これが さかのぼ
の存在構造を説ぎ明かしてくれる本がなにかないものだろうかと探しもとめてい るうちに、やはり斎藤信治さんの論文集『実存の形而上学』で、ハイデガーとい うドイツの哲学者が、キルケゴールとドストエフスキーの弓い影響を受けて『存 在と時間』という本を書き、そこで時間という視点から人間存在の分析をしてい るということを知りました。 〈時間〉は、ドストエフスキーの小説でもキルケゴールの著作でも重要な役割を いおり 果たしています。『悪霊』には、スタヴローギンがチーホンという高僧の庵でお む こなう「スタヴローギンの告白という章があり、そこでドストエフスキーは 読 一〈過去〉というものがけっして過ぎ去るものではなく、〈現在〉、いや〈未来〉を テさえも深く規定しているものだということを具象的に描いてみせますし、キルケ ゴールも、たとえば『不安の概念』のなかで、時計で測られる物理的時間のうち 義には場所をもちえない〈瞬間〉を問題にしています。〈絶望〉そのものが時間の 病と言っていいようなものなのです。時計で測られる物理的時間やわれわれの通 俗的な時間表象にはとても収まりきれない時間的構造がわれわれの存在を規定し ているということを、彼らは語ろうとしているのです。
序論 第一部存在に関するいくつかの伝統的テーゼについての現象学的批判的論究。 第一章カントのテーゼ「存在はレア 1 ルな述語ではない」。 さかのぼ 第二章アリストテレスにまで遡る中世存在論のテーゼ「存在者の存在には本質 ェクシステンティア ェッセンティア 存在 (essentia) と事実存在 (existentia) が属する」。 レス・エクステンサ 第三章近代存在論のテーゼ「存在の基本様態は自然の存在 (res extensa) と精神 レス・コギタンス 部 の存在 (res cogitans) である」。 既第四章論理学のテ 1 ゼ「すべての存在者は、それらのそのつどの存在様態には かかわりなしに〈デアル〉によって語りかけられ論議される」。繋辞として の存在。 存在の基本的諸構造と基本 第二部存在一般の意味についての基礎存在論的問い。 的諸概念。 第一章存在論的差異の問題 ( 存在と存在者の違い ) 。 『現象学の根本問題』〔一九二七年夏学期講義〕 コプラ
ろ 7 最終講義 - ーーハイデガーを読む ェッセンティアェクシステンティア 第二章存在の基本的分節の問題 (essentia と existentia) 。 第三章存在のありうる諸変様とその多様性の統一の問題。 第四章存在の真理性格。 第三部存在論の学的方法と現象学的理念。 未第一章存在論の存在者的基盤と現存在の分析論。 第二章存在のア・プリオリ性とア・プリオリな認識の可能性およびその構造。 第三章現象学的方法の基本的部分。還元・構成・解体。 第四章現象学的存在論および哲学の概念。 オンティッシュ
〈存在と時間〉 ハイデガーは、西洋哲学のこうした見なおし作業の視座として、〈存在と時間〉 の関係に目をとめました。「時間と存在」という表題が予定されていた第一部第 三篇で、〈存在Ⅱ生成〉〈存在Ⅱ被制作性〉といったさまざまな存在概念に、それ それ特有の時間的意味がふくまれていることを問題にし、いわゆる〈存在了解〉 が現存在 ( 人間 ) の時間性ーー人間がおのれ自身を時間として展開する仕方 と密接に連関し、時間性が変われば、つまり人間がおのれ自身を時間として展開 する仕方が変わり、自分自身の未来や過去とかかわる仕方が変われば、存在了解 も変わり、そこから異なった存在概念が形成される、ということを明らかにする はずでした。そこには、マックス・シ = ーラーから教えられた同時代の新しい生 物学思想などもとりこまれ、実に = = ークな思想が展開されるはずだったのです が、このあたりにこれ以上立ち入る時間はなさそうです。このあたりのことにつ いての私の推測も、『 ( イデガーの思想』 ( 岩波新書、一九九三年 ) などに書きま したので、お読みいただければ幸いです。
下巻 ( 未刊 ) 序論 第一部現存在を時間性へ向けて解釈し、時間を存在への問いの超越論的地平とし 巻部 て究明する 上刊 既第一篇現存在の準備的基礎分析 l—・第二篇現存在と時間性 第三篇時間と存在 第二部テンボラリテートの問題群を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体 することの概要を示す 第一篇テンボラリテートの問題群の予備段階としてのカントの図式機能論およ び時間論 レース・コギタンス コ 1 ギト 第二篇デカルトの〈われ思う、われ在り〉の存在論的基礎と〈思考するもの〉 の問題群への中世存在論の継承 第三篇古代存在論の現象的基盤とその限界の判定基準としてのアリストテレス の時間論 『存在と時間』〔一九二七年〕
篇の構想を変える気はなかったのでしよう。彼自身、後年の講義 ( 一九四一年夏 学期『ドイツ観念論の形而上学』 ) のなかで、「自分はいまでもなお〈存在と時間〉 を乗り越えて前進したりはしていない」と主張し、ただしそのばあい「著作とし ての『存在と時間』」と「省察の名称としての〈存在と時間〉」は区別しなければ ならず、自分がいま言っているのは後者のことなのだが、と但し書きをつけてい ます。そう考えれば、彼が『存在と時間』の前にも後にも、一九三〇年代に入っ てからも、講義ではほとんど哲学の古典的テキストを採りあげ、それを解読する という作業をつづけていたわけも分かってきます。けっして前期は「実存思想」、 後期は「存在思想」なんかじゃないんです。むしろ、『存在と時間』の書かれた ェビソーディシュ 部分は、ハイデガーの思想の展開のなかで見れば、挿話的なもので、それも失敗 に終わったエ。ヒソードだったということになりそうです。 話は前後してしまいますが、『現象学の根本問題』を読んだころから、ある程 度こうした見当はついていたのですが、しかし、彼が西洋哲学史見なおしの拠点 にしている「存在ーとか「存在了解ーということが、しばらくはさつばり分かり ませんでした。これは私に限らず、当時のハイデガー研究者 ( 日本だけではなく
最講義・浦 『存在と時間』をめぐる 思想史 あとがき 文庫版あとがき 解説ーー村岡晋一 木田元略歴 『存在と時間』という本 『存在と時間』とその時代 『存在と時間』とナチズム 121 154 127 122 160 150 146 145
ザインスゲシェーエン 〈存在了解〉という概念を捨て、〈存在の生起〉という概念を採用することになり ます。彼は『形而上学入門』〔一九三五年〕という講義の全集版の付録の一節で 「存在了解から存在の生起へ ! ーというモットーを掲げていますが、これが彼の 前期から後期へのいわゆる〈思索の転回〉の指標なのだと思います。その転回は、 けっして〈前期Ⅱ実存思想〉から〈後期Ⅱ存在思想〉への転回なんかではありま せん。それは、人間が存在というものに対してもっ関係についての考え方の変更 なのです。しかし、そこでも、〈存在と時間〉という視点から西洋哲学史、いや む さらには西洋文化形成の歴史を見なおそうという作業は一貫して継続されている 読 一のです。そして、ハイデガーの眼は終始、この西洋文化形成の歴史において、 行〈哲学〉と呼ばれる特異な知の果たした役割に向けられています。 哲学批判としての哲学 義 講 終 こう考えれば、、 ノイデガーや、それに先立ってニーチェの仕事が哲学批判にあ 最 ったということもお分かりいただけるのではないかと思います。むろんこのばあ 「哲学ーということで、漠然と世界観・人生観のたぐいが考えられているので