『存在と時間』と『現象学の根本問題』の関係 私は、大学院の一年目にこの講義録を読み、そうすぐなにもかも分かったわけ ではないのですが、それでも、ハイデガーが『存在と時間』の未刊の下巻で大体 どんなことを書こうとしていたのかのある見当はっきました。なにしろ話を逆に 組み立てようとしているのですから、『存在と時間』の第二部や第一部第三篇で 書こうとしていたことが、この講義録である程度語られているわけです。そうし てみると、『存在と時間』は書かれなかった後半部を考慮に入れて読まなければ 一ならない、書かれた部分は後半部を書くための準備作業にすぎないということも デ分かってきて、これまでのように、この本を書かれた部分だけで完結したように 読む読み方、つまり人間存在の構造分析をする実存哲学として読む読み方は間違 義 いだと、かなり自信をもって考えられるようになりました。 講 終 どうやらハイデガーが最初に発想し、本当に書きたかったのは、『存在と時間』 最 〕「一一宀引・な引、 , ・第「一部の・西洋哲学史の・見料し・ - 窈部分ぞ、第一部第三篇は、その歴 史的考察のための方法的視座の獲得に当てられ、実際に書かれた第一部第一、二
『現象学の根本問題 それはともかく、ハイデガーは、『存在と時間』出版の直後に、どうやらその 失敗に気づいていたものらしく、その同じ一九二七年の夏学期には、明らかにそ のやりなおしと思われる『現象学の根本問題』という講義をやっております。こ の講義録は、 ( イデガーの生前の一九七五年から刊行されはじめた『 ( イデガー 全集』の第一回に配本された重要なものなのですが、この全集版の本文の第一ペ ハイデガーは「『存在と時間』第一部第三篇の新たな仕上げーという脚 注を付けています。しかし、読んでみると、この講義は、『存在と時間』全体の やりなおしとしか思えません。しかも、そのやりなおし方が面白いのです。『存 在と時間』の序論で提示されていた構想をそっくり逆にして、『存在と時間』で は未刊の第二部でやるはずだった歴史的な考察から論じはじめ、次いで第一部第 三篇でやるはずの「存在一般の意味の究明。をし、最後に第一部第一、二篇に当 たる人間存在の構造分析をおこなうという構想になっています。これもコ。ヒーを 見ていただきたいのですが、この講義は三部構成になっています ( 三六 5 三七ペ
ハイデガーがもともとアリストテレス研究から、つまり哲学史研究から出発し たことはよく知られています。彼は根っからの哲学史家なのです。彼がアリスト テレスのテキストを、それこそ舐めるようによく読みこんてしたことは、講義録 を読んでみれば明らかです。そのアリストテレスにはじまる歴史研究をおこなっ ているうちに彼は 0 画洋哲 - 学哽を辷れまでとはま 0 たく違 0 た視角から見なおす ことを思し らい、たよです。のちに申し上げますが、それにはニーチェの示唆が 大きく貢献したにちがいなさそうですが。それはともかく、この西洋哲学史の根 む 本的な見なおし作業、これが『存在と時間』の最初の発想であり、その見なおし 読 一作業の拠点として〈存在と時間〉の密接な関わりが思いっかれました。つまり、 デどの存在概念もなんらかの時間的意味をふくんでいる。その時間的意味に目をと めることによって、西洋哲学の隠れた本性をあばき出そうと考え、この〈存在と 義時間〉の関係を第一部第三篇で問題にしようとした。そしてそこへの導入部とし て、第一部第一、二篇を、当時の思想的状況をも考慮に入れながら、かなり急い で書いてみた。が、それが失敗に終わった、ということなのだろうと思います。 ですから、書いた部分は失敗だったけれど、書かなかった第二部や第一部第三
158 そして、第一部第三篇でハイデガーは、〈存在Ⅱ被制作性〉と見る存在概念が、 自分自身の死から眼をそらし、眼前の事物との交渉に没頭して生きる人間の〈非 本来的時間性〉を場として形成されるものであり、〈存在Ⅱ生成〉と見る存在概 念こそ、自分の死を直視し、それに覚悟をさだめて生きる人間の〈本来的時間 性〉を場として形成されるものであることを明らかにするはずであった。 しかも、これを明らかにした上での彼のねらいは、〈存在Ⅱ被制作性〉という 存在概念を基底に据え、自然をも制作のための無機的な材料と見る〈物質的自然 いまや巨大な技術文明と化し、は 観〉の上に立って形成されてきた西洋文化 つきりその行く末の見えてきた西洋文化ーーを転換するために、もう一度〈存在 Ⅱ生成〉と見、自然を生きて生成するものと見ていたかっての存在概念を復権し、 文化形成の方向を転換しようとするところにあった。そのためには、人間をその 非本来的な在り方から本来的なあり方に立ちかえらせる必要がある。といっても、 一人や二人の人間がその生き方を変えてみたところで、どうなるものではない。 だが、ひょっとして世界史を領導する一つの民族が全体として本来性に立ちかえ るようなことが起これば、話は違ってくる。
西洋文化形成の基底に据えられているということに気づいた。 ハイデガーはこの西洋哲学の歴史を、ニーチェに教えられたもっと壮大な視野 のうちに据えて相対化しようとする。プラトン / アリストテレスよりももっと早 い時代の〈ソクラテス以前の思想家たち〉の書き残した断片を見ると、この時代 のギリシア人は〈存在〉を〈生成〉と、つまり〈ある〉ということを〈なる〉こ がとと見ていたことが分かる。それと対比して、西洋哲学を貫く〈存在Ⅱ被制作 を 性〉という存在概念がかなり特殊なものであることを明らかにし、それを相対化 としようとするのが、『存在と時間』第二部の課題であり、この本はまずこの部分 から発想されたのである。 次いで、この歴史的考察の視座を確保するために、さまざまな〈存在概念〉の もっ〈時間的性格〉を解明する、つまり〈存在〉と〈時間〉の関係を問う第一部 靈第三篇が構想されたにちがいない。第一部第一、二篇での人間存在の分析はその 最ための準備作業として、しかも先ほど見たような敗戦後の実存哲学的雰囲気と時 代の終末論的気分とに多分に促がされながら、最後にあわただしく構想されたと 見てよいであろう。
にどんなふうに変わってきたか、それをお話ししてみたいと思っているのです。 むろん私も最初は、『存在と時間』を実存哲学の書として読み、そこにわが身 一つをいかにすべきかの答えを求めようとしていました。当時はこれがこの本の 普通の読み方で、私もそうした読み方をしていたことになります。 しかし、そんなつもりで読むと、この本にはいささか期待を裏切られます。そ うしたことなら、キルケゴールの方がずっと切実なのです。それに比べると『存 在と時間』にはどこか形式的なところがあります。それに、論理が違うのです。 む キルケゴールはつねに「あれかこれか 、う決断を迫ってくるところがありま 読 を カ ハイデガーがアリストテレスから学ん ガ だ「欠如の論理」なのです。これは、たとえば目の見える人のグループと目の見 えない人のグループがあるばあい、それを相互外在的な二つのグループとして捉 義えるのではなく、目の見えない人は、もともと目が見えるからこそ見えなくなり うるのだと考え、目の見えない人のグループを、目の見える人のグループの一部 として、つまりその欠如部分として捉えるのです。ハイデガーはすべてをこの論 理で処理します。つまり、人間はもともと本来的に生きることができるからこそ とら
下巻 ( 未刊 ) 序論 第一部現存在を時間性へ向けて解釈し、時間を存在への問いの超越論的地平とし 巻部 て究明する 上刊 既第一篇現存在の準備的基礎分析 l—・第二篇現存在と時間性 第三篇時間と存在 第二部テンボラリテートの問題群を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体 することの概要を示す 第一篇テンボラリテートの問題群の予備段階としてのカントの図式機能論およ び時間論 レース・コギタンス コ 1 ギト 第二篇デカルトの〈われ思う、われ在り〉の存在論的基礎と〈思考するもの〉 の問題群への中世存在論の継承 第三篇古代存在論の現象的基盤とその限界の判定基準としてのアリストテレス の時間論 『存在と時間』〔一九二七年〕
序論 第一部存在に関するいくつかの伝統的テーゼについての現象学的批判的論究。 第一章カントのテーゼ「存在はレア 1 ルな述語ではない」。 さかのぼ 第二章アリストテレスにまで遡る中世存在論のテーゼ「存在者の存在には本質 ェクシステンティア ェッセンティア 存在 (essentia) と事実存在 (existentia) が属する」。 レス・エクステンサ 第三章近代存在論のテーゼ「存在の基本様態は自然の存在 (res extensa) と精神 レス・コギタンス 部 の存在 (res cogitans) である」。 既第四章論理学のテ 1 ゼ「すべての存在者は、それらのそのつどの存在様態には かかわりなしに〈デアル〉によって語りかけられ論議される」。繋辞として の存在。 存在の基本的諸構造と基本 第二部存在一般の意味についての基礎存在論的問い。 的諸概念。 第一章存在論的差異の問題 ( 存在と存在者の違い ) 。 『現象学の根本問題』〔一九二七年夏学期講義〕 コプラ
学的状、の提示」という題が付けられているのですが、後年ハイデガーはこれを 「『存在と時間』の最初の下書き」と呼んでいるのです。ただ、そういう文書が書 かれたということは知られていたのですが、当の現物がその後行方不明になって いて、それを確かめることができませんでした。それが、八九年に偶然発見され たのです。 これを読んでみると、『存在と時間』の最初に発想された核心部が、第二部の 西洋哲学史の見なおしの部分であることが明らかになります。つまり、「ナトル プ報告」ではもつばらアリストテレスについて、その「存在ー概念の検討をおこ な 0 ているのですが、そのアリストテン . 、ス . 存在概念を変様しながら承け継いで い 0 た中世ス「ラ哲学、さらにそ・れを画↓っ 0 承け継い・だデ・ガ , ト、カントに まで検討の輪を広げることによ ? て、・ T 存在ど時間」第ご、部の構想が成立したわけ です。そして、「ナトルプ報告」にも、このレポート提出の直前にあわてて書か れたように思われる「解釈学的状況の提示」という題の「序論」が付けられてい ますが、これが考えなおされふくらまされて『存在と時間』第一部になった、と いうことは容易に見てとれます。
1 ろ 6 『存在と時間』は二部から成るはずであった ( 本書三二ページ参照 ) 。第一部では 第一篇と第二篇で準備作業として人間存在の分析がおこなわれ、第三篇で〈存 在〉と〈時間〉との関係が問われる ( が、実際には第二篇までしか書かれなかった ) 。 第二部では、第一篇カント、第二篇デカルトとスコラ、そして第三篇アリストテ レスと、時間の順序を遡りながら、西洋哲学史の見なおしが企てられるはずであ った。いわば歴史的考察であるが、ここはまったく書かれないでしまった。では、 この構想はどんなふうに発想されたのか。 一九二三年に書かれ、ハイデガ 一九八九年に発見された「ナトル。フ報告」 ーが『存在と時間』の最初の下書きと呼んでいたが、永いあいだ所在不明であっ たもの に照らしてみると、こういうことになる。もともとアリストテレス研 究者として出発したハイデガーは、アリストテレスのテキストや中世スコラ学者 によるその注釈書を丹念に読み解き、さらにデカルト、カントら近代の哲学者の テキストを読み進むうちに、西洋哲学史にはプラトン / アリストテレス以来〈存 在〉を〈被制作性〉と見る、つまり〈ある〉ということを〈作られてある〉と見 る特殊な存在概念が、さまざまに変様されながらも一貫して承け継がれ、これが さかのぼ