を生みだそうとしたわけではないのです。「土地」という確かなものを根拠に、それを 「カネ」で表示される価値に変えようとしただけでした。「土地」を「カネ」に変換しょ羽 うとしただけでした。この場合には「カネ」は「カネ」を生みません。厳密には、「土 地」以上の価値を銀行券で発行することはできないからです。もっとも、その場合には 「土地」の価格は大きく変動しない、という前提が必要ですが。 つまり、ローは、紙切れがバブルによってカネを生みだすというこのシステムにどこ かで歯止めをかけようとしていたのです。錬金術の危険を知っていたといってもよいで しよう。そしてその歯止めを「土地」に求めたのでした。 担保は、価値が簡単に変動してもらっては困ります。できるだけ確実で安全で安定し たものがよい。それが土地だったのです。そして、土地は文字通り「不動産」で、カネ のように身軽に世界を自由に飛び回らない。そこにあって動きません。それを耕せば一 定の価値を生みだします。しかし、カネのように、自らが増殖することもありません。 どっしりと安定して、いつも同じ様態でそこにあるのです。「農」は、こうしたどっし りした安定性の上に成り立っており、しかも、基本的に毎年同じことを繰り返すのです。 バブルなどというものとは対極にあるのです。
準であり、精神の次元でそれぞれの人の生を安定させ充実させるものです。 それは歴史的に作られ変形され受け継がれてくるものであり、その国の文化の軸にな る。しかもある国の国民がどのような価値を共有しているかは、その国の政治力や経済 力にも大きな影響を持ちます。 こうさかまさたか かって国際政治学者の高坂正堯氏は、一国を構成する次元に三つあるといったことが あります。それは「カの体系」「利益の体系」そして「価値の体系」だというのです。 「カの体系」が「政治力」、「利益の体系」が「経済力」におおよそ対応するとすれば、 の それらを支えるもっとも基底にあるものこそが「価値」なのです。 し ら た 黒板に板書できる類の「価値」 を では、われわれの社会の基軸になる価値は何なのでしようか。 普通、ある国の基軸になる価値とは何かと聞いても容易には答えられません。どの社 ばんしょ がくぶち 時 会でも、「価値」は、箇条書きにして黒板に板書できるようなものでもなく、額縁に人 一れて飾っておくものでもありません。「価値」とは、通常は意識の下に隠されており、 何か大事なことがあると思いだされたように意識の上に浮上してきますが、通常はその
いものでは、「人が合理的に行動すれば、市場はうまくゆく」という命題がひっくりか えって、「市場がうまくゆくためには、人は合理的に行動すべし」というようになって しまいます。 明らかにここには価値判断があります。効率性や成長や利益追求 ( 合理性 ) はよいこ とだという価値が前提になっているのです。もちろんこれはあくまで一つの価値に過ぎ ません。たとえば、「無駄があってもゆったりやるのがいい」とか、「効率性より公平性 いや平等性が大事だ」とか、「成長よりも自然との共生や地域社会の安定が大事だ」とか、 な れ「利益追求より友達が大事だ」などという価値もあるのです。どうしてそのうちで、効 率性優先、成長優先の価値が採用されるのかはここではい 0 さい説明されません。そし なて、大事なことは実はこの価値選択の方なのではないでしようか。 は ところが、「もっとゆったり暮らそう」や「生活の安定が第一」や「友達が大事」な 済どという価値を掲げてしまうと「科学的」な経済理論はできません。だから、経済学者 は「経済学とは、資源配分の効率性にかかわる科学である」などと定義するのです。そ 九うしないと、経済学は「科学」にならないのです。 そして、実はここに暗黙裡に「価値判断」が持ちこまれてしまうのです。だから、経 185
れを戦後日本を復興させる現実的な価値とみなした。この双方ともが、自由、民主主義、 豊かさの追求、平和主義を戦後日本の「価値」の基軸として共有していたわけです。 後から述べるように、私は決してこれらを価値の基軸だとは思いません。これは大き な論点です。しかし、戦後日本の中心的な価値は何かと聞かれれば、多くの人は、自 由・民主主義・平和主義・経済発展と答えるでしよう。それらは戦後日本の「公式的な 価値」だった。つまり「ポリティカル・コレクトネス ( 政治的に正しいもの ) 」だった のです。 の 民主主義も経済成長も自由も、もちろん「理想」からすれば万全ではないものの、先 レ進諸国のなかでも類をみないほどに実現してしまったのです。平和主義の方も、アメリ ら たカによる安全保障を意識しない限り、現実にかくも戦争から遠ざかった国はなかったの をです。 代だから、いずれサヨクが力を失うのは当然のことで、サヨクが「体制」を批判するた 時 めに持ちだした「崇高な理想」が、「体制」によって「現実の状況」になってしまった 一のです。 こうして戦後日本では、特に「価値」を意識する必要もありませんでした。「公式的
ひょうぼう 経済学は科学を標榜していた。それは特定の価値判断とは無縁だといっていました。 しかし、市場競争理論の基本命題は次のようなものです。それは「自由競争的な市場は もっとも効率的な資源配分を実現する」というものです。つまり、市場競争条件を整え れば、経済は効率性を高め、無駄なく成長できる、ということです。これが市場中心主 義の基本的な考えです。 確かにここには価値判断ははいっていません。客観的命題です。しかしこの命題が実 践的に意味をもつには、「資源を無駄なく効率的に使うことはよいことだ」もしくは、 「無駄なく成長することはよいことだ」という価値がなければなりません。もしそうで なければ、この命題は何の実践的な意味ももたないでしよう。つまり、ここには暗黙裡 にひとつの価値が選択されているのです。 そこで右の命題はすぐに次のように変形されてしまいます。「経済の効率性を高める ためには市場を自由競争にしなければならない」、あるいは「無駄をなくして成長を実 現するには自由競争をすればよい」と。 「自由競争をすれば効率が高まる」という仮説的命題が、ひっくり返されて「効率を達 成するには自由競争すべし」という価値命題になってしまうのです。もっとはなはだし 184
多くが習慣になっているものです。だから、価値は「隠された文化」と呼んでもいいで 、しょっ 0 ところが、戦後日本では、「価値」は黒板に板書できるのです。それは額縁に人れら れて飾られているのです。「憲法」という額縁に堂々と人っているのです。たとえば第 条。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民 の権利については : : : 最大の尊重を必要とする。」 生命、自由、幸福追求についての個人の権利が最大限の価値をもつ、とされている。 そこへ第Ⅱ条の「法の下の平等」と第 9 条の「戦争放棄」を加えれば、戦後日本の「公 式的な価値」は明白です。 これをもう少し集約して、戦後日本の「価値」とは、個人の自由、民主主義 ( あるい は平等 ) 、物的な幸福追求 ( 物的豊かさの追求 ) 、それに平和主義といってよい。 注意してもらいたいのですが、これらはただ抽象的な理想というだけではありません。 戦後年もたたないうちに、日本ではこれらはおおよそ実現したのです。驚くべきこと すうこう といわねばなりません。サヨクやリべラル派は、これらを「崇高な理想」とみなした。 それは侵略戦争に敗北した日本が戦後打ち立てた理想だとみなした。一方、保守は、そ
これは日本だけのことではありません。しかし「ネイション」を支える価値への模索 が、日本では結局のところいつのまにか蒸発してしまい、何やら得体の知れない「グロ バリズム」や「ポーダ 1 レス化」や「国際化」という奇麗ごとにすべてが飲み込まれ てしまった。現実はといえば、「構造改革」によって長期不況からいかに脱却するかと いう試みがただやみくもに続けられてきたわけです。 そこでまた「いっそう徹底した改革を」となるのですが、この方向はもう破綻してい ます。「改革ーとは、さらなる「自由」を、「民主化」を、「成長」を、という話です。 の そのために「ステイト ( 統治機構 ) 」を変えよ、という。 ししかし、もはや戦後の公式的な価値であった「自由」「民主主義」「物的富の獲得」 ら 「平和主義ーではやってゆけません。これはすでに明らかなことなのです。これらの戦 後の基軸価値そのものが問題を生みだしてしまっているのです。 閉 とはいえ、それらは確かに問題を生みだしているかもしれないけれど、それらの価値 代 時 そのものはりつばなものではないか、という人がいるかもしれません。使い方が問題な 一のではないか、と。 しかしそれは違っている。「自由」や「民主」「富の獲得」「平和主義」といった戦後 きれい もさく
済学は、本当をいえば、科学などではなく、科学の装いをほどこしたイデオロギー以外 の何ものでもない。それは、「効率性」や「経済成長」を望ましいとするような社会の イデオロギーということになります。 ところが、この「科学の装い」のせいで、結構、大変なことがおきます。というのも、 この「市場競争をすれば効率性が達成される」という命題のおかげで、自由な市場競争 が「正しいーものとみなされてしまうからです。「合理性」も「利益追求」も「正しい」 ことになってしまうのです。 ということは、われわれは、別に誰が選択したわけでもないのに、ほぼ自動的に「効 率性」を高め、「経済成長」を追求するように強いられてゆく。特定の価値のもとへ囲 いこまれてしまうのです。昔、資本主義の創成期のイギリスで、人々が共同体を追われ、 都市へでてきて市場へと「囲いこまれた」のと同じように、今日でも、われわれは無駄 を省き、効率を高め、そして成長すべしという競争社会へと囲いこまれている。 どうみてもこれは転倒した世界でしよう。われわれが価値を選択し、その価値を実現 するために科学を使うのが正道なのに、科学がわれわれに一定の価値を押しつけてくる どれい のです。われわれは「科学」の奴隷になってしまう。もっといえば、あの「マス・エコ 786
のではなく、「部分」のうちに「全体」がなければならないのです。 そして、この全体のイメージを与えるものは「価値」にほかなりません。どのような 社会が善いのか、どのような人生を生きたいのか、いかなる生が善きものか。これらは すべて「価値」の問題なのです。その「価値」を「専門家」は提示できません。にもか かわらず、「専門家」は、結果として「効率性」や「成長」や「個人主義」といった 「価値」を暗黙裡に持ち込み、そこへわれわれを囲いこんでしまう。こうなると、彼は いもはや「専門家」でさえもありません。「専門家の無意識の犯罪」とでもいうべきもの な れを犯しているにすぎなくなってしまいます。 古代社会では、政治の方向を決めるのは占い師や巫女でした。呪術師に大きな権威が 与えられていたのです。平安時代でも陰陽師がいました。江戸時代には、たとえば儒学 な は 者が政治の方向を指南しました。今日では、まさか巫女や陰陽師を首相官邸に連れて来 済るわけにはいきません。儒学者や易者というのもなかなか難しい。彼らの役割を代替し たのが各種の「専門家」なのです。「専門家」は「科学」という合理主義に彩られた権 九威を身にまとっています。政治にとって必要なものはこの権威なのでしよう。 かっての占い師や巫女は、確かに超自然的で超合理的で神秘的なものヘ訴えました。 おんみようじ 797
す。 ことになるかもしれません。そして、「改革派」の人たちは、日本がうまくたちいかな いのは「統治機構」である「ステイト」に問題あり、といっている。「国を変える」と は「ステイト」のありようを変えるということです。 しかし、いかに「ステイト」を変えるにしても、それを支えているのはあくまで人々 です。「ネイション」を構成している人々なのです。実際に政府の代表者を選び、彼ら に信託し、政府や法に従うのは人々なのです。そして「ネイション」の方は容易には変 わりません。特に「ネイション」の核には文化や歴史や価値があります。それを共有し ているという意識をもった人々が「ネイション」だからです。それを一気に大きく変え るなどということは不可能に近いことです。だから、いくらステイトを変えても、ネイ ションがグズグズだとやはりうまくはいかないでしよう。 そのことを前提にしてよく考えてもらいたいのですが、私には、今日の日本の問題は、 「ステイトというよりも、より根本的には「ネイション」の方にあると思われるので 「ネイション」の中心にあるのは、おおよそ一つの国民に共有されている「価値」です。 「価値」とは、端的にいえば、何が良いことか、何が良くないのか、それを判定する基