平和主義 - みる会図書館


検索対象: 正義の偽装
144件見つかりました。

1. 正義の偽装

憲法こそが国の権力から私的権利を保護するものだといってきたのでした。 市民資格は民度の高い者に もちろん近代憲法の人権保障にはその面はあります。しかし、そのことも含めて憲法 とはその国の根本規範なのですから、憲法と国とを敵対的に扱うこと自体が無意味なこ とでしよう。しかも、国の権力とは国民に帰すると憲法に書かれているのです。もし憲 法が大事なら、その憲法を押しいただき、その憲法にしたがって政治が進行する「わが 大 祖国」への愛国心と忠誠心をもつのが当然ではないのでしようか。国家権力と人権の対 ン抗というのはその次の段階の話です。 おまけに戦後日本では、民主主義者は当然ながら平和主義者でなければならない、と 装いうこれまた珍妙な思い込みができてしまいました。民主主義者は当然ながら平和愛好 者というわけです。しかし、ルソーのような民主主義論からすれば、民主主義者こそ愛 正 国者であり、市民による武装と自衛を当然の義務とするのです。 一一一実は、このような考え方は、西欧思想のなかでは「共和主義」と呼ばれるものです。 それは古代ギリシャのポリスや古代ローマの共和国に端を発する考え方です。

2. 正義の偽装

ほかありません。日中冷戦の始まり、などという人もいます。時には、冷戦は熱戦に変 わります。 こうなると、少なくとも「平和主義」ではどうにもなりません。さしあたりは、解釈 改憲によって集団的自衛権を認めるとしても、もし冷戦というなら、憲法に掲げられた 平和主義そのものの意味が根底から問い直されることになるでしよう。憲法改正は火急 の現実的な課題となる可能性も大いにあるのです。 さてその上でいいますが、私は、厳密にいえば「憲法改正論」というより「憲法廃止 合 に論」を唱えたい。これも「原則論」です。少し現実を無視して原理的に考えてみたいの のです。すると「改憲」ではなくまずは「廃憲」ということにならざるをえません。 本理由はきわめて簡単です。第三章でも触れましたが、 1945 年から 1952 年まで はの間、日本には主権はなかった。恰好だけは日本政府もあり首相もいましたが、実質的 な主権はにあった。降伏文書にあるように、「日本国政府の国家統治の権限は連 成 。 ) 」とされていたのです。 合国最高司令官に服する ( 章 五 いったい、主権をもたない国が憲法を創出することが可能なのでしようか。近代国家 第 においては主権の最高度の発現が憲法制定なのです。カール・シュミットのようにいえ

3. 正義の偽装

の「公式的な価値」は、実は、一皮むけば、すべて自己利益の全面肯定になってしまう りこしん からです。それらは実際には、利己心や欲望の全面的解放を唱えることになる。 「自由」とは、一皮むけば、自分の欲望の解放であり自己利益の追求です。「民主」と は、自己利益を政治的権利として主張することです。経済成長も、結局、金のなる木に あやかりたい、ということです。「平和主義」も、他国はどうあれ、自分の命だけは無 事でありたいということです。基本的にこれらは、そのうちに強力な利己心をもってい ます。 すると人はいうでしよう。人間とはそんなものだ。どうして利己心をもって悪いのか。 そうです。別に悪くはありません。誰もが自分の生命や生活を第一に考え、自己利益 を目指し、富がほしい。これは当然といえば当然です。しかし、戦後の「公式的な価 値」は、この本質的にさもしい自己利益、利己心を「正しいもの」として正義にしてし まったのです。それに「自由」や「民主」や「経済成長ーや「平和主義」という「錦の みはた 御旗」を与え「政治的正しさ」を偽装してしまったのです。 だから、この「さもしさ」が「さもしさ」として意識されずに、「正義として白昼 堂々と主張されるようになった。もっといえば、それは、かなり「さもしく」も「えげ にしき

4. 正義の偽装

課しています。これを「硬性憲法」といいますが、憲法が「硬性」である理由は、それ がその国の根本的な性格にかかわるからです。 日本国憲法もむろん「硬性憲法」です。「コチコチ」過ぎるぐらいです。そして、そ れは、その根本的な柱である「国民主権ー「基本的人権の尊重」「平和主義」の三原則を 簡単に変えるわけにはいかない、とされているからです。 憲法学者からすれば、この三原則は憲法の根底にあるもので、それを変えることはそ もそもの憲法というものの性格に反する、という。だから、仮に憲法改正があったとし ても、この三原則に手をつけてはならない、という。 じっさい、ある憲法学者はこのようなことをいっていました。私は、この主張を読ん だとき、おもわず噴き出してしまいました。 いうまでもありません。もしも、憲法がその本性上、根幹部分を変えることができな いのだとすれば、戦後憲法が明治憲法の改正だという事実をどのように理解するのでし よつ、刀 ここではふたつの立場しかありません。ひとつは、あれは形式上明治憲法の改正の体 裁をとっているが、実際にはまったく新たな憲法である、とする。とすれば、どうして

5. 正義の偽装

れを戦後日本を復興させる現実的な価値とみなした。この双方ともが、自由、民主主義、 豊かさの追求、平和主義を戦後日本の「価値」の基軸として共有していたわけです。 後から述べるように、私は決してこれらを価値の基軸だとは思いません。これは大き な論点です。しかし、戦後日本の中心的な価値は何かと聞かれれば、多くの人は、自 由・民主主義・平和主義・経済発展と答えるでしよう。それらは戦後日本の「公式的な 価値」だった。つまり「ポリティカル・コレクトネス ( 政治的に正しいもの ) 」だった のです。 の 民主主義も経済成長も自由も、もちろん「理想」からすれば万全ではないものの、先 レ進諸国のなかでも類をみないほどに実現してしまったのです。平和主義の方も、アメリ ら たカによる安全保障を意識しない限り、現実にかくも戦争から遠ざかった国はなかったの をです。 代だから、いずれサヨクが力を失うのは当然のことで、サヨクが「体制」を批判するた 時 めに持ちだした「崇高な理想」が、「体制」によって「現実の状況」になってしまった 一のです。 こうして戦後日本では、特に「価値」を意識する必要もありませんでした。「公式的

6. 正義の偽装

民主主義のもとで同じことが生じているのです。戦前の「天皇陛下万歳」にかわって 「国民主権」や「民意の政治」が支配するようになりました。「非国民」にかわって「国 民のため」が祭り上げられてしまうのです。つまり、戦後は民主主義そのものが「臨在 感的」にわれわれを支配しているのです。「国民の総意」だとか「民意」なる「アニマ」 が「空気」を作ってしまうのです。 そうなると、そのバリエーションとして「官僚は無責任」とか「公務員は保身的」と かいった言葉がでてきます。誰かがそれを大声で叫びだせば、そこにひとつの「空気」 がうまれます。たいていの人は本当のところ官僚の生態も公務員の内実もまったく知ら ないにもかかわらず、この「空気」を受け人れ、かくて「空気の支配」が醸成されるの です。 ここで「空気の支配」のおおよその構造を知ることができるでしよう。まず、その社 会を覆っている基本的な正義の観念があります。戦後日本では、それは「民主主義ーで あり「平和主義」でありました。その延長上に、「国際化」や「グロ ーヾル化」や「個 人の自由」や「基本的人権」などがでてきます。 そして、ある不都合な事態や新たな課題が生じれば、通常、まずはこの正義の観点か

7. 正義の偽装

いました。それはむろん共産主義者や共和主義者のいうような意味ではありません。彼 らがいうのはあくまで主権のありかで、人民主権の民主主義と、君主主権の変形である幻 天皇制は相いれない、ということなのでしよう。 いま私がいいたいのは、そういうことではありません。いや、本当はまさしくその主 権に関わることなのです。ただ私の場合は共和主義者とはまったく反対で、もしも主権 という一言葉を使うなら、日本の場合は、形式上の主権は天皇にあるとするほかない、と いうことなのです。もちろん、それはあくまで形式上のことです。しかし、そのような 形を取るほかない。そう考えるのです。そしてそのことは、天皇制とは何かというきわ めて重要な問題へとわれわれを誘います。そのことを説明してみましよう。 英国王室は「私的」な存在 天皇制の特質を知るために、少し迂回して、それをイギリスの王権と比較してみまし 先にも述べたように、戦後日本の皇室はイギリスをモデルにして「ロイヤルファミリ を演出してきました。イギリスの場合には、王室はあくまでイギリス国王としてイ

8. 正義の偽装

これは日本だけのことではありません。しかし「ネイション」を支える価値への模索 が、日本では結局のところいつのまにか蒸発してしまい、何やら得体の知れない「グロ バリズム」や「ポーダ 1 レス化」や「国際化」という奇麗ごとにすべてが飲み込まれ てしまった。現実はといえば、「構造改革」によって長期不況からいかに脱却するかと いう試みがただやみくもに続けられてきたわけです。 そこでまた「いっそう徹底した改革を」となるのですが、この方向はもう破綻してい ます。「改革ーとは、さらなる「自由」を、「民主化」を、「成長」を、という話です。 の そのために「ステイト ( 統治機構 ) 」を変えよ、という。 ししかし、もはや戦後の公式的な価値であった「自由」「民主主義」「物的富の獲得」 ら 「平和主義ーではやってゆけません。これはすでに明らかなことなのです。これらの戦 後の基軸価値そのものが問題を生みだしてしまっているのです。 閉 とはいえ、それらは確かに問題を生みだしているかもしれないけれど、それらの価値 代 時 そのものはりつばなものではないか、という人がいるかもしれません。使い方が問題な 一のではないか、と。 しかしそれは違っている。「自由」や「民主」「富の獲得」「平和主義」といった戦後 きれい もさく

9. 正義の偽装

人々 ( つまり人民 ) だという。人々が完全に対等、平等に共同体を構成し、それに参加 しているからです。ここには特定の主権者はいません。王も君主もいません。主権者は 人々、つまり人民なのです。「人民主権論」です。こうして、ホッブズとは違って、ル ソーは社会契約によって「民主主義」を打ちたてた、というわけです。だから民主主義 とは「人民主権論」であり、具体的には直接民主主義なのです。 おおよそこうしたルソー型「人民主権論」が戦後日本人の頭のなかに民主主義の像を 植え付けました。「人民主権」などというと、どうも「民主主義人民共和国」などとい うものを思い起こしそうなので、ふつうは「国民主権」といわれますが、いずれにせよ、 民主主義とは何よりまず国民の意思を実現するものであり、それは直接民主主義が望ま しい、ということになる。まさしく「民意」を実現すべし、というわけです。 だが、少し考えただけでもことはそれほど簡単ではありません。 まず「国民の意思」とは何なのか。もしもそれが人々の間でバラバラであれば、そも そもどうやってそれを実現するのでしようか。 実はルソーの社会契約論のもっともやっかいな論点はそこにあるのです。さらにいえ ば、ルソーの社会契約論ほど難解な書物はめったにありません。気楽に「民主主義の古

10. 正義の偽装

まだ終了していない、ということなのです。本当の意味での「戦後」にさえなってはい ない、ということです。戦争が勃発するなどということとは別に、東アジアの戦争は今 も終わっていない、ということになる。 であれば、すでにあの憲法は意味をもたないことになります。というのも、憲法の前 文にはこうあるからです。「日本国民は : : : 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し て、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷 従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある 地位を占めたいと思ふ。」 これは有名なくだりです。これを受けて第 9 条の戦争の放棄、軍事力の放棄がでてく いるのです。要するに、国際社会は、平和を愛する公正な諸国民からなっており、それゆ るえに日本は軍備を放棄するといっているのです。 守 を 今日、この前提条件は成り立っていません。武力放棄、平和主義を採用したその前提 土 領 が成り立っていないのです。ということは、もしも現状がこの憲法によって想定された 四状態にはないとすれば、憲法は停止されてしかるべきものということになります。だが 果たしてそんなことは可能なのでしようか。 につばっ