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検索対象: 正義の偽装
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1. 正義の偽装

それは次のようなことです。通常のルソー解釈だと主権者の意思はすべて政治的決定 として実現されなければならない、とされます。主権者つまり人民や国民の意思が政治 的に表現され実現するのが民主主義だということです。わたしの言い方だと、「主権者」 と「統治者」が同一視されるのです。 そうなるとどうなるのでしようか。主権者の「一般意思」がそのまま政治的に実現さ れるべきだということになる。ところが「一般意思」とはすべての人が共通にもってい 唱 るものですから、これが実現されるということは、それに反対するわけにはいかないの 合 大 です。反対する者がいてはならない。反対者はそもそも「一般意思」の持ち主ではない、 ンということになるからです。 とい - っことはど、つい - っことカノ 、。レソーの人民主権論は実は全体主義へと転化するので 装す。民主主義は全体主義へと転化し、ここにもしも我こそが「一般意思」を体現してい の るという者が現れれば、彼は独裁者になりえるわけです。「一般意思」に対する反対者 義 正 はいるはずがないのですから、もし敵対者がおれば抹殺されることになります。「我こ 三そはミンイなり」などという政治家は、定義からして独裁者なのです。 こうして、もしもルソーの民主主義論を単純化して「主権者」と「統治者」を同一視

2. 正義の偽装

消費税をどうするのか。原発を稼働させるのかどうか。財政赤字を削減するのかそれ とも景気回復なのか、こういう具体的な問題については様々な意見があり、利害が対立 します。そこには「一般意思」などというものはないのです。しかし、それを決定して 「全体意思」というものを導き出さなければなりません。それが政治であり政府の仕事 なのです。つまり「統治者」の仕事なのです。 ですから、「主権者」と「統治者」は概念として違っているのです。「主権者」がその まま「統治」するわけではありません。「統治」の仕組みを決定するのは主権者ですが、 具体的な問題について意思決定を下してゆくのは「統治者」であって「主権者」ではな いのです。 そこでルソーは、具体的な政府の形態としては、必ずしも民主主義がよいとはいって いない。具体的な政府の形、すなわち統治の形態は国によって違うのです。ルソーはい います。もしも規模が小さくて神のような人民からなる社会であれば、それは民主政が よいだろう、と。むろん、そんな国はありません。しかも、民主主義では、まさに主権 者と統治者が一体になるから困る、という。この両者は区別されるべきだとさえいうの です。彼は、民主政が無条件でよいなどとはまったく考えていなかった。

3. 正義の偽装

体的には「神」の代理であるローマ教皇がこの正当性を与えた。とすると、主権の絶対 的権力が実はかなり相対化されます。主権の背後に本当のことをいえば、真に絶対的な 主権者である「神」が想定されているのです。絶対的であったはずの「王権」も本当は 「神の法」に従わなくてはならなかったのです。 先にポダンの定義で「主権は法律を免れている」と書きましたが、それは正確ではな く、自然法のような「神の法」には服さなければならないのです。いや、主権が法の外 議にあるとすれば、本当の主権者は実は神以外にはないのです。かくて、世俗の絶対的主 思 坏権者であった君主 ( 王 ) を支えるものは、実は宗教的権威だったということになる。世 俗外の超越的な権威が世俗の主権を支えているのです。 い とすると、この世俗の主権者は、本当の意味での絶対的権力者ではありません。「神」 権がそれを正当化しているからです。神こそが本当の主権者になります。これは目には見 民えない隠れた主権者なのです。 では、そんなやっかいな主権者を取り除けばどうなるか。超越的な権威である「神」 八を取り外せばどうなるのか。そうすれば世俗の主権者ははれて本当の主権者になるはす療 でしよう。だけどこの時にはもはや「王権神授説」は成り立ちません。ではどうすれば

4. 正義の偽装

共同体の「始まり」のもっ神的なものがもはや支配の正当性をもたなくなった時に、 「人民主権」の民主主義が始まるのです。 私は、ここに民主主義の本質があると同時に、民主政治のもっとも根本的な困難さが あるように思います。 「人民の人民による人民のための政治」というリンカーンの言葉こそが民主主義の偉大 さを典型的にいい表したものだとされます。また、民主政治とは「国民による国民のた めの政治だ」と誰もがいう。どんなあくどい面構えをした政治家でも、ともかくも「国 民のため」という。 しかし、「国民」というまとまったものがなく、「国民」が、実は、己にのみ関心をも った「エゴ」の寄せ集めに過ぎないならば、「国民による政治」とは、無数に散在した 利益をめざす党派のカの争いであり、「国民のための政治」とは、この多様な党派の利 益誘導にしかならないでしよう。 これはいかなる政策をうってもそうです。デフレで得をする者もおれば損をする者も いる。インフレで得をする者も損をする者もいる。公共事業で得をする者もいれば、緊 縮財政で得をする者もいる。でも得をする者も損する者もいる。何をしてもかな 166

5. 正義の偽装

論や予見がなければ意味をもちません。こうしたことを予見できるのは、人並みはずれ た能力なのです。 ということは、われわれは、人並みはずれた力量を指導者に求めているのです。人並 みはずれたということは、われわれにはわからないことをわかり、予見できないことを きようじん 予見し、強靭な意志をもっている、ということです。つまり、指導者はわれわれとはい ささか違った卓越した人物でなければならない、ということです。 ところが他方で、われわれの理解する「民主主義」とは、「民意を反映する政治」で あり、われわれの常日頃の思いや感情や不満が政治に反映されるべきだ、という。指導 者とは、われわれのいうことをよく聞き、われわれの不満を代弁してそれを解消してく れるはずの者なのです。端的にいえば、民主主義のもとでの政治家とは、「庶民感覚」 をもった者で、できる限りわれわれに近い人であるべきなのです。 こうなると矛盾は覆い隠すべくもないでしよう。われわれは、一方で、指導者に対し てわれわれにはない卓越性とたぐいまれな力量を求め、他方では、指導者はわれわれと チョポチョボであるべきだといっているのです。 前者からでてくることは、人の上にたっ指導者は、確たる主体として決断を行い、そ

6. 正義の偽装

憲法こそが国の権力から私的権利を保護するものだといってきたのでした。 市民資格は民度の高い者に もちろん近代憲法の人権保障にはその面はあります。しかし、そのことも含めて憲法 とはその国の根本規範なのですから、憲法と国とを敵対的に扱うこと自体が無意味なこ とでしよう。しかも、国の権力とは国民に帰すると憲法に書かれているのです。もし憲 法が大事なら、その憲法を押しいただき、その憲法にしたがって政治が進行する「わが 大 祖国」への愛国心と忠誠心をもつのが当然ではないのでしようか。国家権力と人権の対 ン抗というのはその次の段階の話です。 おまけに戦後日本では、民主主義者は当然ながら平和主義者でなければならない、と 装いうこれまた珍妙な思い込みができてしまいました。民主主義者は当然ながら平和愛好 者というわけです。しかし、ルソーのような民主主義論からすれば、民主主義者こそ愛 正 国者であり、市民による武装と自衛を当然の義務とするのです。 一一一実は、このような考え方は、西欧思想のなかでは「共和主義」と呼ばれるものです。 それは古代ギリシャのポリスや古代ローマの共和国に端を発する考え方です。

7. 正義の偽装

権力をもつのは王で、支配されるのは民衆です。話は簡単なのです。 しかし、「国民主権」の民主主義では、支配する者と支配される者の関係が明瞭では ありません。支配する者も支配される者も同一の国民になる。まさに支配者がいない占 にこそ民主主義の意義があるとされたのでした。だけれども、「主権」とは絶対的な権 力なのです。これは支配権を示す一一一一口葉です。ですから、国民主権はまた、すべての人が 支配者であるような政治体制でもある。 これだけでも「国民主権」とは、そんな気楽にわかるような概念ではないことは想像 にかたくないでしよう。 改めていい直すと問題はこういうことなのです。 先に「君主主権」はわかりやすい、といいました。君主が絶対的権力をもっていると いうものです。しかしもう少し突っ込んでいえば、これも実は決してわかりやすくはな いのです。というのも、ではどうして君主が絶対的権力を持ちうるのかと問うと話はか なりやっかいになるからです。絶対権力の正当性はどうして保証されるのか、という疑 問がでてしまう。「主権」という概念は、どうしても、権力の正当性を要求するのです。 そこで西欧では中世に「王権神授説」なるものが発明されました。「神」が、より具 156

8. 正義の偽装

「市民は国家のために死ね」 この意味で「一般意思」とは、もう少し具体化すれば、まずは「共同防衛」と「憲法 ( 根本的規範 ) の制定」 ( 根源的な立法 ) ということになるでしよう。 かくて「一般意思」にもとづいて社会が作られます。確かに、ここでは人々が主権者 です。しかも彼らはすべてが対等で平等でかつ自由意思にもとづいています。これを仮 に人民主権というなら、確かに「人民主権」ということになるでしよう。この場合の 合 大 「主権者」とは、何よりも自分たちの手で自分たちを守るという自主・自立の主体であ ンり、さらに自らを縛る根本規範である憲法をみずから制定する者なのです。 しかし、現実の政治的意思決定はこれと同じではありません。実際の政治を行う者は、 装主権者である人民とは限りません。というのも、実際上の具体的な問題においては、 の 人々の意見は容易に一致しませんし、たいていの者は、わが身の利益ばかりを考えて行 義 正 動するからです。それをルソーは「特殊意思」といい、その「特殊意思」を何とか調整 三して全体の意思決定にもってきたものを「全体意思」と呼ふのです。これは「一般意 思」とは違うのです。 ヾ、

9. 正義の偽装

主権の正当性を導くことができるのか。 この大問題にまったく新しい解答を与えたのが先にも名前をだしたト 1 マス・ホップ ズの国家契約説だったのです。 ホッブズは、ピューリタン革命期のイギリスの思想家で、湍在先のフランスで『リヴ アイアサン』という大著を著し、 16 51 年にロンドンで出版しますが、ここで彼は、 王権神授説に代わるまったく新しい主権論を打ち出しました。第三章でも多少論じまし たが、それは、人々の契約によって絶対的権力をもった主権者が成立する、という論理 です。 もしも、政治権力がなく社会秩序が崩壊しておれば、人々はお互いに争い、生きるた めに殺し合うだろう、とホッブズはいう。しかし、同時に人々は生存を求めるものです。 とすればいかにすれば生存を保障できるか。それは、武力行使の権利をただ一人 ( もし くは合議体 ) に委ね、すべての人は、この絶対的権力者に服従すればよい。この絶対的 権力者こそが主権者であり、それが一人の人であれば君主制であり、それがひとつの集 団の場合には議会制になる、というのです。 したがって、主権者は確かに絶対的権力をもっことになります。しかしまた、主権者

10. 正義の偽装

されるという構造です。こうして「私的」なものである「武」は「公的」なものに転化 するのです。 だから、幕府という支配権力は一一重の性格をもつ。それは、武力における筆頭者であ り、その武力による支配者であるとともに、また皇室にとっての「臣下」なのです。武 力の筆頭者 ( 将軍 ) は権力闘争によって変わります。それは基本的に「私」の原理であ でる力を軸にしている。しかしそれが一国の支配者になるときには、彼は天皇へ忠誠を誓 否う「臣」となり「公」的性格をもつ。 制 皇そして、天皇が一貫して権威を代表し続けることができたのは、それが、「今・この は 時・この社会」を超越しているからでした。つまり、 O を脱しているのです。それ 向 に対し、権力は常に「今・この時・この社会」の状況、つまりで動きます。 だが天皇というシステムは、それを超越している。それは、天皇が祭祀者であるため 新に宗教的な次元 ( 超世俗的な次元 ) に関わるからであり、しかもそのことが「世襲ーに よって継承されるからにほかなりません。この「祭祀性」と「世襲性」が天皇に独自の 七権威を与えたのでした。 これは世界的に見てもおそらくきわめてめずらしい「統治機構」でしよう。天皇は、 147