会秩序を維持し、誠実に生活をするという、いわゆる市民的な道徳も、もとはといえば、 この内面における「神」への服従からでているのです。 私はいま、あくまでホッブズの論理に則して「主権」という概念の構造を論じてきま した。西欧における「民主主義」の観念をもたらしたものは必ずしもホッブズが始めた 「主権」概念に由来するものだけではありません。「民主主義の起源」にはもっと多様な 要素があります。しかし、「民主主義」を「国民主権」とイコールとみなすなら、この ホッブズの論理がその原点になることは間違いないのです。そしてそうだとすれば、近 不代西欧の「民主主義」なる観念が、実はいかに深くキリスト教と関わっているか。その ことをわれわれは決して忘れてはならないでしよう。 い 近代西欧の民主主義を生みだした、少なくともひとつの背景はキリスト教だった。 褫「神」という絶対的な超越的権威だった。しかも、とりわけプロテスタントでは、それ 民が個々人の精神のうちに内面化されているのです。その前提のもとで「国民主権」も 「民主主義」もでてくる。 章 八 だから、論理の形の上では、まったく自由で、バラバラで、互いに殺し合うという動 第 物的な「人々」から始めて合理的な「主権」をもってきますが、それをそのまま信じて 二 1 ロ 177
日でも、政治とは何か「善き社会」をめざすものだという観念を本当に脱却するのはか なり難しいのではないでしようか。 しかしホッブズが述べたことは、近代国家とは、そんなものではない、ということだ った。この種の古典的国家観を徹底的に否定したのです。近代国家の仕事は、もつばら 国民の生命・財産の安全確保、社会秩序の維持なのです。そしてそれを実現するために 要請されたのが絶対的な権力である「主権」という概念だったのです。「主権者」こそ が究極的な力をもっていることになる。 ところがそうすると、ひとっ面倒な事態が生じます。というのは、われわれはもう一 方で「憲法」こそが根本規範であり、「憲法ーが政治権力の正当性のすべてを規定する と考えているのです。じっさい、たとえば日本国憲法では、「主権が国民に存する」こ とも憲法が定めているのです。では、主権と憲法のどちらの方が優位になるのか。これ は決して簡単な問題ではないのです。 「主権」という絶対権力 特に、近代憲法となると話はかなりやっかいになる。そもそも近代憲法とは何か。そ
「アルケ ( ) 」とは、「主たる」「筆頭の」といった接頭語なのです。 で、この筆頭者は人々をどこ ( 向けて引率したのか。それはやはり「アルケ」という % 語にヒントが隠されているように思えます。というのも、「アルケ」 ( アルケー ) とはま た、「始まりの」「始原のーという意味をももっているからです。共同体やイエの「始ま り」なのです。共同体の「創始」なのです。筆頭者は「始まり」に向けて人々を引率す るのです。 ここには一つの観念が明瞭に示されているのではないでしようか。「始まり」こそが 権威をもつのです。この「始まり」には、あるいは神が鎮座し、あるいは祖先の観念が あります。これはいいかえれば、共同体の創設の神話といってよい。この神話によって 共同体が形成されている。祖先という観念は、たえず、現在をこの創設の神話へと結び 付ける制度化された記憶装置なのです。ここに伝承や慣習、伝統が権威をもっ理由もあ るのです。 「引率者」は、この「アルケーーへと人々を向け、そうすることでそこに共同体の存在 を確認する。「始まり」こそが「支配」の正当性を与えたのです。「モナルキーⅡモノ・ アルケ ( 君主制 ) 」とは、もともとは「アルケー」へ向けて人々を引率する筆頭者の政
互に食いあっている有様です。それはますます強欲資本主義に近づいているようにみえ ます。 この時代に、日本人の「大地の経済学」にみあった経済像を描き出すのはたいへんな 作業でしよう。われわれの経済観念は、激しい競争を通じて個人的利益を追求するもの でもないし、錬金術的にバブルによってカネがカネを生むことをよしとするものでもあ 済りません。すべてを合理性と効率性による判断に委ねようというものでもありません。 のそれゆえにこそ、今日、苦境に立たされているのは、このようなわれわれの経済観念な のです。そして、本当はわれわれ自身が復権を期待しているものも、このような経済観 念なのです。 済アベノミクスが好調に見えれば見えるほど、われわれの本来持っていた経済観念が見 のえなくなっていきます。われわれは、今、円安がいくら進行した、株価がまたまた上が 砂った、景気指標がよくなった、などということにあまりに騒ぎすぎているように思えま 章す。そして、成長戦略のひとっとして、まさしく「農」を破壊する交渉参加があ 十ります。 こうしたことは、確かに一見したところ、世界の趨勢のように見えるのかもしれませ すうせい 233
ん。グロ ーバルな自由競争と金融資本主義が世界を覆っているように見えるのです。確 かにそうかもしれません。しかしそれは、いわば「砂漠の経済学」の制覇であって、わ幻 れわれの経済観念から著しく隔たったものであることを知っておかねばなりません。不 本意にも同調せざるをえないことはあるでしよう。成長戦略もある程度、必要でしよう。 しかし、それは本来は歓迎すべきことがらではないのです。「大地の経済学」というわ れわれの本来の経済観念を決して忘れてはならないのです。
あしはら でしよう。「ニニギノミコト」がすでに稲作を暗示する一一一口葉で、葦原の国は葦が茂った みずほ 場所です。その場所が、稲穂がおい茂る瑞穂の国でした。米作りは、かくて、もともと幻 日本人にとっては、神とともにある生活であり、したがって、神に対する感謝やそれを 表現する共同体の祭りと不可分だった。農と村と祭りは不可分だったのです。 ここに、稲作、米作りは、人が痩せこけた土地に働きかけそこから商品を作り出すと いうような西欧の経済観念ではなく、それ自体が、神のめぐみであり、さらには自然の めぐみである、という観念もでてきた。日本では、いくら土地を耕しても、決してジョ ン・ロックのような「労働価値説」などでてこないのです。農は、日本では、かくて、 神とともに生きる生活が作り出すおのずからの秩序にほかならなかったのです。 アマテラス大御神の親切心が日本資本主義の原型だなどとはいいません。しかし、土 地がある程度、安定した形で価値を生みだす社会における経済観念が「砂漠の経済学」 とは大きく異なったものであることは容易に想像のつくところでしよう。「無」から 「価値」が生み出される。さらには「カネ」が「カネ」を生む、という錬金術的発想は われわれには縁遠いものなのではないでしようか。われわれにはあのアラブ人のような 「失敗してもどうせ無に戻るだけさ」というあっけらかんとした覚悟もありません。失
ここでは土地などというものは価値を生みません。われわれが考える意味での土地な どないのです。価値を生むのはカネだけで、もっといえばカネをどううまく使うかとい う人間の頭脳だけだ、ということでしよう。。ハプルをうまく作り出し、カネをもっと増 やせばよい。もし失敗すればまた「無」に戻るだけだ、というのです。経済活動という ものについてわれわれが持っている観念とはまったく違うのです。 済もちろん、この「砂漠の経済学」をそのまま西欧のそれに当てはめることはできませ のん。しかし、「カネ」が「カネ」を生みだし、それが自己増殖してますます「カネ」の 駄山が築かれる、という資本主義の根本は、やはり「砂漠の経済学」を背景とした西欧出 自のものというほかありません。 学 済 の「大地の経済学」 砂それに対して、われわれの経済観念はどうしても土地に対する信頼に基づいているの 章です。よかれあしかれそこから始まっているのです。「農」がまずは基本なのです。こ + こで別に『日本書紀』を持ち出して、天孫降臨に際して、アマテラス大御神が、その孫 9 に稲穂を持たせて、高天原の稲作生活を人間に伝えた、という話をもちだすまでもない
っています。おそらく世界に例をみないものです。だから素晴らしいとも、また、だか ら廃止すべきだ、ともいっているわけではありません。ただし、この独自性をわれわれ はよく知っておく必要があるのです。それはとてもではありませんが、西欧の「君主制 ( モナルキー ) 」や「皇帝 ( エン。ヘラー ) 」と類比できるようなものではないのです。 そして、ここに日本独特の「公」の観念もでてくる。天皇は最初から「日本ーという 国を背負い、あるいはそれを表徴する「公」の存在となるのです。 そして大事なことですが、天皇の「公」性は、血筋による神格性によって担保される ことになる。だから、天皇は聖性をもっことで「公的」な存在とみなされる。一豪族で ある大王が大和を平定して天皇になったというような歴史的事項の詮議はここでは問題 にならないのです。万世一系で神格をもって世襲されるという観念が生み出されたとき、 天皇は「公的」な存在であるほかないのです。 さらに血脈による継承や、政治の主宰者でありながら同時に宗教的祭司であるという 「祭祀王」という性格は、きわめて特徴的なものであり、これもイギリス王室などとは まったく違っています。このような政治的システムは、易姓革命を行い権力者が王朝を 開くという中国とも違い、また、ローマに発する西欧の共和主義ともまったく違うので
供からなる「わが家庭」であり「わがファミリー」なのです。 したがって、確かに皇太子殿下は「かわいそう」です。皇太子殿下も「戦後民主主 の も義」と共にご成長されたのです。天皇制の「民主化」という役割を引き受けられ、また し その中で育てられたのです。「わが家庭 ( マイホーム ) 」が大事だというのは当然のこと 出 炙でしよう。 と同時に、天皇家は日本の象徴です。それは、ただ今ここでの日本を象徴するだけで まはなく、日本の「歴史的」な象徴なのです。そのことが意味するものは、天皇家はただ さの「ファミリー」ではなく、日本の歴史的な「家 ( イエ ) 」の観念を顕示するものだと 位いうことです。「家」は個人の自由意思によって集合し、存続するのではなく、ルール にもとづく「継承」によって存続するのです。この「継承」においては個人の自由意思 殿は意味をもたない。そして皇太子は「家」の継承者でもある。この「家」の観念は、戦 太後の「家庭 ( ホーム ) 」や「ファミリー」とはまったく異質なものなのです。 むろん、私は、皇太子を批判などしているのではありません。皇太子は、誰よりも公 + 的な存在であり、「家」の継承者たるべきことを知っておられるはずです。 しかし問題は、皇太子の個人的な思いではなく、戦後日本にあって、天皇制のもっ二 799
第四章領土を守るということ といい、「憲法」というものの、その意味が本当には理解できていない、ということで す。「国民主権」や「民主主義」、「憲法」という言葉だけを輸人してきて、どうして西 欧政治思想のなかでこれらの観念が生み出されてきたのか、そのことを理解していない、 ということなのです。にもかかわらず、それらの言葉を自明のわかりきったものである かのように使って、西欧なみに近代民主主義国家になったと自負し、国際化やグロー ~ 化を《げき〈、《」う何 0 根拠もな」思」込、禍 0 元凶な 0 」な」」 = う。 わざわい