その繰り返しで、人生には小さな死が何回も訪れる。つまり、「百万回生きた自分 , しいか、もしれない みたいなものだと田 5 えば、 いっか別れはやってくる 死 「世の中で何が愚かと一一一一口えば、恋愛にまさるものはない。人生の大切な時間を恋愛に費 やすのは賢明な者のすることではない 。しい歳をして別れ話でモメたり別れた後でも相手 そ、ついう言葉もあります。確か ' A 」 スを追いかけまわしたり、あげくに殺傷事件まで起こす人もいるから、なるほど先人は鋭 セいことを言うとも思います。でも、生涯不犯を実践するのは微々たる人でしかない。 恋愛は少なくとも最初の出逢いは時間がいらない。そして誰でもできる。 合 ほとんどは恋愛を経験し、あるいは進行中であれこれ悩んだりもがいたりしている。 出 それが世の中というものであって、たとえ付き合ってから後は辛抱ばかりだったとし 恋 ても、それが生きることの素晴らしさでもあると私は思います。 ふぼん 9
辞書で「無頼」を引くと、「正業につかず、無法な行いをする」、「たよるべきところ のない とあるから、確かに当てはまるところもあります。 六十四年の人生を振り返ってみると、酒やギャンプルや放浪、理屈では割り切れない 焦燥や孤独もあり、放蕩者と周囲に呆れられるようなことも少なくなかった。 っしか人として生きる けれど、そのなかで多くの「眺めのいい」男や女に出会い、い たしなみのようなものを教えられてきたような気がしています。 身体を壊すほど酒を飲むことも、方々に借財を重ねてまでするギャンプルも、締め切 A 」 りを抱えながらの旅も、世間の良識からは歓迎されないだろうと思います。 と だから、これから私が話すことを反面教師としてもらっても一向にかまいません。 しでも、一度きりの人生、どういう生き方をしたところで誰にも等しく締め切りはやっ の てきます。ならば、自分を世の中に合わせて「順張りしていくばかりでいいのか 、ゞ、殳こ立っことがあるかもしれません。 頼無頼という「逆張り」思考の何カカ彳し、 9
「いい人」のほうが恐ろしい 「会社の前でタクシーを待っていたら、髪を結ったアーティスト風の若い男がやってき ましてね、火のついたタバコをブッと玄関前に吹きだして、そのまま受付に入っていっ たんです。今から訪ねる会社の人の目の前でタバコを捨てるというのは、あまりに無礼 じゃないでしよ、つかーーー」 先日、ある編集者がそう貭既していました。 確かに、無頼と無礼とはまったく別ものです。 しかしまあ、少し前までの日本人一般を考えたら、そのアーティストもどきみたいな 人間は何をするかわからない生きものだ ノ 04
健康は自分が決めること 山口瞳さんは『草競馬流浪記』の中で、「ズボンの社会の窓が開いてらくだの股引が じ 銅のぞいている、そんな爺さんが百円玉ひとっ握り締めて、目を血走らせて単勝のオッズ とい、つことを圭日いていました。 廃を眺めている。ああいう老人になりたい の確かに、まっとうな仕事をしてきて貯金もソコソコある、具合が悪くなったら介護マ すンションは買えるだろうか、なんて算段しているのはほとんど生ける屍じゃないか、そ れなら競馬場にでも行ったほうがまだマシだな、と私も思います。 物 関心を持つのは年金に医療費、それから安心と安全ーー老若男女を問わず、最近の日 物乞いをするのは廃人と同じ
球が野手の正面に飛んでいただけで、バットの芯でとらえられていた。相手側はまった くあきらめてなかったから、何か一つ、流れが変われば逆転できる。それが野球という ものです」 勝負事に長けた人ほど、結果や数字だけでないところをよく見ているものです。 あるバラエティ番組で、浮かんでいるだけのニセの足場とホンモノの足場があって、 それを渡り歩くという趣向を見たことがある。「流れ」が読める人はふしぎと落っこち ないか、恐がって足を乗せやすい足場をつい選んでしまうような人がいました。 む 読最初から最後までずっとッキつばなし、という人もいないが、知識があって優秀なの 流に波や流れが読めない、どうも運がないという人は確かにいるものです。 で ムチームや会社組織は運のイイのが一人いればゝ しいというわけではないけれど、「流れ」、 フ の 分 ・目 「運」はやはりあるのだと思います。 139
しい一一一一口い方だな、と思、つよ、つになりました。 死とは自分の路地へ帰ること と思っている。彼 前に、亡くなられた久世光彦さんが、「伊集院はいっ死んでもいい は五十歳ぐらいか締切りじゃないか」ということをどこかで書かれていました。 確かに、ある程度の歳まで生きられたら一応は自分の区切りとして、それ以上はもう けものと考えたほうがいい。けれど、その後は余禄の、幸福な時間とはかぎらないのか る 腰人生というものです。 私は、床の間で家族みんなに囲まれて安らかな死を迎えるとか何か形のよすぎる発想 ははほとんど間違いだと考えているし、病院で何本も身体にチュープをつながれながら、 る 「お爺ちゃん、死なないでーとすがりつかれるのも勘弁してほしいと思います。 す 生平穏死、尊厳死、終活とか断捨離プームだとか色々言い方があるようですが、人間は 長 ほとんどが半端もので、それが人間そのものではないのかな、と考えています。 729
彼らフェニキア人は、語るべきでないところで民族の誇りを語ろうとしたから、強者 に潰されたのではなかったか。 そもそも、誇りとか名誉というのは人に一一一一口うものではありません。他人に自話をし たがる人は騙り者と考えた方がいいし、自話のほとんどは自分に都合のいいそらごと です。いくらか事実が含まれていたにしても、自したところで何の役にも立たない 単にその人が、他人の評価を気にしすぎているという証拠にすぎないのです。 同時代を生きる者の責任 少し前に「週刊文春ーの連載で、例の朝日新聞の従軍慰安婦報道についてどう思うか と質問があって、ほとんど一ページを使って回答したところ、多くの共感の声をいただ きました。それは、次のような内容でした。 確かに捏造証言は戦後ジャーナリズムの汚点で、歴史認識を歪めた朝日の罪は重い。
そもそも私に言わせればギャンプルはすべて記憶のスポーツ、記憶の遊びです。 確か、前にもこれと同じ状况があって、そのときはうまくいった。だから来る。 逆に、この状况で負けた記憶があるから、みんなが買っても自分はハネよう。 面白いことに、そうした記憶のほとんどはその人がギャンプルを始めた初期にある。 ギャンプルには、「必ず当てまっせ」みたいな、宇宙の法則より不思議な「初心者向け の窓口」みたいなものがちゃんとあるということです。 ところが長くやっているうちにみんなそれを忘れてしまう。 「ビギナーズラック」というと、単なるマグレ当たりみたいに聞こえるかもしれません が、私は、それこそが今まで人類が生き延びてきた原因ではないかな、と考えています。 ヒトは生まれ出でてたちまち死ぬようにはできていない。 何とか自分の目で見て、感じて、危険を乗り越えて生きようとする。 それこそが原始から人類に与えられているビギナーズラックというもので、生きもの としての直感をいかに働かせるか、磨いていくか、それが人生のあり方を決めていくの
するに、これまでいかにも技術を尊んできたのは小理屈であって、人間が作る技術とい うのは実はそれほど確かなものではない、 屋しいものだというのです。 私も、これまで人類が発明してきた画期的な新薬、文明を一歩も一一歩も進めてきた技 術を全否定するつもりはありません。でも一番大事なのは、果たしてそれが人類にとっ て本当に必要で有用なのか、ということだと思います。 ミクロン単位でべアリングを作るよ、つな技術も、人類がここまでは来ました、とい、つ 成果の一つぐらいに考えたほうがいい 。原子力技術も、人間のカで制御できなくなった り、廃棄物が手に負えなくなったりするなら、経済的な面だけを見て有用だとは言えな いだろう。同じように結論の見えないのは原子力だけでなく、他の様々な先端技術にも ついて回ります。 技術とは、人間が信じるほどのものではなくて、実は曖昧で無責任なものではないか。 技術革新と進歩には夢があるように聞こえるけれど、技術を盲信するのは人間として 堕落しているということではないか。私は、人類みんなが横並びで進んでいくような技 174
さんだって打者として一度は挫折し、自分の弱さをとことん知っていたからこそ努力し 続けられたと思、つのです。 少し前、ボクシングの世界チャンピオンで八度の防衛を果たしている内山高志選手の インタビュー記事に、「相手を恐れることはないが、練習をしないことに対しては恐布 を感じる。だから鍛錬し続ける」ということが書かれていた。才能に恵まれたわけでは もないという自覚があり、自分が怠けていればすぐに察知できるというのです。 る すなるほどな、と思います。 右 自分が駄目な状況というのを想定できる人は、それに対していつも恐怖心があるから、 0 人の何倍も努力しようとする。油断するとつい手を抜いてサポったり遊んでばかりいた そり、怠け者の弱い部分が自分にあることがよく分かっているから、徹底的に押し込めよ 能 うとするものです。 才 松井選手には並みはずれた長打力があった、体力があった、頭もよかった、環境に恵 努 まれたなど色々と理由は挙げられます。しかし確かなことは、屋物と呼ばれて鳴り物入 741