ウー・ヌ - みる会図書館


検索対象: 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで
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1. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

徐々に合理化 ( 制度化 ) されていった。これと並行して、首都の参謀本部勤務と地方の軍管区 勤務とのあいだに相互の異動を導入することによって、地方勤務将校たちの不満を和らげるこ とも行った。 国軍の選挙管理内閣とウー・ヌ首相の復帰 ネイウイン選挙管理内閣は、半年ごとに議会の承認を得ることを前提とした合法政府だった。 しかし、実質的には軍政そのものであり、軍事力を発揮して共産党関係者や左翼の学生活動家 を封じ込め、国内治安の回復をカで実現した。そして一九六〇年二月に治安回復を宣言して総 選挙を実施した。 独立後三回目 ( 戦後四回目 ) となる総選挙では、ウー・ヌ率いる連邦党 ( 旧「清廉パサバラし が議席の過半数を獲得し、彼が首相に返り咲いた ( 一九五六—五七年に一時期首相職を退いてい るので、正確には第三次ゥー・ヌ政権である ) 。しかし、この選挙の際、国民のあいだに国軍に対 する不満が高まっていたことをウー ・ヌは利用し、対立する「安定パサバラ」が国軍と近かっ たことを攻撃しながら選挙戦を有利に進めた。そのためネイウインから反感を買うことになっ 復活したウー ・ヌ首相は、その後も失政を繰り返すことになる。ひとつは仏教の国教化をめ ぐる失敗である。ゥー ・ヌは一九六〇年の選挙で復活を図る際、国民の九割近くを占める上座 286

2. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

4 アウンサンの跡を継いだゥー ・ヌは、タキン党出身者 アウンサン暗殺後、行政参事会議長代行のポストを引き継いだゥー で、ラングーン大学第二次学生ストライキのころからアウンサンと親密な交流があった。日本 占領期はバモオ内閣に外相として加わり、抗日闘争には関わらなかったが、戦後パサバラに入 渉り副議長に就いていた。穏健な社会主義者で熱心な仏教徒としても知られた人物であゑラン 立ス総督の信頼も厚く、アウンサン暗殺後の大混乱を無難におさめながら、英国との信頼関係を 英大切にして、淡々と独立準備を進めた。 対 彼はます憲法制定審議を再開し、一九四七年九月二十四日、パサバラが作成した憲法草案に 離基づく憲法を議会で可決させた。続いて十月には英国へ飛び、翌年一月の共和制国家としての ヌは、共和制国家として独立したうえ 短独立を認めた協定に調印した。この前後においてウー・ ので英連邦 C フリティッシュ・コモンウエルス ) に入ることができないものか、水面下で英側に打 立診している。これは暗殺されたアウンサンが生前ひそかに考えていたことでもあった。ドミニ オンを選ぶことは論外だったが、英国との安定した関係を維持し財政や国防の支援を受けるた 章 めには、共和制国家として英連邦に加盟することを認めてもらいたいという希望があった。ア 第 ウンサン , もウー ・ヌもこのことを公にできなかったのは、前年十一月にパサバラから除名され

3. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

コラム三代目はビルマ人ーーー国連事務総長 多くの人は忘れているかもしれないが、国連の第三代事務総長はビルマ人だった。名前はウ ・タンといし 、日本ではウ・タントの表記で知られた。一九六一年から七一年までの一〇年間 ・ヌ時代 激動する冷戦下の国際社会の調整を担った優れた国連事務総長だった。ビルマではウー の末期からネイウイン時代の前半にかけての時期にあたる。 一九〇九年一月二十二日、ビルマのデルタ地帯にあるパンタノーに生まれた彼は、ラングーン 大学中退後、故郷で国民学校 ( 高校 ) の教師となり、 一九三四年二十五歳で校長に就任している。 国民学校とは、ビルマ・ナショナリズムを支えた 0 < が各地で支援した全教科をビルマ語で 教える愛国主義の私立学校である。ゥー ・ヌと交流を深め、一九四 ・タンは故郷が近かったウー 八年の独立後はウー・ヌ首相の側近となる。情報大臣を経て一九五一年から五七年まで首相府担 当大臣を務め、ウー・ヌ首相の演説原稿の執筆を担当、一九五五年のバンドン会議 ( 第一回アジ ア・アフリカ会議 ) にも同行している。一九五七年からビルマの国連代表部大使となり、外交官 としての彼の人生が始まる。その四年後の一九六一年九月、第二代国連事務総長ハマーショルド ( スウェーデン人、在職一九五三—六 一 ) がコンゴ動乱調停のために北ローデシア ( 現ザンビ ア ) に向かった際、操縦士のミスで飛行機が墜落し事故死するという想定外の事態が起きる。そ の結果、冷戦下にあって東西どちらの陣営にも加わらない非同盟を貫いていたビルマのウ 1 ン大使に注目が集まり、同年十一月三日、国連総会の満場一致で第三代事務総長に就任、その後 314

4. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

与党パサバラの分裂 一方、パサバラは中央でも安定しなかった。まだ内乱が収まりきっていない一九五一年から 五二年にかけて実施した独立後最初の総選挙で引き続き議席の圧倒的多数を確保し、ウー 首相はそれを基盤に一九五二年から高度福祉国家を目指す政策に取り組んだが、好調だったコ メ輸出が国際価格の下落で不振に陥ったために財源確保が難しくなり中止に追い込まれた。一 時九五六年の総選挙では、パサバラを離党した政治家たちが結成した合法左翼政党の国民統一戦 相線 (z==) が善戦し、得票率で四五パーセントを記録、小選挙区制のため議席数は伸び悩ん ヌたが、パサバラを脅かすに十分だった。このときゥー・ヌ首相は首相職を翌五七年三月までバ 一スウ = に譲り、その間党務に専念してパサバラの立て直しを図った。 ウ しかし、パサバラは立ち直ることなく、政策や人間関係をめぐって幹部間の対立が激化し、 せいれん 実一九五八年四月、「清廉パサバ ? と「安定パサバラ」の二派に分裂してしまった。ゥー・ りようしゅう の首相は「清廉パサバラ」の領袖だったが、議会の混乱や地方での治安の悪化を収拾すること 立ができす、同年十月、ついにネイウイン大将に選挙管理内閣を委ねてしまうことになる。この 背景には国軍内部の地方司令官たちの力が影響していた。首都ラングーンにある国軍参謀本部 章 が十分に彼らをコントロールできていなかったため、地方司令官らによるウー・ヌ政府打倒の 第 クーデターがひそかに準備され、それを前もって知ったネイウイン参謀総長 ( 最高司令官 ) は

5. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

仏教徒の支持を得ようとして仏教国教化を公約した。独立時の憲法 ( 一九四七年憲法 ) も信仰 の自由を保障しつつ、仏教に特別の地位を認めていたが、国教には指定していなかった。首相 ヌは、翌一九六一年にその憲法を改正して仏教を国教に定めた。しかし、人 に復帰したウー・ ロの一割を占める非仏教徒の不満が高まり、それが少数民族問題の悪化にもつながったため、 再び憲法を改正して元に戻した。これによって今度は仏教界の反撥が強まり、彼の政権は不安 定化した。与党 ( 連邦党 ) の内部にも対立が生じ、それを収拾できないため議会が混乱した。 時また、独立後に目指した段階的社会主義化を捨て、資本主義路線を強めたが、経済回復の遅れ 相を取り戻すことはできなかった。 首 こうした事情により国政が行き詰まりを見せ、ビルマの議会制民主主義は再び危機に陥る。 ー・ヌ首相はさらにもうひとつの難問にぶつかった。シャン州をはしめとする各州が自治権 ウ ( カヤ↓州に限り、独立後 の強化を要求してきたのである。憲法にはシャン州とカレンニー 実一〇年目以降の連邦からの分離権が認められているため、ウー・ヌ首相は少数民族州側の要求 冫。しカオカナこのとき国軍は、ウー・ヌ首相が各州から出されている自 のを軽視するわけこよ、、よ、つこ。 立治権強化要求に妥協してしまえば、連邦からの分離権をシャンとカレンニー両州が行使するの ・ヌ首相には少数民族に対する大幅譲歩の意思はなく、またシャン ではないかと恐れた。ゥー 7 州側にも分離権行使をする意思はなかったが、国軍は最悪の事態を想像した。すでに一九五八 年から二年弱経験した国内統治 ( 選挙管理内閣 ) によって自信をつけていたこともあり、

6. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

4 アウンサンの跡を継いだゥー 5 独立の外側に追いやられた人々 コラム ビルマに同情したアイルランド出身の総督 コラムⅡ暗殺者ウ ー・ソオの日本観 ー・ヌ首相の時代 第 7 章独立後の現実ーーウ 一九四七年憲法体制とウー・ ヌ政府の混乱 2 日本との関係ーーーコメの輸入と戦後賠償 4 3 遠のく旧宗主国 コラム「日本は兄、ビルマは弟と明言したビルマ政府使節団 第 8 章ビルマ式社会主義の時代ーー国軍による統治① 9- 1 ビルマ式社会主義の理念と現実 2 一九八八年ーー全国規模の民主化運動 288 233 277 293 297 275

7. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

を打診されていたが、「ビルマ国民の愛が自分を守ってくれている」と述べ、特別な防御措置 をとらせなかった。それだけに、その死は純粋な愛国的犠牲として人々に受けとめられた。 暗殺命令者ウー・ソオとは ー・ソオによって仕組まれたものである 事件はバニュンによる自白と数々の状況証拠からウ ことが判明したが、彼がなぜ、どのように大量の武器を入手したのか、また暗殺の動機が何だ 渉ったのか、彼の背後にどのような人物や勢力がいたのかなどの問題が残された。 交 立 英①植民地ナショナリストとしての歩み 対 ゥー・ソオは、一九〇〇年に裕福な地主の息子としてビルマのターヤーワディ県オウッポー 離という町に生まれている。学歴は中学中退 ( 七年生中退 ) で終わっているが、英語力はそれな 短りにあり、その使用に不自由はなかった。その後、当時の有名なビルマ字紙『トウーリヤ』の の編集者となり、自分の資力を生かして同新聞社の株式を徐々に取得しながら編集主幹までのぼ 立り詰め、最後は実質的な経営者にまでなる。この間、日本に強い関心を抱き、一九三五年には 船で日本を訪問して二か月ほど滞在し、帰国後に『日本案内』という本まで出版している ( コ 章 6 ラムⅡ参照 ) 。 ・ソオは、一九二〇年代の終わりに選挙を経て植 若いころから政治活動に関心を抱いたウー 253

8. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

した。 ビルマ独立の翌年にあたる一九四九年には七万トンが日本に輸出され、翌五〇年には早くも 戦前の一九三六—四一年の日本向け年平均コメ輸出量一四万七七〇〇トンを上回る一七万トン が販売されている。一九五一年十一月には日本政府がラングーンに在外事務所を設置すること を認め、翌年四月の戦闘状態終結宣言後は総領事館への昇格を承認 ( 八月 ) 、前後して入札に よる日本向けコメ輸出枠の確保や、日本が緊急に求める入札によらない追加割当および割当枠 時外販売を優先的に認めた。この背景には、戦後の世界的なコメの供給不足に加えて朝鮮戦争 相 ( 一九五〇—五三年 ) による特需が生していたなか、コメの輸出で外貨を稼ぎ、経済復興や社会 首 ・ヌ側にあったことはもちろんである。しか 福祉国家建設のための資金に用いたい意向がウー 一し、ビルマにとって完全な売り手市場であったこの時期、日本に対し特別の枠まで設けて優先 ウ 的に安くコメを売る必要はまったくなかった。ではなぜ日本を厚遇したのであろうか。 実そこには見逃せない事実として、旧南機関員たちの働きがあった。元機関長の鈴木敬司 ( 敗 の戦時少将 ) らが日綿実業や第一物産、東西交易などをはじめとする商社によるビルマでのコメ ヌ政府とのあいだに立って奔走した。戦前に海南島で軍事訓 の買い付け交渉において、ウー・ 練を施した「三〇人の志士」出身の大臣や次官をはじめ、日本占領期に「抵抗と協力のはざ ・ヌ首相もその一人 ) と接触し、日本の危機的 7 まーに立って動いたビルマ人政治エリート ( ゥー 食糧事情への理解を求め、ビルマ側がそれに応じたのである。日本のビルマからのコメの買い 289

9. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

月パサバラによる憲法草案作成始まる。 6 月制憲議会において 憲法制定審議始まる。 7 月アウンサンら閣僚 7 名と官僚 1 名、 守衛 1 名の計 9 名が、閣議の場でウー・ソオの部下らが放った 凶弾によって暗殺される。パサバラ副議長のウー ・ヌ、アウン サンの後任として行政参事会副議長とパサバラ議長に就任。ア ウンサンらに対する暗殺指示容疑でウー・ソオ逮捕される。 K NU がカレン民族防衛機構 (KNDO) を結成。 9 月新憲法、制 憲議会で承認される。 10 月ウー・ヌニアトリー協定調印、ビ ルマの完全独立決まる。英緬防衛協定 ( レッャー = フリーマン 協定 ) 調印。 1 1 月英国、万處でどルマ立を可 ( 翌刀、 上で可丿。ウー・ソオほか 8 名に死刑判決下る。 【ビルマ連邦時代】 西暦 1948 1949 1950 1951 1952 1953 1955 1956 1957 1958 1960 出来事 ( イタリック体はビルマ以外の国の出来事を示す ) 1 月ビルマ、英国から主権を回復し、共和制の連邦国家として 独立 ( 国名はビルマ連邦 ) 、初代首相にウー・ヌ就任。 3 月ビ ルマ共産党、反政府武装闘争に突入。 1 月 KNDO 、反政府武装闘争に突入、全土的内乱のためにウ ・ヌ政府は危機的状況に陥る ( 翌年末まで ) 。 3 月中国国民党軍 (KMT) のビルマ東北部侵入本格化。 6 月 ビルマ国軍、 IT と戦闘に入るも敗退。 6 月第 1 回総選挙 ( ~ 翌年 1 月 ) 、パサバラ勝利。 1 1 月日本政 府がラングーンに在外事務所を設置。 4 月対日戦闘状態終結宣言。 8 月日本政府の在外事務所、総領 事館に昇格。 この年、ビルマ政府は英緬防衛協定 ( レッャーニフリーマン協 定 ) を破棄。 3 月ビルマ政府、 KMT 問題を国連に提訴。 1 1 月 KMT の一部 が台湾に移動。 4 月日緬平和条約および日緬賠償・経済協力協定発効 ( 国交樹 立、日本の対ビルマ戦争賠償始まる ) 。 4 月第 2 回総選挙、パサバラ勝利するも、得票率で国民統一戦 線 ( NUF ) に迫られる。 6 月ウー・ヌ、首相職をバスウェに 譲ってパサバラの党務に専念。 3 月ウー・ヌ、首相に復帰。 4 月パサバラ、「清廉派」と「安定派」に分裂。 1 0 月ネイウィ ン首相による選挙管理内閣発足 ( 国軍の政治介入の始まり ) 。 2 月第 3 回総選挙、ウー・ヌ率いる連邦党 ( 元清廉派 ) 大勝。 452

10. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

民地議会に入り、当時の議会内で主流を形成していた系政党の議員として活動する。 しかし、一九三八年初頭には自分で別個にミョウチッ ( 愛国 ) 党を結成して党首となり、独自巧 の行動をとるようになった。編集主幹兼経営者として自分が操ることのできる『トウーリヤ』 新聞を活用しながら、政治力をいっそう蓄え、一九三九年二月にはバモオ内閣を倒すべく、ほ かの議員を糾合して不信任案を下院議会で可決させた。そして次のウー・。フ内閣に農林大臣と して初入閣する。しかし、一年七か月後の一九四〇年九月には、閣僚だったにもかかわらす同 内閣の不信任案に賛成票を投じ、ウー・。フ首相を裏切る。ゥー・。フ内閣倒閣後は、コックレイ ン総督によって三代目のビルマ人首相に指名され、念願の英領ビルマの首相に就いた。学歴不 足を資力でカバーしながら猛スピードで権力の階段を登ってきた人物だといえよう。 ②英国訪問 首相になったウ ー・ソオは、ヨーロッパで始まった戦争 ( 第二次世界大戦 ) が激化するなか、 植民地のビルマをドミニオンの地位に引き上げるための交渉を英国と直接行おうと決意する。 既述のように、英国政府は植民地のインドとビルマからできる限り多くの戦争協力を引き出そ うとして、一九三九年十一月、両国を将来ドミニオンにすることを約束していた。しかし、そ の実現時期についてはあいまいなままだったので、ウ ー・ソオはそこに目をつけ、英国の戦争 にビルマが全面的に協力するから、そのかわり一刻も早くビルマをドミニオンに引き上げても