ナショナリスト - みる会図書館


検索対象: 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで
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1. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

リートたちのあいだで、想定外の急速な世代交代が生じたこ 動を担ったビルマ人中間層出身工 は、日本軍によるビルマ占領は、本来の日本の杞図と無関係にビ とを意味していた。換言すれ ' ・ ルマ人政治エリートの世代交代を劇的に促すことになったとい、る。 同時に、この三年半のビルマ側ナショナリストの対応を「抵抗と協力のはざまとしてとら えることもできる。それは「カで倒すことが容易ではない強大な相手に対し、協力姿勢を基盤 に接し、相手側の信頼を獲得しながら自己や抵抗のスペースを徐々に拡大していく」姿勢 のことである。これは、閧の英領期において植民地議会 ( 両頭制期の立法参事会とビルマ統治法 期の下院 ) で 0 治家がとった対応と同じである ( タキン党はそうした「はざま」を拒 絶し、英国に対する抵抗姿勢を貫いた ) 。日本占領期にはバモオ博士が率いた中央行政府や「独 立」政府に連なったナショナリストたちが、まさにこの姿勢を取りつづけた。例外は一貫して 抗日貫いたビルマ共産党に連なった人々と、一九四四年八月以降に地下抗日活動へ関わ るようになったアウンサン国防大臣である。アウンサンらビルマ国軍系 ( すなわちタキン党系 ) ール作戦に大敗し明らかな劣勢に立っと、もはや のナショナリストたちは、日本軍がインパ 「抵抗と協力のはざま」に立っことの政治的意味が消失したと判断し、「はざま」から脱して 「抵抗」に転じていく ( パサバラの結成と抗日武装蜂起 ) 。しかし、彼らも当初は「はざまに立 っことに意味を見出していたことはまちがいない。 こうしたビルマにおけるナショナリスト・エリートらによる「抵抗と協力のはざま」という 220

2. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

中西嘉宏、 2009 、『軍政ビルマの権力構造ーーネー・ウイン体制下の 国家と軍隊 1962 ー 1988 』、京都大学学術出版会 根本悦子、工藤年博 ( 共編著 ) 、 2013 、『ミャンマー・ルネッサンス 経済開放・民主化の光と影』、コモンズ 根本敬、 1990 、「 1930 年代ビルマ・ナショナリズムにおける社会主 義受容の特質ーータキン党の思想形成を中心に」、『東南アジア研 究』 27 巻 4 号所収、京都大学東南アジア研究センター 根本敬、 1991 、「ビルマ抗日闘争の史的考察」、伊東利勝ほか ( 共 著 ) 『東南アジアのナショナリズムにおける都市と農村』 ( A A 研東 南アジア研究第 2 巻 ) 所収、東京外国語大学アジア・アフリカ言語 文化研究所 根本敬、 1993 、「ビルマの民族運動と日本」、『 ( 岩波講座 ) 近代日本 と植民地』第 6 巻 ( 抵抗と屈従 ) 所収、岩波書店 根本敬、 1995 、「植民地ナショナリストと総選挙ーーー独立前ビルマ の場合 ( 1936 / 1947 ) 」、『アジア・アフリカ言語文化研究』 48 ・ 49 合併号所収、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 根本敬、 1996 、『アウン・サン一一一封印された独立ビルマの夢』、岩 波書店 根本敬、田村克己 ( 共編著 ) 、 1997 、『暮らしがわかるアジア読本 ビルマ』、河出書房新社 根本敬、村嶋英治 ( 共編 ) 、 1997 、『写真記録東南アジアーーー - 歴史・ 戦争・日本』第 4 巻 ( ビルマ / タイ ) 、ほるぶ出版 根本敬、 2002 、「ビルマのナショナリズムー -- 中間層ナショナリス ト・エリートたちの足跡」、『 ( 岩波講座 ) 東南アジア史』第 7 巻所 収、岩波書店 根本敬、 2002 、「ビルマの独立ーー一日本占領期からウー・ヌ時代ま で」、『 ( 岩波講座 ) 東南アジア史』第 8 巻所収、岩波書店 根本敬、 2002 、「バモオ博士の小さな嘘」、『史學雑誌』第 111 編第 1 号、史學会 根本敬、桐山昇、栗原浩英 ( 共著 ) 、 2003 、『東南アジアの歴史 ーー一人・物・文化の交流史』、有斐閣 根本敬、 2004 、「現代ミャンマーの政治をどう見るかーー軍政下の 政治過程と民主化問題」、『国際問題』第 535 号所収、国際問題研究 所 根本敬、 2005 、「国家の再翻訳にともなう普遍の意味ーーアウンサ ンスーチーの思想に見るナショナリズムと普遍」、真島一郎 ( 編

3. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

ました。しかし、日本に続いてドイツが脱退し、今日の朝刊によればイタリアも脱退の方向 であることが報じられています。こうした国際政治の流れを見る限り、日本のとった選択は 正しい道であったとはっきりいえます。日本人とビルマ人は同じ仏教徒で東方の世界に住む 者同士です。仲良くすることは容易であり、伝統や慣習や文化も似ているところがあります。 いかなることでも努力すべきです。両 ビルマ人と日本人はお互いのより良き発展のために、 国の国益に関わる事態のために、もし私たちが日本に来る必要が生じれば、たとえ五〇〇〇 マイル離れていても、また船が手配できなくても、泳いでやってくるほどの覚悟が私にはあ ります。 いすれも、英領植民地下で苦闘するビルマ人ナショナリストとしての彼の思いが強く反映され ている。特に海軍横須賀鎮守府を表敬訪問した際のスビーチで、日本を「偉大なる兄」として称 え、満洲事変以降の日本の国際連盟脱退を評価し、日本とビルマの深い関係を示唆しながら、ビ ルマ人として日本に最大限協力する決意が述べられている箇所は印象的である。海軍の高級将校 らを前にしたスピーチなので、いくぶん迎合が見られ、その点は割り引く必要があるが、一九三 〇年代半ばにあって、ビルマ人ナショナリストのなかにこうした日本への強い期待感があったこ とは、当時の時代の雰囲気を強く感じさせる。 262

4. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

士に対して不満を抱いたために前線から「逃亡」したのだとみなし、アウンサンらはけっして 反日ではないと認識していた。軍事顧問部はバモオ博士に替えてビルマの王室を復活させれば 国軍は戻ってくると考え、そのような意見具申を方面軍司令部に行ったが、方面軍はそれを拒 絶している。 前述のように、抗日蜂起の規模は大きかったとはいえす、地域的にも限られていた。しかし、 アウンサンらは日本軍に対し武装蜂起した事実を政治的に活用できる環境を手にした。ビルマ に復帰した英国に対し、自分たちが対日協力をしたのはファシズムを支持したからではなく、 ビルマの独立だけを考えたからであり、自分たちは真性のナショナリストなので、最後は武器 彼らはまた、パサバラがビルマ を取ってファシスト ( 日本軍 ) と命がけで戦ったと主張した。 / のあらゆる階層を代表する政治勢力であることも主張した。現にパサバラには一九四五年五月 までに六つの政治団体と三つの非政治団体、および三つの少数民族団体が加わっていた。英軍 のマウントバッテン提督 ( 東南アジア軍総司令部 < o 最高司令官 ) がパサバラの抗日武装蜂 起に対する感謝の意を公式に表明し、ビルマ人ナショナリストたちの行動 ( 対日協力から抗日 へ転じたこと ) に理解を示したこともあり、アウンサンたちはその後の英国との独立交渉に自 信を持った。 公式史観の陰で

5. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

0 系の政治家たちは一九三〇年代に入ると、今度はインドとビルマの分離問題をめぐ って分裂・再編することになる。一九二〇年代後半以降、英国は英領インド帝国からビルマ州 を分離する方向で検討に入り、一九三一年十月に英緬円卓会議の開催を経て、翌一九三二年一 月にはビルマの分離を正式に決定した。これに対する 0 系各派のナショナリストたちの 意見は二つに分かれ、同年実施された第四回立法参事会選挙でこの問題を争点に掲げ、「分離 派、と「反分離派、に分かれて激しく選挙戦を戦った。 もともとビルマは歴史的にも文化的にもインドと大きく異なるので、ナショナリストたちの 頭あいだで「分離は当然」との思いは期から一貫して存在し、そのこと自体に反対する の者はいなかった。この段階で「反分離派、に立った人々の理由は、英国がかって両頭制の導入 ズをビルマ州にだけ遅らせた事実を重視し、英国がビルマをインドから引き離す決断をした背景 には、インドに近い将来与える自治権をビルマには与えないか、与えるにしてもすっと遅らせ シるのではないかと危惧したからにほかならない。 ナ この段階でも、植民地議会への参加を拒絶する派が系の政治家たちのなかには存在 ルした。しかし、ビルマに対する自治権の段階的付与の第二段階として、一九三五年四月、英国 が議院内閣制に基づくビルマ人の権限を強めたビルマ統治法を公布すると、すべての派がこの 3 新しい統治法体制の受け入れを前提とした政治活動を展開するようになった。すなわち、植民 地議会への積極参加を目指したのである。 137

6. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

ラ 丿 1 ー , 、イ ノイ。 オ ) 島。イ ド / ナ ) レ / 爆も行ったが効果はなく、ビルマ人ナショナリストたちを利用して英国の植民地支配体制を揺 るがす謀略を考えるようになった。 英側の防衛体制 重慶 ( 中国国民政府 ) 中国 、昆明 フーショウノ、 / 、 ーマンダレー ・ビルマノ アキャプー ハイフォン 海南島 / 、ノイ ラングーン ( ノ仏領インドシナ 、ノンペン サイゴン 、 0 、 ベトナム・ルート - ビ丿レマ・ルートー 道路 援蒋ルート ( 1940 年ごろ ). 出所 : Naw, 2001 , p. xvi を基に作成 .

7. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

九〇一年から一九一〇年の生まれは二四人、一九一一年以降生まれは一五人おり、最年少は一 九一九年生まれとなっている。この生年分布をビルマ人政治エリート ( ナショナリスト ) と比 較すると、第 3 章でとりあげたバモオ博士 ( 一八九三年生まれ ) らと同じ世代はごく少数に限 られ、大半はタキン党を支えたメイ、 、ノーたち ( 多くが一九〇一—一五年生まれ ) と同世代だった とい、つことがわかる。 一方、出生地の分布を見ると、判明した三〇人のうち下ビルマ出身者が二一人と多く、うち 第一次英緬戦争後に英領化された地域の出身者が六人おり、残り一五人は第二次英緬戦争後に 英領化された地域の出身者である。植民地化が第三次英緬戦争 ( 一八八五年 ) 以後となったた これもタキン党幹部た め王朝時代の雰囲気を後々まで残した上ビルマ出身者は九人と少ない。 ちの出生地と似た傾向にある。 父親の職業を見ると、判明している一七人のうち、公務員が九人と過半数を超えており、そ の内訳はとが合わせて六人、高等文官待遇への特別昇進者が二人、郵政専門職が 一人となっている。このほかは商業従事者三人、弁護士二人、地主、精米エ場経営者、キリス ト教系学校の校長がそれそれ一人で、すべてビルマ人中間層に特徴的な職業ばかりである。 学歴上の特徴はどうだろうか。出身高校が判明している二八人のうち、キリスト教ミッショ ン・スクールを主とする英語教授学校出身者が一一人、官立を主とする英語・ビルマ語併用学 校出身者が一六人、ビルマ人ナショナリストたちが運営した国民学校 ( ビルマ語教授学校 ) 出 172

8. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

ズムに対する彼の好意的な見方は、アウンサンをはじめとするビルマ人ナショナリストを喜ば せた。マウントバッテンは自分のほうがドーマンⅡスミス総督や英国政府よりアウンサンらの 思いを理解しているという自負があり、シムラからビルマ政庁がビルマに戻り民政を復活させ る時期をできるかぎり遅らせ、自分のコントロールがきく軍政の期間の延長を試みたくらいだ った。アウンサンはマウントバッテンの「善意」をそのときは誤解し、ビルマ政庁の早い復帰 を強く迫りマウントバッテンにその要求を飲ませているが、のちにビルマ政庁の後ろ向きの対 渉応に苦慮したアウンサンは、マウントバッテンの「善意」に反対したことを後悔することにな 立る。 英ちなみに、独立後のビルマ政府もマウントバッテンへの感謝の念を抱きつづけ、彼が一九七 対 九年八月にアイルランド共和軍 (—*<) のテロで爆殺されたときは、政府自ら三日間の喪に 離服し官公庁を休みにしている。旧植民地による元宗主国側の人間に対する対応としてはぎわめ 短て異例といってよい ( 日本の鈴木敬司大佐が一九六七年九月に死去したときには、このような対応 のは見られなかった ) 。 へ 立 独 コラムビルマに同情したアイルランド出身の総督 章 第 戦時中、インド西北部のシムラでビルマ政庁を率いたドーマンⅡスミス総督と、デリーにある 233

9. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

している日本への「協力」を通じて新たなビルマの政治的自立を追い求め、そのことによって 戦争の惨禍から自国民を救うこともできると考えた。そのため彼らはバモオ政府に加わったの である。バモオ政府はそのような心性を有したナショナリスト・エリートたちをひきつける磁 場として機能したといえよう。 4 悪化する民衆の生活 占領が長引き、戦局も悪化し、「独立の実態が不十分なものであることが判明すると、ビ ルマの人々の日本軍を見る目は厳しいものになっていった。とりわけ占領下における人々の生 活状況が悪化したため、民衆が被る苦痛は増した。 ビルマの民衆は、何よりも一九四二年十月の雨季明けから開始された英軍 ( 連合軍 ) による 空襲に苦しんだ。英軍はインドに撤退を余儀なくされたあと、ビルマを奪還するため空軍力を 増強し、対する日本軍は逆に制空権を失っていった。晴れ間の多い乾季に空襲が激化し、ビル マの主要都市や日本軍の基地のそばに住む人々は身の危険にさらされた。また、反日や英国へ 亠つよ、つほ . っ の諜報行為を疑われた地元民に対する憲兵隊 ( 日本陸軍の軍事警察 ) による拷問も、ビルマの 人々を恐怖に陥れた。ビルマ語で「キンペイタイン」という発音で残ってしまったこの不名誉 な日本語は、戦後も長く「残虐」「無慈悲」の代名詞のように人々のあいだで使われた。 204

10. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

まひ 抵抗すべきだと主張した。そのようにして植民地支配体制の機能麻痺を目指したのである。そ して、この主張に同意しない議員はすべて英国側に連なる「彼らの側のビルマ人」として非難 の対象とされた。タキン党は一九三六年の総選挙の際、系列政党をつくって二八名の候補者を 出し、三名が当選を果たしたが、下院に党員を送りこんだ理由は、議会のなかでこの閣僚ポス ト拒絶運動を広げ、ビルマ統治法体制を内側から混乱に陥れようとすることにあった。 ④団結の誇示 四つ目の特徴は、政党名に「協会」を意味する「アスイーアョウン」という造語を用いた点 に見られる。いまでこそ「アスイーアョウン」はビルマ語の一般名詞として「団体」「協会」 などの意味で使われているが ( ただし使用頻度は少ない ) 、一九三〇年当時、「束ねて集める」 というビルマ語の動詞を名詞化させてつくったこの造語は、新鮮な響きを有していた。この言 葉の使用には o < の分裂の連続に対するタキン党の抗議の姿勢が反映されており、彼らは 強い団結を誇る新しいナショナリストたちの組織をつくる目的を持ってこの言葉を使用した。 しかし、現実のタキン党は一九三八年八月に二つの派に分裂し、「アスイーアョウン、に込め た思いは実現できなかった。 ⑤社会主義思想のとりこみ 146