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検索対象: 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで
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1. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

ながりは深まることになった。ただ、それでも都市と農村のあいだで政治や国家に求める理想 像が重なりあうことは少なかった。 ビルマ人中間層 一九〇〇年代の半 ビルマ・ナショナリズムの運動はけっして急速に発展したわけではない。 ばころに小さな芽を吹きはじめ、一九一〇年代の第一次世界大戦期 ( 一九一四八年 ) を経て、 一九二〇年代に入って大きな動きとなり、管区ビルマ各地の都市部やその周辺に広がった。そ 頭れを直接担い、かっ支えたのはビルマ人中間層に属する人々であった。 擡 ビルマ人中間層とは、二十世紀初頭から第一次世界大戦期にかけて管区ビルマに登場したビ の ム ズ ルマ史上初のミドルクラスである。世代的にはビルマ全土が英領インド帝国の一州として組み こまれた一八八六年以降に生まれた者を中心とする。彼らは二世代に分けてとらえることがで シきる。 ナ 第一世代は一八八〇—一九〇〇年生まれの集団で、一九一〇年代までに青年期を迎え、ナシ マ ョナリズム運動が本格的に展開される一九二〇年代から三〇年代にかけて、中堅ないしは年長 の政治家になった人々である。彼らは青年期にビルマの植民地経済の右肩上がり ( ないしは安 章 定期 ) を見ており、資本主義に対する反感はさほど強くなかった。第二世代は一九〇一年からリ 第 一九二〇年に生まれた集団で、彼らの多くは一九二〇年代から三〇年代に青年期を過ごし、政

2. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

コラム 1 ビルマ人の名前 アウンサンスーチーは「アウンサン家のスーチーさん」ではない。彼女の名前は「アウンサン スーチー」でワンセットである。ビルマには一部の少数民族を除き、姓にあたるものがない。ビ ルマ人が持っパスポ】トには無理やり「姓」と「名ーに分割した名前が書き込んであるが、これ は国際標準に合わせた便宜上の措置で、ビルマ人の感覚からいえば滑稽に映る。 かっては男女とも一音節ないしは二音節の名前が多かった。たとえば、独立後の初代首相を務 めたウー ・ヌ ( 一九〇七—九五 ) がそうである。ウ ] は成人男性に付ける敬称なので、名前その ・ヌ」や「ヌ ものはヌだけである。かって活版印刷が全盛のころ、日本語の手書き原稿で「ウー 首相」と書くと、印刷工が間違えて「ウー・又」「又首相」と活字を組んでしまうことがあった。 いまとなってはなっかしい思い出である。一九六〇年代に一〇年間にわたって国連の事務総長を 務めたウ 1 ・タン ( ウ・タント、 一九〇九—七四 ) も、名前の部分はタンだけである。二人とも 一音節とはいえ、ヌは「やわらかい」、タンは「清い」という意味を持つ。二音節の名前の例と してはネイウインが挙けられる。一九六二年から八八年までこの国の独裁者として君臨し、「ビ ルマ式社会主義」を率いた元軍人の政治家である。彼の場合、ネイは「太陽」、ウインは「輝 く」を意味し、ミスター・サンシャインといった感じである。 一方、一九七〇年代あたりから三音節の名前が徐々に増えはじめ、一九九〇年代以降は四音節 ないしはそれ以上の名前も目立つようになった。これには父や母、ないしは祖父や祖母の名前の

3. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

治の世界では若手のナショナリストとして擡頭し、日本占領期を経て政治エリートとなってい く世代である。この世代の場合、青年期に世界恐慌に伴うビルマ経済の混乱を目の当たりにし、 そのこともあって資本主義に強い疑念や反感を抱く傾向を有した。ビルマ政治史を飾る一九一 五年生まれのアウンサン、一九〇七年生まれのウー ・ヌ、一九一一年生まれのネイウインらは この世代に属する。 学歴上の特徴 ビルマ人中間層のもうひとつの特徴は、英国が十九世紀後半から導入した近代教育制度の下 で育ったことである。彼らの学歴は高校中退ないしは卒業が多く、インド本土にあるカルカッ タ大学の分校として位置づけられたラングーン・カレッジ三年制、創設一八八五年 ) に進んだ 者もいる。さらにごく一部ではあるが、ラングーン・カレッジ卒業後にカルカッタ大学に編入 し、その後英国のオクスフォ】ド大学やケンブリッジ大学に留学する者もいた ( ビルマ州から 直接留学する場合もあった ) 。一九二〇年代以降は四年制のラングーン大学 ( 一九二〇年創設 ) へ 進学する者が増えている。ただし、同大学の場合、厳しい進級制度のため、入学してもその多 くが二年生から三年生に進級するときに落第・退学し、卒業率は毎年ほぼ二五パーセント前後 にとどまっていた ( コラム 7 参照 ) 。 植民地期のビルマにおける官立や私立学校の教育は、王朝時代から続く寺院学校を除き、英 114

4. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

経済開ーーインド本土への食糧と燃料の補給基地として 十九世紀後半以降の帝国主義時代における植民地統治の目的は、いうまでもなく領土支配を 通じた経済的利益の追求と確保であった。英国がビルマで求めたものは食糧としてのコメに加 え、石油、銅、宝石 ( ヒスイやルビーの原石 ) 、木材などの自然資源であった。経済開発もこれ らを中心に進められた。 コメは当初、スエズ運河の開通 ( 一八六九年 ) による航行距離の大幅短縮もあって、英国を はじめヨーロッパ向けに輸出された ( コラム 5 参照 ) 。だが、のちにインド本土で。フランテーシ ョン労働者の食糧として求められるようになったため、そちら向けの輸出量を急増させた。一 八七〇年代に年間九〇万トン台だった輸出量は、一九〇〇年代には二四〇万トン台に、そして 一九三〇年代には六〇〇万トン台を記録する年もあらわれた。コメの生産と加工 ( 精米 ) はビ ルマの最大産業となり、モノカルチ = ア ( 単一栽培 ) による輸出経済体制が築かれた。 これを支えたのが、下ビルマのデルタ地帯で十九世紀後半から推し進められた新規の水田開 発である。一八七〇年代に二〇〇万エーカー台だったコメの作付面積は、その五〇年後の一九 二〇年代には九〇〇万エーカーを超えるまでに至る。それを担ったのは、第二次英緬戦争で衰 退したビルマ王国 ( 上ビルマ ) を捨て、英領となった下ビルマに移住した大量の農民たちだっ た。上ビルマはもともと雨季の降水量が少なく、畑作はともかく、稲作は灌漑の整った地域で

5. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

。ないかということである。軍政期のビルマを支えた天然ガスの産出がいくら好調で多くの外 貨をもたらしたとはいえ、そうした資源輸出だけではビルマの長期にわたる経済成長を実現さ せることはできない。隣国タイとの経済格差はビルマ式社会主義期の一九六〇年代から明らか だったが、当時は「社会主義」が「是」であり、「資本主義」は「非」であったため、開発主 義的な政策を採用して隣国に追いつくという選択肢はありえなかった。しかし、七〇年代、八 〇年代と経済状態が好転せす悪化し、軍事政権が統治する一九八八年以降もますます Z 諸国との差をつけられたことへの危機感を、ティンセインらはやっと認識するに至ったとい える。 軍事政権時代にも市場経済化が目指されたが、軍人たちが経済政策をつくり実施しようとし たため稚拙さが目立ち、米国や@> による経済制裁がそれに追い打ちをかけ、輸出志向型の優 良外資の進出を阻害されるという苦い現実があった。この状況を根本的に変えるには経済政策 自体の改善のみならす、自国に制裁を加える米国や@> にそれを解除してもらうべく、国内の 民主化に手をつけるしかないと判断したのではないかと解釈できる。 また、このことと関連して中国との関係について触れておく必要がある。一九九〇年代に始 まった中国との経済交流の深化がビルマにとって福音だったことは明らかだが、同国の衛星国 家に位置づけられてしまうリスクを常に伴い、将来的にはインド洋への陸上進出ルートを確保 したい中国から軍事協力を求められる可能性すらあった。これをくいとめるには、欧米や日本

6. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

序章ビルマいャンマ ) という国 一部ないしは全部をつけて、姓にあたるようなものを示したいとする心理が背景にある。 冒頭のアウンサンスーチーはその典型である。彼女が生まれた当時、四音節の名前はまだ例外 的だったが、父からアウンサン、祖母からスー、母からチーをそれそれとって名前を構成してい る ( 意味はアウン「勝利」、サン「特別」、スー「集めるー、チー「澄む」 ) 。日本占領期に国家元 首を務めたバモオ博士の場合、その息子や娘の名前の一部には必す「モオ」がっき、孫の代にな ると彼らの父 ( バモオの娘婿 ) ャンナインの「ナイン」をさらに付している。その結果、ザーニ ーモオナインといった四音節の名前ができあがる。しかし、これを何代も続けていくと名前の じゅげむじゅげむ 「寿限無寿限無」化を招くことになり、結局四音節ないしは五音節を超えたある段階で、過去の どれかの人物の名前 ( の一部 ) を落としていくことになる。よって姓の成立までには至らない。 日本でいう「キラキラネ 1 ム」も一九九〇年代以降、男女を問わす増えている。派手で華やか な四音節 ( ときにそれ以上 ) から成る彼らの名前を、年長世代がどのように見ているのかは想像 一するしかないが、これも「変化」するビルマの象徴といえるかもしれない。 ちなみに、ビルマ人女性の名前の前につく「ドオ」は男性の「ウー」と同じく、敬称である。 ドオ・アウンサンスーチーは「アウンサンス 1 チ ] 氏」を意味する。ビルマでは自分の名前を呼 ぶときでも敬称をつけることがあるので、そこが日本語とは異なる。

7. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

うは「オリエント・クラブ」という別の社交クラブをつくって彼らだけの交流を深めた。 人事異動においては、英人— 0 たちのなかにビルマ認識をめぐって「保守強硬派」「中立 派 , 「親ビルマ派」の三つの「派」があり、ビルマ・ナショナリズムに冷たく英国の権威や国益 を最優先する少数の「保守強硬派ーが人事権を行使した。そのため、彼らに気に入られたビルマ 人—oco は昇進や異動において有利な扱いを受けたが、気に入られなかった者は、たとえば県知 事で赴任する場合、遠方の非重要県や、強盗団が頻繁に出没する治安維持の大変な県に異動させ られるなどした。 一方、同じ英人— o のあいだやビルマ人— o co のあいだでも、「深くて暗い河」はあったら しい。英人— 0 のなかには、少数とはいえ、ビルマ・ナショナリズムに理解を示した「親ビル マ派、がいたが、彼らは人事異動において、名目上は昇進でも実質的には閑職ポストへ異動させ られたり、首都ラングーンの政庁勤務からはすれて地方の県知事まわりが続く異動を経験させら れたりした。ビルマ人—oco の場合、英国に対する認識や思いが採用された年代によって微妙に 異なっていた。学長推薦と口頭試問だけで採用された一九二八年までの合格者は、それ以降の筆 記試験を課された組と比較して親英の傾向が強く、一方、一九二九年以降の合格者はビルマ・ナ ショナリズムへの共感を示す傾向が見られたという。そのため、この「世代間の断絶がときに 彼らビルマ人— 0 間の連帯にヒビを入れたようである。 176

8. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

たんのう 語もしくは英語とビルマ語を併用して行われていた。その結果、英語に堪能なエリートとその 予備軍が育ち、ビルマ人中間層は英語という宗主国の言語と親和性を有する人々としての特徴 を持っことになった。 このことについてビルマ人歴史研究者のエイチョオは、十九世紀前半に英領インドで教育政 策の策定に関わった英人・・マコーリーに触れ、一八三四年に彼が「 ( インドでは ) 血と肌 の色はインド人であっても、好みや意見、道徳性と知性においては英国人である人々から成る 階層を形成する必要がある」と発言したことに注目し、その考え方のビルマ版が十九世紀の終 頭わりから二十世紀にかけてビルマ州に導入されたと解釈している〔 Aye a ま 1993 〕。 擡 しかし、たとえそれが事実だったとしても、その結果として形成されたビルマ人中間層が、 の ズ政治的にも親英的な集団になったとはいえず、基本的に英側との協力姿勢を見せながらも、交 渉や取引 ( バーゲニング ) 、大衆行動などを通して、ビルマ・ナショナリズムの強化につながる シ成果を導き出そうとしたことに注意する必要がある。また、一九三〇年代後半以降は、ビルマ ナ 人中間層の若い世代 ( 一九〇一年以降生まれ ) を中心に、はっきりと反英独立を主張する集団 ルも登場するようになる。 章 職業上の特徴 第 ビルマ人中間層は、その多くが管区ビルマの都市部とその周辺に住んでいた。植民地国家ビ 1 1 5

9. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

を占めていたことからもわかるように、タキン党もまたビルマ人中間層から登場した団体だっ た。ただし、世代的には系諸政党に属する政治家たちより五歳から十五歳ほど若い おもに一九〇一年以降生まれの人々によって構成された。同党は (-) 0 の分裂がもたらした 民族運動の足並みの乱れに抗議し、英国に妥協しない団結力ある新しい統一的ナショナリスト 団体を目指そうとした。はじめは文書の作成・配布を中心とする小規模な同人組織のようなグ ルー。フにすぎなかったが、一九三五年を境に活動が活発化し、支部組織を充実させて全国ネッ トワークをつくり、 一九三九年までに管区ビルマ全三七県中、二七県に支部を開設するに至っ 頭た。特に一九三六年に発生したラングーン大学第二次学生ストライキへの支援を通し、その後、 の学生運動出身者を継続的に入党させることに成功し、デモや大規模集会などで人々を直接動員 ズする力量を蓄えていった。アウンサン ( 一九一五—四七 ) らの入党もこのころである ( 彼は入党 ナ後すぐに書記長に抜擢されている ) 。 シ もっとも、その主張や行動の激しさに比べて、タキン党は一九三〇年代の植民地支配体制に ナ 大きな打撃を与えたわけではなかった。一九三八年後半から三九年初めにかけて彼らが展開し ルた「ビルマ暦一三〇〇年の叛乱」と呼ばれる反英ゼネストは、表面上、バモオ内閣を総辞職に 追い込み、あたかもビルマ統治法下の植民地内閣をひとっ崩壊させたかのような印象を与えた 章 が、実際は下院における系議員同士の対立から生じた内閣不信任案の可決によるもの 第 で、ゼネストはバモオを追い込むために利用されたにすぎなかった。 141

10. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

て三年時の専門課程に進学する際、厳しい進級試験 ( 中間試験 ) が課せられ、そこで六割近くが ふるい落とされた。最低合格点が各科目とも一〇〇点満点中の四〇点で、一科目でもそれに達し ないと落第という制度だったからである。独立後、軍人政治家として一九六二年から二六年間に わたり独裁権力を振るったネイウイン将軍も、その落とされた一人である。彼は一九二九年、系 列の医科専門学校への進学を目指してラングーン大学ュニヴァ】シティ・カレッジに入学したが、 この進級試験において必修科目だった動物学で四〇点をとれなかったため、中退を余儀なくされ ている。 専門課程に無事進級できても四年次 ( コースによっては五年次 ) の卒業判定試験という難関が 頭 立ちはだかった。この突破も大変で、多い年には半数近くが落第した。その結果、平均して一年 擡 の時入学者の四分の一程度しか最終的に卒業することができなかった。在学者数は二つのカレッジ ズを合わせて二四〇〇人台だったので ( 一九三九年 ) 、単純計算すると一学年六〇〇人前後いたこ ナ とになるが、毎年そのうちの一五〇人ほどしか卒業にたどりつけなかったことになる。「ラング シ リートだった」と最初に書いたのは、この意味に ーン大学を卒業した学生は間違いなく当時のエ ナ おいてである。逆にいえば、ラングーン大学は中退者を常に大量に出していた大学だといえる。 マ がんばって一〇年生修了試験に合格し大学に入ったにもかかわらす、卒業証書を受け取れなかっ た人々が卒業生よりも多く植民地ビルマには存在したのである。 章 ヌは、ともに一九三〇 ちなみに、「独立の父アウンサンと独立後の初代首相を務めたウー・ 第 年代のラングーン大学卒業生である。 119