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検索対象: 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで
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1. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

国軍の政治観 こうしたビルマ国軍の著しい政治化の背景には、軍と政治との関係に関する彼ら独特の認識 が影響していた。ここでは一九六五年十一月に開催された ()n の第一回党セミナ】におけ る当時のサンユ書記長の発言を引用してみたい。彼はビルマ国軍の役割について次のように断 言している ( 傍点は引用者 ) 。 ビルマ国軍は政治闘争のなかで生まれ、さまざまな武装闘争を経験してきた。しかし、 一時期、国軍は自らの役割について「軍にとって政治は無関係である、 : : : 経済や社会に ついてもそれは国軍の仕事ではない、我々の唯一の義務は国防に尽きる」と考えていた。 こうした狭い了見のために、国軍はそれまでの革命の遺産をほとんど失いかけるに至った。 : しかし、ネイウイン将軍の指導により、 ・ : 国軍は一九六二年三月二日以降、社会主 義革命を担うことによって、自らの革命の遺産を取り戻したのである。 このサンユ書記長の発言が示すように、ビルマ国軍は、自らを国防に専念する機能集団とし てではなく、自国の革命を推進する政治的な軍として理解していた。国軍から政治性を消し去 ることは「狭い了見」として退けられたのである。彼らは実際、政治に関わることなく国防に 310

2. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

5 我らのビルマ協会 ( タキン党 ) 頭若い世代の反撥 擡 しかし、こうした政治的パーゲニングを軸とする 0 系政治家たちの「抵抗と協力のは の ズざま」に立った振る舞いは、圧倒的な力を持っ英国に対するさまざまな妥協を伴ったため、常 ナ に自国のナショナリズムに対する「裏切り」として同胞に受けとめられる危険性を有した。実 シ際、一九三〇年六月には、ビルマ人中間層第二世代の若手が中心となって、我らのビルマ協会 ナ ・アスイーアョウン ) という政治団体が結成され、英国が設定した植民地議会でしか マ 闘おうとしないに対し、「彼ら ( 英国 ) の側にたっ ( 対英協力的な ) ビルマ人」だとす る厳しい非難を浴びせ、英国に対し妥協をいっさい拒否する主張を展開しはじめる。 章 通称タキン党と呼ばれるこの団体が初めて公にその姿をあらわしたのは、一九三〇年五月後 第 半に発生したラングーンにおける大規模な反インド人暴動が生じた直後だった。ラングーンの ( このときまでに下院の重鎮になっていた ) 以下、バモオ博士 に >- 期以来の政治家バペー ・ソオ ( 第三代首相 ) と ( 初代首相 ) 、ウー・プ ( 第二代首相 ) 、チッフライン ( 下院議長 ) 、ウー いった系政治エリートが擡頭し、その後のビルマ政治史の年表に名前を残す存在とな っこ 0 139

3. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

いうまでもなく、上座仏教の僧侶は政治と関わってはいけないことになっている。俗界の欲 望と縁を切って出家した以上、その俗界の権力を構成する政治と関わることは出家者の本分に 反するからである。在家信徒たちもそのことはよく理解している。それでも出家者から見て、 在家信徒たちの生活が困難に陥っている原因が政治によるものであるとみなされる場合、僧侶 たちは在家信徒を保護するという理由から政治的活動に関わることがある。 上座仏教と政治との関係を歴史的に振り返ると、王朝時代においては国王が仏教王 ( 正法 王 ) としての義務を果たし、仏教の発展のための努力を怠らす、僧侶らを財政的に支援してい るかどうかをチェックする役割をサンガは有した。別言すれば、サンガが国王に王としての正 統性を付与する役割を担っていたといえる。一方、国王はサンガが腐敗することなく出家者た ちが修行に専念できているかどうかをチェックする役割を有していた。力関係では物理的権力 ひぼ・つ マを行使できる国王のほうが強かったが、サンガ側から仏教をないがしろにする「非法王、とい らくいん う烙印を押されてしまうと、その国王は正統性を失うことになったので、両者は建前上、対等 代な関係にあったといえる。 朝英領植民地期においては、ビルマが英国によって国家そのものを根源的につくりかえられ、 近代国家として「国家」と「宗教が分離されたため、上座仏教はかっての国教の地位を失う 1 ことになった。僧侶たちは仏教そのものの危機を感じ取るばかりでなく、植民地政府による過 酷な税の徴収や伝統的村落共同体の衰退に苦しむ在家信徒の状況を見過ごすことができなくな しようぼう

4. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

ぜ信頼を置いていた彼らがファシスト日本に協力するのか」という疑問がそこにはあった。こ の背景には「反英的」人士なら「親日」、「親英的人士なら「反日」というように、「あれか これか , 式の判断基準に基づいて植民地ナショナリストの姿勢を理解していた英国の姿が想像 される。 「親英的」ビルマ人工リートが英国に親しみを抱いていたことは事実だが、それはけっして英 国によるビルマの恒久統治を望んでいたことを意味しなかった。英国はそこを誤解していたと いえる。彼ら「親英的 , ビルマ人工リ ] トは、一九二〇年代から始まった英国のビルマに対す る段階的な自治付与路線に合わせながら、英国がビルマに持ち込んだ政治的・行政的様式とし ての議会制民主主義や近代官僚制に価値を見出し、その線に沿ったビルマの政治的自立を望ん だ人々だった。バモオ博士も元来はその範囲内に位置づけられる「親英的」政治家だったとい 占える。ここでいう政治的自立とは、必ずしも共和制による完全独立ということではなく、第一 と 入義的には英領植民地から脱して、英連邦 9 リティッシ = ・コモンウ = ルス ) のドミニオン ( 英 の国王を国家元首とする主権国家 ) の地位を確立することを意味していた。 本第 2 章で見たように、英国のチェンバレン内閣は一九三九年十一月、時期を明示しないまま、 将来のビルマのドミニオン化を約束していた。しかし、「親英的」エリートたちは、英国の敗 章 退によるビルマのドミニオンへの道の中断という現実と直面する。そのとき、彼らは戻ってく 第 るかどうか定かでない英国への不安だらけの期待を抱きつづけるよりも、実際にビルマを支配 203

5. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

士に対して不満を抱いたために前線から「逃亡」したのだとみなし、アウンサンらはけっして 反日ではないと認識していた。軍事顧問部はバモオ博士に替えてビルマの王室を復活させれば 国軍は戻ってくると考え、そのような意見具申を方面軍司令部に行ったが、方面軍はそれを拒 絶している。 前述のように、抗日蜂起の規模は大きかったとはいえす、地域的にも限られていた。しかし、 アウンサンらは日本軍に対し武装蜂起した事実を政治的に活用できる環境を手にした。ビルマ に復帰した英国に対し、自分たちが対日協力をしたのはファシズムを支持したからではなく、 ビルマの独立だけを考えたからであり、自分たちは真性のナショナリストなので、最後は武器 彼らはまた、パサバラがビルマ を取ってファシスト ( 日本軍 ) と命がけで戦ったと主張した。 / のあらゆる階層を代表する政治勢力であることも主張した。現にパサバラには一九四五年五月 までに六つの政治団体と三つの非政治団体、および三つの少数民族団体が加わっていた。英軍 のマウントバッテン提督 ( 東南アジア軍総司令部 < o 最高司令官 ) がパサバラの抗日武装蜂 起に対する感謝の意を公式に表明し、ビルマ人ナショナリストたちの行動 ( 対日協力から抗日 へ転じたこと ) に理解を示したこともあり、アウンサンたちはその後の英国との独立交渉に自 信を持った。 公式史観の陰で

6. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

の多くは英語に堪能な高学歴のビルマ人だった。また英人の会員も少なからず存在し、彼らは がと同様に政治的な活動はせす、社会事業を中心とした宗教的活動を行う組 織だととらえていた。ナオ こどし、このころからすでにビルマ人会員のなかに < の性格づけ をめぐる見解の相違が存在し、バペーに代表される若い会員たちの多くは、組織の将来のアジ エンダとして政治的活動もありうると認識していた。 >- < の第一回全国大会は、組織結成から六年目に入る一九一一年五月にラングーンで開 催されている。先述のメイアウンが大会議長となり、一四項目にわたる決議を行っている。そ れらは組織の整備や拡大に関する事項が半分を占め、そのほかは学校おける仏教教育の重視を とくど せんじ 訴えるものや、一般社会における得度式や結婚式、穿耳式 ( 少女が思春期を迎える時期に行う両 耳たぶに小さな穴をあける儀式 ) がいたすらに豪華さを競うようになったため、本来の質素なも のに戻すよう訴えるものであった。また、倹約や貯蓄精神の強調、飲酒の撲減なども決議され た。政治的な主張につながる決議は皆無だった。 第二回 ( 一九一四年五月 ) および第三回 ( 一九一五年十月 ) 全国大会においても、 >- < の 決議事項に政治的な色彩を帯びたものは登場しなかった。それそれの大会では、冒頭に仏法僧 の三宝に祈りをささげた後、英国王ジョ ] ジ五世 ( 在位一九一〇—三六 ) の健康を祈り、イン ド総督やビルマ州知事への感謝表明、さらに英国国歌まで斉唱している。これだけを見れば親 英的なビルマの仏教団体そのものである。 122

7. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

①現在および過去を問わす、いかなる者も自分が表明する政治的意見のゆえに苦しめられる ことがあってはならない。たとえそれが反英的意見だったとしても差別してはならない。 ②日本軍の脅威を前にして、武器もなく、組織化もされていなかった誠実なビルマ人ナショ ナリストたちが、政治的に動揺し、とりわけ独立の約束のために日本に協力したとしても、 ほとんど驚くに値しない。 ③いまこそ英国が日本と違うことを見せつける好機である。ビルマの将来は日本ではなく英 国と協力することによって達成されるということを理解しはじめたビルマ人ナショナリス トたちに対し、我々が誠実にビルマ人を助ける意思を有していることを示すべきである。 ④ビルマ国軍とパサバラは、英国が彼らを支援することが明確になる前に蜂起している。彼 らが英国のためではなく、彼ら自身のために立ち上がったにすぎないとみなすにしても、 それはきわめて当然のことだといえる。なぜなら、自分たちのため以外に戦争努力をする 国民がいるとは考えにくいからである。 ⑤英軍による軍政下においては、政治上の理由による犠牲者を出してはならない。そのよう な犠牲者が出ているという憶測が流布されることがあってもならない。 このような方針を示したことからわかるように、マウントバッテンは英国への忠誠心を持っ 愛国的軍人であると同時に際立ってリべラルな思考を有する人物だった。ビルマ・ナショナリ 232

8. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

だったといってよ ハペーは既述のとおり >- < 創設者の一人であり、このときまでに >* 本部代表の地位にのぼりつめ、政治的アジェンダをとりあげることを決意していた。 インド担当大臣との面会 英国はこのとき、第一次世界大戦における英領インド帝国の戦争協力に対する見返りとして、 のちに両頭制と呼ばれるようになる新しい統治システムの導入準備を進めていた ( 第 2 章 2 節 参照 ) 。しかし、この制度のビルマ州への適用について英国は延期しようと考えていた。ビル マが歴史的にも社会的にもインドと大きく異なるため、いすれ別枠で統治改革を考えたほうが よいと判断したためである。これに対して、ビルマでは英国がビルマの自治進展を遅らせよう としているのではないかと受けとめる傾向が強まり、はそうした思いを英国に直接伝 えるべく、モンタギュー大臣のカルカッタ訪問に合わせて代表団を派遣する決議を行ったので ある。 その後、大臣とカルカッタで面会することを認める通知が英国政府から本部に届く と、同本部は臨時会議を開催して大臣への申し入れ事項に関する検討を行った。年長者や保守 派の会員からは、の目的はあくまでも仏教徒ビルマ人の文化的・経済的発展にあり、 組織として政治問題に関与すべきではないという主旨の反論が出されたが、大臣にビルマ人の 政治的希望を正しく伝えることこその使命であるという理解のほうが主流を占めた。 124

9. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

である。修行を怠ったり戒律を破ったりする出家者にいくら喜捨を施しても、それは功徳を積 むことにはならないと信じられている。出家者であれば誰でもよいというわけではないのであ る。そこで在家信徒は、出家者たちが腐敗せす常に最良の環境で修行に励むことを望み、かっ 国家がそのような宗教的環境を整えるよう期待する。当然、出家者も在家信徒のためにしつか り修行に専念することを目指し、ここに自力救済の論理だけでは説明できない ( すなわち「個 人の救い」ということだけでは説明できない ) 出家者と在家信徒間の宗教的互恵関係を見ること ができる。 換言すると、出家者は第一義的には自分の救いのために修行に励むが、同時にそれによって 自分に喜捨をする在家信徒が功徳を積む機会を提供することになる。さらに、出家者は在家信 徒に向けて自分の修行の成果を示す一環として説法を行い、在家信徒のほうは僧侶の説法を聞 くばかりでなく、個人的に生活上や人生の悩みを聞いてもらい宗教的アドヴァイスを得る。こ うして両者の関係は密なものとなる。 政治との関係 通常はそこまでの関係でとどまるが、戦争や内乱、悪政などのために在家信徒の住む社会が 不安定になり、政治や経済が混乱を極め、彼らの生活状況が悪化すると、出家者も安心して修 行に励むことができなくなるため、出家者が政治的な行動を起こす事態に至ることもある。

10. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

3 ビルマ人高等文官と政治家との関係 ビルマ人高等文官の出自がビルマ人中間層であったことはすでに述べたとおりである。それ は第 3 章でとりあげた 0 やタキン党に代表されるナショナリズム運動と深く関わったビ ルマ人政治家たちと共通していた。両者は一見、まったく別の世界へ進んだ人々のように映る。 そうした解釈は間違いではない。しかし、両者のあいだに交流があったこともまた事実である。 系政治家の場合、とりわけビルマ統治法の導入以後に閣僚になった者 ( バモオ博士、 ー・ソオら ) は、外交と防衛および貨幣政策を除くさまざまな行政部門において、 世ゥー・。フ、ウ の 首相や大臣として高等文官の上に立って指揮し、指示を出したり行政上の補佐やアドヴァイス を求めたりすることになった。必然的に、英人のみならずビルマ人の— 0 や 0 ー—と接 政する機会が増え、相互の交流は深まることになった。選挙区の有権者に自分の権力を見せびら 行 人かすために、必要以上に高等文官を使役した大臣の例もあるが、系の政治家は、ほぼ マ 共通して高等文官を必要不可欠な存在とみなし、軽視や敵視することはなかった。またビルマ 人の高等文官も彼らに忠実に仕えた。 章 一方、タキン党の場合、ビルマ統治法体制を拒絶し、議員らに大臣ポストを拒否するよう働 第 きかけるなど、下院議会に対して内と外から揺さぶりをかけつづけ、議会を機能不全に陥らせ 177