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検索対象: 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで
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1. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

当の理由は、今日に至るまでよくわかっていない。暗殺事件の真相はいまだ闇のなかにある。 コラム暗殺者ウー・ソオの日本観 ー・ソオは、戦前の日本を訪問している。両頭制下の立法参 アウンサン暗殺の命令を下したウ 事会議員だった一九三五年のことである。そのときの記録は自著『日本案内』 ( ビルマ語 ) とい う本にまとめられ、自分が経営するトウーリヤ新聞社から発行された。同書のなかで彼は日本に 対する大きな期待を述べている。その部分を三つに分けて抜粋してみよう ( 訳〕根本敬 ) 。 せんぼう 〈 1 〉英語に頼らす自国語だけで近代化を進めることができた日本への羨望 ここ日本では英語は用をなさす価値を有さない。英語ができなければならないという必要 性もない。すべての業務は日本語で十分に行われている。だからこそ、日本はこのように発 展したのだといえる。 ( 英語に頼らざるをえない我々から見て ) うらやましい限りである。 〈 2 〉日本が急速に発展できた理由についての彼の理解 日本は五五年くらい前まで ( 一八八〇年くらいまで ) 、ビルマと同じような農業国であり、 工業はほとんど存在しなかった。その後、農業では国家が発展しないことを認識し、工業を 導入するため青年らを海外に留学させて技術を学ばせ、彼らが日本に帰国後、会得した知識 と技術を日本語に翻訳し、ほかの日本の青年らに教えた。そのため習うほうは容易に習得で 260

2. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

危惧があった。しかし、バモオ博士であればその心配はないと判断された。バモオ博士は日本 軍の要請を受け入れ、その結果、彼は中央行政機関設立準備委員会委員長を経て、同年八月、 中央行政府長官に就任した。中央行政府とは日本軍政の枠内に置かれたビルマ側の行政執行機 関で、日本軍のにらみがきいていた。中央官庁をはじめ県庁や郡役場などの地方行政機関には 英領期のビルマ人高等文官 (—oco 、 noco-—) や中級・下級公務員の大半が残り、日本軍 も彼らの活用を認めたので、行政機構自体はそれほどの混乱には陥らなかった。 ただ、日本軍がにらみをきかせていたとはいえ、その日本軍とのあいだにビルマ・ナショナ きようじ リズムの矜持をめぐる興味深い事件が起きている。それは一九四三年一月から三月にかけて生 じた上ビルマのメイッティーラ県における日本軍への費用負担をめぐる県庁の抗議であった。 この県では駐屯する日本軍の基地に対し、県庁から下級公務員を手伝いとして無償で派遣させ 占られ、さらに基地内の軍医たちに出すおやっ代まで負担させられていた。これに対し、県知事 入がラングーンの中央行政府にこのまま負担を続けるべきか否か打診したところ、戦時の特例と のしてこれまでの分の負担は認めざるをえないが、今後はとりやめるべきとの判断がくだされ、 本その旨の通知が届いた。県知事はこれに対し、自分が単独で日本軍にとりやめを伝えることは 日 困難なので、中央行政府で直接処理してほしいと要望書を出した。その結果、一九四三年三月 5 二十六日付で、中央行政府の内務省から全県知事宛に「日本軍の活動のために県庁が負担した 分の費用については、日本軍が支払うものとする . との通達が出されるに至った。 199

3. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

四二年一月二十二日 ) 、現地の日本軍はそれに呼応する姿勢を有していなかった。 あつれき 日本軍との軋轢は深まり、のなかでは日本軍と戦うべきだと主張する者も出てきた。 しかし、日本軍が万単位の兵力と英印軍やビルマ植民地軍を上回る戦力 ( とりわけ優勢な航空 戦力 ) を有してビルマを席捲しつつある現在、経験も武器も極端に乏しいが愛国心だけ をよりどころに日本軍と戦っても勝利への展望はないことを、アウンサンは十分に理解してい た。また、鈴木大佐をはじめとする日本人の南機関員に対する深い恩を感じていたこともあり、 と日本軍との板ばさみに悩む彼らをこれ以上苦しませたくないという感情もあった。こ うした経緯を経て、彼は日本と組むことのリスクの大きさを自覚しながら、日本に対する「抵 抗と協力のはざま」に立って慎重に行動することになる。 は苦渋の決断の末、一九四二年三月から開始された「北伐戦と呼ばれる日本軍四個 師団によるビルマ中央部へ向けた英軍駆逐作戦に側面から参加する。開戦当初、日本軍はラン グーン攻略以後のビルマの早期全面制圧を考えていなかったが、シンガポール攻略戦が思いの ほか早く終わったので ( 一九四二年二月十五日 ) 、二個師団をビルマ戦線に増派できることにな り、この「北伐戦」が実施されることになった。日本軍は撤退する英印軍と植民地ビルマ軍を 破竹の勢いで追った。アウンサンにとって「北伐戦への— < 参加は、自軍の将兵に少しで も多くの戦闘経験を積ませるという前向きの意味があった。このとき、の兵員規模は一 万人を優に超えていた三万人超という説もある ) 。不十分な武器と訓練の不足からけっして強 せつけん ほ / 、洋っ 192

4. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

ました。しかし、日本に続いてドイツが脱退し、今日の朝刊によればイタリアも脱退の方向 であることが報じられています。こうした国際政治の流れを見る限り、日本のとった選択は 正しい道であったとはっきりいえます。日本人とビルマ人は同じ仏教徒で東方の世界に住む 者同士です。仲良くすることは容易であり、伝統や慣習や文化も似ているところがあります。 いかなることでも努力すべきです。両 ビルマ人と日本人はお互いのより良き発展のために、 国の国益に関わる事態のために、もし私たちが日本に来る必要が生じれば、たとえ五〇〇〇 マイル離れていても、また船が手配できなくても、泳いでやってくるほどの覚悟が私にはあ ります。 いすれも、英領植民地下で苦闘するビルマ人ナショナリストとしての彼の思いが強く反映され ている。特に海軍横須賀鎮守府を表敬訪問した際のスビーチで、日本を「偉大なる兄」として称 え、満洲事変以降の日本の国際連盟脱退を評価し、日本とビルマの深い関係を示唆しながら、ビ ルマ人として日本に最大限協力する決意が述べられている箇所は印象的である。海軍の高級将校 らを前にしたスピーチなので、いくぶん迎合が見られ、その点は割り引く必要があるが、一九三 〇年代半ばにあって、ビルマ人ナショナリストのなかにこうした日本への強い期待感があったこ とは、当時の時代の雰囲気を強く感じさせる。 262

5. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

した。 ビルマ独立の翌年にあたる一九四九年には七万トンが日本に輸出され、翌五〇年には早くも 戦前の一九三六—四一年の日本向け年平均コメ輸出量一四万七七〇〇トンを上回る一七万トン が販売されている。一九五一年十一月には日本政府がラングーンに在外事務所を設置すること を認め、翌年四月の戦闘状態終結宣言後は総領事館への昇格を承認 ( 八月 ) 、前後して入札に よる日本向けコメ輸出枠の確保や、日本が緊急に求める入札によらない追加割当および割当枠 時外販売を優先的に認めた。この背景には、戦後の世界的なコメの供給不足に加えて朝鮮戦争 相 ( 一九五〇—五三年 ) による特需が生していたなか、コメの輸出で外貨を稼ぎ、経済復興や社会 首 ・ヌ側にあったことはもちろんである。しか 福祉国家建設のための資金に用いたい意向がウー 一し、ビルマにとって完全な売り手市場であったこの時期、日本に対し特別の枠まで設けて優先 ウ 的に安くコメを売る必要はまったくなかった。ではなぜ日本を厚遇したのであろうか。 実そこには見逃せない事実として、旧南機関員たちの働きがあった。元機関長の鈴木敬司 ( 敗 の戦時少将 ) らが日綿実業や第一物産、東西交易などをはじめとする商社によるビルマでのコメ ヌ政府とのあいだに立って奔走した。戦前に海南島で軍事訓 の買い付け交渉において、ウー・ 練を施した「三〇人の志士」出身の大臣や次官をはじめ、日本占領期に「抵抗と協力のはざ ・ヌ首相もその一人 ) と接触し、日本の危機的 7 まーに立って動いたビルマ人政治エリート ( ゥー 食糧事情への理解を求め、ビルマ側がそれに応じたのである。日本のビルマからのコメの買い 289

6. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

領 占 と 「独立」ビルマの国家元首だったバモオ博士は、英軍が迫ってくるなか、一九四五年四月に家族 侵 らとともにラングーンを中古バスで脱出し、英軍の執拗な攻撃を避けながら南部ビルマのムドン の 軍 へ避難した。日本のビルマ方面軍はバモオ政府に飛行機を提供してくれなかった。日本軍は協力 し・てくれた・目ル、・「人・窈斑を・見問で・た・クで・あ、る。・ - ・日本政府によるポッダム宣言受諾後、彼のこと ふびん たろう を不憫に思った駐ビルマ日本国大使の石射猪太郎は、極秘に準備を進めてバモオ博士を日本に亡 章 命させる。泰緬鉄道でバンコクへ移動した博士は、そこから飛行機でサイゴン、台湾経由で東京 第 たちかわ に向かい、八月二十三日深夜に立川飛行場に到着し、暗闇のなかを車で参謀本部に向かった。連 立ち位置は、同しく に日本が中途半端オ を与えたフィリビンのラウレル政権の 姿勢にもあてはまる。また、「独立」を与えられることのなか 0 たお引 / ・卸石・・み、、、 ~ ・・ 0 ンドネシア ) のスカノノやハッタらの日本軍に対する接し方にも共通点を ことができる。 ただ、フィリ。ヒンでは対日協力政府を認めない抗日勢力が一貫して存在し、日本軍を非常に悩 ま・せ・た・の・ - で、ー・そ・の・点が它・ルーマ・とは異な、つ、た。またインドネシアは「独立」が与えられなかった ので、ナショナリストたちは「抵抗と協力のはざま、に立っていたとはいえ、「協力、のほう により傾いた面があったといえるかもしれない。 コラム バモオ博士の戦後 221

7. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

つ「賠償」という名称の継続使用を主張した。日本政府はこれに強い抵抗を示し、交渉は開始 されたものの、両者の認識は大きく離れ、交渉の不成立すら予測された。しかし、ここでも戦 時中のビルマ人政治エリートと日本側の旧南機関関係者との深い結び付きが奏功し、終盤にな ってやっと交渉決裂だけは避けるべきとの判断が日本側に働いた ( コラム燔参照 ) 。 双方妥協の末に締結された内容は、名前を「経済技術協力」としたうえで ( すなわち「賠償 という名称は用いない ) 、日本は現行の賠償が終了したのち一億四〇〇〇万ドル分の生産物と役 務を一二年分割で無償供与し、加えて三〇〇〇万ドル相当の円借款を六年以内に実現するとい うものだった。ビルマが将来、賠償額の再検討要求を行わないことも合意された。日本政府は 「賠償ーというタームの使用を避けたが、一般にこの協定は「準賠償」と呼ばれ、一九六五年 から一九七七年まで実施された。 第三者から見れば、この交渉は日本外交の勝利に映るかもしれない。しかし、一連の賠償お よび賠償増額交渉を歴史的に振り返った場合、それは日本だけでなくビルマにも有利に作用し たといえる。なぜなら、ビルマは金額や名目に関する妥協を強いられたとはいえ、紛糾するこ となく賠償と「準賠償。をそれそれ順調に日本から得ることができ、それを足がかりにして、 一九六〇年代後半から多額の政府開発援助 (02<) を長期にわたって引き出すことに成功し たからである。 292

8. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

一九七六年十一月には東京で世界銀行 を中心とした受け取りに積極的となった。この間、 主催の第一回ビルマ援助国会議が開催され、日本と西ドイツのほか、英国、フランス、オースト ラリア、米国が参加している。 一九八八年に全土的な民主化運動が生しが中断されるまでの期間、日本の対ビルマ ①供与総額は、円借款が約四〇三〇億円、無償資金協力が約九四一億円、そして技術協力 ( 専門 家派遣、留学生・研修生受け入れ等 ) が約一四六億円、総計で五一一七億円にのぼった。この額 る はこの時期の日本の諸外国への O < 供与と比較してきわめて多いほうで、一九八九年までの通 よ 算でビルマは日本の供与額が七番目に多い国だった。ビルマ側が受け取った二国間援助の 国 総額で見ても、日本はビルマに対するトツ。フドナーでありつづけた。 しかし、民主化運動が展開された一九八八年、「日本の対ビルマ 0 はネイウイン政権を必 代 時要以上に延命させる役割を果たした」という厳しい批判がビルマ側で生じた。商品借款を通じビ 義 ルマで組み立てられた日本企業のトラックの一部が軍事目的に転用されていた疑惑が指摘された 主 ほか、長期・多額の援助がなされた割にビルマ側に技術移転が起こらす、人材育成よりハコモノ 式中心の。フロジェクトが目立ち、無償援助より借款が多くビルマ側の債務を増やしてしまったとい マ う批判は、その一部に的外れなものがあったにしても、当時の日本の政策に反省を迫るも のだった。その後、日本政府は一九九二年に「 0 < 大綱」を閣議決定し、 0 の実施にあた 章 って平和・民主化・人権保障のための努力に配慮する姿勢を示すようになる。 第 323

9. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

ゥー・ソオの裏切りを伝えた。事実を知った英政府は激怒し、ビルマへの帰国途上にあったウ ー・ソオをパレスティナのティベリアスで飛行機から降ろして拘束し、取り調べを開始した ( 一九四二年一月十二日 ) 。すでにビルマでは日本軍とアウンサン率いる—による侵攻が始 まり、英印軍や植民地軍とのあいだで戦闘が開始されていた。 ー・ソオは日本公使館との接触を認めたが、それは日本に住むビル 英国官憲による尋問でウ マ人留学生を日本政府が宗主国の英国臣民とみなして捕まえたりすることのないよう申し入れ 渉に行っただけだと語り、接触の目的については英国の嫌疑を全面否認した。英国は悩んだ末、 立裁判をせす超法規的処置によって彼を極秘のうちにアフリカの英領ウガンダに抑留することを 英決めた。裁判をしてしまうと、米国が解読した日本の外務省の暗号電報を証拠として提示せざ 対 るをえす、そうすると日本側に米英が日本の暗号を解読していることが伝わってしまい、すで 離に行われている日本との戦争が不利になってしまうからである。 短こうしてウ ー・ソオは同年一月十九日に首相職から解任され、四月から英領ウガンダのポン のボという町に無期限で軟禁されることになった。ビルマが将来英連邦のドミニオンになった際 ー・ソオだったが、暗号解読とい 立には、初代首相という栄誉ある地位に就けたかもしれないウ う想定外のできごとのためにビルマ政治の表舞台から転落し、アフリカの奥地に自由を束縛さ 章 れることになったわけである。 第 257

10. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

3 日本軍政と「独立」付与 前述したように、日本軍はシンガポール攻略戦が予定より早く終わり、余裕の生じた師団を ビルマに移動して増強し、援蒋 ルートの完全遮断のみならす、石油資源等の確保を狙って上ビ ルマ方面へ侵攻、英印軍と植民地ビルマ軍を打ち破ってインドに撤退させ、一九四二年五月ま でにビルマ全土をほぼ制圧し、六月四日に軍政を布告した。このとき、撤退する英軍は日本軍 による利用を妨げるため、発電所のほか石油タンクや石油精製工場を爆破し、上ビルマの油田 地帯の原油生産に関わる施設も破壊した。また鉄道路線も各地で寸断されたため、日本軍は物 資と兵員の輸送に大変苦しむことになった。 軍政下の中央行政府 日本軍の本格的侵攻が開始された一九四二年一月以降、ビルマ国内が騒然となってくると、 同年六月、バモオ博士はキンママ夫人の助力によって僻地モウゴウッの刑務所からの脱出に成 功する。ちょうど年長の経験豊かな反英政治家を探していた日本軍は、脱獄してきた彼を歓迎 し、協力を要請した。日本軍から見て、自軍のビルマ侵攻を側面から支援したタキン党員たち はまだ若すぎ、反英姿勢は強くても、そのエネルギーがいっ反日に転じるかわからないという 198