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影響を与えた。 当時の日本政府にとって東南アジア諸国に対する戦後賠償は、言葉本来の意味での「賠償」 ( 償い ) ということではなく、東南アジアへの経済的復帰を図るための先行投資という思惑を 有した。吉田茂首相自らそのように語ったし、当時の政府の文書にもそのように記述されてい る。そもそも世論がアジア・太平洋戦争における日本の加害者的側面を受けとめす、国内経済 が回復していない段階での「賠償、実施にきわめて消極的だったため、政府としては先行投資 時型の中身にする必要があったといえる。現金で支払うのではなく、生産物と労働力で「賠償」 相するというやり方は、実質的に日本企業の東南アジア投資を促す役割を果たした。 首 ヌ 一方、ビルマ側には日本の思惑が何であれ、早期に賠償を獲得したい事情があった。それは 一朝鮮戦争による特需が終わってコメの国際市場価格が下がり、期待していた外貨収入が得られ ウ なくなったことによって経済復興が遅れ、ウー・ヌ政府が推進していた高度福祉国家の創設を 実目指した国家的。フラン ( 。ヒードーター政策 ) に必要な資金が不足したことである。それがビル のマ側に賠償協定早期妥結を促したといえる。ちなみに、この賠償協定の交渉過程においても、 戦後のコメの買い付け交渉のときと同じように、戦時中のビルマ人政治エリートと日本側の旧 南機関関係者との深い結び付ぎが見られた。 章 その後、ビルマ政府は再検討条項に基づき、賠償額の引き上げを日本政府に対して求めるこ 第 とになる。ビルマは最低でもインドネシア並み ( 四億ドル ) への金額の引き上げを要求し、か 291
ンダとの戦後和解を困難にさせた。 日本軍からは第二鉄道監部のもと、鉄道第 しょ・つ 五連隊、同第九連隊、特設鉄道隊、材料廠 の計一万二五〇〇人が工事に関わった。しか し、ほとんど機械を使わす人力だけで行う過 酷な建設工事がくり広げられた。現場で一番 きつい肉体労働を担わされた人々は日本軍関 係者ではなく、 六万二〇〇〇人にのぼる連合 軍の捕虜と、東南アジアで徴用された二〇万 人を超える労務者だった。連合軍の捕虜はシ 取ンガポ】ル攻略戦やジャワ攻略戦の過程で日 貨 本軍に捕えられた人々で、その内訳 ( 概数 ) 汽は英国人三万人、オーストラリア人一万三〇 行〇〇人、オランダ人一万八〇〇〇人、米国人 道七〇〇人、そして少数のニュージーランド人 緬であった。東南アジアの労務者のほうは正確 な動員記録がほとんど残されていないが、ビ 208
ウに関する本や資料の入手に努力した。 ア表 たの父アウンサンのことを調べるうちに、彼 筆御女はアウンサンと日本との関係についてよ 執刊 が年り深く知りたいと思うようになった。しか チし、本格的に父親と日本との関係を調べよ ス記うとすれば、どうしても日本語の能力が必 ン伝 サの要となってくる。彼女はそのため、オクス ウサフォード大学で日本語の勉強を開始する。 そして三島由紀夫の小説を原書で読めるま での力をつけると、九八五年十第四十歳のどぎ : 印本の国際交流基金の・招ぎで念刷の日本 行きを果たす、、一〇カ月都大学東南アジア研究センター ( 現東南アジア研究所 ) に客 員研究員として迎えられこを拠点に、東京の外務省外交史料館や当時の防衛庁戦史部図書 館、国会図書館などに通って日本側資料の収集・調査に励んだ。また、各地をまわってアウン サンと交流のあった元日本軍関係者に対する聞き取り調査も行った。日本での滞在は、夫を英 国に残したまま二人の息子を連れての生活だった。 一九八六年七月日を去ると、ヤンゴンに三か月ほど寄って久々に母キンチーとともに過 ごし、その年の十月、夫の待っオクスフォードに帰った。そのまま通常の生活が続けば、研究 AUNG SAN OF BURMA AungSanSuuKyi 360
な宗派を生んだ。のちに大乗仏教に発展する大衆部系の諸宗派は、インドから陸上ルートで中 国・朝鮮を経て六世紀には日本にまで伝播した。並行して海上ルートでインドから東南アジア A 一、つしょ 島嶼部にも伝わった。一方、上座部系はスリランカから東南アジアの大陸部のモン人に伝わり 十一世紀以降、そこからゆっくりと現在のビルマ、タイ、ラオス、カンポジアにあたる地域に 広がっていった。これらの地域ではそれそれの王権と深く結び付き、上座仏教国家を形成する に至った。この間、上座部系諸宗派のうち「南方上座部」と呼ばれる派以外は姿を消し、その 結果、もはやほかに「部派ーが存在しなくなったため、「部」をとって上座仏教と呼ぶことに よっこ。 正式にはテーラヴァーダ ( 「長老の教え」の意 ) と呼ばれ、個人の救いを目指す出家至上主義 さんぞう と、 ーリ語で書かれた三蔵 ( 経蔵、律蔵、論蔵 ) を中心とする経典を信奉する点に一番の特 ノ 徴がある。 ーリ語とは古代インドの聖なる言語サンスクリットに対し俗語とされた。フラーク リットに含まれる言語で、原始仏教教団において用いられていた。文字はなく、ビルマではビ ルマ文字、タイではタイ文字を用いて表記されている。 出家者の特徴 びく 上座仏教の僧侶は正式には比丘と呼ばれ、彼らはいっさい生産活動や経済活動を行わす、在 きしゃ 家信徒の喜捨と協力に全面的に依存し、僧院において修行生活を送る。その目的は、あらゆる ノ
品 ) と食糧 ( コメ ) の供給地としての役割を与えられていたため、インドが独立して英国の 「責任、から離れてからは、英国にとってビルマの必要価値が必然的に下がる運命にあったこ とが指摘できる。 すず 大戦後の英国の東南アジアへの経済的関心は、もつばら天然ゴムと錫が確保できるマレーシ ア ( 一九五七年まで英領マラヤ ) と、東南アジア交易の中心だったシンガポールに向かった。そ して一九六二年以降、ビルマがネイウイン政権による閉鎖的なビルマ式社会主義を採用するに 時至ると ( 第 8 章で詳述 ) 、それまで戦前から続いていた英国資本の象徴であるビルマ石油会社 相 (noo) も完全国有化され、その後の英緬関係はミニマムな外交関係の範囲にとどまるよう 首 こよっこ。 もちろん、英国がビルマ政府と深い関係をいっさい有さなかったというわけではない。独立 ウ 当初はビルマの弱点である国防面において保護者的な役割を果たそうとしていた。独立交渉が 実進展中だった一九四七年に結ばれた英緬防衛協定 ( レッャーⅡフリ ーマン協定 ) に基づき、独立 のの少し前から在ビルマ英国顧問団がビルマ国軍を側面から指導した。軍事訓練や 立武器購入のアドヴァイスのほか、少数ではあったが国軍将校を英国の士官学校やそれに準する 学校に留学させた。しかし、この協定は独立後五年たった一九五二年に二つの理由からビルマ 章 側によって破棄されている。 第 ひとつはがビルマに存在する限り、国境を接する中国に要らぬ刺激を与えてしまう 295
参考文献 * 日本語と英語の文献だけを示した。ビルマ語 文献と公文書館所蔵の一次史料、および未刊 行の博士論文は一部を除いて省略した。 1 日本語文献 ( 著者名五十音順 ) アウンサンスーチー ( 著 ) 、マイケル・アリス ( 編 ) 、ヤンソン由美子 ( 訳 ) 、 1991 、『自由ーー自ら綴った祖国愛の記録』、集英社 アウンサンスーチー ( 著 ) 、伊野憲治 ( 編訳 ) 、 1996 、『アウンサンス ーチー演説集』、みすす書房 アウンサンスーチー ( 著 ) 、大石幹夫 ( 訳 ) 、 2008 、『 ( 増補版 ) 希望 の声ーーアラン・クレメンツとの対話』、岩波書店 アウンサンスーチー ( 著 ) 、土佐桂子、永井浩、毎日新聞外信部 ( 共 訳 ) 、 2012 、『新ビルマからの手紙 1997 ~ 1998 、 2011 』、毎日新聞 社 綾部恒雄、石井米雄 ( 共編 ) 、 1994 、『 ( 新版 ) もっと知りたいミャン マー』、弘文堂 池田一人、 2000 、「ビルマ独立期におけるカレン民族運動ーー "a separate state" をめぐる政治」、『アジア・アフリカ言語文化研究』 第 60 号所収、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 池田一人、 2012 、『日本占領期ビルマにおけるカレンニタキン関係 . ミャウンミャ事件と抗日蜂起をめぐって』、上智大学アジア文化研 究所 池端雪浦 ( 編 ) 、 1994 、『変わる東南アジア史像』、山川出版社 石射猪太郎、 1986 、『外交官の一生』、中央公論社 ( 中公文庫 ) 石井米雄 ( 編 ) 、 1991 、『講座仏教の受容と変容 2 - ーー凍南アジア編』、 佼成出版社 石井米雄、桜井由躬雄 ( 共編 ) 、 1999 、『東南アジア史 I 大陸部』、 山川出版社 泉谷達郎、 1989 、『ビルマ独立秘史 その名は南機関』、徳間書店 ( 徳間文庫 ) 伊東利勝、 2001a 、「綿布と旭日銀貨 ドゥヴァーラヴァ ヒ。ュ 447