王朝時代 - みる会図書館


検索対象: 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで
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1. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

治を実現させたバインナウン王は、国内で強力な上座仏教国家をつくろうとし、法の整備にカ を入れたが、ビルマ西部のアラカン王国 ( ムラウー朝、一四三〇一七八五 ) への遠征中に急死 し、それをきっかけにタウングー朝は急速に内部の統一が乱れ、一五九九年には崩壊に至った。 その後、バインナウン王の息子でニャウンヤウン侯ミンイ = ーナンダメイツという人物がイ ンワに都を移して王朝を再建し、一六〇四年、王位に就いた。この王朝をニャウンヤウン朝、 もしくは復興タウングー朝と呼ぶ ( 一六〇四—一七五一 l) 。二代目のアナウペッルン王 ( 在位一 六〇六—二八 ) のときェイヤーワディ河流域の再統一に成功し、交易の中心地である下ビルマ ールン王 ( 在位一六二九—四八 ) の治世 のペグー ( パゴー ) に再遷都した。しかし、四代目のタ になると、ペグーが川の沈泥作用のためにもはや交易港として機能を果たさなくなったので、 上ビルマのインワに都を戻した。 このタ マ ールン王の時代、中央 ( 都 ) と地方 ( 在地有力者 ) を有機的に結ぶ統治形態が成立し、 ビのちのコンバウン朝 ( 最後のビルマ王国 ) にもそのシステムが引き継がれることになる。しかし、 はんらん 代同王の死後、内部の統一はゆるみはじめ、十八世紀に入ると各地で叛乱が発生し、経済が疲弊 朝した。そうしたなか、モン人勢力が一七四〇年、ペグーにハンターワディ王国を復活させ、ビ 王 ンニャーダラ王 ( 在位一七四七—五七 ) 率いる軍勢が一七五二年、インワを攻撃し占領する事 章 態に至った。すでに混乱を極めていたニャウンヤウン朝はこれによって滅亡した。 第

2. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

第 1 章王朝時代のビルマ 責任といえるが、対外的環境については英国が植民地化を進めたインドに隣接していた分、ビ ルマ王国はすこぶる不利な国際環境にあった。また英国がタイにはヴィクトリア女王の全権を 送っておきながら、ビルマ王国には英国東インド会社の使節団しか送ろうとしなかった点も重 要な違いである。ビルマ王国は帝国主義化した英国に常に格下扱いを受けつづけた。これは時 、ようがない。 代が生んだ不運だったとしかいし -6

3. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

序章ビルマ ( ミャンマー ) という国 1 ビルマかミャンマーかーー・国名をめぐる基礎知識 2 国土と自然環境 3 多民族・多言語・多宗教の国 コラム 1 ビルマ人の名前 コラム 2 ビルマのことわざ 第 1 章王朝時代のビルマ 先住の人々 2 上座仏教 3 ビルマ民族の王国 4 最後のビルマ王国ーー・コンバウン朝 英緬戦争とビルマ王国の終焉 コラム 3 『ビルマの竪琴』という幻想

4. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

宗教中立政策 英国のビルマ支配のもうひとつの特徴として、宗教中立政策が挙げられる。「合理的国家」 の導入は、国家の宗教に対する姿勢を中立的なものにさせた。国家と宗教の分離である。英国 は王朝時代のビルマの国家的宗教であった上座仏教に介入しない一方、キリスト教を強制する こともしなかった。英領期のビルマではカレン民族やカチン民族など一部少数民族のあいだで キリスト教の受容が広がるが、その中心をなしたバ。フティスト派の宣教は米国の宣教団の活動 に拠っている。 しかし、こうした国家の宗教への不介入は、土着の仏教徒ビルマ人から見た場合、理解しに マくいものだった。前章 2 節で見たように、ビルマ王国の時代、国王と仏教僧団 ( サンガ ) は財 せほうせ 施と法施の相互関係を築き、王権はサンガを財政的に支援して僧侶たちの修行環境を整備する 下かわりに、サンガは王権に対し法 ( ダンマ ) に基づく理想の支配者のあるべき姿を訓え、理念 民上、王権に支配の正統性を付与する役割を担っていた。したがって、ビルマ王国を減ぼして新 国しい支配者として統治を始めた英国が上座仏教を擁護しないという現実は、ビルマ人仏教徒に 新国家の正統性への疑念を強く抱かせることになった。その後、僧侶らの要望に応じて、ビル 章 マ政庁 ( 植民地政府 ) は上座仏教の経典語であるパーリ語の認定試験を主催するようになった 第 が、国家とサンガが王朝時代のような財施と法施の関係を取り戻すことはけっしてなかった。 おし

5. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

この世のことわり 我らもまた同じ運命に出会いし されど、もとは確かに我らの国 我らの、我らの国 世界のつづくかぎり、我らのビルマもともにあり これそ我らの国、これそ我らの土地 頭 東方より陽いするがごとく 擡 の 我らの時代は確実に来る ム ズ ナ 最初に登場する「タガウン王国」とは、インドの釈迦族出身のアビラーザーという人物が、西 シ暦紀元八五〇年に上ビルマのタガウンに建国したとされるビルマ最古の王朝のことである。あ ナ くまでも伝説上の王朝にすぎず、実在したわけではない。仏教の始祖ガウタマ・シッダールタ マ 。、ールではなく ) ビルマにし ( 釈尊 ) が生まれる数百年もまえに、釈迦族が ( 現在のインドやネノ たと主張するに等しいこの伝説は、そのあとに続く「我らのビルマ民族はシャカ族の血をひくも ) ) ・つ A 」・つむけい 章 のゆえ」にも見られるとおり、荒唐無稽もはなはだしい。しかし、ピルマ民族は仏教と自分たち 第 をそれだけ強く結び付け、民族の誇りをここに求めようとしていることがわかる。 149

6. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

関連年表 * 10 世紀以前は年代の確定が 難しいため省略した 【王朝時代】 西暦 1044 1057 1084 1112 1113 1174 1235 1237 1284 1287 1299 1309 頃 1315 1351 1364 1369 出来事 ( イタリック体はビルマ以外の国の出来事を示す ) バガン朝の祖、アノーラター王即位 ( 在位 ~ 1077 ) 。 アノーラター王、タトン、テナセリム攻略。 チャンズィッター王即位 ( 在位 ~ 1113 ) 、同王治世下で中央平 原地帯の灌漑関連施設の建設や仏塔の修復・建立が進む。 「ミャゼディ碑文」刻まれる。 ードゥ王即位 ( 在位 ~ 1163 ? ) 、バガン朝の安定 アラウンスイ 期。 ードゥ王即位 ( 在位 ~ 1211 ) 、同王治世下でパ ナラノくティスイ ガンの「ビルマ化」進展 ( 碑文のビルマ語化、ビルマ風建築様 式など ) 。 チャズワー王即位 ( 在位 ~ 1249 ) 、密教色の強い森住派の僧侶 たちの勢力拡大阻止のため、上座仏教僧団の強化を図る。 チャズワー王、教学使節をスリランカに派遣。 バガン朝、元の攻撃を受け、弱体化。 バガン朝のナラテイハバティ王 ( 在位 1254 ~ 87 ) 、元に服属 ( 王朝は混乱状態に ) 。ワーレルー王 ( 在位 ~ 1296 ) 、サルウィ ン ( タンルイン ) 河口のマルタバン ( モウッタマ ) にハンター ワディ王国を興す ( ~ 1539 ) 。 バガン朝、名実ともに減亡。 ピンヤでティーハトゥ王即位 ( 在位 ~ 1325 ) 、ヒ。ンヤ王統によ ハンターワディ王国、ペグー ( パゴー ) に遷都。 権を確立 ( インワ朝、 ~ 1526 ) 。 インワ ( アヴァ ) でタドウミンビャー王 ( 在位 ~ 1367 ) が王 シナムイ丿でアユメナ王国成攷 ( - ~ ノな 統による同地の支配始まる ( ~ 1364 ) 。 ザガインでアティンカヤー王即位 ( 在位 ~ 1327 ) 、 る同地の支配始まる ( ~ 1360 ) 。 458 ザガイン王

7. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

4 最後のビルマ王国ーーーコンバウン朝 三度目の統一王国 タウングー朝以来二二〇年間続いたビルマ民族による二度目の統一王朝にかわって、今度は モン人によるエイヤーワディ河流域の統一国家が成立するかに思われた。だが、そのときイン ワから一〇〇キロほど北にあるシ = 工ボウの在地首長アウンゼーヤが軍勢をまとめあげ、迫っ てくるモン軍を撃破し、その勢いに乗ってビルマの新しい王であることを宣言した。彼はアラ ウンパャー王と名乗り、その名前の意味するところは「未来仏」であった。彼が興した王朝は 都シュエボウの別名にちなんでのちにコンバウン朝 ( 一七五二—一八八五 ) と呼ばれた。同王 朝は結果的にビルマ最後の王朝となったため、本書では以下、この王朝をビルマ王国と表記す ることにする。 アラウンパャー王 ( 在位一七五二—六〇 ) は一七五四年にニャウンヤウン朝の都だったイン ワを取り戻すと、南下して一七五六年にモン人の拠点ダゴンを占領、モン軍を追い詰め、翌年 ハンタ 1 ワディ王国は滅亡した ( 復活してわすか一七年の短い王国で終わった ) 。アラウンパャー ウン 王はダゴンをャンゴン ( 英語名ラングーン ) と改称した。「敵が尽き果てる」という意味のこの 新しい名称は、ビルマ民族にとって長年の宿敵だったモン人 ( モン民族 ) に最終的な勝利を収

8. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

第 1 章王朝時代のビルマ に王国の工業化を進める役目を担っていた人物が失われたことが大きかった。対外的な要因と しては、内陸国化したビルマ王国に対する英領ビルマ州 ( 下ビルマ ) からの経済的圧力が挙げ られる。 そもそもビルマ王国は下ビルマを失うことによって、コメを十分に自給できなくなっていた。 逆に下ビルマからの輸入に頼らざるをえなくなり、かっては同じ王国内のコメだったものが英 領ビルマ州という外国から輸入するはめに陥った。しかも、国際市場で高騰を続けた当時の下 ビルマ米は海外に流れてしまい、上ビルマに必要分が入ってこなかったため、凶作が続くと ききん 人々は飢饉に直面する事態となった。そうしたジリ貧状態のなか、英領ビルマ州から質の良い ヨーロッパ製の工業製品が安価で流入し、 それに関税をかけることが許されなかった ため、せつかく近代的な国営工場で生産し たビルマ王国の商品も、厳しい競争環境に 衄さらされ敗退を余儀なくされた。 失意のミンドン王は宗教的な事業に予算 ンを注ぎ込む。その一番の象徴は一八七一年 ンに都のマンダレーで大々的に実施した二四 〇〇名におよぶ僧侶による三蔵経典の総合

9. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

ら成る。 湖にヒンダーが舞い降りる ヒンダーは狩人に撃たれる 狩人は傘棒に打たれる 傘棒は稲妻に砕かれる この予言では、「湖」 ( ビルマ語でイン ) がインワに都を有したビルマ民族の王朝 ( インワ朝、 一三六四—一五五五 ) を意味し、そこに舞い降りる「ヒンダー」 ( ックシガモの一種 ) はモン人が 大切にした伝統的国鳥のことなので、彼らがつくったハンターワディ王国として受けとめられ た。そのヒンダーを撃つ「狩人」はビルマ語でモウッソウといし コンバウン朝 ( 最後のビル マ王国 ) を興したアラウンパャー王の出生地シュエボウの別名モウッソウボウを思い起こさせ るので、同王朝を指すものと理解された。その「狩人」を打つ「傘棒」は占星術の解釈によっ て英国とみなされた。したがって、ここまでは十四世紀以降のビルマの王朝興亡史と植民地化 の歴史と重なる。問題は最後の「傘棒 ( 英国 ) , を砕く「稲妻ーをどう解釈するかである。 これが誰なのか、ビルマの人々は特に関心を抱いていた。「稲妻はビルマ語でモウヂョウ というが、の中核メン 彼らは ヾーはこのことを効果的に利用することを思いついた。 , 190

10. 物語 ビルマの歴史 : 王朝時代から現代まで

第 1 章 王朝時代のピルマ