他人 - みる会図書館


検索対象: 現代の哲学
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1. 現代の哲学

もともと世界というものが、シンポルを媒介にしてそ は、相互主観的世界にほかならない のときどきの直接的な行動的環境を越え出て、さまざまな環境のいわば根拠として目ざされ るものなのだとすれば、すでにそこでは自己にとっての状況と他人の状況との切り換えが行 なわれているか、少なくとも行なわれうるはすである。言語を含めてシンポルというものが 各自的な世界内存在の本質的構成契機であるとともに、他人とのコミュニケーションの手段 でもありうるのは当然である。 こうして、われわれが他人とともに生き、他人とのかかわり合いのなかで生きているとい うことは、きわめて自明なことである。ところが、この他人の問題は、近代哲、にとっての コーギト 在を自己自身によってのみ近づきうる意識として捉えてしまえば、他者はわたしにとって客 体でしかなく、他我ではありえないことになる。また、コ・の・我れ・を・、・、鬯缸印。窈町趾を、 越えたいわゆる超越論的な主観と考えるとすれは、そ例判し ' プ・ ( 」田・引 2 ゴ町嚠のゼ あるから、このばあいも、他者は他我ではありえないことになろう〈われわれ〉という相 互主観性 ( ないし間主観性 ) intersubjectivitéを可能にする〈他の我れ〉としての他人の門 題は、現代哲学によっても完全に解かれたとは言えない問題であり、それは、たとえば「存 在と無』で展開されているサルトルの〈対他存在〉 etre pourautrui の分析が、結局はぬき

2. 現代の哲学

れは、世界という織物のなかへ織りこまれ、物としての凝集力をもっている。が、他方、わ たしの身体は見たり動いたりすることによってその囲りに物を集める。そのようにして集め られた物は、身体そのものの延長であり、その意味で、世界は身体が織り上ける生地で仕立 てられている、ということができる。だから、知覚される事物が〈生身〉で捉えられるとい う言い方は、文字どおりに受けとられを・べぎであ。。 ? 、・・ て、すの生身・はわたし自身の当ー ( 第内・ 性 ) のにほかならな言・ 0 でみ 1 しかし、このレベルでの物は、まだ〈それ自体で存在 する〉と考えられる即自的な〈物〉ではなく、わたしの身体の文脈のうちに取りこまれた、 いわば〈独我論的〉な物にすぎない。身体が知覚する物は、それが他人によっても見られう るということをわたしが知らないうちは、真の物ではありえない。即自的な〈物〉は他人の 開示の後にしか現われてこないのである。 ところで、他人の開示もわたしの身体の開示とまったく同じタイプのものであり、それ は、すでにわたしの身体が出現せしめた同じ世界において生起する。たとえば、わたしの右 手はわたしの左手への触覚の到来に居合わせるのであるが、わたしが他人の手を握り、ある いは他人を見つめるとき、かれの身体がわたしの面前で生気づけられるのも、これと違った ことではない。材た・の身体がい〔〔いを 0 ・椡ぐ身体がーーー感する物であることを知る時 すでに、わたしは他の生体や他人がいるということを理解しうる素地を有しているのであ まわ

3. 現代の哲学

わたしを対象化しうる他の対自、他の意識主観たるところにあるのである。そこで、サルト ルは他人を〈まなざし〉 regard と定義する。たとえば、われわれは、自分が他人に見られ ている、まなざされていると気づいたとき、〈はすかしさ〉を感ずるが、このはすかしさの 意識こそ他人の存在の明証なのであり、同時に自分が他人の意識の対象になっていることの 意識、〈対他存在〉としてのわたしの意識なのである。そしてこのとき、わたしの前にわた しを中心にくり拡けられているわたしの世界が、まるで内出血でも起こしたかのように他人 の方へ流出しはじめ、他人の世界にかわってゆく。そして、わたしは自分もまた、わたしに は見えない他人の世界のなかで他人にとっての対象として凍りついているのを、つまり自己 から疎外されているのを感じるのである。 こんなふうであってみれば、わたしと他人との関係は、相互に対象化し合う〈相剋〉の関 会係でしかありえないであろう。サルトルにあっては、わたしと他人とが、〈われわれ〉とい う共同主観の関係に入ることはありえない。 もし〈われわれ〉という関係があるとすれば、 讎それは、わたしと他人とが第三者のまなざしにさらされて、ともに対象化されている〈対象 Ⅳーわれわれ〉としてだけである。たとえば、労働者が共通の階級意識に目ざめたり、少数民 族が強い連帯意識をもったりするのも、それは、かれらが資本家階級や多数民族のまなざし にさらされ、、しに・象凵引、れ、ともに自己自身から疎外されているからにほカオオいの 161 そう、」く

4. 現代の哲学

吾と社会 る。もちろん、そこで比較や類推や投影がなされているということではない。わたしが他人 の手を握ることによって、かれの現存の明証をもつのは、他人の手がわたしの左手におきか えられたからなのであり、ひどく逆説的な言い方をすることになるが、わたしの身体が他人 の身体において起こる反省によって、他人の身体を併合するからなのである。わたしの両手 か互しー ) こ居合わせるのは、それらが同一の身体に属するからであるが、他人もまた〈互いに 居合わせる〉というこの関係の拡大によって現われてくるのである。メルロポンティは、 ここに一種の〈間身体性〉一 ntercorporé一 téというものを認め、他人とわたしとは、こうし た互いに居合わせる関係としての間身体性の二契機にほかならない、と考えている。他人の 経験は、何よりもまず〈知覚的〉なものであり、それを基礎としてはじめて〈他の思考〉と しての他人の経験も可能になるのである。 ゝったいに、 - み・る・精祥・ロ・よ・る他・の精神に、つ・い - ( 〔 ) 経験というものはありえない。わたしは 他人の思考を厳密に思考することはできな・いのであって、できることと言えば、かれが思考 謙しているということを思考しうる程度のところであろう。つまり、そこにある人体模型の背 わた 後にわたし自身をモデルにして意識を仮構することはできるであろうが、そのはあい、 しはそこに自分自身を投影しているにすぎないのである。ところが、感覚的世界においては 燔問題はまったく異なる。そこにいる他人が見ているということ、わたしの感覚的世界がかれ

5. 現代の哲学

じめて可能である。ラカンによれば、無意識のバロールを規制しているこのランガージュは 欲望からくるのであるが、人間にあっては、欲望は、他者に対する欲望のうちにはじめてそ の意味を見いだす。それというのも、欲望の対象を左右する鍵を他者が握っているからとい うのではなく、人間の欲望の第一の目標が他者によって認められるというところにあるから である。主観は、他者によってはじめて自己の自己たることを教えられ、また自己として構 成されさえするのであり、主観性は根源的に相互主観性なのである。ラカンは「鏡像の段 階 [ ( 一九四九 ) という古い論文のなかで、幼児が六カ月目頃から一八カ月頃までのあいだ に、自分の鏡像や他人の姿と自己を同一視するいわゆる〈鏡像の段階〉を経過し、そこで 〈我れ〉の機能を形成するということを教えている。しかし、主観が真に自己として構成さ れるにはことばの媒介が必要である。子どもがことばを習得する瞬間こそ、欲望が人間的な ものとなる瞬間なのである。 こうして欲望はことばによって表現はされるが、さきにも見たように、もともとという ものは対象を指示する記号ではないのであるから、ここでもシンボルとして働いているだけ ここに抑圧が起こる。つまり抑 のことであり、欲望を十全に表現するものではありえない。 圧とは、すでに固有の構造をもった言語による抑圧なのである。したがって、患者のバロー ルを解放するためには、われわれはそのバロールを患者の欲望のランガージュへ、つまり、

6. 現代の哲学

6 月、頭などから自分に話しかける声が聞こえる。これは、昔は、身体の諸領域にまつわる幻 覚の問題だとされてきたものであるが、現代の精神医学の教えるところでは、この現象にお ゅごうせい いて本質的なのは、対人関係のなかに介入してくる一種の癒合性であり、そのおかけで他人 の声が自分の身体の中に住みつくようになるのである。もし患者にいろいろな声が自分の頭 の中から聞こえてくるとすれば、それはかれがもはや自分と他人とを完全には区別していな いからであり、自分が話しているときも他人が話していると信することができるからであ る。ここからわれわれは、幼児においても、〈外から見えるわたしの身体〉と〈わたしの内 受容的身体〉と〈他人〉とが、一つの系をなしているのだと考えることができる。そして、 それは、そこに関与している三つの要素が規則的にかかわり合ったり、可逆的な対応関係に あるからというよりも、むしろそれらがはっきり分かれていないからだと思われる。幼児に は、鏡の中の自分の視覚像をそのまま自分と同一視する傾きがあるのと同様に、自己と他人 を同一視する傾きがあるわけである。そして、もし六カ月以前の幼児には、まだ自分の身体 の視覚的概念がないとすれば、その時期の幼児にはなおさら自分自身の生活を自分にだけ限 定することはできないわけであって、自分の体験と他人の体験とが融け合うわけであろう。 そこから、いわゆる〈転嫁〉 transitivisme の現象、つまり自分と他人とのあいだの仕切り の欠如が生じてくるわけであり、またそれが〈癒合的社会性〉の基礎ともなるのである。

7. 現代の哲学

157 者としては、自分の言語活動を規制している言語の構造を意識などしないのが普通だからで ある。 一一 = ロ語というものは、たしかに客体的に取り扱いうる〈物〉ではない。それはつねにある程 度話者の創意に対して開かれている。しかし、だからといって、それは話者がどうにでも思 うがままに操ってかまわないといったものでもないのである。言語はちょうど、それ自身の 情性や要求や強制力や内的論理をもった道具と同じように、話者を取りまき、かれの思考を さえも規定するのである。こうした共時的構造としての言語、話者にとっての生きた言語 は、物でもなければ観念でもない。それは、客体として扱うこともできなければ純粋意識の 表出でもない、あのゲシタルトと同じレベルに属する存在なのである。ということは、〈話 者〉もまた、世界を鳥瞰しうる絶対的主観、純粋意識といったものではなく、身体によって 会世界のうちに挿しこまれ、他者と共存し、自然的音声を足場にしてはじめて〈話し〉うる身 と体的主観だということである。 語 相互主観性曰 , ーーーサルトルとメルロⅡポンティ 言語の問題は、それによって意思を疎通し合う他人の存在を予想していた。言語的世界と

8. 現代の哲学

囲ということを示した点に。 - こそ、フロイトの最大の責・献があったのだからである。 かれの見解に従えば、もともと大なり小なり〈倒錯的〉な傾向を示している幼児が、いわ ゆる正常な性行動を獲得するにいたる過程は、決して本能的なものなどではなく、そのため に幼児は異常な苦難を代償として支払わねばならない。たとえば、幼児の生の歴史において もっとも原初的な〈両親との関係〉でさえ決して本能的なものではなく、〈精神的〉なつな がりなのである。というのも、子どもが両親を愛するのは、本能によって、つまりそこに同 じ血が流れているからではなく、両親がいつも自分を見守っているのを見ているから、自分 フロイトの考えでは、愛の がかれらの子どもであることを知っているからにほかならない。 他人 対象と同様に、その愛し方もまた、決して本能によって規定されているものではない。 を他人として認め、決してすべてを求めつくそうとしない成人の愛し方が、相手との絶対的 同化を求める幼児の愛の上にようやくにして獲得されるものだということを精神分析学はさ まざまに教えているのである。だからこそ、こうした他人との原初的な関係の仕方が成人の 性生活のなかにも生き残っていて、相手との絶対的な直接を求めるサディズムやマゾヒズム となって現われることもありうるわけであろう。 このように考えてくると、フロイトが人間存在の基盤と考えた〈性〉とは、他人との乖離 に反撥し、それを埋め、すべてを自分のうちに取りこもうとする能力にほかならない。そし

9. 現代の哲学

おいて、幼児の身体意識の発達と他人知覚の成立との連関についてまことにユニークな解明 しさい を与えているが、メルロⅱポンテイも『幼児の対人関係』という講義でこれを取り上け仔細 に検討を加えている。 ヴァロンの観察によると、〈自己の身体の鏡像〉を習得しはじめたばかりの八カ月目ごろ の幼児には、内受容性によって与えられる自己の身体と、鏡のうちに見られる自己の身体と がうまく区別できない。かれは鏡像を自己と同一視し、自分は、自分を感じているここにい ると同時に、自分の身体が見えているあそこにもいる、と思うのである。もっとも、幼児が 初めから自分の身体を〈ここ〉と〈あそこ〉という二つの地点に定位させていると考えるべ きではない。 ここで問題なのは、幼児にとってその触覚的身体とは違ったところに位置する と言われる〈第二の身体〉ではなく、むしろ身体の一種の〈距離をもった同一性〉、つまり 会〈遍在性〉なのである。しかも、幼児においては、自分の身体に当てはまることは他人の身 と体にも当てはまる。幼児は、おのれの視覚像のなかに自分を感じるように、他人の身体のう ちにも自分を感じるのである。 Ⅳヴァロンは、さまざまな病的事例を検討しながら、「体感の障害は対人関係の障害と密接 に結びついている、ということを指摘しているが、かれはそれによって、まさしくこの事態 を示唆しようとしているのである。たとえば、ある病人たちには、みぞおちのあたりや腹、

10. 現代の哲学

159 Ⅳ言語と社会 さしならぬ独我論 solipsisme に陥っていることからもうかがえるであろう。ますかれの所 説をうかがってみよう。 サルトルは、初期の論文『自我の超越』 ( 一九三六 ) においては、意識というものを、も つばら、おのれを越え出て対象を志向する働きとして捉え、そのためには〈自我〉なるもの を必要とはしない、と説いている。かれによれば、自我とは形式的にも実質的にも意識の 〈住人〉ではなく、反省によって、意識の働きの統一の極として二次的に構成された超越的 対象の一つにすぎないのである。したがって、超越論的意識は〈非人称的〉なものであり、 当然わたしの〈我れ〉が他人の〈我れ〉よりも いっそう確実だということはなく、アルチュ ル・ランポオの言うように「〈我れ〉とは一個 レの他人 JEest un autre. にすぎないことにな る。その議論には、おかしいところがないでも サ ないのだが、とにかくここでサルトルは、意識 を非人称的な志向性と見ることによって、独我 けんめい 論を克服しようと懸命になっていたのである。 ところが、『存在と無』においては、意識は