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検索対象: 現代の哲学
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1. 現代の哲学

0 凵節である。かれは一八八九年一月三日に精神錯乱のためイタリアのトリノの街頭に倒れ、つ いに正常な意識を回復することなく、奇しくも一九、二〇両世紀の交、一九〇〇年に世を去 っている。つまり、かれがここで占っているのは、われわれの生きる二〇世紀の運命なので ある。かれ自身「わたしの著作は時間を要する : : : 五十年後におそらく数人のひとが、わた しのなしたことを見る目を開くであろう」と言っていたが、まさしくかれの死の半世紀後に どうさっ 生きているわれわれは、このかれの洞察の正しさを認めざるをえないように思われる。 , ,. に . にー」 -. 〔イ忤 . ド仂。そ初を予言しこニヒリズムとは何か。かれのニヒリズム論は、奥行 きの深い - は一体准購城陸尾 .9 たものであるが、ここではさしあた「てかれの説くニヒリ ズムを〈従来の価値体系の崩壊〉と解しておくことにしよう。かれは、一九世紀の後半にか れ自身が体験した「心理学的状態としてのニヒリズム」、つまり当時の虚無的、頽廃的な時 代風潮の現われてくる根拠を掘り下げ、それを従来の価値体系の崩壊、言いかえれば、それ も 0 画・の支化形成を支え導いてぎた指導原理がその効力を失ったというところに認めたの である。西洋といっても、かれの思考の射程ははるかに遠く古代ギリシ = にまでも及ぶので あるが、われわれとしてはこれもさしあたり近代ヨーロッパと考えておいてよいであろう。 ところで、ヨーロッパのこの近代文化の形成原理を、近代の哲学者たちは〈理性〉と呼んで きた。とすると、「神が死んだ , という言い方でニイチェの説くニヒリズムとは、理性の崩

2. 現代の哲学

203 V 今日の知的状況 であるが、言語記号のばあいには、たとえば〈キ〉・〈トウリー〉・〈アルプル〉といった音声 か〈意味するもの〉であり、〈樹〉といういわゆる語の概念が ( 正確には割司覚像 ) 」 〈意味されるもの〉であること、そしてこの両者の結合は一般に任意なものであり、特定の 音声が特定の意味を表わす必然性はないから、したがって異なった多数の言語体系の存在す ること、それにもかかわらす、一定の言語体系の内部である語が描定・の意味を・ぢ〕を〆 つまり示差的であるからだ、ということを発見 した。 こうして、ソシュールによれば、一一一一口語とは示差的体系にほかならないのであるが、このよ うな発想がトルーベッコイやャーコプソンら、 いわゆるプラー ハ学派の人たちの手で、音素論 一の研究に適用され、一一一 = ロ語体系のもっ音素体系 ロ トがきわめて合理的に組織された差異のシステム ス にほかならないことが明らかにされた。同じよ ヴうな研究は、ま床に対応。する形叫論的・構文論 レ 的・語彙論的分節についても企てられ、一見無 秩序に思える自然言語も、厳密な合理的法則に

3. 現代の哲学

の幾何学の体系を構成しうるということが明らかになった。もっとも当初は、ユークリッド 幾何学こそが経験に与えられる空間の幾何学であって、非ュ 1 クリッド幾何学の方は単なる 論理的な構築物にすぎない、 と考えられていたのであるが、今世紀の初めにアインシュタイ カ現象説 明に有効であることが示されるに及んで、ユークリッド幾何学の特権性が否認されるにいた った。そしてこのことから、幾何学は決して〈空間直観にもとづく〉という意味での〈真な からのロ的な推論の系にすぎす、しかもそ る〉認識の体系ではなく、、一ー疆・窈保譓的・原理・、・・・・、・ー・物べー・・ - 、・・ーー・ーー国。ー・ の原理群の選択はまった / 〉田意であって、ある原理群が他の原理群よりも真であるとか確実 状であることはない、と考えられるようになった。 が完成されるに及んで、幾 知さらに一九世紀の後半に刊理 - 判遍側当記号侖理 - ) 何学だけではなく一般に数学の体系は、〈いくつかの記号配列群 ( 公理群 ) をいくつかの規 紀則に従って変形していくことによって得られを号配硎 " " ~ ・「の群〉として表わされうる 〇ことが明らかにされ、しかもフレーゲ ( 一八四八ー一九二五 ) 、ホワイトヘッド ( 一 ー一九四七 ) 、ラッセル ( 一八七二ー一九七〇 ) たちがその手続きを実際にやってみせたの で、ここに数学の公墸躡樫曰・めら・れ・「 ) どに、な・づ、・た。つまり、すべて数学の理 為論は、われわれによって自由に選択される公理 ( 仮説的原理 ) 群からの整合的な推論の体系

4. 現代の哲学

ないことになる。ソシュール自身、「言語は、言語体系にさき立って存在するような観念な り音なりを含むのではなく、ただこの体系から生する概念的差異と音的差異を含むだけであ る」といった言い方をしている。言語とはこのようなかたちで内的に統一された全体である が、当然その統一は、明確に分節された顕在的なものではなく、むしろアーチの各部分が相 互に支え合って一つの統一をなしているというような意味での〈共存の統一〉でなければな らない。そして、このような全体にあっては、部分がそのまま全体を表現し、一つの全体と その たとえば、幼児の一音文や一語文のように しての価値をもちうるわけであり 進歩も部分の付加というかたちでではなく、そのつどそれなりに完成している機能の内的分 化というかたちでなされることになる。 言語の内的構造についてのこうした考え方は、一九三〇年代にプラーハに結集していたロ シア出身の言語学者たち、トルーベッコイやャーコプソンらの音素論の研究によって、いっ 会 社 そう精緻なかたちで展開された。というのも、〈音素〉 phonöme というものは、それこそ、 と ロ 讎それだけでは何ものも意味せす、音素相互の弁別を可能にするというだけの機能しかもたな Ⅳいものであり、したがって音素体系とは、文字どおり差異のシステム以外の何ものでもない 以上、ソシュールの定義がこのレベルではいっそう厳密に当てはまるわけだからである。音 まさっ 素論の教えるところでは、音素は鼻音とロ腔音、ロ腔音がさらに閉鎖音と摩擦音、そのそれ

5. 現代の哲学

の体系は、それによって意志を伝達し合う他人を予想する。というよりも、道具連関にせよ 社会構造にせよ言語体系にせよ、すべてある程度までは既成のシンボルの体系としてわれわ れに与えられるわけであり、それを構成した他の主観への指示を含んでいる。したがって、 世界は、われわれに〈成りきたった共同的な世界〉として与えられているわけであり、われ われはそこに入りこんで、その共同的な経験を摂取し、それについて自分なりの新しい経験 を重ねていくほかはない。ますこういった意味で、 ( 世第は - つ、ねに・すてに - そ・こにあ・る・材のど¯J ・・ て受動的に与えられる しかし、この受動性は、これとは違った、もっと深刻な意味でも考えられる。さきにも見 たとおり、高次の構造と低次の構造のあいだには、特有な弁証法的関係がある。高次の構造 造 構は低次の構造によって足場を与えられながら、これを統合しているのであるが、この統合は 基決して絶対のものではありえす、低次の構造はつねに惰性をもち、その自律性を主張しよう 在とする。〈世界〉という人間的レベルでの構造も、絶対に安定した構造ではありえない。た とえば、それを支えている足場 ( 身体的条件 ) に異常な激変が起これば、世界そのものも変 人 化に襲われ、はけしい情動にかられたり異様な幻覚につきまとわれたりするであろう。意識 はたえず、低次の構造の抵抗にさからって世界へと超越しているのであって、この超越の運 衄測なん引が・の事置で掀ず古い構造、古い意味層が自律的にきはじめるわけであ

6. 現代の哲学

意識されないままに制度化されているシステム、たとえばそれにふさわしい婚姻規則をもっ た親族関係のシステムや、芸術・神話・儀式などのさまざまなシステムが存する。そしてこ れまた言語体系がその表明的な意味の底である統一を有し、その概念的原理が知られるに先 立って、すでに体系的組織を実現しているのと同様、これらのシステムも内的統一を有する 共時的構造なのである。 かれの見解では、社会とは、こうしたシステムの錯綜する全体、つまり〈諸構造の構造〉 にほかならない。当該社会に生きている人々は、ちょうど話をするために必すしもその言語 体系の言語学的分析に通じている必要がないのと同様に、自分たちの行為を意味あるものた らしめているこれらの社会構造を概念的に理解している必要はない。かれらはそうした構造 をいわば自明なものとして使いこなす、ないしは「かれらがその構造を有しているというよ 会りは、むしろ構造の方でかれらを手に入れる、といったほどなのである。 社 レヴィ日ストロースは、たとえば、婚姻を社会集団間における女性の交換のシステムと考 と タブ 五ロ え、近親相姦の禁忌や優先結婚の規則といった「配偶者限定の規則は、生物学的な基礎をも Ⅳっ家族間に相互依存関係を成立せしめるということを唯一の目的としており、ことばを少し 強めてみれば、社会が生物学的な基礎に立っ家族の自足性を認めないことを、婚姻の規則に よって表現しているーという独自の解釈の上に立って、たとえば、世界中の数知れぬ部族に 173

7. 現代の哲学

248 事 項 索引 価値体系 14 カテゴリー的行動 150 ア・プリオリ カテゴリー的態度 121 , 142 , 148 216 , 217 イデオロギー 環境 111 187 , 189 , 190 , 200 , 間身体性 165 , 169 , 179 215 機会原因論 37 意味 49 , 56 , 64 , 72 , 91 , 129 , 機械論的心理学 141 143 ~ 145 , 150 , 151 , 153 ~ 155 , 記号体系 152 , 202 , 207 175 ~ 181 , 184 , 217 擬人主義 33 意味の発生 178 , 179 意味付与 179 基礎的存在論 78 運動空間 62 , 63 機能的価値 64 運動性失語症 155 客観主義 182 運動的志向性 117 客観的世界四 , ~ 46 , ~ 5 運動的企投 117 115 , 121 , 217 運動能力 117 , 162 共産主義 ーーー者 182 エピステーメー 210 社会 197 工ロス 132 音声的所作 150 ーー一世界 186 音素体系 153 , 203 共時的言語学 152 , 202 共時的構造 152 , 156 , 157 , 173 , 200 教条主義 187 階級意識 180 , 182 教条的マルクス主義 191 階級闘争 193 近代理性主義 18 概念的意味 144 具体的運動 115 , 117 , 119 , 122 科学主義 194 , 197 科学的合理主義 37 経験主義的言語観 143 経験論的心理学 141 科学的心理学 31 経済主義 200 科学の危機 24 , 51 可換的形態 58 , 59 ゲシタルト 47 , 49 , 50 , 53 , 55 , 革命の弁証法 197 157 , 179 , 212

8. 現代の哲学

。しかし、一系列の不連続な動作の し、語の意味も音としての語のなかには含まれていない なかで、その自然的な力をのり超え変貌させるような意味的な核をわがものにしていく これが人間の身体の定義であり、その超越の作用であった。ことばもまた、いわばわれわれ の実存が自然的存在を越え出ているその余剰の部分なのである。 3 一三ロ明曰ーーーーソシュール 言語というものがこのようなものだとしてみれば、それが対象的な取り扱いを許すもので ないことは明らかであろう。なるほど、 = = ロ語というものを、たとえば言語学者の立場に立っ て外から見てみれば、一言語体系 ( 日本語とかフランス語といった ) の語彙や文法的カテゴ リーのそれぞれについてその歴史的変遷を辿ることもできようし、ばあいによってはそこに 会 社 法則らしいものも発見できるわけであろうから、一一一一口語というものが法則的に規定可能な要素 と 籬の集合であるかに思えよう。しかし、一言語体系のなかで生き、それによってコミュニケー Ⅳションを行なっている〈話者〉にとっては、言語とは決してそのような要素のモサイクでは ない。かれにとってあるのは、一つの言語活動であり、語彙やシンタックスはすべてその様 燔態にすぎないわけである。

9. 現代の哲学

ぞれが無声音と有声音といった相関的対立項に分節していき、その音素の結合には、それぞ れの言語体系によってかなり厳密な規則が支配しているという。言語体系においては、こう した音素の分節が、さらに形態素 morphöme 、統辞 syntaxe 、語彙といった高次のレベルで の分節によって補われ豊かにされ、精緻な内的構造がかたちづくられているわけだが、ここ で重要なことは言語においては、そもそもの音素からして、話すというただ一つの活動のヴ アリエーションだということ、そして、幼児はこの音素とともに、記号の相互差異化の原理 をものにし、同時に記号の意味を手に入れることになる、ということである。幼児は、でた らめな喃語 babillage の段階を脱して、最初の音素対立を身につけるとともに、記号と記号 との横の連合関係に入りこむわけであるが、記号と意味との関係も、これを基礎にして生ま れてくるに違いない。というのも、記号というものが示差的であり、それ自身によって組み 立てられ組織されるものであるからこそ、それはある内面をもち、ついにはある意味をもち うるようになるわけであろうからである。 したがって、言語というものは、相対的には分離しうるさまざまな層から成っているわけ であるが、このうちのどこまでが身体的な運動現象で、どこからが知性の働きだときめるわ ( し ( いかないし、ましてや、そのどちらかで割りきることもできないのである。というの しつかん も、たしかに言語は身体的なものであって、その証拠に言語にまつわる疾患はこれらすべて

10. 現代の哲学

152 この点に着目して、一九世紀の主潮であった通 時的 diacronique ( 歴史的 ) 言語学に対して、一 時代一社会に行なわれている記号体系としての言 レ 一語の内的構造を問題にする共時的 syncronique 言 シ語学を説き、現代の構造一一 = ロ語学に道を開いたのが フェルディナン・ド・ソシュール ( 一八五七ー一 九一三 ) である。そうした言語の共時的構造とい うものは〈話者〉にとってしか存在しないもので あるから、〈話者への還帰〉という点でかれの立場は、前節で見たメルロポンティの言語 論や、さらにはそれに示唆を与えた後期フッサールの言語論と深く通するものがある。 ところで、ソシュ 1 ルの最大の教示は次の点にあった。つまり、かれの考えでは、〈記号〉 というものは、一つ一つとしては何の意味ももたない。それぞれの記号の表わすものは一つ の意味ではなく、自己自身と他の記号との差異である。それを〈示差的 différentiel な意 味〉とよぶこともできよう。言語も記号の体系にほかならないわけであるから、そうだとし てみると、一一一一口語体系とは項のない差異からなるものだとか、言語の個々の項は、それらのあ いだに現われる差異によってのみ発生してくるのだ、といった逆説的な言い方をせざるをえ