' に転じ、疎外ざれた労働を媒介にし・て ) 人間も自然も自己の本質から疎外されている。共産 主義社会の実現によってこの労働の疎外を克服し、人間と自然とにその本質を完成せしめよ うというのが、かれの言う「徹底された自然主義すなわち人間主義なのである。 ここに見られる〈労働の弁証法〉と〈疎外された労働の反弁証法〉およびその〈疎外の克 服〉が、「歴史と階級意識』において見られたルカーチの〈革命の弁証法〉と深く通すると ころのあることは、容易に知られるであろう。少なくとも、科学主義の装いのもとに公式的 な決定論を説く俗流マルクス主義とははっきり対立するものである。そしてまた、こうした 方向でのマルクス主義が、違った視角からではあるが、やはり人間の疎外状況を問題にし、 その克服を目ざす実存主義の志向とも一脈通するものをもっことも明らかである。 兄サルトルの最近の大著「弁証法的理性批判』 ( 一九六〇 ) も、この若いマルクスールカー 的チの思想の延長線上で〈疎外論〉を復活し、「マルクス主義の内部に人間を回復させること」 よみが 知 によって、実証主義化されて硬化しかかった弁証法に代えて真の弁証法を甦えらせようとい の 今うものである。ここでかれは、はっきりとマルクス主義だけを現代に生きる唯一の〈哲学〉 イデオロギー として認め、実存主義はいわばそれに寄生しつっその硬化を防ぐ一つの〈思想〉にすぎな いと主張し、実存主義と社会科学との独自な統合によって〈構造的・歴史的人間学〉を基礎 づけようと目ざしている。かれは、ここで、個人的実践を通じて捉えられる〈構成する弁証
ひょうほう ことについてはすでにふれたが、かれらから見れば、科学主義を標榜する構造主義は、「現 実変革を忘れた現状維持のイデオロギーーとも思われるわけであろう。実存主義者のあいだ でも、サルトルは終始人間主義の立場を固守しつづけている。マルクス主義を現代の唯一の 哲学と認めるという観点に立って書かれた「弁証法的理性批判』においても、問題は、いか にして人間の主体的実践の弁証法である〈構成する弁証法〉が、疎外の論理である〈反弁証 法〉に転化し、また歴史の弁証法ともいうべき〈構成された弁証法〉を構成するにいたる か、という点にあるわけであり、明らかに、若きマルクスや「歴史と階級意識』のルカーチ に見られた〈疎外論〉の回復の試みである。その他ミケル・デュフラヌのようなかって実存 主義的な立場にいた哲学者たちが、人間主義の旗印のもとに構造主義に厳しい批判を投けか 兄けるなど、まさしく〈構造主義か人間主義か〉といったかたちに知的世界が再編成されよう 勺としているかに思われる。 知 たしかに、構造主義的方法と構造主義的イデオロギーとは区別されるべきだということ の しゅんげん 今が、しばしば指摘される。しかし、構造主義をイデオロギーたらしめることをもっとも峻厳 バンセ・ソヴァージュ に拒否するレヴィストロースでさえもが、「野性の思考』 ( 一九六一 l) の終わりに近いとこ ろで、「左翼だといわれる人は、いまだに実践的命法と解釈の図式との一致という特権を調 合してくれた現代史の一時期にしがみついているのである。おそらくは、歴史意識のあの黄
したがって、〈心身の関係〉にせよ、〈心〉と〈身体〉というそれぞれの項にせよ、高次の 構造化に成功するか、失敗するかによって、あるいは従属する下位の弁証法のもっ惰性が乗 り越えられているかどうかによって変わってくるわけである。もしその統合化に成功してい るばあいには、われわれの身体は生物学的レベルを越えた高次の弁証法に属するような志向 を表現するが、その統合化がうまくいっていないようなばあい、たとえばおじけづいている といった程度のばあいでさえも、われわれの身体は意味のない動きをし、他方われわれの思 考は充実した身体的表現を見いだせなくなるのである。そして、後のようなばあいには、明 らかに心と身体は区別されうるわけであり、そのかぎり心身の二元論が有効性をもっことに なる。 たしかに、 こうした心身の二元性は、さまざまなレベルで再現される。 ' 飢えど・が新ぎ第ー ' 題って思考や感情が乱されることがあるし、一般に情念というものには、固有の性的弁証法が 顔をのぞけるものである。ということは、統合化というものは決して絶対的なものではな ざせつ 身く、つねに挫折し、下位の弁証法が惰性的に動きはじめるということである。しかし、この 二元性は、デカルト流実体的な二元性として捉えらるべきではなく、あくまで相対化して 捉えらる。きであり、そうすることによってはじめて、われわれは心身の区別と統一を正し く理解することができるのである。 113
法的真理概念ーー・・といっても、これはヘーゲルやマルクスの真理概念の再確認なのであるが がここに提出されている。ルカーチの根本の意図は、科学主義的・実証主義的な俗流マ ルクス主義によって人間的実践という核心を骨抜きにされたマルクス主義の弁証法を、もう 一度主体的人間の実践を貫くものとして、つまり革命の弁証法として再建するところにあっ たのである。 2 マルクス主義哲学の問題Üーーー人間主義と構造主義 ルカーチの「歴史と階級意識」は一九二四年七月二四日付の「プラウダ』において、正統 のマルクス・レーニン主義の立場から厳しく批判されたし、ルカーチ自身も後年、ここに収 められているいくつかの論文が革命期の楽天主義に調子を合わせすぎていて、歴史にその意 味を表現させるために必要な長い労苦を十分に考慮していないということを認めている。っ まり、「弁証法における決定的な問題が観念論的に解かれていて」、「弁証法の唯物論的側面 をその包括的な哲学的意義において正確に把握していなかった」というわけである。しか し、そうした自他の批判にもかかわらす、この『歴史と階級意識』の知的影響は、今日なお 強くその跡をとどめている。ことに、一九二〇年代の末頃から三〇年代の初めにかけて、こ
である。 かれの近著『弁証法的理性批判』は史的唯物論の新たな基礎づけを目ざすものであるか ら、当然そこでは社会的存在が積極的に問題にされることになるわけだが、しかし、ここで もサルトルの上の考えは依然として堅持されており、共同的実践の弁証法である〈構成され た弁証法〉は、他人および労働対象に媒介された関係としての疎外の弁証法、つまり〈反弁 証法〉を前提として考えられている。 ず人間をまど・し・て規定し・、・・・・意識を対印・ーっ・・引切当れ・ - ぽ 「宿ることは 十 / し ど非定、 うに思われる。了に対し ' で、。 - 人間存在をあくまで身体によって世界に内属する身体的実存 か間の共同存在ないし相互主観 として捉えてゆくメルロポンティの、に。、わ ' ・引い 2 ・引・明をみえ・て - 砌・ぐを - め ' 0 有ガ・な手がかりがあるように思われる ます、われわれが物についてなす経験の最低次の層を考えてみよう。この次元において は、物の感覚的な諸性質は、まだ定立的意識の相関者ではなく、われわれの身体の運動、 en e に先立っ〈我 れなし能う〉一 chkann とその相関者の関係が、ここでは問題になるのである。けれども、 この運動能力が物の感覚的諸性質を開示しうるためには、この能力そのものが、物のあいだ
そこでは「歴史が経済に還元されるというよりはむしろ、経済の方が歴史に再統合される と言っているのも、この意味にほかならない。 にな ところで、マルクスにとって、歴史の担い手、その弁証法の動力は、もはやわれわれにと って外的な社会的自然でもなければ、ヘーゲル流の世界精神でもなく、自然をわがものにす るある様式のなかで、自分たちの相互の社会関係をも形成していく人間、あるいは、ある所 有形態のなかで相互につくりつくられつつ自己を実現していく具体的な相互主観にほかよ らない マルクスのばあい、そうした歴史の動力である弁証法が〈唯物諞的〉と一 = ロわれの は、そうした「人間相互の諸関係が、個人的な行状や決断の総和ではなく、事物を経由す したの すなわち、人間たちか自己をそこに れてそこで演じられるようになった匿名の役割や共通の状況や制度を経由し、弁証法が鈍 会くなっているという意味なのである。だからこそ、マルクスにあっては、歴史の惰性という 社 ことが言われる反面、弁証法を仕上げるためには人間の発意に訴えねばならない、というこ と 五ロ とにもなるわけである。「歴史の網の目はもろもろの力あるいは制度となった意味の生成で Ⅳあり」、まことに両義的な場面なのである。 史的唯物論で言われる〈経済的諸関係〉も、決して客観的事象の閉じた体系ではなく、法 や道徳、宗教などのシステムとともに社会という全体的かっ具体的な存在の一部をなすもの 177
190 もっとも、エンゲルスになるとかなり事情が違ってくる。かれは唯物弁証法を史的唯物論 の領域を超えて拡張し、自然の弁証法的発展を説き、歴史の弁証法をもその一特殊例として 見るわけであるが、そうなると、たしかにわれわれの認識は、社会生活の反映というより、 じかどうちゃく 即自的な自然過程の反映とみなされることになろう。こうした独断的唯物論が自家撞着に陥 ることは容易に推測されよう。つまり、この主張そのものが一定の物質過程の反映にすぎ ず、それ自体何らの真理性をも主張しえないことになるからである。レーニンの反映論に も、明らかにこの種の素朴さが認められるのであって、それは、認識というものを存在と思 考との無時間的な関係としてではなく、人間と歴史の関係として考え、認識主体を歴史のな かにしつかりと据えつけたヘーゲル以前に立ちもどるものである。 もっとも、メルロポンティなどは、レーニンが「唯物論と経験批判論』の後、ヘーゲル 弁証法の系 究ころうとした事実を指摘し、ヘ・・しゲルを媒させながらこうした粗雑 な認識理論をるわ・ナ・もない、でおみデ引〉これは、西欧資本主義の歴史酌語段階をか ならすしもすべて通過したわけではな ) 玉に、 ・・い当一 ) 一「の単純で有効なイデオロギーを供給しょ うとしたものたろう、と見ている。たしかに、マルクス主義が革命的実践のイデオロギーと しての性格を強めたとき、叫僊ざ・れ - ざるをえなかった必然性は理解できる。しかし、こう 0 した単純化が、やがてスターリン時代の硬直化・教条イを促進しどいう点も見逃すことは
196 かれの考えでは、フォイエルバッハをも含めて従来の唯物論は、問題を感性的現実にかえ した点では正しかったが、この現実、対象を単に受動的な直観の客体としてしか捉えす、そ れを人間的実践とのかかわり合いのなかで捉えることはしなかった。 一方ドイ→観念論は、 人間と対象との動的・実践的関係を捉えるには成功したが、きわめて抽象的な仕方でそれを なしたにすぎない。そこで、マルクスはこのそれぞれ一面的な二つの立場を統一して、あく まで具体的な人間と自然とが、人間の労働、つまり社会的実践を媒介にして、それぞれの本 質を完成してゆく過程を、労働の弁証法として捉える。ただかれの考えでは、眼前の資本主 義社会においては労働が自己の本質から疎外されているため、この弁証法がい ( 反弁証法 ム〉と呼んでいることは注目されよう。かれは、この手稿のなかのヘーゲル哲学批判にあて られた箇所で明瞭にこう言っている。 ナチュラリズム 「ここにおいてわれわれは、徹底された自然主義すなわち人間主義 derdurchgeführte Naturalismus oder Humanismus が、観念論とも唯物論とも異なっているということ、 そして同時に、これこそがそれら両者を統一する真理であるということ、を知るのであ る。
198 法〉 dialectique constituante 、その〈反弁証法〉 anti ・ dialectique 、共同的実践によるその 乗り越えとしての〈構成された弁証法〉 dialectique constituée ないし歴史的弁証法という とうしゅう トリアーデを考えているが、これは、明らかに「経済学哲学手稿』の論理構造を踏襲するも のであろう。 サルトル自身も、かれのこの仕事を「スターリン以後の時代を性格づけている〈立ち直 り〉の知的表現だと言っているが、たしかに一九五六年のスターリン批判以後、若きマル クスやグラムシや初期のルカーチに依拠しつつ、物象化と疎外の概念を軸として人間的主体 の復権をめざすヒューマニズム的マルクス主義がさまざまに提唱された。ところが、ごく最 近、こうした立場に対して、もっと若い世代に属するアルチュセール ( 一九一八ー九〇 ) や ゴドリエといった人たちによって、さらにそのアンチ・テーゼとも言うべき、いわゆる〈構 造主義的マルクス主義〉が提起され論議をよんでいる。 アルチュセールによれば、マルクスは、人間を〈社会的諸関係の総体〉として捉える視 を確立した一八四五年の「フォイエルバッハに関するテーゼ』と「ドイツ・イデオロギー』 において明確な〈認識論上の切断〉を行なっており、したがって、それ以前のヘーゲルやフ オイエルバッハの影響下にあった時期の『経済学哲学手稿』 ( 一八四四 ) や『神聖家族』 ( 一 八四四 ) に見られる人間主義的なイデオロギーの混入した前科学的な問題意識と、一八四五
244 ドイツ・ロマン主義 34 投射 ( 機能 ) 117 , 119 トーテミズム 206 トロッキー主義 187 トロピズム 57 ナ行 ニヒリズム 14 , 19 ニュートン物理学 18 , 27 , 46 人間的現存在 77 , 78 , 80 , 82 人間中心主義 33 201 , 212 , 214 ~ 216 人間主義 39 , 187 , 194 , 196 ~ 198 , 人間科学 43 , 210 , 211 人間 68 , 210 ~ 212 , 214 , 216 , 218 的世界像 27 , 30 , 38 209 , 211 ヒューマニズム 195 , 200 , 201 , 非本来的実存 82 非ヒューマニズム 199 非合理主義 35 反歴史主義 199 反弁証法 162 , 196 ~ 198 , 215 反ヒューマニズム 199 反応形態 65 反人間主義 209 , 212 反映論 188 , 189 , 193 バロール 202 , 207 ~ 209 把握作用 119 , 122 認識主観 38 , 54 人間的実存 134 的マルクス主義 表象機能 125 , 148 不確定性原理 28 物理学的客観主義 17 物理学の危機 24 , 27 物理現象 46 物理的構造 53 , 55 , 56 不適応な行為 90 プラーハ学派 203 プルジョア 182 ~ 184 198 プロレタリアート 178 , 180 ~ 183 , 192 , 193 , 200 , 201 平行親族 174 平行傍系親族 174 ヘーゲル学派 38 ヘーゲル弁証法 190 , 199 未開の思考 143 , 170 未開社会 171 , 175 , 206 マルクス・レーニン主義 194 哲学 186 , 187 , 194 206 , 212 , 215 190 , 191 , 194 , 195 , 197 , 199 ~ 201 , マルクス主義 38 , 176 , 186 ~ 188 , 末梢起源説 90 マ彳丁 本来的実存 81 , 82 傍系親族 174 的唯物論 188 的思考 191 215 , 218 190 , 191 , 194 , 196 , 197 , 199 , 201 , 弁証法 112 , 113 , 162 , 177 , 182 ,