捉え - みる会図書館


検索対象: 現代の哲学
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1. 現代の哲学

けんぼう 健忘の患者は、与えられた色見本をカテゴリ 1 のもとに包摂する一般的能力を失っており、 かれにおけるある語の欠落もその結果だといわれるが、このカテゴリー的活動は、思考作用 であるよりも、ますある〈世界へのかかわり方〉なのである。健常者にあっては、色見本の 集積の知覚は、与えられた指令に応じて組織化されてくる。モデルとなる色見本と同一のカ テゴリーに属するいくつかの色が、他の色を地として浮かび上がってきて、一つのまとまり をつくるが、病態者にあっては、色見本が一つ一つ区切られて現われるのである。かれは与 えられた原理を保持しつづけられないのだとか、たえす別の原理に移行してしまうのだと考 えるのは誤りであって、かれにあって冒されているのは、色の見方によって視野が分節され てくるその仕方なのである。言いかえれば、障害によって冒されているのは、判断力である よりは、むしろ判断力の生まれてくる地盤であり、自発性であるよりは、むしろ感性的世界 会に対する自発性の勢力、つまりそこに何らかの意図を造形するわれわれの能力なのである。 とそれは一つの〈態度〉、つまり感性的世界への身の置き方であり、言語も思考もこの態度に よって基礎づけられているのである。 こうして、思考と言語のいすれかを原因、いすれかを結果として扱うことはできない。た しかに、色見本を分類できなくなった病人も、言語を媒体にしてなら、つまり色の名前を言 いながらなら、それをなしうる、というばあいがあるから、言語が思考の原因であるかのよ 149 Ⅳ

2. 現代の哲学

ロ的身体〉を与えるということは、最高度に統合された実存だからこそ必要なのである。 〈生理的なもの〉と〈心理的なもの〉とは、こうして、ともに世界へ向かう実存の運動のな かに統合されているという点で結びつく。具体的に捉えられた人間とは、ある心的現象があ る有機体に外から接合されたといったようなものではなく、あるときには身体的になるかと おうかん 思えば、またあるときには人格的な行為へと赴く実存のあの往還運動である。心理的動機と 身体的機会とがたがいに相交錯しうるのは、心的志向に対してまったく偶然的であるような 運動は生きた身体のなかには一つとして存在しないからであり、また逆に、生理的素質のな かに少なくともその萌芽なり一般的下図なりを見いださないような心的作用は、一つとして 存在しないからなのである。 こうして、メルロⅡポンティは、心と身体という概念は相対的なものとして捉えらるべき だと主張する。つまり、〈身体〉といっても、化学的構成要素の塊としての身体があり、生 物と生物的環境との弁証法であるような身体があり、社会的主体と集団との弁証法であるよ うな身体がある。こうした諸段階のそれぞれが前の段階に対しては〈心〉であり、次の段階 たど に対しては〈身体〉なのである。したがって、一般に〈身体〉とは、すでに辿られた過程の 全体、すでに形成された能力の全本、つねにより高次の構造化が行なわれるべき既成の弁証 法的地盤のことであり、〈心〉とはそこに確立される意味のことなのである。

3. 現代の哲学

著者の意に反して、いわば実存哲学の古典として扱われるのはこうした事情による。 うかが かなり異なった由来の二つの思 しかし、ここからも窺えるよ、つに、『存在と時間』には、 想が奇妙なカたちで結びついている。つまり、 としての哲 したキルケゴー るものであり、もう一つは、 る。言いかえれば存在の意味を問うた 一学を実現しようとしたフッサールに由 めに、存在かみす力を開示する場としての現拵恠を浄化すという企図が、一方では非本 へという 的態度から現象 来的実存から ひつけられているわけである。しかも、この両立不可能 , 日一オ心 学午態ス はないかとさえ思われる二つの立場が、ハイデガーのたぐいまれな精神的緊張のなかで、 1 んん 渾然と分かちがたく統一されているとこ、ろに、『存在と時間』の豸自 . かあると言えるであ 在ところで、今も述べたように、ハイデガーの存在の探究は、ますわれわれがさしあたりた 間いていの場合そこで生きている〈日常性〉の分析、フッサールの用語で言えば〈自然的態 度〉の分析からはじまる。そのさいハイデガーは、フッサールが自然的態度の本質的特徴と みなした〈世界定立〉 Weltthesis を、〈世界内存在〉 ln ・ der ・ Welt-sein として捉えなおして 9 いる。フッサールが意識の定立作用と考えたものを、現存在の存在の構えとして捉えなおす

4. 現代の哲学

で人間を捉えようとしていることが明らかに見てとれよう。 〈実存〉 Existenz という概念が、今日このことばに与えられているような意味と重みをも って登場してきたのも、ちょうどこのころである。この概念をそうした意味合いで最初に使 ったのは、晩年のシェリング ( 一七七五ー一八五四 ) であった。かれはふつう、カントから ヘーゲルにいたるドイツ観念論の系譜のうちに位置づけられ、後半生はヘーゲルの盛名の陰 に埋もれてしまったかに思われているが、もともとへーゲルよりも年少であったシェリング は、ヘーゲルの死後ふたたび返り咲き、ことに一八四一年以後はベルリン大学に招かれて、 反ヘーゲル的ないわゆる「積極哲学」 positive Philosoph 一 e をはなばなしく展開した。かれ は、自分自身のかっての立場やヘーゲル哲学をも含めて、一般に理性によって事物の本質 Wesen を捉えようとする立場を「消極哲学」 negative Philosophie とよび、それに対して、 理性的な概念規定を越えた事物の〈現実存在〉つまり〈実存〉 Ex 一 s ( enz を問う自分の立場 を「積極哲学」とよぶわけであるが、たしかにそこには、〈対象性〉と〈実在性〉とを同一 視する近代の理性主義の立場を突き破る新しい姿勢が見られる。しかし、結局のところシェ 、グの狙いは、『神話および啓示の哲学』 Philosophie der MythoIogie. PhiIosophie der Offenbarung という講義の標題からもうかがえるように、存在の神生を証明することにあ ったのであり、神学的な思弁を越え出るものではなかった。だが、事物の現実存在という意

5. 現代の哲学

諸制度だけではなく、政治、家庭および経済の諸制度が同時に、しかも、一挙にあらわれて に注目し、そこから成員相互間ないしは下部集団相互間に制度的に確立されてい る当該社会固有の交換ーーー与え・受け・返すーーの様式、つまり制度的に設定されているそ の結びつきや等価関係、これまた制度的に規制されている道具・製作物・採取物・装飾品 祈蒔・歌舞・神話的表象の扱い方の体系的様式を読みとろうとするのである。 モースによれば、この交換の様式こそが、社会を一つの有機的統一体、分節された全体方 らしめている基本的事実であり、これを解読することによって、その社会をその独自性にお いて捉えることができるわけだし、また、こうした象徴的価値のシステムは個人のうちに深 く根を下しているものであるから、これに注目することによって、デュルケ 1 ムが断ち切っ てしまった社会学と心理学をふたたび橋渡すこともできるというのである。 ところで、こうしたモ 1 スの見解を受けつぎ、これに言語学から学んだ構造分析の手法を せいち 適用して、精緻な理論に仕立て上けたのが、最近わが国でもしきりに紹介されているクロー ド・レヴィ日ストロース ( 一九〇八 ) である。かれはモースのいわゆる交換の様式 社会全体においてであれ、その下位集団の内部においてであれ、交換が組織されている仕方 を〈構造〉とよぶ。ちょうど、個人的な言語行為の底に、それに表現を与えている社会 的言語体系が認められたように、成員各自の社会的行為の底に、それに表現を与えている、

6. 現代の哲学

るをえなかった自然の贈り物なのであり、精神はそれに対して一つの徹底的に新しい意味を 与えなけれはならなかったけれども、やはりまた精神は、単に受肉するためだけではなく、 存在するためにさえもそれを必要とするのである。 こうして、シンボル機能の根底にあるものを捉えようとしてみれば、いわゆる〈知性〉さ えも、主知主義の考えているようなものではないことが明らかになってくる。シュナイダー の思考の欠陥は決して具体的所与をカテゴリーのもとに包摂できないといったところにある のではなく、逆に、よほどはっきりした包摂関係によってしか、それらを結びつけえなくな っているというところにあるのである。たとえばかれは、「ランプにとっての光はストーヴ にとっての熱に等しいーといった簡単なアナロジーや、「椅子の足ーとか「釘の頭ーといっ いんゅ た隠喩を理解できない。なるほど、健常者でもアナロジーをうまく説明できないことはあ る。しかし、健常者にとってはアナロジーを概念的に分析することよりも理解することの方 がやさしいのに対して、病者は、アナロジーを概念的に分析した上でなけれはそれを理解で きないのである。ということは、健常者は世界内に存在し、自分のまわりにさまざまな意味 の体系をもたらすわけだが、かれにとって、それらの間の照応、関係、参与といったものは 利用されるためにわざわざ顕在化される必要のないものなのである。しかるに、シュナイダ ーにとっては、全体として、世界はかれにどのような意味をも暗示せす、逆にいって、かれ

7. 現代の哲学

制トは、〈全体的経済状態の正しい見方〉という意味で〈全体性の志向〉であり、自己の疎外 の意識を通じて、〈対象の自己意識〉となるのである。「この階級にとっては、自己意識が同 時に社会全体の正しい認識を意味することになり、 : したがって : : : この階級は認識の主 体であると同時に客体なのである。」 こうして、われわれの発意や個人的企投のまわりには、一般化された実存やすでになされ た企投の地帯、われわれと事物とのあいだをうろっき、われわれを人間として、プルジョア として、あるいは労働者として性格づけるさまざまな意味の地帯があるわけで、個人的決意 とはこの自然発生的な一般的意味を意識的に捉えなおし、そこに入りこむことによってそれ じよじよ を徐々に強めるか弱めるかすることにほかならないのである。この地帯こそ、主体の客体へ の疎外の基礎をなすものであれば、その運動を逆転することによって、世界の人間への再統 合の基礎ともなりうる〈歴史〉とよはれる領域にほかならない。そのかぎり、たしかに歴史 もわれわれに意味を提示するが、われわれもまた歴史に意味を与えることができるわけであ り、〈開かれた状況〉としての歴史とわれわれの〈かぎられた自由〉とのあいだに弁証法的 関係を認めることができるわけである。

8. 現代の哲学

6 情動の現象ーーーサルトル われわれは人間存在の基本構造を〈世界内存在〉として捉えてきたわけであるが、この観 点から、たとえば情動 6m0 ( 一 on の現象を考えてみよう。〈情動〉ということばは、日本語と してはいかにもこなれない感じであるが、心理学では〈感情〉 sentiment や〈熱情〉 pas ・ S10n と区別してémot 一 on には一致して〈情動〉という訳語を当てている。émot 一 on とは本 来、怒り・悲しみ・驚き・喜びといった身体的表出をともなうはげしい感情のことであるか ら、われわれが〈情緒〉とよぶものと区別されなければならないが、日本語としての落ち着 造 構きから〈青緒〉という訳語がしはしば使われてきたことを付記しておく。また、前節でふれ 基たハイデガーのいわゆる〈気分〉とも、いちおう区別して考えなければならない。 の 間ならないということは、ーづ房れ・で凵日。そこで、古典心理学においては、情動は 人 あるばあいには身体的事実の側から、あるはあいに ( 心的状態の側から説明されてきた。た とえは、ウィリアム・ジェイムズ ( 一八四二ー一九一〇 ) は、刺激によってひきおこされた 身体的変化が意識へ投影され、恐れとか怒りといった意識状態が生すると考えた。〈悲しい

9. 現代の哲学

である。 かれの近著『弁証法的理性批判』は史的唯物論の新たな基礎づけを目ざすものであるか ら、当然そこでは社会的存在が積極的に問題にされることになるわけだが、しかし、ここで もサルトルの上の考えは依然として堅持されており、共同的実践の弁証法である〈構成され た弁証法〉は、他人および労働対象に媒介された関係としての疎外の弁証法、つまり〈反弁 証法〉を前提として考えられている。 ず人間をまど・し・て規定し・、・・・・意識を対印・ーっ・・引切当れ・ - ぽ 「宿ることは 十 / し ど非定、 うに思われる。了に対し ' で、。 - 人間存在をあくまで身体によって世界に内属する身体的実存 か間の共同存在ないし相互主観 として捉えてゆくメルロポンティの、に。、わ ' ・引い 2 ・引・明をみえ・て - 砌・ぐを - め ' 0 有ガ・な手がかりがあるように思われる ます、われわれが物についてなす経験の最低次の層を考えてみよう。この次元において は、物の感覚的な諸性質は、まだ定立的意識の相関者ではなく、われわれの身体の運動、 en e に先立っ〈我 れなし能う〉一 chkann とその相関者の関係が、ここでは問題になるのである。けれども、 この運動能力が物の感覚的諸性質を開示しうるためには、この能力そのものが、物のあいだ

10. 現代の哲学

148 ことばもまた意味をふくみ、世界を目ざす。言語を介して他人とのコミュニケーション が可能になるのもそのためであり、そのさい、もちろん相手の語彙や文章構造が、わたしに よってすでに知られていなければならないにしても、それは決して、ことばがそれと連合し ている〈表象〉をわたしに惹き起こすといったようにして働くのではなく、わたしがコミュ ニケートするのは、ます語っているひとりの主体、ある一つの存在のスタイルであり、かれ の目ざしている世界なのである。かれのことはを発動させたその意味的志向は、はっきり顕 在化した思考ではなく、充足されることを求めているある一つの欠如態であり、それとまっ たく同様、この志向を捉えるわたしの作用の方も、認識作用のようなものではなく、わたし 自身の実存の同時的転調であり、わたしの世界内存在の変様なのである。メルロⅱポンティ が、「ことばとは一つの所作であり、その意味するところは一つの世界である」というのも、 こうした意味にほかならない。 ここでもう一度、さきの失語症の問題にかえってみよう。メルロポンティは、言語障害 して〈カテゴリー的態度〉ないし〈表象機能〉を問題にしはじめたいわゆる主知主義的 な理論も、当事者たちが意識していたかどうかはともかくとして、実は、失語症の実存的理 論とよんでもよいようなもの、つまり、思考と言語とを、人間が〈世界〉へ自己を企投する 根本的活動の二つの表出として扱う理論なのだ、と考えている。というのも、たとえは色名