概念 - みる会図書館


検索対象: 現代の哲学
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1. 現代の哲学

そのものに別段〈意味〉があるわけではないことになる。 だが、一一一一口語作用が単なる生理的過程でもなければ、単なる思考作用の外皮でもなく、ある ばあいにはそれを完成させるものでさえあるということが明らかになった以上、われわれと しては言語そのものに問いかけ、なせ一連の自然的音声や、あるばあいには指先のサインが 一つの意味をもち、世界を開くといったことをさえなしうるのかを考えてみなければならな いであろう。 2 一言語っ、ーーことはのもっ実存的意味 メルロ日ポンティは、やはり『知覚の現象学』において、ことばの背後にあるのではな く、ことはそのものに内在している〈所作的意味〉 signification gestuelle ないし〈ことば のなかの思考〉 unepenséedanslaparole といったものに注目している。ちょうど、ソナタ ことばそのものと切り離 の音楽的意味が、その意味を支えている音と不可分であるように、 せない意味の層があり、〈概念的意味〉 signification conceptuelle はその上に形成されたも のにほかならないということである。 もともと思考とことばとは、決して外的関係によって結びつけられているようなものでは

2. 現代の哲学

界の人間への再統合を可能にする場面ともなりうるはすなのである。 したがって、もし構造の概念を正しく読み解くことさえできれば、構造主義をめぐって議 サンクロニー ディアクロニー 論のかまびすしい共時態と通時態、構造と歴史的過程、構造分析と弁証法の関係も適切に 捉えうることになろう。〈構造〉という概念は、今のところなんら解答ではありえない。む しろそれは問題として課せられた概念と見るべきであろう。たとえば、構造に関して無意識 的と言われるとき、それは相互主観的というのとほとんど同義であろうが、そうだとすれ ば、構造の概念を読み解くには相互主観性についての現象学的分析が必要な予備作業となろ ぞ引ぐば 1 間・題として提起されたはかりのこうした概念を掘り下けて、人間存在へ の、とくにその本 りへの新しいアプローチを試みることこそ、今日の哲学に課 せられた使命なのである

3. 現代の哲学

意識されないままに制度化されているシステム、たとえばそれにふさわしい婚姻規則をもっ た親族関係のシステムや、芸術・神話・儀式などのさまざまなシステムが存する。そしてこ れまた言語体系がその表明的な意味の底である統一を有し、その概念的原理が知られるに先 立って、すでに体系的組織を実現しているのと同様、これらのシステムも内的統一を有する 共時的構造なのである。 かれの見解では、社会とは、こうしたシステムの錯綜する全体、つまり〈諸構造の構造〉 にほかならない。当該社会に生きている人々は、ちょうど話をするために必すしもその言語 体系の言語学的分析に通じている必要がないのと同様に、自分たちの行為を意味あるものた らしめているこれらの社会構造を概念的に理解している必要はない。かれらはそうした構造 をいわば自明なものとして使いこなす、ないしは「かれらがその構造を有しているというよ 会りは、むしろ構造の方でかれらを手に入れる、といったほどなのである。 社 レヴィ日ストロースは、たとえば、婚姻を社会集団間における女性の交換のシステムと考 と タブ 五ロ え、近親相姦の禁忌や優先結婚の規則といった「配偶者限定の規則は、生物学的な基礎をも Ⅳっ家族間に相互依存関係を成立せしめるということを唯一の目的としており、ことばを少し 強めてみれば、社会が生物学的な基礎に立っ家族の自足性を認めないことを、婚姻の規則に よって表現しているーという独自の解釈の上に立って、たとえば、世界中の数知れぬ部族に 173

4. 現代の哲学

212 反人間主義のモティーフを徹底したかたちで展開したものであることはたしかである。 それにしても、人間のいわゆる主体的実践というものをまったく切り捨てて、人間を一定 の構造連関に解体してしまい、あくまで客体的に捉えようとする構造主義の立場は、現代人 の歴史への絶望、歴史をつくる主体としての自己への絶望の深さの如実な表現と見られなく もない。 こうした構造主義に対するアンチテーゼとして、一方では、マルクス主義陣営の内 部においても、実存主義者のあいだでも、あくまで人間存在の主体性を主張する人間主義の 立場が強く叫ばれることになるわけだが、それも当然と言えるであろう。 構造と人間 しかし、考えてみれば、あえて構造主義的解釈をまつまでもなく、すでにマルクスやフロ イトの思想においては、〈構造〉ないしはそう置き換えてさしつかえのない諸概念が重要な 役割を果たしていたし、その他、たとえば、心理学における〈ゲシタルト〉の概念、神経生 ホーリズム 理学における全体論の立場、ウェー ーの理想型による認識ーーー事実、後にこれはシュムペ ーターによって〈モデル構成〉というより精緻な概念によって捉えなおされるーー・・・など、今 と一一 = ロってよいほどで 世紀の重な思想的立場で〈構造〉の概念に結びつかないものはない、

5. 現代の哲学

2 むしろこの〈構造〉、ことに無意識的な社会的システムとし ある。哲学にとっての問 しー刀 力し、つことあ もともと〈構造分析〉とは、言語学なり文化人類学なりの一つの方法であり、したがって 〈構造〉という概念も分析のため、の方法的な操作概念にすぎなか . った。レヴィストロース も、「構造という概念は、経験的実在にではオく、経験的実在 : もとついて成されたモデ ルにかかわるもであるという基本的原則を立て、それによって〈社会構造〉と〈社会関 係〉という、しばしば混同される二つの概念を明確に区別している。 かれの考えでは、社会関係というのは、社会構造を明らかにしてくれるようなモデルを構 成するための初次的素材なのであり、当然、社会構造の方はモデルとしてもかなり抽象度の 兄高いものだということになる。かれは、〈構造〉の名に価するモデルがそなえるべきいくっ 的かの条件の一つとして、そうしたモデルには、「一群の同じようなタイプのモデルに帰着す のるような一連の変形を整序する可能性がそなわっているべきだ、という条件をあげている。 こうさ 今さきにふれた交叉イトコ婚を例にとれば、これにも、その社会の出自規定が父系か母系か、 その社会がいくつの外婚集団からなるか、交叉イトコ婚が双方的か一方的か、一方的だとし たど てもそれが父系を辿るか母系を辿るかで、ほとんど無数のバターンが考えられるし、それに 応じて無数の親族体系がありうるわけであるが、結局はそれらも一つの基本的モデルの変形

6. 現代の哲学

たのである。 日、カ のいわば隠れた論 このように、身体の概念力、られることによって、精神の概念も、らオし かない。そこでフロイトは、身体のこの暗い論と、いわば明るみに出た意識冊との滲 透関係を説明するために、有機的活動と認識作用との中間にあるもの、つまりあの有名な 〈無意識〉を導入したのである。もっとも、これが・砿を朝ずぎないことはかれ自身も 認めていた。というのは、この無意識なるものは、イド id とかエス Es という言い方 ( id はラテン語、 Es はドイツ語の三人称単数の代名詞、英語の it にあたる ) からうかがわる ような三人称的な過程ではないからである。つまり、何が意識の明るみへ出されてよいかを 決めたり、抵抗の感じられる思考内容や状況を避 ( たりするものが、この無意識自身なので ある以上、そこで避けられているものは決して知られていないわけではなく、知られてはい かす るが承認されていないだけなのである。無意識とは、事物の上を掠め過ぎ、知りながら知る ことを望ます、無視しながら知っている、しかもそうした仕方でわれわれのおもて向きの行 動や認識の下図を描いている奇妙な意識をさすための概念だといえよう。 このような体の精神的機能とも言えるしし一一一叫椒幻い一印プ氤が・、・、づ、引、 り現代哲学が〈実存〉という概念で名ざそうとしているもの ' ・フ、ロ・イはだ日曰「 いった。たとえば、フロイトは後年、他人への〈性的・攻撃的関係〉を生の基本的所与と考

7. 現代の哲学

ないことになる。ソシュール自身、「言語は、言語体系にさき立って存在するような観念な り音なりを含むのではなく、ただこの体系から生する概念的差異と音的差異を含むだけであ る」といった言い方をしている。言語とはこのようなかたちで内的に統一された全体である が、当然その統一は、明確に分節された顕在的なものではなく、むしろアーチの各部分が相 互に支え合って一つの統一をなしているというような意味での〈共存の統一〉でなければな らない。そして、このような全体にあっては、部分がそのまま全体を表現し、一つの全体と その たとえば、幼児の一音文や一語文のように しての価値をもちうるわけであり 進歩も部分の付加というかたちでではなく、そのつどそれなりに完成している機能の内的分 化というかたちでなされることになる。 言語の内的構造についてのこうした考え方は、一九三〇年代にプラーハに結集していたロ シア出身の言語学者たち、トルーベッコイやャーコプソンらの音素論の研究によって、いっ 会 社 そう精緻なかたちで展開された。というのも、〈音素〉 phonöme というものは、それこそ、 と ロ 讎それだけでは何ものも意味せす、音素相互の弁別を可能にするというだけの機能しかもたな Ⅳいものであり、したがって音素体系とは、文字どおり差異のシステム以外の何ものでもない 以上、ソシュールの定義がこのレベルではいっそう厳密に当てはまるわけだからである。音 まさっ 素論の教えるところでは、音素は鼻音とロ腔音、ロ腔音がさらに閉鎖音と摩擦音、そのそれ

8. 現代の哲学

囲つまり人間諸科学の根本的な方法論的改革を目指し、開放的な知的革新の運動を展開しよう ハイデガー、メルロポンティらによ というその構想を積極的に評価すれば、シェーラー る現象学のその後の展開の方向も、もっと明確に見えてくるのである。 本書でもう一つ指摘できるのが、エルンスト・マッハへの配慮に欠ける点である。フッサー ルがその哲学的立場を表明するために選んだ〈現象学〉という概念を、を・ツ、パ・のーへ現象学 - 許・ 物理学当が・ら継承しを・ど・いうごどば、フッサール自身認めているところであるし、それに先 八八 , ハ年 ) か 立って、『算術の哲学』においても、、「・ⅵ・ナ・リル・一一一ツ・分の、 T ・の・分榻 らかなり大きな影響を受けている。ニュートンカ学の帝国主支配に抵抗し、結局はアイ ンシュタインの相対性理論の形成を促すことにもなった 新の運動が、フッサールの 当時の私にはよく見えていなかったのである。 もしそれが見えていれば、マッハが しカその同じ一八八〇年代半 したーーーの執筆に専念し ばに、「学的主著ーー・『ガべ ' のまま r とい・プ表題・デぎれで、リ、 ' もとも、その影響 さ ーオ イを構想してしたこ とも明らかにオりノイデガーのと糸ひっくニイチェの思想と現象学の、

9. 現代の哲学

176 構造が担っているこの意味は、いわば物によって媒介されたひどく鈍重な意味なのであっ て、科学者が概念的に形成するモデルのようなものではない。 ここでも、構造とは物でもな ければ観念でもない。 構造という概念は かいかに脱自的なものであり ネ午オもの 力いかに人間の、っちに、く本さ しる力をえことによて、われわれがいわば社会的 させてくる・であ、ろ・ 3 ー こう考えみると、同じような発想はマルクスのうち「に . も廳 - のち - れるように田」える。とい うのも、マルクス主義もまた、人間社会とか、ことに経済というものを、古典物理学でいわ れたような意味での法則によって規定しようとするものでは決してない。ネ 土会というもの が、古典経済学の法則などまったく通用しない新しい配列へ向かって進みつつあるのだと考 える以上、これは当然のことであろう。『資本論』におけるマルクスの力も、従来〈社会 的自然〉の不変の特性と考えられてきた古典的な経済法則が、実際には、資本主義という特 定の社会構造の属生にすぎない、というまさしくこのことを示すところにあったのである。 つまり、マルクス主義において経済法則ということが言われうるとしても、それはあくまで 質的に異なったある〈社会構造〉の内部で言われるにすぎす、この社会構造そのものは歴 史的観点から捉えられるほかないものなのである。メルロ日ポンティが『知覚の現象学』の なかで、「史的唯物論は、歴史を経済化すると同時に、逆にま当剤しする」、い」カ

10. 現代の哲学

で人間を捉えようとしていることが明らかに見てとれよう。 〈実存〉 Existenz という概念が、今日このことばに与えられているような意味と重みをも って登場してきたのも、ちょうどこのころである。この概念をそうした意味合いで最初に使 ったのは、晩年のシェリング ( 一七七五ー一八五四 ) であった。かれはふつう、カントから ヘーゲルにいたるドイツ観念論の系譜のうちに位置づけられ、後半生はヘーゲルの盛名の陰 に埋もれてしまったかに思われているが、もともとへーゲルよりも年少であったシェリング は、ヘーゲルの死後ふたたび返り咲き、ことに一八四一年以後はベルリン大学に招かれて、 反ヘーゲル的ないわゆる「積極哲学」 positive Philosoph 一 e をはなばなしく展開した。かれ は、自分自身のかっての立場やヘーゲル哲学をも含めて、一般に理性によって事物の本質 Wesen を捉えようとする立場を「消極哲学」 negative Philosophie とよび、それに対して、 理性的な概念規定を越えた事物の〈現実存在〉つまり〈実存〉 Ex 一 s ( enz を問う自分の立場 を「積極哲学」とよぶわけであるが、たしかにそこには、〈対象性〉と〈実在性〉とを同一 視する近代の理性主義の立場を突き破る新しい姿勢が見られる。しかし、結局のところシェ 、グの狙いは、『神話および啓示の哲学』 Philosophie der MythoIogie. PhiIosophie der Offenbarung という講義の標題からもうかがえるように、存在の神生を証明することにあ ったのであり、神学的な思弁を越え出るものではなかった。だが、事物の現実存在という意