行動 - みる会図書館


検索対象: 現代の哲学
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1. 現代の哲学

現象学は、情動の現象が心的なものか身体的なものかという問い方はしない。それが問う のは次のようなことである。結局のところ、感動するとはどういうことか、情動とはいかな る意味をもつのか、情動は何を目ざすのか、感動しえないような意識を考えることができる か。もしできないとしたら、それはなせなのか。つまり、意識の全体的活動である情動をあ る種の〈世界へのかかわり方〉として捉え、それが何を目ざすのかを問おうとするわけであ る。サルトルの初期の論文「情動論粗描』 Esquisse d'une théorie des émotions ( 一九三九 ) は、この立場でのすぐれた成果の一つであるが、かれはそこで、情動を〈世界内存在〉の変 様として捉えている。 たとえば、ジャネのところへ診てもらいに来た娘が起こしたヒステリー発作は、決して心 造 構的エネルギーの転化といった無意味な行動ではなく、〈質問される状況〉を避けるという ふるま 基〈意味〉をもった振舞いなのであり、彼女は質問をされるという自分にとって辛い状況を変 まっさっ 在えることができないので、自分の意識を抹殺することによってそれを回避したわけである。 議論をしていて、頑強な論敵に怒りを感するのも、議論がはかどらないということからでは 人 ない。それは、むしろ出された難問を無視し、目の前の不利な状況を逃れようとする企てな のである。 前節でも見たとおり、われわれをとりまく世界はさまざまな可能性の地平であり、われわ

2. 現代の哲学

る。世界内存在につきまとう受動性、世界の未完結性、不透明性といったものは、こうした たえずつきまとってしる過去の位層の抵抗・カらくるものと考えてよいと思う。 こうしてみると、〈世界内存在〉を基礎構造とする人間存在は、たしかに盲目的な生物的 活動の総体ではない。〈世界〉というものが人間によってつくり出されたシン寸 . ルな、七心 , ての〈構造〉なのであってみれば、人間はこの世界のなかで対象を知覚し、対象と実践的に かかわり合いつつ、つねにそれと名ざさないままに・ーーサルトルの・一」どばを借りれは、〈非 定立的〉 non ・ thétique にーーー自己を表現し、解釈し、了解している。こうした自己への反省 ・・「 6 コ 6 刈ョな・切のがをー創 ) ー」よぶのはまちがいではないであろう。しかし、だか らといって人間は、自己にとって完全に透明な純粋意識であったり、世界に遍在しそれを隈 , 」なく認・つぐ・し・プる絶対的主観・で・・はあグな」それは、こ、つした〕識を意識たらしめる 的オシグナノ一動を前提にし、それを足場にして成り立つもの がらで剳。そして、このシグナル行動もまた本能的とよばれる刳行動の叫「 ~ 足 場を据えているのだとすれば、意識は深く無意識のうちに根を下し、それに支えられそれを 統合することによってはじめて意識たりうるからである。サルトルが言うように、人間的意 識は自己にとって〈半透明〉 trans 一 uc 一 de でしかありえないのである。

3. 現代の哲学

人間のもつ高度のシンポル体系ではあるが、シンポルは必すしも言語にかぎられるわけでは ない。また、シンボル行動は、たしかにシグナル行動を土台にしてはじめて可能になるもの ではあるが、それに還元されるわけにはゆかないのである。 こう考えてくると、チンバンジーが同じ対象でも違った配置、違った連関におかれている ばあいには、同じ意味のもの、たとえば道具として扱うことができないのは、このシンボル 化の能力が欠けているからだとみてよさそうである。一般に動物の行動においては、反応を 生起させるサインはつねにシグナルであるに止まり、決してシンポルとなることはない。 令に従って椅子に跳びあがり、次に隣の椅子に移るように訓練された大は、椅子のかわりに 踏み台が置かれたりすると、それを利用しようとはしない。音声記号であっても、ここで は、一般的意味と反応とを媒介してはいないのである。サインがそのように使われるために は、それが一つの前ぶれであったり、ましてや条件刺激であることをやめ、そのサインを表 現しようとする活動の固有の主題となることが必要である。そして考えてみれば、この種の 楽器をひいたり、タイプライターを打ったりする能力のような運動 活動は、人間のばあい、 こうした習慣にとって、ある視覚 的習慣の習得にも、すでに存在している。周知のように、 けんばん 的刺激 ( 音符とか文字 ) と、ある部分的運動 ( 鍵盤のあるキーに向かう運動 ) とを条件反射 によって連結させるということは、本質的なことではない。個々の運動は、ことばや楽譜に

4. 現代の哲学

少して系を静止させるというふうに働いている。結局ン・物理皈造とは、現存する現実的諸 条件に関して得られた平衡状態なのである。 ところが、〈有機的構造〉のばあいには、その平衡状態が単に現存の諸条件との関係にお いてだけではなく、その有機体それ自身によって現実化される可能的諸条件との関係におい も実現されることになる。つまり、このはあいには、構造が外力の強制に屈してす力ら を妨げている力を弛緩させるというのではなく、自己本来の境界を越えて外に働きかけ、自 分の固有の環境を自分でつくり上けるわけである。したがって、生物の行動は、決して与え られた外的諸条件の関数ではない。むしろ、生物が反応する環境の方が、その生物の活動の ノルム ある内的規範ーーたとえば、知覚の閾や基本的活動の形態ーーによって区画されてくるので ある。そして、この規範なるものも、それだけをとって見れば統計的にもっとも頻度の高い 行動にすぎないということになろうが、しかし、そうしたある行動の頻度の高さ、特権性と いうものにしても、決して物理的平衡の条件によって決定されているわけではないのであっ て、われわれはそれをある〈意味〉をもったものとして、つまり、現存の環境であれ潜在的 環境であれ、環境へさし向けられた動作ーーー・エサをつかみ、目標へ向かって歩き、危険から 逃れるなどのーーとして見なけれは、理解しえないのである。したがって、有機体と環境と の関係は、物理的系とその場の関係とは比較できないような、ある生命的〈意味〉を媒介と ひんど

5. 現代の哲学

Ⅲ 2 世界内存在 C ーー物理的構造と有機的構造 世界内存在ーーーシグナル行動とシンポル行動 4 世界内存在国ーーフッサール ハイデガー 世界内存在四ーー 6 情動の現象ーーサルトル 身体の問題 : 1 心身の関係ーーー幻影肢のばあい 2 心身の関係ーーー心身の区別と統一 3 身体的実存曰ーー精神盲のばあい 4 身体的実存ーーシンボル機能の基盤 性的存在ーーフロイト

6. 現代の哲学

は無理である。むしろ、生活に対する関心によって活動が再組織されるのだと考えるべきで あろう。 しかし、だからといって、先の例で一一 = ロうなら、その昆虫が果たすべき目的を意識していて 自分の脚をさまざまな手段として使うということでもない。 もしそうだとすれば、行動が妨 けられるばあいには、いつでも代償行為が起こりそうなものであるが、実際にはそうではな く、ただ脚が結びつけられていて使えないというようなばあいには、代償行為は起こらない のである。後のようなばあいには、昆虫はい。 せんとして今までと同じ世界に存在しつづけよ うとし、全力をあけてこの世界に立ち向かっているわけである。つまり、結びつけられた脚 の代わりに丈夫な脚が働かないのは、その脚が動物の存在において計算にはいっており、世 界へ向かう活動がその脚を通じて流れているからである。としてみると、代償行為を行なう 題か行なわないかは、一人称的な選択によって決められるものではなく、前にも問題になった しゅ 〈種のア・プリオリ〉とも言うべき固有の〈世界内存在〉の運動によって決定されているの 身である ( いうまでもなく、ここで言われている〈世界〉は動物にとっての行動的環境のこと である ) 。そこで、もう一度この問題を考えてみよう。 Ⅱ さきにも見たとおり、動物が一つの世界を〈もっ〉とか、一つの世界に〈属している〉と 101

7. 現代の哲学

-6 幻影肢のばあい 1 心身の関係曰 前章での考察からもすでに明らかなことと思うが、われわれは心と身体についての古典的 な区別や、したがってまた、その区別を前提にした心身の関系に・つ・い之第・がお受け入れ るわナこは」ゝ ~ し ~ ーし、刀↓ / し ・・ " ・・・・・理、し・窈 ) ー」 j ' ' ~ 生・プなもの〉と〈心的なもの〉の関係は、実 ' ' 新プ - 当 ' し -0-0 嬲府でく、一 = 〕ってみれば部分と全体との関係なのである。つま り、高次の秩序の出現は、その完成の度合に応じて、低次の秩序からその自律性を奪い、お のれを構成している低次の秩序に新しい意味を与える。〈心的なもの〉とか〈精神〉とよば したがっ れるものは、そうした高大の統一形式であり、・・行動の高次の構造にほかならない。 て、こうした高次の構造を実現した人間にあっては、生命活動といった形での行動さえも、 新しい全体のなかに再組織化されて、生物的行動としては姿を消してしまうのである。たと えは、動物にあっては性生活が周期的であったり単調であるのに、人間にあっては持続的で 変化に富むというのも、そのためである。また、ある種の認知障害が性的自発性の喪失とな っても現われるというのも、高次の機能の変容が、いわゆる本能構成にも影響を及ばすとい うことであろう。

8. 現代の哲学

ク は、必然的にある種の・印己解釈を伴うであろうからである。たとえば、観点を選んだり変え たりするこの能力によって、人間は、事実的状况に迫られなくても、潜在的使用や他の道具 の作製のための道具をつくったりしうるわけであり、したがって道具の連関というのは高次 のシンボル体系なのであるが、こうした道具に対して習得されるすべての習慣は、それのも つ人間的構造への適応にほかならす、そこには明らかに自己への反省的 ref 一 ex 一 f な関係が認 められよう。 このレベルに達した行動を、生物のばあいと共通な〈行動〉ということはでよぶのは適当 ではない。メルロポンティは、物理的・生物的自然を変様し、そこに新たな構造を実現す るこの人間活動を ノやマルクスにならって〈労働〉とよんでいる。労働とは、直接 的環境の向こうがわに自が多くの局面から見ることのできる一つのの世界〉っ プど・ず・をごどである。人間に固有な一 = 〕語の果たす役割も同様であろう。ま・・た革囹や印当 2 った行為が人類にしかないものだというのも、これらが両者とも、与えられた環境を拒否 し、環境全体を越えたところに平衡を求めようとする能力を前提とするからである。いすれ にせよ、このシンポル的行動によって、人間は直接的自然的環境を越え、いわば〈世界〉 に開かれることにオる人間存在が・な在松「という基本構造をもっといわれるのも、 実はこの意味にほかならない。 したがって、ここで言われる〈世界〉とは、決して存在者の

9. 現代の哲学

にぶつかっても、反対方向をなかなか見いだせない。また、かれらは日付や曜日の名前を全 あんしよう 部暗誦できるのに、前の曜日、前の月をうまく指摘できないし、二群に分けられた棒の数を うまく比較できなかったりする。というのも、こうした操作は、与えられた世界のなかに境 界線や方向軸を設定したり、カ線を定めたり、遠近の関係を配置したりする同じ能力が必要 だからであり、要するに与えられた世界をそのときどきの企投に従って組織し、地理学的環 境の上に主体の内的活動性を表出する行動的環境なり意味体系なりを構築する同じ能力が必 要だからである。 かれらにとっては、世界はすっかりできあがって凝固した世界でしかないが、これに対し て、健常者にあっては、世界は企投によって偏極作用を受け、そこに行動を導く無数の標識 が魔術によるかのように出現してくるのである。抽象的運動を可能にするのも、こうした投 射、ないし霊媒が死者をよび出すような意味での〈喚起〉の作用である。というのも、わた しの身体をさし迫った任務から解放し、口頭での指令や精神的必要だけから規定されている 運動を虚空に描き出すには、やはり身体と環境との自然な関係を転倒させて、存在の厚みを とおして人間の創造性を浮かび上がらせなければならないからである。 こうして、シュナイダーに認められる運動障害の意味は明らかになったとしても、それで は、その原因についてはどう考えたらよいのか。生理学の立場からは、こうした説明が考え れいばい

10. 現代の哲学

が、いわば先天的コンプレックスとでもいったかたちでひそんでおり、これがわれわれをし て、世界のうちにしつかりと根を下させてくれているのであるし、それに応じて、われわれ 各自がみすからっくる人間的世界のまわりにも、一つの一般的世界、つまり生物学的状況と いったものが姿を現わしているのである。もっとも、前人称的・有機体的な実存といって も、むろん、これは決して惰性的な物のようなものではなく、それはそれで実存の運動を素 描しているのだし、それどころか危急の際には、わたしの人間的状況がわたしの生物学的状 况を消しさり、わたしの身体が人格的行動に完全に合一することさえありうるわけである。 が、たいていのばあいは、人格的実存が有機体を抑圧していながら、これを超え出ること も、自分の方を放棄することもできず、これを自分の方に還元することも、自分の方をこれ に還元することもできないでいるのである。われわれに自由な実践的領野を保持してくれる 題その同じ習貭的身体が、手足の切断という客観的条件の激変があったにもかかわらす、われ われをいぜんとして古い世界にしはりつけ、幻想のうちに閉じこめてしまうといったことの 身ありうるのも、このためである。幻影肢はちょうど、精神分析でいわれる〈抑圧された経 はけしい情動的ショックをともなったいわゆる外傷性の経験が、意識的過程のうち に統合されす、したがって過去になりきらないままに〈古い現在〉として固着してしまい 無意識のうちに行動を支配するーーのように、切断の事実を拒否しようとする実存によって 109