102 直接局長宛にだしていることをまったく知らされていなかった。俊介は役所仕事の性質や〈哭 の垂直体系ということを計算に入れなかったわけではないが、企画の結論が火急を要している ためと研究課長のつよい要求があったため、わざと課長や部長を無視したのだった。正しい手 続をふめば企画が局長室までたどりつくのに何日かかるかわからないし、途中のどこでとまっ てしまうかもしれない。そのうえ課長会議で自説を蹴られた研究課長は彼をだしにして我意を 通そうとあせっていたのである。 課長はにがりきった表情で俊介を呼びつけ、危く局長室で恥をかきそうになった不満をぶち かぎ まけた。そして書類をそのまま机のひきだしにほうりこんで鍵をかけてしまった。俊介は自分 が。ヒラミッドの底辺に立っていることをそのときあらためて知らされた。 研究課長は彼に事の始末を聞かされると歯がみしてくやしがった。その素朴さに俊介はふと 彼よひややかに、しかしあくまでいんぎんに話の終りへつけたし 悪意にちかい感清を抱いた。 , 。 「 : : : けれど、こうなることははじめからわかっていたと思うんですが ? 」 「どうしてだね」 「ほくだって部下にだしぬかれるのはいやですよ」 相手は思いがけぬ反撃に出会ってたじろいだ。俊介は眼の奥で焦点をむすんだような、いか にも学者めいて澄んだ研究課長の眼を狼狽の表情がかすめるのを見た。この男は純真だ。自分 の手の内を見すかされたと思って恥ずかしがっている、と俊介は思った。 ろうばい
106 そういいかけて体をのりだした課長はすばやく室内を見わたした。人目をしのぶときだけこ の男は精悍になる。俊介はするどく光った相手の眼を見て思った。 「実はね、ネズミが出たんだよ 課長は顔を近よせて小声でいった。あまりのロ臭に俊介は思わず顔をそむけた。そんなこと に課長は気がっかず、俊介の耳に生温かい息を吹きこんだ。 「その風呂敷は、昨日、派出所から送 0 て来たんだが、木こりの弁当みなんだ。う 0 かり 地面において仕事している間にやられたんだそうだ」 「やられた、というと ? 」 「ネズミさ、ネズミにかじられたんだよ。中身の竹の皮やニギリ飯なんか、跡形もなかった きも そうだ。木こりは肝をつぶして昼から仕事をやめて村におりたということなんだ」 課長はそれだけいうと椅子に背を投げ、にがにがしげに唇をかんだ。 ( いよいよ来たな : : : ) 俊介は課長の眼にあるいらだちと混乱の表情を見て、つよい満足感を味わったが、口調はい んぎんにおさえた。 ふろしき 「風呂敷をかじったのは一匹ですか ? 」 課長は警戒するように俊介の顔をちらりと見たが、すぐ手をよわよわしくふった。 「見当がっかないらしい。とにかくたいへんな数だそうだ。ここに報告書があるから、あと で読み給え。困ったことになりそうなんだ」 せいかん
俊介は課長が投げてよこす書類綴りを手に受けた。繰ってみると、どの報告書にもそれを送 0 て来た至急便の封筒がついていた。しばらくだま 0 てルをかんでいた課長は、なにを思いっ いたのか、ふいに体を起した。その眼からさきほどの混乱の表情が薄れているのを見て俊介は 用心ぶかくかまえた。 「君。君は派出所から来る日報を読んでるね ? 」 「ええ」 「ずっと ? 」 俊介は言葉を注意して選んだ。 「私のところへ来た分は全部読んでいるつもりです。この報告書は、いまはじめて見せられ たので、別ですが : 課長はあわてて手をふった。 「いや、それは、なにも君を無視したわけではないんだ。それは、べつに、どうでもいいん ュ / カ にはわからないことがある」 「なんですか ? 」 : つまりだナ、どうしてそれほどネズミがいるのにいままでわからなかったかというこ とだ。ついこないだまで、日報はどれもこれも特記事項ナシばっかりで、なにもネズミのこと なんかにふれていなかったじゃないか」 俊介はばからしさのあまり、あいたロのふさがらないような気がした。 ク
104 かいじゅうさく 「見えすいた懐柔策」 イ尸はいろいろなかげ口をきいたが俊介は気にかけなかった。 秋になってから県庁が新築され、大規模な不正が発覚した。そのため人事異動が起って俊介 の課でも課長が交替した。新任の課長は不正の火元といわれる資材課から移って来たのだが、 山林課の仕事の内容についてはまったくのしろうとだった。その頃ひとびとは醜聞の噂話に没 頭するか、けんめいに醜聞の噂話を消してまわるかのどちらかで、俊介の企画はますます忘れ られる結果となってしまった。新築の庁舎はガラス張りの箱を支柱で地上から持ちあけた、ビ ロッティ・スタイルの最新設計だったが、そのなかに住む人間の腐臭のためにネズミは一匹も 侵入できなかったのである。 俊介は新任の課長に機会があるたびにそれとなく来春の恐慌のことを話してみたが、頭から 相手にされなかった。彼がちょっとくわしくイメージを描くと、課長は鼻さきでせせらわらう のだった。 「・ : ・ : そんな、君、エジ。フトのイナゴじゃあるまいし」 俊介が突飛でお先走りな空想家と思われたのは役所のなかだけではなかった。彼が山を歩き まわって警告を発すると、私有林の持主たちのなかには不動産の誇りを傷つけられて本気で怒 る者がでて来たし、老練なはずの山番や炭焼人たちですらネズミの活動を無視して、 「早にえの多い年は雪が早えというなア」 たとえばモズのいけにえの異常なおびただしさも彼らはそんなふうな予想でお茶をにごして
120 のときには劇薬一〇八〇剤を使ったので、一夜あけて訪れるとネズミは巣穴の周辺でバタバタ 死んでいた。この薬は微量でも神経をたちまちマヒさせるから、ネズミは自分の死体をかくす 余裕なくその場でたおれてしまうのである。 町では賞金目あてに狩猟がおこなわれた。ひとびとは争ってパチンコ・ワナや「千匹捕り を買い、壁穴や溝ロや倉庫などに仕掛けた。捕えられたネズミは交番や区役所に届けられ、日 に何回となく集配に来る県庁のトラックに積まれて俊介の課に送りつけられた。俊介らを の捕虜にもとの正しい任務をあたえて釈放した。すなわち彼らは大学や病院や衛生試験所に送 さくご られて試行錯誤、遺伝学、血清反応などの実験材料となったのである。しかし、こんなゆとり のある状態は四日ほどで終ってしまった。はじめは拝むようにしてもらいに来ていた引取手も、 たちまち収容能力が切れて音をあげたのである。電話をかけるとあべこべにどなり返される始 そう 末であった。そこでしかたなく俊介は庁舎の裏にある塵芥置場のコンクリート槽を利用するこ とにした。 , 。、 彼よ送られてくる捕虜を片つばしからそのコンクリート槽に投げこみ、床もみえな いくらいにたまったところへガソリンを注ぎ、火をつけた。遠くから見ていると、コンクリー けんそう ト槽からは火の柱がたち、すさまじい喧噪がその内部で起った。ときどき必死のカで槽の外へ とびだして来るネズミもあったが、火だるまになって一メートルと走らずにたおれてしまった。 ぎやくさっ 風の方向で悪臭が庁舎にむかって流れる日もあり、虐殺を腕組みしたまま眺めている俊介はあ ばとう らゆる窓と部屋から罵倒を浴びせられた。はじめは興味を感じて俊介に協力していた連中もネ ズミがひっきりなしに送られてくるとげんなりして手をひいてしまったので、俊介は一人で黒
137 「どうしたんです ? 舌打ちしたり、ののしったりしている相手のとりみだしように俊介はあっけにとられた。農 かっこう 学者は後部席に酔いたおれた俊介のだらしない恰好を見て吐きすてるような口調で説明した。 「移動だよ、ネズミが移動をはじめたんだ。早く行かなきや間に合わない。おれは生まれて はじめて見るんだ」 おだてられるような日本酒特有の酔いにしびれていた俊介は農学者の一 = ロ葉でショックを感じ、 ふらふらしながら体を起した。 どの林にいた一匹がさいしょに衝動を感じて走りだしたのかわからないが、ネズミの軍団の しようちゅう 一部がその夜移動したのである。一人の木こりがそれを目撃した。焼酎を飲んで村からの帰り 道にその木こりはおびただしい数のネズミが雑木林や草むらからあふれて路上を横ぎるところ を発見したのだ。彼はそのまま自転車をもどして村の駐在所にかけこんだ。若い巡査は博物学 者ではなかったので説明しようのない異常をそのまま電話で県庁へ報告するよりほかに方法を 知らなかった。ニュースがまわりまわって農学者の家へとどいたときはすでに十時をすぎてい クた。その間にも村人たちは懐中電燈や提灯で道を照らし、総出でネズミをたたき殺し、踏みつ = ぶしたが、勝負はつかなかった。暗がりのためにくわしいことはわからないが、殺された数と ( は比較にならないほどのネズミの大群が道を横ぎって夜の高原に消えていった。この知らせが ふたたび電話で県庁にったえられたとき、農学者は市内の屋台店や安酒場をシラミつぶしに歩 いて俊介をさがしまわっていた。彼は俊介から秘密会議のことを知らされていなかったのだ。 ちょうちん
103 ク 結局、この企画は水に流されてしまい、俊介は課長から反感を、同僚からは軽蔑を買うこと となった。仲間はササとネズミの関係をお・ほろげに知ってはいたものの、誰も積極的に発言し なかった。 / 彼らはその日その日のあたえられた仕事をなんとかごまかすことだけで精いつばい なのだ。来る日も来る日も、一日はろくにわかりもしない伝票に判コをおすことだけですぎて じちょううた しまう。そんな生活を酒場で「ポンボコ人生、クソ人生 . などと自嘲の唄でまぎらしているば かりなのであゑはじめ彼らは俊介がべつにム哭下されたわけでもない仕事に熱を入れるのを酔 狂だといって相手にしようとしなかったが、そのうち彼がほんとうに企画書を書きあけて局長 しっと 宛に提出するのを見ると、にわかにだしぬかれはしないかという不安と嫉妬を感じた。俊介は 急に課内でけむたがられ、うとんじられた。その疎外は、しかし、永つづきしなかった。みご とに彼が失敗したからである。安心した仲間はふたたび友情と、あるやましさのまじった同情 - 彼らは酒場で気焔をあげ、しきりに俊介を弁護して課長の官僚 を抱いて彼にちかづいて来た。 , 意識をののしったが、俊介自身は意見を求められても薄笑いするばかりで相手になろうとしな 、力 / 企画が却下されても彼はまったく平静だった。公的な場所でも私的な場所でも、抵抗らしい = そぶりや不満の表情を彼はみじんも見せなかった。それどころか、酒を飲むと彼はしきりに課 長と握手し、いわれるままに歌を歌ったり、踊ったりさえした。 「失地回復をあせってやがるー 「老獪ぶってるんだよ」 ろうかい きえん けいべっ
課長は彼の答えに不満らしく頭をふった。 いくらササ原を焼けといったって、現実になにも起っ 「君、日報は局長室まで行くんだよ。 なっとく ていなかったら、焼こうにも焼きようがないじゃないか。局長だって納得しないのがあたりま えだよ」 俊介はこのあたりでちょっと抵抗してみせるのも手だと思ったので、 「おっしやるとおりですが、起ってからではおそすぎるんじゃないかとも思ったもんですか ら」 といった。すると相手はすぐ餌にとびついて来た。課長は回転椅子に背を投げると、俊介の 顔をちらりと眺めた。その眼には満足そうな軽蔑のいろがはっきりでていた。課長はきめつけ るようにいっこ。 とっぴ 「当てずっぽで役所仕事ができると思うかね。前例もないのに、君の突飛な空想だけで山は 焼けないよ。君の企画はお先走りというやつだ。気持はよくわかるがね」 俊介はその言葉で、いままで自分がどういうふうに見られていたか、あらためて知ったよう な気がした。彼は発明狂や易者とおなじ種類の人間と考えられていたのだ。 「局長はね、こういうんだ」 課長は両手を組んで机におき、俊介を見あげた。眼からは軽蔑が消え、まがいものの真剣さ がのそいていた。 : つまり、ネズミは毎年春になるとわくものなんだ。たとえ君が心配しているほどでは えさ けいべっ けいべっ かいてんいす
124 はげしい声が辻から辻へ走りまわり、ネズミや細菌とともに人びとの夢のなかへ侵入していく のだった。放送局に俊介が招かれた夜も一人の青年がスクーターにのって夜の舗道を走ってい たが、その声は無人の街路にするどくこだまし、俊介に発声者の清潔な肉体を想像させた。鼠 解説の深夜録音をとるために階段をの・ほる彼をその声は壁ごしにどこまでも追 0 て来てはな れなかった。 弾劾と鼠害がほ・ほ絶頂に達したかと思われる頃、ある日、俊介は思いがけぬ点を能いだ。一 〇八〇剤をトラックで近郷の村へ配給にいった彼がその日の午後おそく県庁へもどると、ちょ うど動物業者の送ったイタチが着荷したところで、係員たちがトラックのまわりでいそがしげ びんしよう に立ち働いていた。この敏捷な動物はあいかわらず無能な人間から過大の期待を背負わせられ て、予算のあるかぎり購入される羽目におちいっていた。雪どけ以来、すでに何回となく俊介 は野山にイタチを放った。もともと彼らはネズミと見ればたちどころに殺してしまう衝動を持 っているのだから、回をかさねるにつれて嫌悪されたり抵抗素を増されたりする毒薬よりはず っと有効といえるのだが、被害地区だけで一万町歩、発生地なら五万町歩もあろうかという今 度の恐慌の広大さを考えてみれば、俊介としては課長が意気ごむほどの希望を持てないのであ る。しかし、いかに実際の指導権を彼がにぎ 0 ていても、鼠対策委員長は山林課長なのだし、 はじめにイタチの早業を紹介して動かしがたいイメージをうえつけたのは彼なのだから、いや とはいえなかった。 飼育室に運びこまれるイタチの箱をなにげなく見物していた彼はふと一匹の耳を見て、危く
113 毒薬もイタチもワナもまるで効果がなかった。はじめ対策委員会が設けられて俊介がいろい ろの案を発表したとぎ、ひとびとは活路と希望をあたえられたような気持になったらしいが、 日ごとに高まる恐怖の事実とあらゆる努力の無効を知ってからというものは俊介に対して不信 けいべっ さっそやく と軽蔑を表明するばかりであった。そして俊介が殺鼠薬を配給するため徹夜でトラックを山に ほ、つさっ とばしたり、会議の連続でヘとへとになったり、陳情人の応接に忙殺されたりしているみしめ な有様を見て、同僚のなかには、なぜこんなことになる前に去年の上申書却下のときもっと抵 抗しなかったのかというような非難をあからさまに持出す者まででて来た。いつもはどっちっ かすの薄笑いで相手を無視してしまう俊介も、これを耳にしたときばかりは、その男を殺した いような憎悪を感じた。 ある夜、彼は研究課長に誘われて久しぶりに酒場へ行った。ほの暗い灯とやわらかい音楽が 徹夜つづきの連日のおびただしい疲労をとかしてくれるようだった。ウォッカを氷片に浸した グラスにはしぶくようなレモンの新鮮な香りが動いていた。彼はその水晶のような酒で心ゆく まで唇を焼き、舌を洗った。課長はハイボールの一杯を飲みおわるまでものをいわなかった。 ク恐荒が発生してからというものはこの男も多にをきわめ、おなじ建物にいながら二人はろくに = 顔もあわせる機会がなかったのである。それそれ一一杯めのグラスが並べられるようになってか ら二人はやっと口をきいた。 俊介は各地の山林の被害を綿密に説明し、それに対して打った自分の手をのこらず伝えた。 彼は一「三日中に小学生や中学生を動員して被害地の林と畑に毒薬をまこうとしていることや、