後退して自分の足跡を消しつつ天幕村にもどり、兵士たちはほとんどうごかないか、たとえう ごいても彼らの靴跡はわか 0 ているので、朝になると馬にの 0 て砂に匈奴の足跡や蹴蹣がのこ っていないかどうか調べにでかけた。私たちが襲われなくても匈奴たちはいつのまにか天幕に ちかづき、かがり火のすぐそばまでしのびよっていることはしばしばあって、兵士たちは昨夜 あお あいくち 自分の背のすぐうしろに匕首が迫っていたことを朝になって発見して蒼ざめた。彼は砂の足跡 を追って捜索にでかけたが、いつも私たちの視界の範囲内だけを調べてもどってきた。たとえ 姿は見えなくても匈奴の戦士は荒野のどんな岩かげにひそんでいるかわからないのだ。深追い した兵士は単騎であろうと、小隊であろうと、きっと重傷を負うか全滅するかした。私たちは 城壁を築くとき、かならず間隔をおいて望楼をつくり、その望楼に守備兵の一隊をのこしてか らつぎの工事にさしかかるのだが、匈奴はしばしばこの後衛隊をみなごろしにして城壁をのり こえた。匈奴の居住地帯もまた広漠として限界を知らないのだ。私たちは城壁を中心にする視 界から彼らの家畜群を追いだすことに一応は成功したかも知れないが、戦士はあいかわらず昼 となく夜となく私たちを監視している。ときに彼らは示威のために城壁の内側の、私たちの領 土の荒野を白昼ゅうゆうと、しかも黄土地帯へむかって馬を走らせてゆく姿を見せつけたりす 亡るし、またときには後部地区からの牛馬の輸送隊を私たちのなかで襲撃することもある。 ばんり 流 これらのことから推しても私たちの結論はたったひとっしかでてこないのだ。万里の長城は 完全な徒労である。それはあきらかに私の故郷の町の城壁とおなじように御「物としての機能 を完全に欠いている。風にむかって塀をたてて風が消えたと信じたがっているのだ。しかも、 = = ロ
うものを知らないのだ。するどく硬い石にみちた山岳地帯こそは、おそらく、この大地の背骨 幻なのだろう。しかし、私たちは、厚くやわらかい黄土の脂脚が東西南北を 0 た、女の腹部の ような土地に住んでいるのだ。土は肥えて、深く、多毛多産で、毎年疲れることを知らずに穀 物や家畜を生むが、骨はどこにあるのか、まったく感ずることができない。 町の第一の建造物は、もちろん、城壁である。なんといっても、壁なしで暮らすことはでき 。これこそはあらゆる価値に先行するものだ。他人の穀物倉や畑や乾肉などについては私 たちはさまざまな意見をもっているが、城壁については誰も異論をはさむことができない。 こ数十年、戦争のたえまがないのである。さまざまな主張をもった将軍とその軍隊が平野をよ こぎった。亡んだ町の記録はかそえきれない。殺された住民の話はかならず壁の崩壊からはじ められた。私たちの国では、町といわず村といわず、およそ人の住むところにはかならずまわ りに壁がある。町を壁でかこみ、自分の家を壁でかこみ、壁を体のまわりに感じないでは一日 もやっていけないのだ。山も海も見えないくらい広漠とした国に住んでいながら壁なしにすご せないとは奇妙なことだが、事実である。 城壁は町の共同財産だ。私たちの町は耕作に依存するばかりで、絹や玉や機械などというよ うな特殊な技術はなにももたないから、城壁ぐらいしか自慢できるものはないのだが、これも ほかの町のとくらべてとくにこれといった特徴をあげることはできない。それは石材を一本も 使わずにつくられた。黄土は水でねると固くなる。父たちは平野のまんなかにたっと、風 きわく を嗅ぎ、土をなめてから、道具をとって足もとを掘った。土を水でねると、木枠にはめて陽に
乾かし、固まるところを持って枠をはすすと煉瓦ができた。その土のかたまりを何百個、何千 個と、一個ずったんねんにつみあげて彼らは町の外壁をつくったのだ。この壁と、各人の家と、 どちらの建造がさきであったかは正確なことをお・ほえている人間がいまではみんな死んでしま ったから、わからないことではあるが、おそらく城壁のほうがさきだったにちがいない、と私 たちは信じている。伝説は賢人の大きな時代をつたえているが、私たちの町はそれよりはるか 以後に生まれたのだ。壁の心配のいらない日はかって訪れたことがないのだ。人びとは壁の中 で生まれ、壁のために生きた。。 とこの家でも、壁のためにはたらかずに死んでいったものはひ コウリャンばたけ とりもないのだ。高粱畑のなかからとっぜんあらわれる兵士たちはいつも新しい武器をもって いた。祖父の頃、刀は肉を切るだけだったが、父の時代になると骨を切られた死体が散乱した。 やり 槍の貫徹力は増大し、矢の飛行距離はのびるばかりである。毎年、壁のうける傷は、深く、大 きくなった。兵器だけではない。それはたえまない風のヤスリにもゆだねられているのだ。道 はひっきりなしに私たちの家をむしばみ、平野は町を犯す。風のなかで城壁は眼に見えずにじ りじりと沈み、低くなってゆくのである。 記城壁の改修作業は季節を問わずにおこなわれた。少数の役人と、富商と、豪農をのそく町の 亡住民は子供から老婆におよぶまでみんなはたらいた。その日は、畑仕事、商取引、家事、午睡 流 など、すべてが禁じられた。城外の畑へ黄土をとりにゆく牛車のきしみと、長い苦しい午後。 少年時代から青年時代にかけて出会った数知れぬ労働日を私は忘れることができない。学校は どちょう 休みになり、私たちは歓声をあけて城壁のうえを走りまわり、父の怒張する背の筋肉の地図に れんが ごすい
222 私たちの知恵はたったひとっしかないのである。戦乱は十数年にわたって、果知れぬ攻防戦 がくりかえされ、侵略があり、敗北があり、諸侯たちの興亡はかそえきれなかった。が、行商 人が宮殿や天幕の奥に走る暗殺者の叫声を話しおわるたびに、私たちは眼を城壁にそそいだ。 すでにそれは雨と風によってまるめられ、煉瓦はとけあって形を失うまでになり、一個一個を 見わけることができなくなっている。人家とおなじように大地ととけあって、建築物というよ りはほとんど自然物である。それが町にとって希望であったというたしかな経験を私たちはあ まりもっていない。 黜として見ればそれは不完全きわまるものだし、戦術的に可能なかぎ り利用できるほどの知識や勇気も私たちはもちあわせなか 0 た。それはちょうど大地の巒搨の ような私たちにとってのかさぶたにすぎないといってもよい。価値は無にひとしいのである。 しかし、あらゆる検討の末に私はなおすてきれぬものをそこに感ずるのだ。これは町に住む人 ぜいじゃく びとすべての感覚である。力や筋肉の殺到にたいしてそれほど脆弱な存在のないことがわかり きっていながら、なぜあなたは腹より背に信頼をおいて体をまげるのだろうか。私たちにとっ まくら て壁はそのようなものなのだ。夜おそく枕に頭をおとすとき、私たちはおしあいへしあいかさ なりあった何十軒もの家の何十枚もの壁や塀のむこうに、ったえ聞く海のような平野の肉迫に たちむかう重く、厚いものの気配をかならず感ずる。城壁は私たちの背だ。ちょっとでも崩れ ると私たちはたちまちかけ集ってこのたわいもない土の隆起にとびかかり、うろうろ歩きまわ り、眼にしむ汗をぬぐいながらはたらいて倦むことを知らなかった。城壁の意味はおそらくそ れんが
264 長城の建築技術を説明すれば首をかしげられるにちがいない。なぜなら、これほどの有史以 来の企図が、あの私の故郷の町の城壁とまったくおなじシステムによって運営されていたから である。そのシステムは私たちより数代あるいは十数代まえに発明されたもので、それをその まま岩砂漠のなかに適用しようというのである。時代は武器の効率の増大に知力をかたむけは したが、建築技術についてはほとんど停滞状態がつづいていたといってもよいのだ。ただしこ あばうきゅう れは城壁建造についてのみいえることである。別種の技術はその結晶をあなたは阿房宮に見い だされるだろう。が、いまは長城について語ることにとどめておきたい。長城に関するかぎり、 それはまったく私たちの幼稚さの愚劣きわまる拡大にすぎなかったのである。私たちは町の城 壁を築くときとま 0 たくおなじように黄土をねり、日乾し瓦をつくり、それを営々として砂 漠のただなかに一個ずつつみあげていったのだ。あるいはこのシステムによって皇帝は全従業 員に帝国がその版図の広大無際限さにもかかわらずなおひとつの町にすぎず、それ以外のなに ものでもないのだという連帯感覚が発生することを期待したのだという説が生まれるかもしれ 。宮殿前広場のけばけばしい演説者たちは孤独の克服を私たちに説くにあたってそういっ た。六日めのさいごの夜の私たちのヒステリーと首都から辺境までの長距離行進の苦痛をささ えた、私たちの、外を志向するただひとつの憎悪、こうしたものはビタリとそれをさし、それ に呼応している。しかし、長城の予定線のあちらこちらに労働部隊が配分されて、いざ仕事に めいも、つ とりかかってみれば、何か月もたたないうちにたちまちこの説の迷妄がさらけだされた。 私たちはある王の遺跡の終ったところから出発することになった。このあたりはちょうど黄
塵のなかにねむっている。 城壁にかこまれてはいるが、町は、それ自身、ひとつの黄土の隆起にすぎなかった。どれほ どにぎやかな町の中心部にたってもこのことは感じられた。町の中心の広場は市場になってい かご て、城外からくる百姓たちがニワトリや野菜を籠につめて売っている。役人が歩き、職人が道 具の音をたて、女たちは野菜の匂いのなかで笑ったり、叫んだりしている。そのすべての人と 物の匂いのまわりにあるのは土だ。土の珮、土の壁、土の門、どの家もみんな土でつくられて ある。人家の礎石はもともと敷かれなかったか、あるいは土の底深く沈むかして、家と道を区 別するものはなにもないのだ。私たちにとって家とは道の一部が腫れてふくれてまるい背を起 ありづか したものである。蟻塚にすぎないのである。家が大地への抵抗であることをしめすものはなに かんごく もない。戸口にも、辻にも、町にあるのは黄土だけである。石はかろうじて役所の建物と監獄 の壁と数軒の富裕な商人の私有墓地に使われているばかりである。私たちは死んでも自分の名 を人びとの記憶のほかにきざむべきものをなにももたないのである。 私たちの地方では石はひどく高価な素材であった。山ははるかに遠くて、行商人の口から聞 = = ロ くほかに町でじっさいに見たものがほとんどいない。丘はあるが、これも黄土の凸起にすぎな コウリャンばたけ 亡 城壁から見晴らしても眼に映るのはただ広大な高粱畑と、黄いろくかすんだ地平線だけで 流 ある。行商人たちは取引をすませると声高に諸国の見聞記をつたえてくれたが、私たちの誰ひ とりとして山についての正しい像をもっている者はなかった。まして海や湖など、はたして町 の人間の何人が死ぬまでに見ることだろうか。私たちの国はそれほど広大で、およそ限界とい ちり にお
270 田舎町の城壁にたったひとつの意味をあたえていた、あの、すべての価値に先行して私たちを 夜のなかに発散拡張させる共同作業の感覚が、この北方の長城にはまったく失われているのだ。 ばうだい ここでは人びとは厖大な拡大力のなかでの点であり、あくまでも点にとどまり、ついに結合し かいり て円をつくることのない、ただの肉片にすぎないのだ。私たちは砂漠と黄土と乖離感覚を相手 に息もたえだえな苦闘をつづけたあけくにやっとのことで築きあげた城壁の内側をいつのまに 侵入したのか匈奴の戦士が日光を浴びてゆうゆうと馬を走らせてゆく光景を目撃して深い疑い 彼らにむかってなぜ国境を主張する必要があるのだろう。彼らこそは私 の衝動におそわれた。 , たちの硬直して手のつけられぬ衰弱におちこんだ文明への新鮮な衝撃力なのではあるまいか・ : 荒野では飢えと危機が慢性化した。このことについて私たちはとくに自分の立場の苦しさを 誇示しようとは思わない。動員令が発布されて以来、事情は大陸のあらゆる町や村でもおなじ ことたし、さらにそれに加えて重労働ということについてなら、首都の道路や宮殿のうえを這 いまわっていた、おびただしい労働者の魚のような眼を思えば、なにもいえなくなる。私たち はふたたび孤独や絶望について誰ひとりとして特権のもてなくなった時代にいるのだ。時代は かって過去のどんな日にもなかったような力にみちている。始皇帝は彼以前のどんな王や将軍 も思いっかなかった制度を発明して力を全土から吸収することに成功した。宮殿、軍用道路、 夜の大歓送会などに私たちはそれをみとめる。これほど私たちがカにみちていようとは誰も夢 カそれにもかかわらず、人びとはそれほど力にみちているにもか 想できないことであった。 : 、
224 に強盗におそわれたりしていたので、兵士たちがめぼしい品にありつくことはめったになかっ 彼らはあさるものがないとわかると、失望して、気まぐれに避難民を殴ったり、殺したり すすっちばこ して、ひきあげた。私たちは城壁のうえから兵士たちの暴行をつぶさに眺め、煤と土埃りにま みれた人びとが刀で切られて背にパックリと穴をあけながらなおもたちあがろうとして車輪に しがみついてはくずれおちるありさまを見守った。避難民たちの骨の砕ける音や叫声を聞かな かった人はひとりもいない。しかし、彼らを私たちの町に収容して宿泊させようといいだす者 もいなかった。兵士たちを養うためのあらゆる物資が徴発されて、商店は戸をしめ、穀物倉は からつ。ほになり、人びとは栄養失調からくる慢性の貧血症のためにやつれきっていたのだ。と ても避難民を養うことなど、できなか 0 た。のみならず、兵士たちは町が嫐のように蒼ざめ て薄暗いまなざしですわりこんでいるのを見て、このうえ食糧が不足することを恐れ、私たち に難民の救済をきびしく禁じたから、いよいよ彼らはしめだされることとなった。彼ら。尸 のそとに牛車をとめ、何日も野宿して壁がひらくのを待ったが、かんぬきがぬかれたことはっ いに一度もなかった。城壁がなければ私たちは彼らの刃のような不幸や苦痛にさらされてとう てい身をよけることができなかっただろう。難民たちは・ほろ布をぶちまけたように城外の畑や わら 街道に野宿し、たったり、すわったり、藁をくわえたり、横腹をかいたりして何日もすごした あげく、と・ほと・ほとどこかへ消えていった。 , 彼らの去ったあとにはしばしば瀕死の重傷者や病 人や赤ン坊が、足を折られた昆虫のようにのこされていた。私たちはむっと鼻をつく膿や垢や にお 乳の生温かい匂いのなかを歩きまわって脈をしらべたが、なかにはすでに死んでいるものもあ ひんし うみあか
214 町は小さくて古かった。旅行者たちは、黄土の平野のなかのひとつの点、または地平線上の かすかな土の芽としてそれを眺めた。あたりのゆるやかな丘の頂点にたっと指を輪にまるめた なかへすつ。ほり入ってしまうほど、それは小さかった。町を中心にいくつもの緑の輪がかさな りあいつつ平野のなかにひろがっていた。その輪は中心部にちかいほど色が濃く、周辺へい にしたがって淡くなり、しまいには黄土のなかににじんで消えていた。消えるのは地平線より はるかこちらだが、その幾条もの同心円の緑線をつらぬいて街道が走っている。街道は町から 発して地平線のかなたまで細・ほそとながらもとぎれずにつづいていた。この緑の輪状帯はすべ て畑であって、中心から遠ざかるほど淡くなるのは肥料がそこまで運べないからだ。この野菜 コウリャンばたけ 畑と高粱畑のなかを街道にそって歩いてゆくと、町にちかづくにつれてさまざまなものが行手 まうろ、フ にあらわれる。城壁、望楼、門、旗、家畜の列、百姓たちの荷車、といったようなものである。 どら ときには歌声や銅鑼のひびきが壁のなかからにぎやかに聞こえてくることもあるが、それは市 のたつ日のことである。いつもは、町はたいていひっそりと静まって、日光と微風と黄いろい 流亡記 こ
くべきものをもっていないんですね」 大田氏はソーフアにゆったり足を組んでもたれ、しばらく困ったように微笑して頭をかいて なっとく ひざ いたが、とっぜん納得がいったように膝をたたいた。 「わしに似よったんですよ。その責任はわしですよ。わしも子供のときは画が不器用で大嫌 いで、そうそう、図画の時間になるともう頭から逃けることしか考えなかった。皮肉なもんで すな、それがいまは絵具屋の社長さん : : : 」 ふいに彼はノドの奥でクックッと笑い、ひとりでなにかを思いだしたようにおかしがってい たが、やがてぼくに聞いたのだ。 「まあ、しかし、あなたをまえにこういっちゃなんだが、画はできなくても大学にはいけま しよう ? 」 ぼくは・ほんやりと彼の顔をみた。そして、とっぜん声をあげて笑いたくなった。・ほくはこみ あげる衝動をおさえるために、あわててウイスキー瓶に手をのばした。とうとう大田氏は自分 うそ から不用意にも嘘を告白したのだ。城壁には穴があいたのだ。彼は・ほくの顔にもれた笑いをみ 様て幸福そうにソーフアへもたれると葉巻をとりだし、たんねんに匂いをかいでから火をつけた。 王 彼の偽装にぼくはふたたび迷わされなかった。すでに彼はひとりの中老のロ達者な絵具商にす の ろうらく 裸ぎなかった。なるほど彼は強大た。・ ・ - テンマーク大使をそそのかし、文部大臣を籠絡し、日本全 国の子供と教師を動員する。しかし息子の太郎はクレバス一本うごかせないであえいでいるで はないか。児童画の生理など、大田氏にはなにもわかっていないのだ。それは彼にとって器用 にお