とから一か一つと、 「ヤだな、先生ったら。画を描くんだよ」 そんな軽口をきいて彼は・ほくから紙や筆や絵具皿をとっていくようになった。 太郎は新しい核を抱いたのだが、その放射する力がスムーズに流れだすためには時間がかか 彼の内部には・ほくにも彼自身にも正体のわからない、すっかり形のかわってしまったガ たいどう ラクタが海岸のようにうちあげられているはずであった。 , 。を 彼よ・まくと話をしているうちに胎動 たち をお・ほえて紙を要求したが、いざ絵筆をとってみると、どうしてよいのかわからなくなって立 おうじよ、つ 往生することがしばしばあった。母親に手をとってもらうか、手本をみるか、いっかお・ほえた 人形をくりかえすか。こんなことしかやったことのない彼は体内のイメージの力と白紙の板ば さみになって苦しんだ。彼は筆でめちゃくちゃになぐった紙をもってきて、・ほくにささやくの 。こっこ 0 「先生、描いてよ。ねえ、こないだのコイだよ、ねえ : ごうまん 彼は体をすりよせ、ひかえめながらも一人息子の傲漫さをかくした甘え声をたした。だまっ 様ていると、ぼくの体をおしたり、ついたり、ひょっとするとうしろにまわって背をつねったり 王 する。それも皮膚を厚くつままず、ほんとに効果を計算して爪と爪だけで焼くようにチリッと の 裸やるのである。その痛さに身ぶるいしながら、・ほくは彼があえいでいるのを感じた。また、い よいよ脱皮しかけたなとも思った。抑圧の腫物のかさぶたを全身につけたまま彼は・ほくにむか って迫ってきはじめたのだ。こうなると食われてしまうよりほかに道がない。・ほくは山口のよ はれもの
歩きまわるばかりで、まったく手のくだしようがなかった。 二十人ほどの画塾の生徒のなかに、ひとりかわった子がいた。彼には奇妙な癖があり、なに を描いてもきっちり数字を守らねば気がすまなかった。学校から遠足に行くと、何人参加して 何人休んだかということをお・ほえておいて、つぎに画を描くとき、それをそのまま再現するの である。五十三人なら五十三人の子供が山をの・ほるところを彼はひとりずつ指折りかそえて描 きこむものだから、この子が遠足を描くんだといいだすと、・ほくは一メートルも二メートルも つぎたした紙を用意してやらねばならない。 ある日、彼は兄といっしょに小川でかい・ほりをした。そして、その翌日、酔ったままぼくの ところへ紙をもらいにきたのである。おむすび型をした彼の頭のなかでは二十七匹のエビガニ が足音たててひしめいていた。 「お兄ちゃん、二十七匹だ・せ。ェビガニが二十七匹だぜー , ををくから紙をひったくると、うっとりした足どりでアトリ 工の隅へもどってゆき、床に しやがみこむと、鼻をすすりながら画を描きたした。彼は一匹描きあげるたびにため息ついて 筆をおき、近所の仲間にそのエビガニがほかの一匹とどんなにちがっていたか、。 とんなに泥穴 の底からひつばりだすとおかしけに跳ねまわったかと雄弁をふるった。 「 : : : なにしろ肩まで泥ンなかにつかったもんなあ」 彼はそうい 0 て、まだにのこ 0 ている川泥を鉛筆のさきでせせりだしてみせた。仲間はお もしろがって三人、五人と彼のまわりに集まり、ロぐちに自分の意見や経験をしゃべった。ア
で抽象化を試みたのだ。 「むかし、えらい男がいてね、たいへんな見え坊な奴でな、金にあかせて着物をつくっちゃ 、いばっていた : あ、一時間おぎに着かえては、どうだ男前だろう、立派にみえるだろうと そんな調子で・ほくはこの物語を骨格だけのに書きかえてしま 0 たのである。この物語に ふくまれた「王様」や「宮殿ーや「宮内官。や「御用織物匠」などという言葉はたとえ内容が すず わかっても子供を絵本のイメージに追いこむ危険があった。「シンデレラ」や「錫の兵隊ーや 「人魚のお姫様」ではこんな操作ができなかった。太郎の描いたあとの四枚の作品は根本的に 書店の世界である。外国の童話を話せば外国の風物が児童画にまぎれこむのは当然だ。だから ぼくは子供がほんとに描きたくて描くのなら絵本の既成のイメージが画にまぎれこんでもしか たがないと思う。しかしぼくはネッカチーフをかぶった少女やカボチャの馬車を描かせること ぐれつ を目的としているのではないのだ。「皇帝の新しい着物ーでは権力の虚栄と愚劣という、物語 の本質を理解させてやりたかったのだ。 様太郎はそれを「大名ーというイメージでとらえた。そのため背景には松並木とお堀端が登場 じゅっかい 王 したのだ。ぼくは大田夫人の述懐を思いだす。太郎は父親にすてられて生母といっしょに村芝 の 裸居をみにいった。自家用車や、唐草模様の鉄柵や、芝生や、カナリアなどというものにかこま れて暮らしていながら越中フンドシとチョンマゲがさまよいこんだのは・ほくの話が骨格だけで、 なんの概念の圧力もないために、むかしの記憶が再現されやすかったからだ。おそらくこの画 てっさく
「運動場、せまいもの」 ・ほくは彼を仲間といっしょに公園へつれていき、競走をさせた。 , を 彼よ栄養のゆきとどいた均 斉のとれた体をしていたが、あまり運動をしたことがないために、長い手足をアヒルのように ぶきっちょにふって走った。ひとしきり競走をしたあとで、べンチにひろけたビニール布にも どると、さっそく彼は一枚の画を描きあけてぼくのところへもってきた。 「先生、ボクが走ってるんだよー 画には点がなくなり、ひとりの子供を筆太になぐり描きされていた。彼は自己主張をはじめ たのだ。いちばんびりだったので彼は他の子供を黙殺して自分だけ描いたのである。・ほくは脇 ばら 腹にびったり肩をおしつけてくる彼の細い体と、そのなかでびくびくうごく骨や、やわらかい 肉の気配を感じながらうめいた。 サトペックみたいじゃないか。は、みんなみえなくなったそ ! 「すごいなあ。・ 太郎のくちびるから吐息がもれ、眼に光が浮かんだ。 「ボク、もっと走ったよ ! 」 彼は描いたばかりの画を惜しげもなくみすててべンチに駈けていった。 もう二度と彼はチューリップや人形を描かなくなった。そのときどきの気持にしたがって彼 は仲間や動物や山口や・ほくをつぎつぎと画にしていった。物の形といった点からみると彼の画 は乱画にちかいものであ 0 たが、描くたびにそこにはなにかのつよい表徴、訴えや、ルや、 迷いや、あえぎの呼びかけがあらわれた。 , 彼の画に人間が登場してうごきはしめた以上、・ほく わき
に消化されていた。太郎は・ほくから暗示を受けた瞬間にこの人物と風景をみたはずだ。彼はま っすぐ松並木のあるお堀端にむかって歩いていき、虚栄心のつよい権力者がだまされて裸で闊 歩するあとをつけていったのた。 , ・ - 彼の血管は男の像でふくれ、頭のなかには熱い第があり、 体内の新鮮な圧力を手から流すのに彼はもどかしくていらいらした。そのときほど彼が壁や母 親から遠くはなれて独走している瞬間はこれまでにかってなかっただろう。彼は父親を無視し、 母親を忘れ、松と堀とすっ裸の殿様をためっすがめつ描きあげ、つぎに中古ライターを発見し た瞬間、その努力のいっさいを黙殺してしまったのだ。大丈夫だ。もう大丈夫だ。彼はやって しようちゅ、フ ゆける。どれほど出血しても彼はもう無人の邸や両親とたたかえる。・ほくは焼酎を紅茶茶碗に みたすと、越中フンドシの殿様に目礼して一気にあおり、夜ふけのべッドのうえでひとり腹を こうしよ、フ かかえて哄笑した。 それからしばらくたったある日、・ほくは大田氏の秘書から電話をもらった。児童画コンクー ルの審査会があるからでてこいというのである。ぼくは太郎の画を新聞紙に包んで会場の公会 こ 様堂へでかけた。入口で案内を請うと二階の大ホールにつれてゆかれた。日光のよく射す大広間 王 には会議用のテー。フルがいくつもならべられ、何人もの男がおびただしい数の画のなかを歩き の 裸まわっていた。テー・フルのひとつずつに童話の主題を書いた紙が貼られ、作品が山積されてい た。応募作を主題別にわけてそれそれ何点かずつ入選を選・ほうということらしい。各テーブル に二人、三人と審査員がついて作品を選んでいた。落選した作品は床や壁にところきらわず積 かっ
原画にじかに接して、それを描いた子供の肉体を知りたいという・ほくの希望はとうていかなえ られそうもないのである。 しよ、っちゅう ある日の夕方、・ほくは生徒に画を教えおわってから、駅前の屋台へ焼酎を飲みにでかけた。 豚の心臓が焼けるのを待ちながら、ぼくはいつものようにをなめ、タレのを眺めて、 しんえん ったい何日ほっておくとこんな深淵の色がでるのだろうなどと考えた。じっさい、壺のなかに は = ムデン溝もおよばないくらいの深さと渾沌がよどんでいた。ところが何ロめかの焼酎が ちょう 胃から腸にしみわたった瞬間、・ほくはまったくとっぜん衝動を感じてコペンハーゲンへ手紙を だすことを決心してしまったのだ。これは完全な不意打ちだった。・ほくは自分の体内でよみが えった小児マヒのキャルのつよさにおどろき、しかも計画がすでに隅から隅まで完備している のを感じてたじたじした。 その晩、・ほくは焼酎を一杯できりあげると、いそいでアトリエにもどり、辞書と下書用紙を 机にそろえた。そして、単語の密林をさまよいながら、「デンマーク、コペンハ ーゲン、文部 あてな さしえ 省内児童美術協会御中」と宛名を書き、アンデルセンの童話の挿画を交換しようではないかと 様いう内容の原稿を書いたのだ。コペンハーゲンがデンマークの首都であることをのそくと、あ しよ、フちゅう 王 とはすべて一杯の焼酎の創作であった。とにかく誰かが読んでくれたらいいのだ。返事がこな の 裸ければくるまで何回でも書いてやれと・ほくは辞書をひきながら酔いにまかせて考えた原稿は 翌日、図書館へもっていき、タイプライターを借りて正式の手紙に打った。 その手紙のなかで・ほくは自分の立場と見解をつつまずのべた。自分が画塾をひらいているこ
しよう。児童画による人間形成なんてお題目は結構だが、いざ進学、受験、就職となったら、 画なんてどこ吹く風というのが実情です。だから少々悪達者でも、とにかく画を描かせること。 このほうが、目下の急務じゃないですかな」 彼はそうい 0 て軽く吐息をつき、かたわらのサイド・テーブルにあ 0 たウイスキー齪とグラ スをとりよせた。ぼくのと自分のとにつぎおわると、彼はグラスを目の高さまでもちあげてか るく目礼した。 「さびしいことです」 彼はウイスキーをひとくちすすってグラスをおくと、父親のような微笑を眼に浮かべて・ほく こな をみた。まるで牛が反芻するようにたっぷり自信と時間をかけて美徳が消化れるのを楽しむ、 といった様子であった。 どうやら・ほくは鼻であしらわれたらしい。あらかじめ彼は用意して待っていたにちがいない うそ のだ。彼はすっかり安心して微動もしない。彼のかかげる大義名分はどこかに嘘があるからこ しば そこんなみごとさをもっているのにちがいないのだ。彼の一言葉はよく手入れのゆきとどいた芝 生のように刈りこまれ、はみだしたものがなく、快適で、恵みにみちている。彼は貸借対照表 もう を・ほくにおおっぴらにみせびらかしたのだ。彼は自分の儲けを率直に告白し、損を打明けた。 彼は子供を毒するとみとめ、子供を解放しようという。教育制度をののしり、しかもなお巨額 の資金を寄付しようとするのた。この口実のどれをとりあげても、ぼくは歯がたたない。・ほく りじゅん には資料がないのだ。彼が美徳によってあげる利潤をつきとめる資料が皆無なのだ。完全さに はんすう
いかに殿様がふざけた、趣味のわるい、そして下手な画であるかを口ぐちに説明した。大田氏 は細巻の葉巻を指にはさみ、にこにこ笑いながら画を眺めた。そして、彼は彼としてもっとも 正直な意見をのべた。 「たっふりぬりこんでいますな、なかなか愉决じゃないですか」 彼はそれだけいってひきさがった。 皮の眼には同情と和解の寛大な表情 すると、それまでだまっていた山口が体をのりだした。彳 彼まくの顔をみつめ、よく言葉を選んで静かにいった。彼は自信を回復し、 カうかんでいた。 , はを 余裕たつぶりで、ののしられたことなどすっかり忘れて譲歩もし、いさめもしてくれた。 「わかったよ、君。この子供は正直に描いたんだ。下手は下手なりに自分のイメージに誠実 だ。フンドシと王冠とどちらが地についたものか、それは大きな問題だけれど、とにかくこの 子はアンデルセンを理解した」 彼は微笑してすこし声を高めた。 「その理解の直接動機はこのコンクールなんだ。これがなければこの子はたとえアンデルセ ンを理解しても描かなかったかもしれない。また理解もせず描きもしなかったかもしれない。 しかし、げんにこの子はこうやって画を描いた。描くことは理解の確認なんだ。だからやつば ールはけっして無意味じゃない」 りその意味でもコンクールは必要だったんだよ。このコンク どうしてこう機敏なのだろう。彼はあきらかに自分の声と大田氏との距離を計算しているの だ。彼はこのチャンスを待ちかまえていたのだ。他の連中が自分の批評眼を弁護することに腐 へた
はんのう えたすばやいまなざしで・ほくの顔をうかがいを まくがなんの反応も示さないとわかると、また ふかで もとの無表情にもどった。その白い、美しい横顔に・ほくは深傷を感じた。 子供には子供独特の体臭がある。・ほくはいつでもそれを自分の手足にかぐことができる。・ほ くの皮膚そのものが子供のものではないかという気がするくらい、それは体にしみついている。 にお 日なたでむれる藁のような、乾草のような、甘いが鼻へむんとくる匂いである。子供はその生 温かい異臭を髪や首や手足から発散させてひたおしに迫ってくる。ところが、太郎にはそんな むんむんしたにごりがまったく感じられなかったのである。壁と本棚にある童話本やポスター やおびただしい児童画など、なにをみても彼は顔いろをうごかさなかった。・ほくの部屋には子 供の陽気な叫びや笑いや格闘や空想など、さまざまな感情の原形体がみちているのだが、太郎 はなにひとっとして浸蝕をうけないもののようであ 0 た。ときどき服のを気にしながら、ほ っておけば二時間でも三時間でも彼はいわれるままに様子に坐っていそうな気配であった。両 膝にきちんとそろえておかれた彼のきれいにつまれた爪をみて、ぼくはよく手入れのゆきとど いた室内用の小犬をみるような気がした。 「学科もわりによくできるほうですし、わがままなところもないんですが、なんだかたより 様 王ないんですの。画を描かせても男の子のくせに人形やチ = ーリップばかり。まあ画はできなく 裸ても主要学科さえ人なみなら将来かまわんだろうと、主人は申すんでございますが : 大田夫人は息子の薄弱さを訴えながらも、どことなくしつけのよさを誇りにしているような ところがあった。もし後妻だということを聞いていなければ・ほくはそのまま彼女を太郎の母親 ひざ わら
ぞの不安は、しかし、やがて・ほくのなかでお・ほろげな期待にかわりだした。太郎がすこしず っ流れはじめたのだ。・ほくと話しあったり、画塾の空気になじんだりしているうちに、エビガ ニやさいづち頭や、ゴロやサプなどと彼は遠慮がちながらもまじわって、いっしょに公園や川 原で遊ぶようになったのだ。綱ひきや相撲にも彼は非力ながらも仲間に席をあたえられ、ブラ ンコにのせても汗ばまなくなった。そうした変化は緩慢であった。何日もかかって彼はそっと 仲間のなかに入っていき、めだたぬ隅に身をおいて、まわりでひしめく力や声をおびえつつ吸 収した。家庭や学校にまったく生活のないことが、この場合かえって彼をアトリエにひきつけ はっこう る大きな原因となったようだ。彼はひとつの画を描くと、一週間かかってそれを醗酵し、つぎ にアトリ 工へくると前の週のつづきを描いた。あるとき彼は家を描いて点を画面にいつばい散 らばして・ほくに説明した。 「みんな遊んでるのを、ボク、二階からみてるんだよ」 彼はそういって点をさした。そのひとつずつが運動場の子供であり家は校舎であった。風邪 をひいて遊べなかったときのことをいっているのだ。つぎの日曜には家はなくなり、点の群れ 様だけになって、彼は稚拙な子供の像をそれにそえていった。 王 「ボク、走ってるんだよ」 の 裸「風邪がなおったんだね。 「うん。それに運動会がもうすぐあるからね。練習してるんだよ」 「子供がメダカみたいにいるね」 ちせつ かんまん