しかし、ロシアのエリザヴェータ女帝が亡くなるという予 期せぬ偶然によって、危機は去りました。ェリザヴェータ の後継者として即位したロシアのピョートル三世はドイツ 生まれのドイツ育ちで、フリードリヒ二世を信奉していた のです。『ヒトラー最期の 12 日間』という映画がありまし たが、追いつめられたヒトラーが見上げた肖像画がフリー ドリヒ二世です。 オイラーはベルリンでも数多くの業績をあげました。 「オイラーの公式」の発表は、ベルリンに滞在中の 1748 年 でした。 1766 年にフリードリヒ大王との関係がまずくなる と、オイラーは 25 年間滞在したベルリンを離れ、再びサン クトペテルプルグに戻りました。 時のロシアの支配者は、こちらも啓蒙専制君主として有 名なドイツ生まれの工カチェリーナ二世 ( 1729 ~ 1796 ) に なっていました ( ちなみに、江戸への航海中に遭難しア リューシャン列島に流れ着いた大黒屋光太夫がェカチェ リーナ二世に面会したの は、 1791 年のことです ) 。 ピョートル三世は、絶体絶 命のプロイセンを救った講 和によってロシア国内で不 人気となり、 1762 年にェカ チェリーナ皇后を中心とす るクーデターにより廃位さ れたのでした。 オイラーは、ロシアに 工カチェリーナニ世 / 2
もらうという形式だったそ うです。 オイラーはまた、ヨハン の息子でオイラーより 7 歳 年上のダニエル・ベルヌー イと友人になりました。ダ ニエルは、流体力学と気体 分子運動論の元祖とも呼ぶ ダニエル・ベルヌーイ べき科学者で、さらに第 1 ルドルフ・フーノヾー筆 章でも触れたように、フー リエ級数の元祖であるとも言えます。ダニエルは、弦の振 動が、ある基本となる周波数の振動と、その整数倍の周波 数の振動の和で書き表されるのではないかと考えました。 振動をサイン波の足し算で書けると考えたわけで、このア イディアはフーリエ級数の先駆けになりました。 ダニエルは、 1725 年にロシアのアカデミーに職を得まし た。 2 年後の 1727 年に、ダニエルの助力によりオイラーも ロシアのアカデミーに職を得ました。当時、科学者のポス トは極めて少数でした。ダニエルはロシアに 8 年間滞在 し、オイラーはロシアの首都であるサンクトペテルプルグ に 14 年間留まりました。 18 世紀には、パリのアカデミーとプロイセンのアカデ ーが科学的問題に関する懸賞を多く出し、オイラーとダ ニエルはともに多くの懸賞で賞を獲得しました。これらの 懸賞には、ヨハン・ベルヌーイとダニエルの親子がともに 応募したことがあり、それにダニエルが勝利したことか
第 2 章複素形式への拡張 ら、ベルヌーイ親子は険悪な関係に陥ったこともあったよ うです。 オイラーは精力的に仕事に取り組む人でした。 1740 年ご ろまでに片目の視力を失いました。本人は作図等の過労が 原因であると考えていたようです。 オイラーは 1741 年にプロイセンのアカデミーに移り、 ルリンに滞在しました。啓蒙専制君主として有名なプロイ センの王フリードリヒ二世 ( 1712 ~ 1786 ) の招きによるも のです。フリードリヒ二世は、 1740 年に王位を継いだばか りでした。王は日常語としてドイツ語を使わずフランス語 を話し、プロイセンのアカデミーの復興や富国強兵に努め ました。また、ポッダムにサンスーシー宮殿を建てたこと で有名です。 当時のドイツは、プロイセンやザクセンなどの小国に分 かれていました。フリードリヒ二世は、 1740 ~ 1741 年と 1745 年にオーストリアとシュレジェンを争って戦争をし、 1756 年から 1763 年にはオース トリアやロシアと七年戦争を 戦いました。七年戦争の末期 には、国力を使い果たしたプ ロイセンは絶体絶命の危機に 陥りました。一時は、オース トリアとロシアの連合軍がべ ルリンにも迫ったので、オイ ラーの生活にも少なからぬ影 響を及ばしたことでしよう。 フリードリヒニ世