356 代の啓蒙主義である。それは歴史を進歩しうるものとみなし、いまだ近代に目覚め ない外部の地域に光を当て導こうとする。近代以前のように神や信仰のために生き ることを否定し、人々が生命を脅かされず個々の財産を築くことを理念とする。 これを論理的な言葉で語ったのがホップスの「自己保存」であり、デカルトの 「疑い得ないものとしての自分」であった。そこからは、自由な経済活動や民主主 義を通じた政治的決定が個人に認められるべき権利だという考え方が生まれてく る。さらに国家は国民の個々人が契約によって形成するものとされ、国家間で合意 ができず紛争に至るとしても、ヨーロッパ内では多国間で勢力が均衡するとみなさ れた ( 勢力均衡論 ) 。 世紀末になると、啓蒙主義は未開の人々に光をもたらすという善意と、うらは らに軍事的抑圧によって利益を搾取しようとする帝国主義とをもって、アジア・ア フリカをも含む世界へと広がっていった。しかし伝搬の過程で啓蒙主義の理念は侵 出先の地域文化から影響を受け、変質を余儀なくされた。帰結として、アメリカに おける自由民主主義とソビエトにおける社会主義が誕生した。そして世界はこの二 極によって分割された ( 冷戦 ) 。
260 自由や民主主義を守るはずのアメリカが、それらを形式化してしまう逆説 アメリカは世界に対して自由や民主主義を守る責任があるーーー一一十世紀に入ると そのような言説が顔を出します。その場合、自由や民主主義の主体は、あくまで一 人の人格的な個人から出発しています。文化や宗教とは別に、それを自覚的に選び 取る主体としての個人が問題となる。この抽象的な個人は普遍的であるとみなしま す。 ところが、アメリカ国内で実際に自由や民主主義がもたらしたものは、多文化主 義のなかで、人々が、それぞれの属する集団独自の民族性や文化を非常に重要なも のと考える姿勢です。そこに自分たちのアイデンティティがあると考える。アメリ カ合衆国というひとつの国にアイデンティティを求めるよりも、自分の属している 民族、文化にアイデンティティを求める。人は、個人である以前に、まずはどこか の集団に帰属して生まれるというのです。 こうして、アメリカの政治哲学上の理念としての自由や民主主義と、それぞれの 文化を重視する考え方の間には大きな溝ができてしまいます。普遍的な文明の理念
し、ここで重要な世界観の転換が生じます。なぜなら、世俗権力が宗教的権威から 自立して主権をもっとしても、ではどうして世俗的な権力が主権をもちうるのか、 このことを正当化しなければならないからです。ここにまったく新しい世界観、政 治観が要請されることになります。 十七世紀のイギリスでは、たとえばホッブズがその意味での新しい世界観を生み 出したわけですが、この新しい世界観を支えるのは、神や信仰のために生きる人々 ではなく、自分の生命の保持、つまり自己保存をもっとも大切だと考えるような個 人なのです。こうした個人が自由な契約を行って社会をつくるのですが、その目的 はあくまで自分の生命や財産の確保にあるわけです。 へ だから、その議論を徹底させていくと、当然、これは人民主権、民主主義になら 璢ざるをえないですね。絶対君主制であるか民主制であるかはそれほど重要なことで すれにせよ諸個人にあるとするほかないのです。 はなく、主権を構成する源泉はり 近 絶対君主といえども王権神授説によって自己正当化できるわけではない。王権も人 章 民の同意、委託を受けることになる。こうして、自由な人々の契約による社会とい 第 う論理を一度受け入れてしまうと、人々が政治的主権をもっという命題はいずれ出
262 えない。実体をもたない単なる言葉になる。しかし、言葉としてはいわば正義の地 位を与えられたものとして絶対的な正義になってしまうのです。つまり、ドグマと なってしまう。ここに、西欧近代の生み出した最大の価値が、二十世紀のアメリカ を経て、普遍化されると同時に形式化され、その内実を失ってゆくという逆説を見 ることかできるでしよ、つ。マックス・ウェ 1 バ 1 が述べた近代化、すなわち形式的 合理性の獲得がもたらす内容空疎な形式化という逆説といってよいでしよう。しか しわれわれは、その「形式」という「鉄の檻ーに閉じ込められてしまうのです。 アメリカ資本主義の変貎ーーー個人的な土地財産から組織的な産業技術へ さて、アメリカ建国の精神のもうひとつの柱は、個人主義的で自由な経済活動で す。端的にいえば、個人主義的な資本主義です。 もともとアメリカは、ヨーロッパからの移民たちが豊かな新天地を求めてやって きた。そして、アメリカには十分な土地があったわけですから、人々は土地財産を 手にして商品をつくり、市場へ出すことでさらに財産を膨らませることができた。 ここには、奴隷の問題をひとまず別にすると、階級的な意味での極端な貧富の差は おり
1 18 (verfall) 」と呼びました。 「人はみなこうしている」と流され、そして不安になる われわれは日常生活のなかで、自分がここに存在している意味など特に気にかけ ているわけではありません。だいたいにおいて、特に目立ったことをしようともせ ず、他人と歩調を合わせているわけです。人間が世界のなかに存在しているという ことは、人は、デカルトやルソーが描いた近代人のように、あたかも抽象的な一人 の個人として生きているのではなく、他人とともにあるということです。その意味 では、人間は「共同存在」であるほかない。 しかし多くの場合、われわれは、自分と他者を突き詰めて区別したり、真剣に議 論したりすることはめったにありません。世界情勢や日本の将来にかかわる何かあ る出来事が起きても、自分でそのことを調べてみたり、よく考えてみるなどという ことさえほとんどありません。また、実際、現代社会では、それだけのことをする のも難しく、たとえば情報を手に入れようとしても、結局、新聞や雑誌などで、他 人の記事や意見を聞かざるをえないですね。
192 「大衆とは心理的事実として定義されるものである。必ずしも個々人が集団となっ て現れる必要はない。われわれは一人の人間を前にして、彼が大衆であるか否かを 識別することができる。大衆とは良い意味でも悪い意味でも自分自身に特別な価値 を認めようとはせず、自分はすべての人と同じであるというふうに感じ、そのこと に苦痛を感じるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見いだして いるようなすべての人のことである」 これがオルテガの定義する大衆なのです。要するに自分は他人と同じである、特 別な人間ではないと感じており、そのことにむしろ喜びを見出す者、それが大衆だ という。しかも、喜びを覚えるだけではなく、自分が特別な者ではないことにこそ 価値があって、そこに政治的権利が発生すると考えている。 自分は特別な者ではない、他人と同じである、というところまではよいでしょ う。しかし、このことが意味するものは、自分は平凡な人間である、凡庸であるに もかかわらず、その凡庸な人間の、凡庸な考え方こそが政治的な権利をもっている ということなのです。大衆とは、自分が凡庸であるだけではなく、凡庸であること に価値があり、凡庸な者の意見が政治的に重視されるべきだと考えるものなので
の将来の経済的な富と深く関わってくる。日本は人口減少社会ですが、世界全体で いえば、まだかなりの勢いで人口は増えている。だから、世界全体で、将来にわた る資源と食糧の確保が「生存」と「自由ーのためにも決定的な課題になっているの です。グローバルな自由経済といっても、実際には国家間争闘の様相を呈している わけです。新帝国主義です。アベノミクスの「第三の矢ーも、そんなところから発 想されている。個人主義的な自由経済とは対極の方向に向かっているわけです。 われわれに身近な話でいえば、大学も同じでしよう。国立大学は十数年前に独立 み行政法人化しました。つまり文科省の管轄を外れた。なぜそうしたかというと、文 と。だから、大 う科省が一律に大学行政をしていては大学の個性を損ないよくない、 学を民営化して自由な競争に委ねよう。そうすれば、もっと自由で個性的な大学が 克 のできるはずだ、ということだったのですね。自分たちで自分たちの予算を取ってき 駈て、自分たちで好きなように使えるようにしよう、と。そして民営化が行われまし た。さあ、国立各大学がどれだけ個性的な大学に生まれ変わったかといえば、まっ 論 附たく正反対の結果を生んでしまった。前よりもっと窮屈で、もっと画一的な大学が できあがってしまったのです。
256 ところが二十世紀、移民社会へと移行するにつれ、多様でバラバラになりかねな ほうせつ 一三ロ ゝ者民族、多文化を包摂するものとして、改めて民主主義が定義しなおされなけれ ばならなくなるわけです。もはや特定のコミュニテイや倫理観と責任感、公共的精 神をもった人々によって支えられる民主主義ではなく、だれもが個人として、その 「私的」人格と関心から出発して政治へ参加する民主主義へと変化してゆく。 これは、民主主義がきわめて形式的に定義されることを意味しますね。形式化さ れることで、それは普遍化されることになる。ここでもまた、民主主義の形式化と 普遍化が生じるのです。それは具体的なコミュニテイや共和主義的な徳や愛国心と いう建国の精神からは切り離され、抽象化されるのですが、この抽象的な理念の普 遍化ゆえにこそ、人類共通の理想という壮大な理念にまでいたってしまうのです。 ウイルソンが掲げた「世界の民主主義」という普遍的理想主義は、ここから生まれ てくるのですね。 こうなると、民主主義の理念も、それを支えていた現実からどんどん遊離してゆ くでしよう。アメリカン・デモクラシーの現実は、相互に信頼でき、ある程度の文 化や価値観を共有している人々のつくる多様なコミュニティによって支えられてい
120 個性が発揮できたなどと得意になったりするのです。 こうしたいわば人々の間の擬似的なコミュニケーションが、われわれの日常の こうして、われわ 「公共性ーもしくは「公衆性ーをつくっているといってもよい れは「世界ー ( あるいは「世間」 ) のなかへと「頽落ーしてしまっているわけです。 では、それではなぜ困るのでしようか。「頽落ーしてしまっても、そのことを意 識せず、日々おしゃべりをして過ごせばいいではないか、というわけにはい、 のでしようか。ところか、そうはいかないのです。どうしてかというと、人間は、 この状態にどうしてもいいようのない不安を覚えるからです。 この不安は明確な対象をもったものではなく、あくまで対象をもたない漠然とし た不安です。たしかにわれわれは、概してだらーっとした日常生活を送り、多少の 好奇心を満たすため他人とおしゃべりをし、世間で起きていることにもそれなりの 意見をもっている。さらにいえば、そこそこ道徳的人間で、人からも多少は敬意を もたれている。しかし、それで自分の人生はよいのだろうか、「本来のー自分のす べきことを怠っているのではないか、という漠然とした不安に囚われるものです。 そして、この不安に囚われることが重要なのです。なぜなら、この不安を突き詰め
いうものであった。それならば文献の量は減り、一個人が通読しうる範囲に収ま る。 そうした立場に対しては、当然、批判の声が上がるだろう。それらの「文献」は いわゆる一般教養であり、大学では基本常識とされるものであって、その先にこそ 専門の学術研究が待ち構えている。「幻世紀とは何だったのか」といった難しい課 題に挑むには、専門の学術を総動員しなければならないのだ、と。 それにもかかわらず著者がこうした叙述を用いたのには、おおよそ二つの理由が あったと思われる。ひとつは佐伯氏自身が冒頭に述べていることで、「現代文明や 現代社会を見る『見方』を提示するーことが本書の目的だからである。それには 「山ほどの文献を読み、該博な知識を身につけるよりも、『現代』という時代の本質 を理解することのほうがはるかに大事ーである。「自分なりの見方、考え方がなけ し力に多くの文献を読み、知識を仕入れても、そこから自分の問題を発見す 説ることはできない」。 解 実はこれは、相当に深刻な問題である。というのも「学術」においては、専門分 野の範囲をあらかじめ制限し、そうすることで細部について正確な分析を進めるこ