178 ル・ボンが問題にした群衆は、実際に街頭に群れて集まり、突発的に行動を起こ す文字どおりの群衆なのですが、二十世紀の大衆社会で問題となるのは、具体的に 目に見えて街頭で群れを成している人々ではありません。彼らは、別に相互に結び ついているわけでもないし、街に出てきて集団となっているわけでもありません。 そこで、これもフランスのジャーナリストであるタルドは、二十世紀初頭の新し いタイプの人間を「公衆」と呼んだ。一一十世紀の大衆社会の主役は「群衆」ではな く「公衆」だというのです。タルドによれば、現代の人々は、集まって結びつくの ではなく、むしろ切り離されてバラバラになっている。公衆は、表面的にはみんな ハラバラに生活している。にもかかわらず、みんな同じような意見をもち、同じよ うな思考をして、しかもお互いに相手に依存し合い、かっ影響し合っているといい ます。 では、それはどうしてか。それをタルドは、「模倣の法則」によって説明しよう とします。人間は、あらゆることを自分の頭で考え、あらゆる行動を自分で決めて いるのではなく、つねに他者を模倣するものだというのです。「模倣の本能」こそ が人間社会をつくっている。自分の意見をもったつもりになっていても、たいてい
194 されるべきだと考えていることになる。これが大衆人の流儀なのです。 社会にはその本質上、特殊であり、したがってまた特殊な才能がなければ立派に 遂行しえない活動があります。芸術もそうだし、行政上の機能とか、公共的な問題 に関する政治的判断などがその例です。一流の企業経営もそうでしよう。一流の教 育者もそうかもしれません。企業経営についていえば、一般従業員は、会社の経営 を優れた経営者の手に委ねようとするでしよう。かっては政治も同様に考えられて いた。これら特殊な活動は能力のある少数者によってなされてきた。 大衆はそのなかに割り込もうとはしなかった。もし割り込もうとすれば、自分が そうした特殊な才能を獲得しなければならず、したがって大衆であることをやめな ければならないことを知っていた。大衆は、社会の健全な力学における自分の役割 を知っていた。かってはそうだった。 ところが、いまやそういう大衆こそが社会の正面に出現し、政治を動かし、社会 を動かそうとしている。彼らは、自分が政治の素人であり、日常感覚の凡庸な判断 しかできないことをむしろ売りにし、政治のなかに素人の日常感覚を持ち込もうと する。主婦の感覚などというものを売りにする政治家も出てくるわけです。こうし
206 資本家と経営者が分離する 現代文明の大きな特徴は大衆化現象にある、というのが本書の立場です。とすれ ば、それは当然、経済生活にも大きな影響を与えているでしよう。実際、大衆社会 の形成は、経済に対する考え方を大きく変えてゆきます。そのことを論じてみまし よ、つ 大衆社会とは、人々が、自己の存在の確かな帰属場所をもたずに、ヾ しかし相互に依存し合いなから、お互いに相手をほんとうに信頼することもできず にいる、そうした社会です。伝統的な共同体や教会を中心としたコミュニティは半 ば崩壊し、確かなものをもはやもちえない。そういう大衆社会化状況というもの か、現代の経済を考えるうえでいかなる意味をもっているのでしようか ーリーとミーンズの述べ 現代の経済を特徴づける現象をひとっ取り上げれば、バ た「所有と経営の分離ーといってよいでしよう。これは、現代経済学ではほとんど 当然のことになっているわけですが、所有と経営の分離とは、生産主体としての企 業の所有者と経営者が分離することです。企業の所有者とは資本家で、企業を実際 ノラバラで、
うですね。小さな会社だから失業しやすいなどということはなく、ときには優良企 業であったはずの大企業で働いているほうが、むしろ仕事を失う可能性が高い場合 もあります。 そして、二十世紀の大衆社会・大企業体制では、あらゆる人が失業するリスクを 抱えており、だれから失業させるかというルールなどっくりようかない。だからこ そ、終身雇用と呼ばれる長期的な雇用の確保が必要とされたのです。長期雇用は日 本独自のようにいわれますが、決してそうではないですね。アメリカでも見られま すし、ドイツなども明らかにそうですね。だから、長期雇用が社会的な要請として 会 社出てくるのは二十世紀の大衆社会であって、これは階級社会が崩壊した結果なので 変 このような状況下で、頼りになるものは何かといえば、お金だけでしよう。しか 済もそれは、いまモノを買うためではなく、将来の生活の安定のためです。土地や相 互扶助的なコミュニテイから切り離された大衆にとって、自分の生活を保障してく 章 第れるものは貨幣だけです。今日、大衆は、つねにそういう生活の不安と不確実性に 晒されている。何かあったときに、自分が帰属する場所、確かな足場になるような さら
だから大衆社会とは、ただ同質の人がたくさん群れているだけではなく、彼ら が、その存在の確かな基盤を失い、相互の有機的なつながりをもたない社会なので す。宗教、教会、地域社会、階級、政党といったものを媒介にしては、人がもう結 びつかないのです。 政治に対する無力感がカリスマ的リーダーを誕生させる こうした大衆は、もはや政党政治の枠には収まらないでしよう。彼らは、もはや 自分たちの利益や主張を代表し、それを定義づけてくれる政党は存在しないという 政治的なアパシー つまりは政治的無力感に陥るでしよう。既成政党に飽き足らな まんえん い無党派層の形成といってもよいのですが、もっといえば、政治的無関心の蔓延で す。 このような状況下で一種のカリスマ的なリーダー、カリスマ性を備えた指導者が 出てくると、大衆は当然ながら、そういうカリスマ的な指導者に惹かれていく。要 するに、カリスマ的指導者が待望されるようになります。 この場合、カリスマ的指導者は、当然、従来の政党政治の枠組みを超えたところ
168 大衆民主主義の登場と政治の大転換 ヨーロッパの近代が行き着いた精神的状況を、本書ではニヒリズムとして理解し ニヒリズムはヨー てきました。そこには、ニーチェやハイデガーが述べたように、 ひた ロッパ産のものであるとの理解があります。キリスト教に深く浸されたヨーロッパ 文化が生み出した、ヨーロッパの近代市民社会そのものがニヒリズム的だというこ とです。そして、このニヒリズム的な精神状況は、より具体的な社会状況と対応し ているのですね。その社会状況とは、大衆社会にほかなりません。 大衆社会とは、すでに述べたように、何よりまず階級社会の崩壊です。しかし、 この階級社会の崩壊という事実は、政治的および経済的な大きな変化を意味してい ます。 それを詳述することはしませんが、基本的なことだけいっておきますと、まず政 治の領域で、普通選挙の実施により民主主義が拡大していく。これは政治の大衆化 にほかなりません。従来の代表制もしくは指導者を軸にした政治の考え方、つまり 代表者が大衆を指導していく指導者型の民主主義から、大衆が参政権も被参政権も
これは考えてみれば、とんでもない仮説ではないでしようか。かっての十九世紀 のヨーロッパには決してなかった考え方です。十九世紀のヨーロッパでは、基本的 に政治を動かす者は優れた指導者であり、知識や判断力をもったエリート層である とされていた。大衆は、その指導者の主観的判断や決断に政治を委ね、指導者が間 違ったときには責任を問われ、大衆は指導者を交替させるーー・・・これが、十九世紀の ヨーロッパ政治の基本的な考え方でした。 これと対比すれば、二十世紀の政治の考え方がいかに変わってしまったかは明ら かでしよう。どちらが良い悪いという問題ではありません。大衆社会は政治の基本 的なあり方を変えてしまったのです。ただ、大衆民主主義がきわめて危険なものを 何 含んでいることは間違いありません。 絵政治の主役が大衆だということは、世界 ( 社会 ) は大衆によって動かされるとい 大うことです。ところが、この場合の世界 ( 社会 ) とは、あくまで大衆が、みずから 章の欲望や野望や情念やら偏見やらを動員して、みずからに都合よく定義した世界 第 ( 社会 ) なのです。しかも、もしもル・ボンやタルドがいったように、集団として の大衆が、一人ひとりの人間がもっているそれなりの合理性や判断力とはまったく
結局、大衆社会といっても、あるいは市民社会といっても、社会を実際に構成す るのは一人ひとりの企業の従業員、サラリー マンです。そして彼らの生活は、物価 水準、賃金水準、雇用状態に依存してくる。したがって、大衆社会にあっては物 価、賃金、雇用を安定させることがどうしても必要になってくる。そうでないと、 大衆社会の経済的基盤はもたないのですね。 大衆社会と大企業体制の蜜月関係 こうした大衆社会の要請と大企業体制は、うまくマッチします。大企業は市場の 会 支配力が強いので、価格形成力がありますね。企業もそれほど大きくは価格を変化 衆 駄させません。とにかくモノをつくって、市場に放り出し、あとは市場が価格メカニ ズムで需要と供給を調整してくれるような十九世紀のメカニズムは働きません。 済 企業の側が、いったいどれくらいの需要が見込まれるのかを予測し、場合によっ 経 章てはマーケティングや広告によって市場動向に影響を与えつつ、生産活動を推進し 第ます。それでも需給が一致しない場合は、価格を変化させるよりも、在庫調整をし て需給を合わせてゆく。特に耐久財のような製造業では、在庫が可能ですし、大企
245 第 6 章経済を変えた大衆社会 ことになるのです。 このムーアやケインズの「哲学」が正当なものかどうか、これは簡単には判別で きません。ただ、それが、まさに二十世紀の大衆化した社会状況のなかで登場して きたこと、このことは無視できません。そしてまた、それが、今日にいたるまで階 層的なもの、エリート主義的なものを保持しつづけている、イギリスという独特の 。これもまた無視できないことなのですね。 社会とも切り離すことができない
同じように資金を配分するバラマキ型の行政になるほかありません。よく日本のメ しい士亠 9 ディアは政府の公共投資をバラマキと批判して、民主主義に反するなどと ) カバラマキはむしろ民主政治であるがゆえに出てくるのです。 これを避けようとすれば、「民主的ーにどこへも同じように利益を配分するので はなく、ある種のヴィジョンや先見性に基づいて、一部のエリートが社会の方向性 を決めるほかはないのです。エリ 1 トが戦略的な投資を決めるほかありません。こ こには、エリート層の指導 ( リーダーシップ ) に対する大衆の信頼がなければなり ません。ォルテガのいう「大衆の反逆ー下では難しい。社会を指導するエリート層 会 社が、社会の先を読み、いまだ到来しない将来を見据え、その将来へ向けて、その社 獸会の本来あるべき姿を実現してゆくのが公共計画です。ケインズが構想したのは、 場当たり的な景気対策ではなく、こうした長期的な、将来の社会像への接近を可能 済とする計画だったのです。 章おそらくケインズには、よい生活、よい社会というもののあるイメージかあっ た。そのよい生活、よい社会のイメージは、大衆の民主的な投票などから出てくる ものではなく、ある意味で、見識のある優れた人間の直感からしか出てこないと考