もしかしたら、まさにすてきなプローチをしているということ自体が一種の政治 的行為であり、そこにこそ彼女の政治家としての斬新さや存在意義があるといいた かったのかもしれませんが、それはかなり深読みでしよう。一般的にいえば、その コメントはその状況のなかでは意味がない。 この場合には、その言葉は何の価値ももたらさない。価値を与える基準にはなら ないわけです。しかし、 いいかえれば、彼女の政治的資質を問題とするような価値 基準がなくなってしまったから、このようなコメントが出てきてしま、つともいえま す。そのテレビ・コメンテータ 1 にとっては、いまの政治状況のなかで田中真紀子 氏を政治的に評価するというパ 1 スペクテイプ ( 視点 ) 、関心、基準がないのです。 これは政治現象の「無意味化にほかなりません。その意味では、無意味になって しまっているのは日本の政治現象そのもので、かのコメンテーターも、その無意味 な状況のなかに置かれているだけのことかもしれません。 ある視点をもっためには、あることが大事であり、あることが二番目に大事であ り、といった基準が必要です。だから、すてきなプローチをしていることが政治的 に大事な行為か否かという判断がどこかになければ、このようなコメントは簡単に
188 の見方なのである」ということになるでしよう。 世論とは事実を集めてそれを検討したものではなく、道徳やら規範という無意識 の枠組みを通して事実を見る、そのひとつの見方にほかなりません。そして、民主 主義とはこのような危うい世論によって支えられ、動かされてゆくものなのです。 世界が大衆によって動かされる危うさ そうだとするなら、大衆民主主義とは何なのでしようか。一体何が政治を動かし ているのでしようか 大衆の考え、大衆の意見がそのまま政治に反映されるべきだとする政治システム を大衆民主主義だとしましよう。大衆が主役であるような政治です。ところが、大 衆の意見が世論に反映されているとするなら、大衆が世界を見たいように見て、そ の世界観に合わせてつくり出された世論を通じて政治を動かすことになります。っ まり、大衆のなかにあるステレオタイプこそが事実上最大の政治的権利をもってい るということになるのです。大衆の集団的な情緒や思い込みが政治を動かすので す。
だから大衆社会とは、ただ同質の人がたくさん群れているだけではなく、彼ら が、その存在の確かな基盤を失い、相互の有機的なつながりをもたない社会なので す。宗教、教会、地域社会、階級、政党といったものを媒介にしては、人がもう結 びつかないのです。 政治に対する無力感がカリスマ的リーダーを誕生させる こうした大衆は、もはや政党政治の枠には収まらないでしよう。彼らは、もはや 自分たちの利益や主張を代表し、それを定義づけてくれる政党は存在しないという 政治的なアパシー つまりは政治的無力感に陥るでしよう。既成政党に飽き足らな まんえん い無党派層の形成といってもよいのですが、もっといえば、政治的無関心の蔓延で す。 このような状況下で一種のカリスマ的なリーダー、カリスマ性を備えた指導者が 出てくると、大衆は当然ながら、そういうカリスマ的な指導者に惹かれていく。要 するに、カリスマ的指導者が待望されるようになります。 この場合、カリスマ的指導者は、当然、従来の政党政治の枠組みを超えたところ
もち、大衆の代表が政治家になる、場合によっては大衆の代表が首相になる、そう いう意味での大衆民主主義の登場です。 もともと、ヨーロッパにおける政治の基本的な考え方は、社会の上層部を形づく る指導者が統治をするというものでした。ですから、民主主義といってもあくまで 代表制が本来の姿で、優れた指導者を選ぶ主体が人民というだけのことです。どう もわれわれは、だれもが自由に政治家になり、大衆の代表として大衆の主張を政治 的に実現するところに民主主義の重要性があると考えがちですが、そういうわけで そうではなく、政治を行う者は、それなりの見識と教養と財産をもったエリート 何 階級から出てくるものだという理解がある。優れた者が大衆を指導することが政治 であるというわけです。それを世襲で選ぶのではなく、人々が選ぶのが民主主義で 大ある。指導者が世襲的に財産や家柄で決まる場合には貴族政、一人の人間が世襲的 章にやる場合には王政となるわけです。これがヨーロッパの民主主義の理解なのです。 第 だから大衆民主主義は、ただ民主主義が拡大したということではなく、民主主義 の思想の大きな変更なのです。もっといえば、政治なるものの理解の大転換です。
170 政治は、一部のエリートが多数を指導するものではなく、多数が多数の意思を実現 する仕組みに変わっていった。大衆民主主義とは、政治家になる側も政治家を選ぶ 側も基本的にはまったく同じであるという前提から出発します。その結果、政治家 とはたまたま人々の利益の委託者、代理者として政治の場に登場しているにすぎな いのであって、大衆を指導するような存在ではない。政治家が大衆を指導するので はなく、大衆が政治を動かすのです。 今日のわれわれが考える民主主義とは、このような意味では明らかに大衆民主主 義ですね。本来、民主主義は指導者型の民主主義であった。十九世紀ヨーロッパの 自由主義的な考え方においてさえ、民主政治はあくまでエリ 1 トによる大衆の指導 だったという事実を忘れてしまっています。 資本家でも労働者でもないサラリーマン層の拡大 経済の面でいえば、これは次の章でも述べますが、階級社会型の経済から大衆の 経済へと移行してゆきます。富の均質化が進行し、階級間での富の格差や資産の格 差、生活スタイルの格差は縮小してゆくのです。大企業組織の登場によって、マル
306 る。これが現代の民主主義なのです。市民主権なり国民主権の民主主義というもの です。だから、自由平等の政治思想からできあがる国家体制というのは民主主義に ならざるをえないし、その政治はどうしても行政サーヴィス化するのです。 すなわち、民主主義とは、価値と切り離された政治制度なのです。一人ひとりの 人間の主観や欲望を超えたと , 、ろに重要な価値がある、という考え方を否定して出 てきた政治思想なのです。政治は、重要な価値については、もう問わない。万人に 与えられた自由平等という権利を価値から分離させ、それをもつばら技術的にコン トロールするのが政治ということになってしまったのです。 このように、科学であれ政治であれ、本来、超越的な価値に包摂され「善」と一 体となって追究されてきたものが、価値から分離独立し、価値を問わないものへと 変容していったのが近代だと、シュトラウスはとらえた。それを彼は「近代のプロ ジェクト」と呼びました。そして、価値判断を放棄した「近代のプロジェクト」運 動は必ずや失敗するだろうと、約五十年前の講演のなかで予言した。私も、この考 えに基本的に賛同します。その後の五十年間を振り返ってみると、現代社会は、大 きくいってシュトラウスが危惧した方向に向かっているのではないかと思います。
これは考えてみれば、とんでもない仮説ではないでしようか。かっての十九世紀 のヨーロッパには決してなかった考え方です。十九世紀のヨーロッパでは、基本的 に政治を動かす者は優れた指導者であり、知識や判断力をもったエリート層である とされていた。大衆は、その指導者の主観的判断や決断に政治を委ね、指導者が間 違ったときには責任を問われ、大衆は指導者を交替させるーー・・・これが、十九世紀の ヨーロッパ政治の基本的な考え方でした。 これと対比すれば、二十世紀の政治の考え方がいかに変わってしまったかは明ら かでしよう。どちらが良い悪いという問題ではありません。大衆社会は政治の基本 的なあり方を変えてしまったのです。ただ、大衆民主主義がきわめて危険なものを 何 含んでいることは間違いありません。 絵政治の主役が大衆だということは、世界 ( 社会 ) は大衆によって動かされるとい 大うことです。ところが、この場合の世界 ( 社会 ) とは、あくまで大衆が、みずから 章の欲望や野望や情念やら偏見やらを動員して、みずからに都合よく定義した世界 第 ( 社会 ) なのです。しかも、もしもル・ボンやタルドがいったように、集団として の大衆が、一人ひとりの人間がもっているそれなりの合理性や判断力とはまったく
140 ていくことにはありません。ただ私が関心を寄せるのは、西欧におけるファシズム の成立は、西欧社会の大衆社会化と不可分である点です。そのあたりのロジックを 追ってみたいのです。 大衆社会とは何かと考えれば、まずは階級が崩壊するということです。十九世紀 ヨーロッパの階級社会が崩壊していく。では、階級が崩壊するとはいったいどうい うことなのか。ここにはいくつかの問題があります。 階級が崩壊することによって、政治の面では政党政治がうまく機能しなくなる。 もともとヨ 1 ロッパの政治は貴族階層が没落したのち、貴族層と手を結んだ資本家 プルジョア階級と労働者階級との間の階級対立から成っていた。むろん、その中間 にはかなり広範な中間階層や各種の専門家層が出てきますが、大きくいえば、富を もった階級と富をもたない階級から構成されています。 ヨーロッパの政党政治は階級関係を前提とし、二つの階級を代表するかたちで政 党が成立したわけです。それぞれの階級の出身者は自分の階級に近い政党を支持 し、政党は階級の利益を代弁し、それを政治的に表現する。そこに、自分たちの政 治的代表という観念が成立したのであって、代表を通じて自己の政治的主張や利益
194 されるべきだと考えていることになる。これが大衆人の流儀なのです。 社会にはその本質上、特殊であり、したがってまた特殊な才能がなければ立派に 遂行しえない活動があります。芸術もそうだし、行政上の機能とか、公共的な問題 に関する政治的判断などがその例です。一流の企業経営もそうでしよう。一流の教 育者もそうかもしれません。企業経営についていえば、一般従業員は、会社の経営 を優れた経営者の手に委ねようとするでしよう。かっては政治も同様に考えられて いた。これら特殊な活動は能力のある少数者によってなされてきた。 大衆はそのなかに割り込もうとはしなかった。もし割り込もうとすれば、自分が そうした特殊な才能を獲得しなければならず、したがって大衆であることをやめな ければならないことを知っていた。大衆は、社会の健全な力学における自分の役割 を知っていた。かってはそうだった。 ところが、いまやそういう大衆こそが社会の正面に出現し、政治を動かし、社会 を動かそうとしている。彼らは、自分が政治の素人であり、日常感覚の凡庸な判断 しかできないことをむしろ売りにし、政治のなかに素人の日常感覚を持ち込もうと する。主婦の感覚などというものを売りにする政治家も出てくるわけです。こうし
す。ォルテガは、それを大衆と定義しました。 政治に持ち込まれた素人の日常感覚 本来、この社会は複雑で、将来はだれにもわかりません。そのなかで政治とは、 自分の一身を超えたところで国や公共のことがらに関してさまざまな配慮をし、未 知の将来に対して重要な決断をする行為です。 ですから政治にかかわるというのは、じつはたいへんなことで、それなりの能力 や見識や、さらには時間をもった人でなければ無理でしよう。これはやはり特殊な 人間であり、判断力や先見性において特別な能力をもった人です。政治に携わると 何 は、少なくとも、それぐらいの自覚と覚吾がいることでしよう。 会 ところが、オルテガのいう大衆は、自分には特別の能力も特別な責任感も覚屠も 大ない。自分はごく平凡な人間で、ほかのだれとも変わりはしないと思っている。し 章かし、だからこそ、この平凡さが政治を動かすことができるというのです。政治と 第は、ごく平凡で平均的な者の、平凡な感覚や思いっきで動けばよいと思っている。 まさにその凡庸な考えこそが政治の場に反映 だから、自分はごく平凡な人間だが、