本書は、「現代文明論 ( 下 ) ーと題されているように、同じ新書からすでに 刊行されている『人間は進歩してきたのかーーー現代文明論 ( 上 ) 』 ( 『西欧近代を問い 直す』文庫 ) の続編にあたる。上巻と同様、京都大学で行った「現代文明総 論」と称する講義をもとにしているが、この講義は、主として一、二回生を対象と した全学共通科目 ( 一般教養科目 ) のひとつで、現代文明への導入という意図をも ったものだった。 一、二回生向きという講義の性格からして、特に予備知識は必要とはしていな 、 0 教養科目の課題は、多くの場合、専門科目へ進む前のイントロダクションとし て、基本的な知識の習得を目指す場合が多い。しかし、私の講義はそうしたもので はなく、むしろ、どうして「現代文明を問題にするのかという、その問題意識を 覚醒したいとの意図をもつものだった。 はしか、さ
248 現代文明としてのアメリカ この最後の章では「アメリカ」を取り上げたいと思います。もっとも「アメリ 力、といっても、アメリカという国そのものを論じるわけではありませんし、ま た、アメリカ社会論をやろうということでもありません。この講義のなかでアメリ 力を取り上げるのは、現代社会や現代文明を考えるうえでアメリカが決定的な重要 性をもっているからです。それもアメリカが強国だとか大国だというからではな く、現代文明のある重要な局面をアメリカが典型的に象徴しているからなのです。 ですから、あくまで「現代文明としてのアメリカ」が関心の対象です。 アメリカが現代文明の主役として躍り出てくるのは第一次大戦をきっかけにして ですが、それはただヨーロッパからアメリカへの「カ」の移行というだけではな く、アメリカ社会そのものの大きな変化でもあったわけです。 このあたりのことについての私の考えは、『「アメリカニズムーの終焉』プ リタニカ一九九八年、中公文庫二〇一四年 ) や『新「帝国 , アメリカを解剖する』 ( ち くま新書、二〇〇三年 ) にも書きましたので、それらを参考にしていただきたいの
330 枯渇させる。今、ヨーロッパはそういう衰退の段階に入ったのだ、と。 言い換えるならば、創造的なものは本来「文化のなかにしかないということな のです。歴史的伝統に根ざして cultivate されて初めて、その国独自の創造的な 「文化」が育っていく。そのためには、「文化」を育てていく国民的精神のようなも のが必要だ。しかし、「文明ーが世界を席巻するようになると、技術的な関心が支 配し、「文化ーを育てる国民的精神が衰弱してくる。そうなると、その国の文化は 衰弱してくる。そして、最終的には、その国力までも弱めることになる。 ですから、シュペングラーからすると、ヨーロッパ近代がつくり出した「文明 を、つまい具合に利用しているのかアメリカとい、つことになるのでしよ、つね。アメリ 力という国は、歴史が浅く「文化」の力が弱い国です。時間をかけて何かを熟成し ていくという伝統があまりない。そうではなく、伝統を破壊し、新しいものを生 み、それを普遍化してゆく。この革新と進歩にアメリカは非常に強い情熱を傾けま すね。常に世界標準を作り出そうとする。世界化しようとする。これは「文明ーで す。まさに、イギリスに代わってアメリカか台頭してきた二十世紀は、「文化ーか 「文明」に圧倒され衰弱していく時代に変わってしまった。ヨーロッパ文化が文明
294 しない。あるいは探そうにもそれを見失ってしまっています。自分の親しい場所、 自分が安らかになれる場所をもたないのです。マクドナルドへ入ると、ちょっとは ホッとするかもしれないけれど、とても神々とともにいるという感じはしないです ね。 われわれは、少なくとも、意図的な故郷喪失者である必要はない。現代文明があ らゆる人間を故郷喪失者としてしまうことは事実ですが、少なくとも、それを賞賛 することはニヒリズムにいっそう深く囚われることだという程度の自覚は欠かせな いのです。 そうだとすれば、われわれは、現代文明の典型であるアメリカ文明に対して、も リズム、情報革命と っと警戒すべきなのです。自由や民主主義の普遍性やグロー いった観念に対して、もっと懐疑的でなければなりません。現代社会では、ニヒリ ズムを克服することは不可能だとしても、それをうまくやり過ごす術くらいは身に つけなければやってゆけません。そして、そのためには、われわれの置かれたこの 現代文明というものの本質を認識するところから始めるほかはないのだと思いま す。
蓄積していく渦中にあった。これをもたらしたのは他でもない、近代社会によって 産み落とされた自由平等や合理主義といった理念であり、その根幹をなす人間中心 主義。だから、こういった近代の理念を堅持していけば、ヨーロッパ文明は進歩し つづけるに違いない、と。 ところが、二十世紀初頭には、 非ヨーロッパ社会からの逆襲を受け、そういった 考えが幻想に過ぎなかったことが明らかになるわけですね。ヨーロッパの人びとが 相当なショックを受けたことは、シュペングラーの『西洋の没落』が全ヨーロッパ みで大評判になったことからも窺い知ることができます。この本、非常に大部で、し かも難解なのですが評判になった。西洋は進歩どころか没落しつつあるのではない か、という危機意識がヨーロッパ人の間に広範に存在したからでしよう。 克 超 この書のなかでシュペングラーが論じていることの要点は、一点に尽きます。 の 駈わく、文明は一直線に進歩するのではなく、四季のごとく、春が来て夏が来て秋が 一来て冬が来て一つの文明が没落していく。そして今、ヨーロッパは冬に入りつつあ 附る。没落に入りつつあるのだ、と。 シュペングラーの考え方で興味深いのは、「文化ーと「文明ーを対立させてとら
本書は、あくまで、私の見方を提示したものだ。しかし、それは「現代ーを理解 するうえで欠かすことのできない決定的な論点だと考えている。西欧社会の生み出 した近代主義が私たちをどこに連れてきたのか、その点についての歴史的で文明論 的な見取り図を描くことこそが、「現代を理解するカギだと思っているからであ る。 前著『人間は進歩してきたのか』 ( 「現代文明論 ( 上 ) 」 ) では、「現代ーというより は、むしろ西欧の「近代」を扱った。西欧近代社会がどのような条件のなかから誕 生したのか、それがどのような意味をもち、いかに変容したのかがそのテーマだっ この場合、特に た。「西欧近代とは何か、とひと言でいってもさしつかえない。 ゝこ一定の見通し ( パース 「近代ーに焦点を当てたのは、「近代とは何かーというしし ペクテイプ ) を与えなければ、そもそも「現代文明ーなど理解できないからであ る。なぜなら、「現代ーとは、何よりまず、西欧が生み出した「近代」の延長上に、 しかもその変形として存在しているからだ。 「現代ーの文明や社会を論じる本書は、一応、独立した形式をとっており、別
同じようなことは、自由や民主主義といった理念についても一言えます。もともと は、「自由ーも「民主主義ーも、ヨーロッパ各国に固有の土壌から発生しています。 フランスは、フランス革命のなかで「自由・民主主義ーという概念を打ち出す。イ ギリスは、もっと長い歴史のなかでピューリタン革命や名誉革命を経験しながら、 イギリスなりの「自由、平等」という考え方を打ち出していく。スイスはスイス で、非常に共和主義的な伝統を背景に「自由ーという観念を示していく。どれも各 国固有の文化のなかから誕生しているのですね。ところが、「万人は生まれながら み にして自由や平等といった基本的権利を有する、と宣言された途端、それぞれの 試 、つ 「文化」的土壌を飛び越えて「文明。に変わってしまった。概念が抽象化された結 果、普遍化された「文明ーに変わるのです。 克 のそれがなぜ問題なのか。シュペングラ 1 は、こんなふうに語っています。 代 近 ヨーロッパの「文化」は素晴らしいものを生み出してきた。近代的な様々な理念 一や制度、技術。それらは普遍化され、どこにでも通用する汎用性を持った「文明」 附 になった。ごか、 オ、その「文明」こそが、その生みの親である「文化」の衰退をもた らすのだ、と。すなわち、次から次へと新しいものを生み出す創造的エネルギーを
ムですね。 それに対して、ファシズムはもう少し違ったファクターを持ち込んでいます。純 粋な民族とか、あるいは人種の観念です。 民族や人種と「ネーション」、つまり国民は必ずしも同一ではない。微妙ですが、 その点をどう理解するかがファシズムを読み解くひとつのポイントになってくるで しよ、つ。このことは、またのちほど論じましよ、つ。 そういうわけで、われわれが通念として何となくもっているファシズムについて の の思い込みを、ここではひとまず捨ててもらいたいと思います。 生 ム 階級の崩壊がファシズムを生み出した ズ シ どうしてファシズムが、二十世紀の現代文明において大きな問題となるのか。そ フ の基本的な理由は、それが現代文明の本質と深くかかわっているからです。では、 章この場合の現代文明の本質とは何かというと、大衆化もしくは大衆社会の到来、そ 第して、その精神的表現ともいうべき広範なニヒリズムにほかなりません。 ここでの議論は、ナチズムやらイタリアのファシズムの成立経緯を歴史的に追っ
空 PHP 文庫好評既刊 国民の文明史 中西輝政著 歴史を動かしている真の要因は何なのか ? 現在を生きる私たちにとって本当に必要な 日本文明史を真正面から論じた渾身のカ 作。 定価本体一、一〇〇円 ( 税別 )
れは、アメリカ以外のどこからも出現しえないという意味ではきわめてアメリカ特 殊的であるのですが、まさにそのことによって世界化が可能となっているわけで す。 これはアメリカ文明のある本質を突いていて、技術主義と方法化によって、特定 の文脈に囚われない普遍性を獲得しようとすると、それが本来置かれている場所、 コンテクストを失ってしまう。マクドナルドはもはや、それが最初に発生した場所 やコンテクストには収まらない。 その意味で、技術主義、方法化は脱文脈化を図ります。コンテクストを逸脱して いく。コンテクストを逸脱していくことによって、普遍化しようとする。脱文脈化 しってみれば、どこにでもあるものでありながら、どこにも定着しな のしたものは、ゝ 文 いものです。一種の故郷喪失者といってもよいですね。ですから、 刈アメリカ文明が生み出した現代文明の大きな特徴はまさに故郷喪失であり、故郷喪 失による普遍化なのです。故郷喪失者である , 、とが、同時に普遍化につながるとい 章 第う構造になっているということなのです。 そしてじつは、移民社会であるアメリカこそは、巨大な故郷喪失者の集合体とい しし力、んると、