206 資本家と経営者が分離する 現代文明の大きな特徴は大衆化現象にある、というのが本書の立場です。とすれ ば、それは当然、経済生活にも大きな影響を与えているでしよう。実際、大衆社会 の形成は、経済に対する考え方を大きく変えてゆきます。そのことを論じてみまし よ、つ 大衆社会とは、人々が、自己の存在の確かな帰属場所をもたずに、ヾ しかし相互に依存し合いなから、お互いに相手をほんとうに信頼することもできず にいる、そうした社会です。伝統的な共同体や教会を中心としたコミュニティは半 ば崩壊し、確かなものをもはやもちえない。そういう大衆社会化状況というもの か、現代の経済を考えるうえでいかなる意味をもっているのでしようか ーリーとミーンズの述べ 現代の経済を特徴づける現象をひとっ取り上げれば、バ た「所有と経営の分離ーといってよいでしよう。これは、現代経済学ではほとんど 当然のことになっているわけですが、所有と経営の分離とは、生産主体としての企 業の所有者と経営者が分離することです。企業の所有者とは資本家で、企業を実際 ノラバラで、
所有と経営の分離がもたらしたもうひとつの変化は、大企業組織の登場です。こ れは、石油という新しいエネルギー資源に依存した現代の大規模な重化学工業には 不可欠でした。 同時に、前にも述べましたが、経営者による組織の専門的なマネージメントが登 場しますね。一一十世紀の経済上の最大の出来事は、経営者という組織の専門的マネ ジャーの登場といってもよいかもしれません。特に現代のように、 OQO などと 呼んで最高経営者に与えられている権限と社会的な評価を考えれば、一一十世紀にも っとも成功した職種は経営者でしよう。 会 企業組織の登場は、資本家と労働者の対立という資本主義の観念を大きく変えて 衆 駄しまいました。経営者の登場、いわば「経営者革命」によって、マルクス主義の期 皴待する社会主義革命は潰え去ったわけです。経営者の基本方針が社会の方向を決め 済るのであって、資本家と労働者の階級対立が社会の方向を決めるのではないので 第大企業組織が出てくると、多くの人が会社に雇われて生計を立てる。そこから、 似たような生活形態をもって、似たような価値観をもつ中間層が出てくる。彼らは
本書は、あくまで、私の見方を提示したものだ。しかし、それは「現代ーを理解 するうえで欠かすことのできない決定的な論点だと考えている。西欧社会の生み出 した近代主義が私たちをどこに連れてきたのか、その点についての歴史的で文明論 的な見取り図を描くことこそが、「現代を理解するカギだと思っているからであ る。 前著『人間は進歩してきたのか』 ( 「現代文明論 ( 上 ) 」 ) では、「現代ーというより は、むしろ西欧の「近代」を扱った。西欧近代社会がどのような条件のなかから誕 生したのか、それがどのような意味をもち、いかに変容したのかがそのテーマだっ この場合、特に た。「西欧近代とは何か、とひと言でいってもさしつかえない。 ゝこ一定の見通し ( パース 「近代ーに焦点を当てたのは、「近代とは何かーというしし ペクテイプ ) を与えなければ、そもそも「現代文明ーなど理解できないからであ る。なぜなら、「現代ーとは、何よりまず、西欧が生み出した「近代」の延長上に、 しかもその変形として存在しているからだ。 「現代ーの文明や社会を論じる本書は、一応、独立した形式をとっており、別
248 現代文明としてのアメリカ この最後の章では「アメリカ」を取り上げたいと思います。もっとも「アメリ 力、といっても、アメリカという国そのものを論じるわけではありませんし、ま た、アメリカ社会論をやろうということでもありません。この講義のなかでアメリ 力を取り上げるのは、現代社会や現代文明を考えるうえでアメリカが決定的な重要 性をもっているからです。それもアメリカが強国だとか大国だというからではな く、現代文明のある重要な局面をアメリカが典型的に象徴しているからなのです。 ですから、あくまで「現代文明としてのアメリカ」が関心の対象です。 アメリカが現代文明の主役として躍り出てくるのは第一次大戦をきっかけにして ですが、それはただヨーロッパからアメリカへの「カ」の移行というだけではな く、アメリカ社会そのものの大きな変化でもあったわけです。 このあたりのことについての私の考えは、『「アメリカニズムーの終焉』プ リタニカ一九九八年、中公文庫二〇一四年 ) や『新「帝国 , アメリカを解剖する』 ( ち くま新書、二〇〇三年 ) にも書きましたので、それらを参考にしていただきたいの
「近代」と「現代」の違いとはーーー西欧を中心にして世界を語れなくなった時代 そもそも「近代」と「現代ーはどう違うのでしようか。じつは、あまり正確な区 別はありません。 英語では、近代は「モダン」ですが、現代はというと「コンテンボラリー」とい ったり、「レイト・モダンーとい、つことになるでしよ、つ。とはいえ、「コンテンボラ リー」とは本来は「同時代」という意味で、ここでいう「現代とはちょっと違い ますし、「レイト・モダン」では、両者の大きな差異についてうまく表現できませ ん。しかし、一般的に「現代ーといったときには、十九世紀とは区別された意味で の二十世紀を指すのがふつうでしよう。 もちろん二十世紀社会といえども十九世紀社会の延長上にあり、その上に成立し ているわけですが、それにもかかわらず両者をあえて区別するのは、ここに大きな 断絶があると解釈できるからです。より正確には、十九世紀と二十世紀の間にはあ る種の連続と断絶がある。そのうえで、強いていえば、断絶のほうを強調してみた いとい、つことです %
を満たすために生み出した宗教や道徳律がキリスト教であり、近代社会もその変形 にすぎない。その意味で、ヨーロッパの近代社会はキリスト教共同体の焼きなおし せん なのですね。二番煎じの第二幕ということです。 しかし、ニーチェはそのような社会を間違っているとはいいません。彼はどうい う社会が正しいか、どういう社会が間違っているかという議論はしない。道徳律を 否定するニーチェからすれば、そういう議論はできないのです。あるものが正し い、あるものが間違っているとの価値判断は、一種の道徳破壊者であるニーチェに はいえない。だから彼は、これは不健康である、キリスト教社会は病気である、近 代人は病人である、というのです。 近代社会の模範的市民とは、じつは病人である。彼からすると、現代のヨーロッ パ人はすべて病人だということになる。彼の唯一の道徳的判断は、病人であるより 健康なほうがよいだろうということなのです。弱者のルサンチマンが生み出す道徳 より強者が切り開く価値のほうがより健康的だろうというのです。 ニーチェの議論の破壊力、影響力は二十世紀のヨーロッパではたいへんなもので した。ウェ ーやハイデガーへの影響、ポスト・モダンにいたる現代のさまざま
著者紹介 佐伯啓思 ( さえき・けいし ) 1949 年奈良県生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学大学院経済 学研究科博士課程単位取得。滋賀大学経済学部教授などを経て、 現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専攻は社会経済 学、社会思想史。 おもな著書に「隠された思考』 ( 筑摩書房、サントリー学芸賞 ) 、 「「アメリカニズム」の終焉』 ( T B S プリタニカ、東畑記念賞 ) 、 「現代日本のリべラリズム」 ( 講談社、読売論壇賞 ) 、「「欲望」と 資本主義」 ( 講談社現代新書 ) 、『反・幸福論』「日本の宿命』「正 義の偽装』 ( 以上、新潮新書 ) 、「アダム・スミスの誤算」「ケイン ズの予言』 ( 以上、中公文庫 ) 、「西欧近代を問い直す』 ( p H p 文庫 ) など多数ある。 20 世紀とは何だったのか P H P 文庫 西洋の没落とグローバリズム 2015 年 3 月 17 日第 1 版第 1 刷 京都本部 発行所 発行者 著者 〒 601-8411 京都市南区西九条北ノ内町 11 普及一部谷 03-3239-6233 ( 販売 ) 文庫出版部容 03-3239-6259 ( 編集 ) 東京本部〒 102-8331 千代田区一番町 21 株式会社 P H P 研究所 小林成彦 佐伯啓思 PHP INTERFACE http://www.php.co.jp/ 組版 印刷所 製本所 ⑥ Keishi Saeki 2015 Printed ⅲ Japan 有限会社エヴリ・シンク 図書印刷株式会社 落丁・乱丁本の場合は弊社制作管理部 ( 谷 03-3239-6226 ) へご連絡下さい。 送料弊社負担にてお取り替えいたします。 ISBN978-4-569-76306-4
本書は、別に大学の初学生を対象にしたものではなく、現代文明や現代社会に関 心をもつ一般の読者に向けたものだが、やはり講義の性格はそのまま保持されてい るだろう。上巻と同様、本書も決して網羅的で包括的な知識を提供しようというも のではなく、また、ある特定の問題に焦点を絞ってそれを専門的に掘り下げようと いうのでもない。本書で論じ、展開していることは、あくまで私なりの現代文明や 現代社会を見る「見方ーを提示することである。 今日、私たちは、あらゆる意味で、情報洪水のなかを漂流しているといってよい だろう。学問も同様で、たとえば二十世紀の出来事や思想といった途端に、山ほど しょ - つりよう の文献や資料が押し寄せてくる。それらを隈なく渉猟するとなれば、文献を読む だけでたいへんな作業となるだろう。 だが、私には、昔からある種の偏向があって、文献を隈なく渉猟することにはさ して関心がなく、それよりもある問題に対して、自分なりにどのような見通しを立 て、いかに考えるかという方向へ思考が向かうのだ。いまだに私の理想をいえば、 文献としては、たとえば岩波文庫の古典と中央公論の「世界の名著」、それに二十 世紀の古典がいくつかあれば十分であって ( いや、それだけでも十分すぎる ) 、それ
たされるわけで、そのことが、個人のもっているお金を金融市場に流し込んでいく のです。いいかえると、個人の生活の安定性は、金融市場の動向にかかってくるわ けです。個人の生活はもはや、金融市場から切り離されなくなってしまう。これ が、現代経済が大衆社会を前提にしている基本的な理由といってよいでしよう。 現代経済は政府が管理していかなくてはならない , ーーケインズの理論 さて、こうした現代経済の構造を的確に見抜いていたのがケインズでした。ケイ ンズは、むろん、一九三〇年代の大不況を克服するために、財政政策の重要性を説 会 いたことできわめて有名ですね。今日でもケインズ政策と呼ばれる、財政・金融政 衆 駄策による経済の活性化は現代経済の基本となっています。 、ん 変 しかし、実際には、一九三〇年代当時でも、景気対策としての財政政策は知られ を 済ていました。別にケインズの発見というわけではありません。ケインズの新しさ は、まさに二十世紀の大衆社会の経済の構造を見抜き、その展望の上に立って、ま 章 第ったく新しい経済のヴィジョンを提示した点にあります。 ケインズは一八八三年に生まれて一九四六年に亡くなった、イギリスを代表する
ところがもうなくなってしまった。そうだとすれば、確かなものは貨幣しかありま せん。人生の難局における確実な救済手段は、かろうじて貨幣だけでしよう。 その意味で、大衆社会とは、比喩的表現でいえば、一種の巨大なユダヤ社会のよ うなものです。帰属する領土や存在の確かな場所をもたないユダヤ人にとって、い かなる場所にあっても、生存を保障する確かな手段はお金でしかなかった。同様 に、現代の故郷喪失者である大衆にとって、生を確保する確かなものは、お金でし かないわけです。 そして、この将来の生を確保するために貨幣をもつ行動は、現代の経済に大きな 影響を与えています。もっとも、端的にいえば、土地財産やコミュニテイから人々 が切り離され、彼らの生が市場という不安定な世界でしか担保されえなくなったと いう事実、そして、その不安定な生を確保するために、確かなものが貨幣でしかな くなったという事実、まさにこのことが、現代の経済にあって失業を生み出す理由 となっているのです。 そして、お金をいまどのようなかたちでもっか。たとえば銀行の定期預金なの か、あるいは株を買ったり国債を買ったりするのか、こういう選択の前に個人は立