200 ら、 引き上げた網の手入れをしていた網男が、笑顔で彼を振り返る。 「なんだい、兄貴」 ゆったりと揺れる波と波とのあいだ。 兄弟ふたりが向かい合う。 しはし、やさしいまなざしで網男を眺めた船男が、 「これを、いっしょに飲んでくれねえか ? 」 「え ? そう言って、片手をさし出した。 船男が手にしているのは、水筒だ。 それは網男が稚児ヶ島から〃美少年之泉みの水を入れて持って帰ったときの。 目をまるくして網男は兄を見つめている。 「残り、捨てたんしゃあなかったのか ? 兄貴」 そう訊かれて、船男が照れたように目をほそめた。 波の向こうにポツンと浮いている稚児ヶ島を眺めて、遠いむかしを思い出す顔になりなが 「オレはな、こう見えても、だいぶ長生きをしてきた人間なんだ」 め息混しりにそんなことを打ち明ける。
182 「骨なのさ、ムッシュウ」 もはや目的不明の泥仕合が続行中だ。 苦難のすえに、ついに伝説の稚児ヶ島を制した剣たち一行を、『兄弟丸』から飛び降りて走 ってきた網男が満面の笑みで迎えて、 「ありがとう、あんたたち ! おかげで兄貴の目が覚めたんだ。今夜は村で大歓迎するよ。タ イでもヒラメでも、腹いつばい好きなだけ食っていって ! 」
『兄弟丸』は、しゅうぶんな減速もしないままで港に突っ込んだ。 衝突ギリギリでとまった船から、弾き出されたような勢いで網男が飛び降りる。 いちもくりようぜん ほおこ、っちょう 息をきらし、頬を紅潮させて、だれが見ても一目瞭然の必死な表情。 取るものも取りあえす家のはうへと駆けていく姿に、周囲の老漁師たちが何事だろうと目を まるノ \ した。 けんめい 「なんだなんだ ? 沖で大物が上がったにしちゃあ、えらく一生懸命な顔だな」 「ああ。船の扱いといし 、どうも様子が変だった。なあ、だれかつ。網男ん家へ、様子を見に 行ってやらねえか ? 」 ふつうではないぞと口々に言い合った老漁師たちが、こぞって彼のあとを追う。 坂道を駆け上がる網男が胸に抱いているのは、 「兄貴・ : : ・」 稚児ヶ島から持って帰った、水筒だ。 ろ 落としてなるものかと大事に胸に抱え、息をきらして坂道を上がっていく。 る ン「兄貴、待っててくれよ。頼むから、死なないでくれよっ」 ケ ウ 稚児ヶ島から港まで。 港から家まで。 さして大きくもないはすの隔たりが、どうしてこんなに遠く感しられるのだろうと、これま はじ
204 「兄貴 ! 」 稚児ヶ島の眠る青い海に、『兄弟丸』が漂う。 その向こう。 輝く波間に、よくよく見れば、なにやら黒く小さい点が見えていた。 もてあそ 寄せては返す大小の波に弄ばれながら、その漂流物はドンプラコッコと海の上を流れてい さまよ いっそう どうやら身を寄せるべき港を求めてひたすら彷徨う、一艘の小さな舟らしい いや、目を凝らしてみれば、舟ではなくイカダだ。 ごくごく単純な造りに、帆が一枚。 色はローズピンク。 ペイントされている文字は、〃インチキみ 乗っているのは、 ほっほっはつほっはっー 「は だれがなんと言おうと筋肉よ いさぎよ たくま からだ せいかん 潔い五分刈り、逞しい身体に革のライダーズ・スーツ、精岸な顔にサングラスの、ムッシュ ウ黒ポスだ。 どうやらあのあと、インチキ・イカダで稚児ヶ島を脱出した模様。 めがね 波間を漂いつつ、お鑑にかなう救助を求めているようであるが、 0 0
とうにお世話になりました」 見た目的には一一十代そこそこ。 や ふうぼう いかにも海の男らしい日に灼けた肌と、頼もしい風貌。 青年漁師船男は、年齢のわりに礼儀正しく落ち着いた物腰の男だった。 網男とふたりして仲良く席を並べているところは、長年親しく暮らした本当の兄弟のよう で、もとが赤の他人とはとても思えない。 「ありがとう。ほんとに、ありかとう。あんたたちには、 ) しくらお礼を言っても足りないよ。 兄貴の命の恩人だ」 e シャツの袖で涙を拭きながら、網男がしきりに繰り返す。 その彼に向かって、 「いいや。それほどの活躍でもなかったのさ、ギャルソン」 いじゅういん ほほえ シマシマ水着の伊集院が、だれよりも得意気に微笑んでいた。 がけ 夜も更け、剣たちが引き上げてきたのは、崖の上の伊集院家の別荘。 しつじ みかさやまうやうやあるじ ギリシャ神殿風玄関で、執事の三笠山が恭しく主と客とを出迎えた。 つつじ 「お帰りなさいませ、躑躅坊ちゃま。ご無事でのお戻り、なによりでございます。ところで、 ふ そで ふ
156 うら では気にもかけなかった距離を恨む顔だ。 いしだたみ 石畳の坂を駆け上がって、家のまえ。 「兄貴っ ! 」 叫んで飛び込むのは、開けつばなしの玄関である。 あとから、心配顔の老漁師たちが、 「おいおい、押さないでくれ」 「網男はどうした、網男は ? 」 ハラバラといっしょに駆け込んできた。 西日の射し込む部屋のなか。 ふとん 敷かれた布団には、もう何日も目覚めない網男の兄が、相変わらす目を閉したままで横たわ っている。 片方の靴は蹴り落とし、もう片方は足につつかけたままで畳の上に上がり込んだ網男は、兄 のそばへと転がるように駆けつけて、 「兄貴っ : : : なあ、兄貴 ! お願いだ。死なないでくれよっ。オレ、言いつけを破って島へ行 ってきたんだ。駄目だって言われてても、どうしても : : : どうしても兄貴に、これを飲ませた くって ! 」 しか 言いつけを聞かなかったといって怒るのなら、目を開けて叱ってくれよ、と。
両想いかと訊かれて、またもや朱雀は無言だ。 ぶあいそう 無表情かっ無愛想にその質問を聞き流す。 悲しい顔をした網男の目には、いつばいに涙が溜まっているようだ。 「オレ、わかるんだ」 そで わかるんだ、と美少年漁師はシャツの袖で目もとを拭いて、 「オレ、小さいころから身寄りがなくってさ。この港ではしめて兄貴に会って、なんでだかす でし ぐに、ようやく会えた、って : : : 思ったんだ。兄貴にとっては、ただの漁師見習いの弟子かも しれなかったけど、オレにとって兄貴は家族よりも大事な人になったんだ。なのに、そんな兄 貴が突然倒れちゃって、どうしていいかわからなくって。ほら、あの子 : : : あんたの友達は、 あんたが腕に怪我しただけで一生懸命だろ ? もしも眠ったまんま起きなくなったりしたら、 ろいまのオレと同しくらい必死になるに決まってる」 る のど ン「そうだよ。兄貴が倒れてからは、オレ、ロクに食事も喉を通らないくらいだった。あの子 ウも、あんたが倒れたりしたら、きっと」 「それはねーな」 「え ? 」
136 「なんでもねー」 「兄貴の病気 : : : お医者には、原因不明だって言われたよ。村の爺さんたちからは、きっと寿 命だから静かに見送ってやれって。でも、どうしても、あきらめられないんだ。もしもオレの 命を半分、兄貴にあげられるっていうんなら、迷わずあげる。もしも、危ない目に遭って薬を 取ってきたら、その薬で兄貴が治るっていうんなら : : : オレ、どんな危険な場所にだって行 く。オレ : : : オレは : : : つ」 一生懸命になるあまり、網男は声をつまらせる。いったん拭いた涙が、また大きな目からあ ふれ出しそうになっていた。 怪我の痛みに顔をしかめた朱雀が、溜め息をついて、 「つつーか、そんならそれで : : : 」 それならそれで話をしてくれればいいだろう、と。 言おうとして口を開いたところへ、 「うひや っリ朱雀朱雀朱雀朱雀つ。骨だ骨だ骨だぞっ」 分かれ道の一方から、バタバタと凄まじい勢いの足音が戻ってくる。 骨だ骨だと騒ぎながら駆けてくるのは、剣である。 駆け戻ってくるやいなや、がばつ、と朱雀のくびにすがりつき、 「なあなあなあっ、大変だぞっー 骨があったぞっ。奧まで行ったらなんか踏んじゃって、懐 すさ
玉蘭村の山側の斜面。 いまにも屋根が崩れそうな小さな家が一軒、他からは少し離れてポツンと建っている。 あみ 玄関のおもてには、物干しにかけて広げられた網。 窓には暗めの電灯の明かり。 一一間きりの、その家のなか。 「兄貴・ : ・ : 」 ふとん あみおた 敷かれた布団に横たわる男の顔をのぞき込んで、網男が溜め息をついていた。 「お願いだよ、兄貴。頼むから目を覚まして。こんなふうにオレをひとりつきりにしないでく れよ。お願い」 かが せいかんふう 屈み込む網男が話しかける相手は、日に灼けた肌の、いかにも漁師が似合いそうな精悍な風 ぼう からだ 貌の男だ。横たわっていてもわかるガッチリとした身体つきで、船に乗って網を投げればさぞ かし絵になることだろ、つ。 たまらんむら
202 「オレも : : : だれも身寄りがなくって寂しかったところを船男兄貴に拾ってもらって、はしめ て生きてて良かったなんて思ったんだ。やっと探してた人に会えた、って : : : なんだか生まれ るまえから知ってる大事な人に会えたみたいだって、兄貴のことを思ってた。だから : : : 」 とっても嬉しい、と。 フタに注がれた不老長寿の水を見つめて、コクとうなすく、網男である。 そんな彼を見守る船男が、もう一度、稚児ヶ島のほうを眺めて、ほっり、と一 = ロう。 「もしかしたら : : : おまえが、生まれ変わりなのかも知れないな」 「え ? 」 「でも、そうじゃなくっても、かまわねえ。オレはいまから、生まれ変わったような気持ちで おまえと生きるんだ。あのな、網男。この水は百年に一度湧くんだよ。効き目もきっちり百 年。それを半分にするから、飲んだらもう約五十年すっ長生きってことになる。昨日オレが少 ) くらいだろ し余計に飲んでるが、もともとのおまえの寿命のぶんとでちょうど釣り合いがいし う。ずうっといっしょに船に乗って、魚をたくさん獲って仲良く暮らそうな」 「うん。そうしよう」 船男は水筒を、網男はフタをそれぞれの手に持って、乾杯だ。 ふたりそろって〃美少年之泉みの水を、一気に飲み干す。 「網男」