1945 年行歳四歳第 2 次世界大戦終わる。 1946 年歳歳ワリッワ、ロンドンの海軍本部の科学喋報部に配属される。 1947 年歳引歳ワトソン、、ンカゴ大学を卒業、インティアナ大学の大学院へ入学。 ワリッワ、ドリーンと離婚し、ケンプリッジ大学のストレンジウェ イズ研究所 ( 組養研究所 ) で研究 ( 5 年 ) 。 1948 年歳歳ワトソン、ルリアの講義を聞き研究室へ入る。 1949 年歳歳ワリッワ、オティールと再婚。ワトソンは OZ< に興味を持つ。 1950 年歳歳 5 月ワトソンは微生物の遺伝の研究で主号を取得、テンマーワ のコペンハーゲン大学へ留学。ワリッワ、ケンプリッジ大学のキャ ヴェンティッ、ンユ研究所へ入り、タンパワ質の構造を研究。 1951 年歳歳 5 月ワトソン、ナホリでウイルキンスの講演を聞く。 9 月ワトソ ン、ケンプリッジ大学キャヴェンティッシュ研究所へ移り、ワリッ ワと出会う。一一人は OZ< の重要性で意気投合、 OZ< の分子模 型を作ろうと決心。們月末ガら、模型を作るが失敗。 1952 年歳歳 4 月ワトソンは、オッワスフォード大学での一般微生物学会で、 ルリアの代理として、 ハーシェーとチェースの実験を紹介。 5 月 末、シャルカフガケンプリッ ) ン大学を訪問したので、一一人は「、ンヤ ルガフの通則」を教えてもらう。 7 月、ロサリンド・フランワリ ンは < 型 OZ< の X 線回折図ガら、 OZ< はらせんではないと考 213
え、らせんモテルの追悼文を方々へ送る。貶月、ロザリンド・フ ランワリンのテータガ掲載された医学研究振興会・生物物理学部 会の報告書ガ刊行される。月下匂、 CL ・ホーリンクが、ワトソ ンとワリッワに、父—J ・ホーリングガらきた手紙に OZ< の構造 を考えたと書いてあったと告げる。 1953 年歳歳 1 月末、—J ・ホーリングの OZ< 三重らせんモテルの論文の写し ガケンプリッジに届く。 2 月 4 日、ワトソンとワリッワは、再び OZ< の分子模型を作り始める。 3 月 7 日、一一重らせんの模型を 完成。雑誌「ネイチャー」 4 月日号に論文ガ掲載される。 9 月、 ワトソン、カリフォル一一ア工科大学の上級生物学研究員となり ( 5 年 ) 、タンパワ質の生合成の場であるリホゾー乙の研究を始 める。ワリッワ、ケンプリッ ) ン大学のキース・カレッ ) ンより主 号を得る。 1954 年囲歳歳ワリッワ、イギリス医学研究協議会・分子生物学研究所所員とし て 7 年圧用ガら無期限任用になる。 1956 年歳歳ワトソン、ハーヴァード大学助教授になる。大腸菌のミワロソー 乙の研究を始め、 X 線ロ折で構造を調べる。 1958 年歳貶歳ワトソン、ハーヴァード大学準教授になる。ロサリンド・フラン ワリン死去 ( 歳 ) 。 214
1959 年歳歳ワリッワ、アメリカの大学で講義をする。 1961 年芻歳歳ワトソン、ハーヴァード大学の教授になる ( 5 〃年 ) 。 1962 年歳歳ワトソンとワリッワ、ウイルキンス、ノーベル生理学・医学賞を 受賞。 1966 年歳団歳この頃、ワリッワは遺伝暗号の解明。ワトソンは遺伝コードの研 究をした後、ガン研究に移る。 ー生物学研究所の所長 1968 年歳歳ワトソン、コールド・スプリング・ になる ( 5 年 ) 。ワトソンの「一一重らせんしベストセラーとなる。 ワトソン、エリザベス・ルイスと結婚。 1976 年歳歳ワリッワ、 7 年に 1 度の有給休暇でアメリカ・カリフォル一一ア州の ソーワ生物学研究所へ行く。 1977 年歳歳ワリッワ、アメリカ・サンディエゴのソーワ生物学研究所教授と なる。脳の研究を本格的に始める。 1984 年歳歳ワリッワ、イギリスのケンプリッジ大学で開ガれた「第 7 回知覚 に関するヨーロッパ会議」で講演。この頃、来日。 1989 年歳歳ワトソン、アメリカ国立衛生研究所 ( z ー ) のヒト・ゲノ乙・セ ンター所長になる ( 5 年 ) 。 1993 年歳刀歳ワトソン、「ノーベル・フォーラ乙」で来日 ( 1960 年頃より、 たびたび来日 ) 。 215
ワトソン & クリック読書案内 冖〕内は原書初版の年、 ( ) 内は改訂版の年。 著書など 「テオキシリボ核酸の構造」〔 ] 953 〕¯) ・ O ・ワトソン LL ・クリック ( 共著 ) 「現代の科 学Ⅱ』世界の名著中央公論社 1970 年 「遺伝子の分子生物学』〔 ] 965 〕全 2 巻¯) ・ C) ・ワトソン松原謙一他訳トッパン ] 990 ・ 199 ] 年 「一一重らせん」〔 ] 968 〕¯) ・ O ・ワトソン江上不一一夫・中村桂子訳タイムライフ 1968 年、講談社文庫 ] 986 年 「生命ーーこの宇宙なるもの』〔 ] 98 ] 〕 LL ・クリック中村桂子訳思索社 ] 982 年 「ワトソン・組換え OZ< の分子生物学』〔 19 日 3 〕¯) ・ O ・ワトソン松橋通生など監訳 丸善 ] 986 年 ( ] 993 年 ) 「細胞の分子生物学』〔 ] 983 〕全 QJ 巻¯) ・ O ・ワトソン中村桂子・松原謙一監訳教育社 ] 986 年 『熱き探究の日々』〔 ] 988 〕 LL ・クリック中村桂子訳丁 CDCD ブリタニカ ] 989 年 評伝など 216
1952 年 4 月半ば オックスフォードで いつばんびせいぶつがっかい 一般微生物学会が開かれた 1 この学会に 出席するはずだった ワトソンの師ルリアが 来られなくなったので ワトソンが急きょ だいり 彼の代理をつとめる ことになった ワトソンは 彼らの共同実験の概要を この学会で発表したのである この学会の直前に ワトソンはファージ・グループの - アルフレッド・八ーシェーからの 手紙を受け取っていた その手紙には八ーシェーと マーサ・チェースの行なった きわめて興味深い実験結果が 書かれていた がいよう アルフレッド ・ ' 、一シェー ( 1908 ~ 現在 ) 。アメリカの分子生物学者。 1966 95 年 0 = デ ~ プリ、 , ク、 ~ リアととも・ = , ー ~ ~ 生理学・医学賞を受賞。
ワトソン & クリック年表 6 月 8 日、フラン、ンス・ワリッワ、イギリスのミッドランド地方 1916 年 ノーサンプトンに生まれる。 歳 4 月 6 日、 ) ンエイ乙ス・・ワトソン、アメリカのシカゴに生ま 1928 年 れる。 1934 年 6 歳絽歳ワリッワ、ロンドン大学のユ一一ヴァーシティー・カレッジの物理 学科に入学。 1937 年 9 歳歳ワリッワ、ユ一一ヴァーシティ・カレッジを卒業し、叔父の資金援 助で大学院に入り、エドワード・アンドレード教授の下で研究。 1939 年們歳歳 9 月に第 2 次世界大戦が勃発。ワリッワの大学の講座はウェール スに疎開した。 1940 年貶歳歳ワリッワは、海軍に入り ( 5 年 ) 、本部に配属を命じられた。ド リーン・ドッドと出会い結婚。們月息子のマイケルが生まれた。 海軍研究所の後、ロンドン南部の郊外にあった国立物理学研究所、 次いで地雷設計部に転勤。 1943 年歳歳ワトソン、シカゴ大学に入学して動物学を学ぶ。 ワトソンクリック 212
/ 気冫′ ワトソン先生は 動物が好き だって ああ ンムは鳥の なろうとして いたんだから あ。をレ ) ワトソン先生はー、」、、し = 「まくと クリック博士は 一番古い言葉を みつけた」と おっしやって 、ましたけど ーをな山 , ノ 鬮い ま、つー ジムか そんなことを :
君にビッタリの お相手が来たよ アメリカから 来られた ジェイムズ・ ワトソン君だ〕〕 ~ 】 こちらか フランシス・ 一クリック君ニ ジムって 呼んでくたさい よろしく こちらこそ 僕のことは フランシスって 呼んでくれ ワトソン君 君の荷物は 後で運ばせて おくよ じゃあ 私はちょっと 用事があるので・卩 47
ムよ ジェイムス・ワトソン といいます 動物学科の学生です ぜひ先生のところで 研究させていただき たいのですが : こうして ワトソンは ぶんしせいぶつがく 分子生物学への 一歩を踏み出した そのころ 分子生物学は すでに育ち始め ていた ぶたい その舞台を設定したのは ひ 1 ~ ′、 皮肉にも 第 2 次世界大戦であった 多くの優秀な科学者が 戦火を避けて ヨーロッパからアメリカに 渡ってきたからである
I S B N 4 ー 6 2 1 ー 0 5 9 6 2 ー 8 C 0 5 7 9 P 1 2 5 0 E 定価 1250 円 ( 本体 1214 円 ) 9 7 8 4 6 2 1 0 5 962 5 IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII 1 9 1 05 79012 5 0 6 ノ ジェイムズ・ D ・ワトソン ( 1928 ~ 現在 ) フランシス・クリック ( 1916 ~ 現在 ) James D. Watson アメリカ生まれの分子 Francis Crick イギリス生まれの分子 生物学者。クリックと DNA の二重らせん構 生物学者。ワトソンと DNA の二重らせん 造を解明し、 1962 年にノーベル生理学・医 構造を解明し、 1962 年にノーベル生理 学賞を受賞。 学・医学賞を受賞。 & クリッグは よどに関心をもつ ンガです リサイクル資料 ( 再活用図書 ) 除籍済