プリンストン高等研究所 - みる会図書館


検索対象: 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞
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1. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

アメリカに到着した 湯川はさっそく アインシュタインのいる プリンストン高等 研究所に向かった アインシュタイン 先生に お目にかかれて 光栄で あります : 0 0 ミスター湯川 同じ科学者 ど , フしじゃ ありませんか 7 す ) こ : ・光栄で あります′・ 139

2. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

1949 ( 昭和 ) 年 湯川は 日本人として初めて コロンピア大学の 教授となった 朝永も ほっそく しんせい 新制大学発足とともに 東京教育大学教授となり アメリカの 一プリンストン 一、高等研究所に ニ客員として呼ばれた 1947 年から朝永は、電子と光の場の量子論に現われる発散項を、電子のもと

3. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

戸当、、 1948 ( 昭和 ) 年 湯川はアメリカの プリンストン高等研究所に まね 客員教授として招かれた アインシュタイン先生 お招きいただいて ありかとうございます いや今度の戦争では 日本に大変なことを してしまいました 0 これは 日本人だけ ではなく ひげき 全人類の悲劇 です / その通りです 原子力の 使われ方を 大変危惧して います′ . 原爆には ショックを 受けました 165

4. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

1944 ( 昭和 ) 年歳歳朝永、戦時研究員としてマグネトロンや立体ロ路に関する研究 に従事ヴる。 1945 ( 昭和囲 ) 年歳歳広島、長崎に原子爆弾ガ投下される。第 2 次世界大戦ガ終わる。 1947 ( 昭和 ) 年歳歳イギリスのバウエルら宇宙線中に 2 種の中間子を発見。 1948 ( 昭和 ) 年歳貶歳朝永、「くりこみ理論」にとりくむ。カリフォル一一ア大学の大型 加速器で中間子ガ人工的につくりだされる。湯川、プリンスト ン高等研究所の名員教授に招ガれ渡米。 1949 ( 昭和 ) 年貶歳歳湯川、コロンピア大学教授となる。この年わガ国初めてのノー ベル物理学賞を受賞。受賞理由は、核力の理論的研究に基づく 中間子の存在の予言に対してであった。朝永、オッペンハイマー の招きでプリンストン高等研究所へ。 1950 ( 昭和 ) 年歳歳朝永、多体問題の研究をまとめプリンストンガら帰国。 1951 ( 昭和囲 ) 年歳歳朝永、病没した仁科の跡を引き継いで、日本学術会議原子核研 究連絡委員会委員長に。 1953 ( 昭和 ) 年歳歳湯川、帰国し、京都大学に新設された基礎物理学研究所の所長 になる。国際理論物理学会議ガ同研究所で開住される。 1955 ( 昭和釦 ) 年歳歳湯川、ラッセルⅡアインシュタイン宣言に署名。世界平和アピー ル七人委員会結成。 1956 ( 昭和引 ) 年歳歳朝永、東京教育大学学長 ( 5 年 ) 。 214

5. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

を、上 1 物 , 子 デンマークの コペンハーゲン研究所 アメリカの プリンストン イギリスの キャヴェンディッシュ これでやっと 日本にも国際的な 研究所ができたね 世界に 名だたる研究所に はやく肩を 並べたいもんや / ああ きっと そ , フなるよ′ . 同年この研究所で 国際理論物理学会議が開かれ 世界中から第一線の 物理学者が来日して 日本の物理学の 国際交流が進んだ ・体 . ユ 186

6. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

湯川秀樹 & 朝永振一郎年表 湯川朝永 3 月日朝永振一郎、東京都に生まれる。父朝丞ニ十郎は当時 1906 ( 明治 ) 年 東京にあった真宗大学 ( 現大谷大学 ) 教授であったが、翌年京 都帝国大学助教授になったため京都へ。 1 歳 1 月日湯川秀樹、東京都に生まれる。父は小川琢治、地理学 1907 ( 明治 ) 年 者で京都帝国大学教授に招ガれたのを機に一家で京都へ。 1922 ( 大正們 ) 年歳歳アインシュタインガ来日する。 1923 ( 大正 ) 年歳行歳湯川と朝永、第三高等学校に入学して出会う。 1926 ( 大正 ) 年歳囲歳湯川と朝永、京都帝国大学へ入学。 1928 ( 昭和 3 ) 年歳歳湯川と朝永、玉城嘉十郎の指導を受ける。量子力学を学ぶ。 1929 ( 昭和 4 ) 年歳歳ハイゼンベルワとテイラッワが来日。湯川、朝永は京都帝国大 学を卒業。同大学の玉城嘉十郎教授の副手となる。 1931 ( 昭和 6 ) 年歳歳 5 月仁科芳雄、京都帝国大学で集中講義。ハイゼンベルワの「量 子論の物理的原理」を解説。湯川、朝永らが受講。 1932 ( 昭和 7 ) 年歳歳湯川、京都帝国大学講師 ( 量子力学の講義を担当 ) 。湯川、湯川 スミと結婚して小川なら湯川に姓が変わる。大阪に移住。朝永、 理化学研究所の仁科研究室へ入り、東京に移る。 212

7. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

むろん このような総合研究所は 日本で最初のものであり 優秀ではあったが ふぐう 不遇であった 当時の研究者たちの 活躍の場となった 創立当時より 物理学の指導を 行なったのは 長岡半太郎であり 恥川Ⅷ 創立の翌年から 研究員として参加 している

8. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

1932 ( 昭和 7 ) 年に 朝永振一郎は 理化学研究所の 仁科研究室に入り : ・ i 画朝画蓄 羇迎幽き : 当幻こコ 譖彡を第黜 ここから 朝永の真の研究生活が 始まった 124

9. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

翌日 東京の理化学研究所 これは ひどい / ここにあった 研究室なんか あとかたもないじゃ 主ありませんか / 貴重な研究資料も みんな 燃えてしまった 我々が今まで しんけっ 心血をそそいで やってきたことは 何だったんだ / しかし この戦争も もう終りだな 仁科先生 それを 言っちゃあ : 何がまずい ものか′ . 0 0 負け戦とは みじめな もんだ′ 153

10. 湯川秀樹&朝永振一郎 : 二つのノーベル物理学賞

このころから 日本も戦時色が のうこう 濃厚となってきた 理研にいた朝永も 素粒子の研究を 続けられなくなり : ・ 海軍の島田研究所で レーダーの開発に 結びついたマグネトロン ( 磁電管 ) の研究を 余儀なくされた ヾをソ 湯川は東京帝大の教授を 兼任して東京に行くこと が多くなったが この年京都へ移住した けんにん ぺい・ら ン - : 3 こ一 150