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検索対象: 医者が末期がん患者になってわかったこと
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1. 医者が末期がん患者になってわかったこと

0 ーーー四月四日 ( 金曜日 ) 泉山 Dr に、「先生は様子がおかしいーと言われた。泉山 Dr は、本当に最近がん ばってくれ、そうでなければこちらは死んでいたかもしれない。夜、松本教授と話。 結局、一番、顔に泥を塗られるのは教授で ( 皆に助教授が教授の ope を信用して いないという評判になるのは決まっている ) 、本当に申し訳ないと思う。でも、本当 によくわかってもらえ、心配してくださっていることがわかった。五月下旬に仕事 に戻るように手配すると握手されたときには涙が出た。 四月三日、ついに私の直属の上司である昭和大学の松本教授に、慶応大学で手術を受け ることを打ち明けました。私は、字都宮病院に六年間勤務した後、神奈川県川崎市の市立 した結果を話した。また悪性脳腫瘍の可能性大で、うちの大学で恥をさらしたくな い由を話した。 痛 河瀬教授もかなり詳細に話をしてくれたようである。松本教授は、「うちの他の科← の教授たちが、自分たちのことを信用していないと思うのは、おまえのためにもよ くない と言ってくれた。右耳介後部のリンパ消失。 headache 減少

2. 医者が末期がん患者になってわかったこと

もちろん、すべてがそのためというわけではありません。仕事に対する生き甲斐ややり 甲斐、あるいは使命感も男の人生を支える重要な価値です。いずれにしても、多くの男性 は、みんな自分の時間を犠牲にしても仕事をまっとうしようとして毎日を過ごしているの ではないでしようか。 しかし、その何年にもわたる努力が、病気をしたとたんに水泡に帰してしま、つのです。 一か月やそこら療養すれば完全に治癒するという病気なら、まだ笑って済ます余裕もあり ます。それは一歩立ち止まるだけのことです。しかし、こと脳腫瘍となると、そうはいき ません。私の場合、怪しい影が良性のものであれ悪性のものであれ、脳腫瘍になったとい うだけで、第一線の医師として力を発揮したいという希望と、いずれは助教授から教授と いう立場になって後進の指導に当たりたいという夢が同時に消えてしまうことになるので す。すなわち、それは仕事の土俵から完全に降りることを意味していたのです。 実際問題として、私の上司である教授は、五年後には退任することになっていました。 その後任に誰がなるのかということは、とても気になることでした。 当然、私にもチャンスはあるわけです。そして、そのためといっては語弊がありますが、 外 私もまた、体を犠牲にして、ずっと何年間もやってきた。笑顔をつくりたくないときでも 第愛想笑いを浮かべ、頭を何回も下げるということをずっとやってきた。それが、病気に

3. 医者が末期がん患者になってわかったこと

川崎病院の脳外科医長として約一一年半勤務。平成一一年一一月一日より、昭和大学医学部の助 教授として働いていました。大学医療の真っ只中でいよいよ活動を始めていたのです。 そして、このとき私が一番恐れていたのは、「岩田は自分の病院の医局や教授を信頼し ていないんじゃないか」という人が出てくることでした。 それに、教授としても当然おもしろくないのではないか、とも思いました。自分の部下 か命に関わる病気になったのです。当然、自分たちのカで救いたいと思うでしよう。 また逆に、私が教授の立場だったら、なぜ自分に手術をやらせないんだと思ったことで しよう。じつは、私も含めてそうなのですが、外科医というのは、けっこううぬばれが強 いものなのです。手術は自分が一番うまいと考えている。もちろん、そうしたプライドか なければ、日々、患者さんの生死を賭けたぎりぎりの治療などできるものではありません。 しかし、幸いなことに松本教授は私の気持ちを本当に理解してくれました。私の申し出 に怒ることもなく、それどころか、手術が終わったら、また仕事に復帰できるように手配 してくれると言って、握手してくれたのです。 の ことは脳腫瘍の手術です。手術のあと、命は助かっても、再び医師として現場に復帰で 巡 きるかどうかは非常に難しいことです。しかし、それにもかかわらず、教授は「五月下旬 に仕事に戻るように手配する」と言ってくれたのです。それは、教授の心の大きさと、私

4. 医者が末期がん患者になってわかったこと

態は軽いものではありませんでした。 結局、意を決して、私は翌日、教授に「実は脳内に出血しました」と打ち明けました。 そのとき、教授からは「早く検査を受けなきやだめじゃないか」と言われました。 とはいえ、教授は、実際に写真を見たわけではありませんから、その段階ではなにか腫 瘍らしきものがあることは知らなかったのです。私もまた、直属の上司に、出血のことは 話せても、腫瘍のことまで話す決断はついていませんでした。 そのことを話した瞬間に、これまで営々と築き上げてきた自分の医師としての立場、助 教授としての地位を失ってしまうような気がしていたのです。 胞 細 膠の 経も 阜。。ーー = 一月ニ九日 ( 土曜日 ) 本日 ( 朝 ) 、院長に頼み、偽名、自費にて Gd ・ MRI 施行。施行中、技師に「他悪 の方向も撮っておきましようか、と言われたときには、涙が出たが、やはり結果は引も hopeIess0 Gli0blastoma0 もう名誉も云々もなし。どういう形で延命するかを考える のみ。午後、昭和大学の黒岩教授 ( 薬学 ) 一部五〇〇、六〇〇人、二部三〇〇 5 四 〇〇人の送迎 pa 「 (を東邦大学の寺尾教授の退任 pa 「 ( Y ( なんと帝国ホテルの孔雀東悪 の間、結婚式を挙げた場所 ) 。

5. 医者が末期がん患者になってわかったこと

第六章回復 ことも少なかったのでしようが、最近は核家族化が進み、外からの侵入に対して対抗する 力がなくなっている。そのような人の心の隙間に、悪徳業者や特殊な新興宗教が巧妙に入 り込んでくるのです。 念のために言っておきますが、特定の新興宗教の人たちは、悪気からではなく、本当に 熱、いに誘ってくれます。本人が、そうすることで救われると信じきっているのですから そして、一緒に教会に行きましようとか、〇〇宗のお話を聞きにいきましよう、車 で連れていってあげますからとか、むげに断れないような雰囲気になって、困ってしまう こともしばしばあります・。 いずれにせよ、まず、患者とその家族が、冷静に対処しなければならない問題といえる でしよ、つ。 簟ーーー六月一八日 ( 水曜日 ) L16 。本日は同じ時間に着いたにもかかわらず一四番。午前中がつぶれてしまっ た。教授から顔を見せるようにと te 一あり。夕方、小達さんとへキサの山田さんが来 宅。カッラの型どりをしてくれた。なんと一本一本植えるタイプのようだ。本格的 なカッラで白髪が一 % と凝っている。 ー 75

6. 医者が末期がん患者になってわかったこと

ただごとではないと思っていたようです。 そして「一日でも早く詳しく検査をしてほしい」と言い続けていたのです。 しかし私は、その言葉を無視するようになかなか腰を上げようとしませんでした。 とにかくやらなければならないことが目の前に山積みになっていたからです。それに追 われて、なかなか暇がとれなかったことが第一の原因でしたが、じつは私自身、心の中で、 結果を出すことを先延ばしにしたいという気持ちに勝てずにいたのです。 『もし、とんでもない結果が出たらどうするんだ。娘の綾乃もまだ六歳で小学校にも上 がっていない。助教授から教授への道を歩いていくにも、健康を害してなんかいられない。 なによりも、診なければならない患者がいる』 心の中でそんなことを思っては、検査を受けることを躊躇していたのです。 考えてみると、一一月上旬にはうちの科が主催する慢性疼痛学会があり私は、その準備 三日間にわたって朝から詰めると 委員長だったため、会場の五反田の「ゆうほうとに、 ードな日々を送っていました。もちろん、学会の最中には、懇親会とか理事会の ーティーなどもあり、その司会などもこなさなければなりません。 外ノ 今さらながら、あの体調で、よくぞやれたものだと感心しているほどです。 また二月九日には、以前から計画していた、静岡県の川奈のゴルフに医局員とともに 第

7. 医者が末期がん患者になってわかったこと

0 ーー・ー四月七日 ( 月曜日 ) ついに来た。 am9 】 00 、慶応 1-5F 、院長べッドへ入院。受け持ちのチーフはカガミ D 「。河瀬教授は教授回診を独りで来てくれた。本日やったことは、頭、胸のイ p のの み。部屋の電話で仕事の区切りをつけた。ともかく時間は今まで経験をしたことが ないくらい有り余っている。今度教授になった麻酔科・武田教授が来室 ( 彼がやっ てくれることになる ) 。夜、堀内、春山 Dr 来室。最悪のことを考え、遺言状を書い ておくべきだとアドバイスをくれた。この年日記も、なんとまだ半分弱書きはじ めたときは一年なんてすぐと思ったのに。 入院の日、ものすごくいい 天気でした。規子と、「こういう日でも、世の中はふつうど おり回っているんだな」と話したのを覚えています。 自分にとっては天と地がひっくり返るほどの日ですが、世の中はそれと関係なく動いて いるとい、つ、そんな当たり前のことが、なんとなく不思議に思えたものです。 ただ、私自身は、もう手術を受ける覚はできていますから、 人院、そして娘からの手紙 〃 2

8. 医者が末期がん患者になってわかったこと

6 6 しかるに、そのとき教授はどういう処置をとったか。教授は、まず「看護婦さーん」と 看護婦を呼んだのです。駆けつけてきた看護婦は、今度はすぐに外科の医師を呼びにいき ました。そして、そのときやってきた外科医は大学を卒業したばかりのフレッシュマンで した。 外科の人間は蘇生術を学んでいますが、その若い外科医は、あわてることなく人工呼吸 を施し、挿管をして呼吸器につなぎ、点滴を入れて、我々の目の前で見事に患者を蘇生さ せたのです。それこそ、固唾を飲んで見守っていた私たちにとっては、あっという間の出 来事でした。 もちろん、看護婦を呼ぶという教授の判断はその状況に最も適した判断だったわけです。 、ところを見せようとして、自ら手を下していたら、その患者さ 内科医である教授が、いし んを蘇生させることはできなかったかもしれません。即座し こ看護婦に外科の医師を呼びに いかせるのが、最もその場に合った選択だったわけです。 一方、そのフレッシュマン外科医の処置もたいしたものでした。いずれも、自分の専門 における仕事を見事に果たしたのです。 そのとき、私は医療とい、つものがチームワークであることを知るとともに、自分は『目 の前で苦しんでいる患者を助ける医師になりたい』と感じました。つまり、外科医への道

9. 医者が末期がん患者になってわかったこと

0 ーーー三月九日 ( 日曜日 ) 慶応大の河瀬教授に私の病気のことをお願いしたが、彼も忙しそうで、三月下旬 5 四月上旬検査ということにした。ただし、知り合いの病院に MRI が入ったので、 Dr にお願いをして早く MRI をしたほうがよいかとも思っている。河瀬教授は「健康 第一としたほうがよいし、一年以内のものであれば復帰できる」と言ってくれた。 住ーーー三月一一日 ( 火曜日 ) 外来、いつもより、一〇人ほど少なかったにもかかわらす結局二時ぐらいになっ てしまった。「ハイ、薬」で終わる患者がいないので、どうにもならない。夜は河瀬 教授に f = m を見せにいき、その足で春山、堀内 Dr に会う予定。人生最大、または 最後のこの危機をどう乗り切るのか。優秀なパイロットが最後まで努力するのと同 じように、パニックにならないように、客観的に bestway を考えねば。 簟ーーーー三月一一一日 ( 水曜日 ) 河瀬教授に三 m を見ていただく。彼は自分でも体の危機があったことがあるらし 。このときは休みをとり、奥さんと休養をとったという。また「一年以内に回復

10. 医者が末期がん患者になってわかったこと

けではありません。医学部に進学したからといって、実際にそれぞれの科でどういう医療 が行われているのかを知っていたわけでもありませんし、最初のうちは、それこそ基礎的 なことを全般的に学ぶことが求められるのです。そして昭和四八年卒業。その年に医師国 家試験に合格、医師としての人生を歩きはじめたわけですが、そんな私が、脳外科医の道 を選択するきっかけとなった出来事が起きたのは、大学六年の春のことでした。 医学生は六年ともなると、実際に病棟に行き、受け持ち医と一緒に患者さんを診て、治 療に参加するようになります。それを「ポリクリ」 ( 臨床実習 ) といいますが、それで患者 さんへの接し方や話し方、簡単な採血や注射の仕方を学んでいくのです。 さて、私がポリクリで病棟を回っていたときのこと。ある病棟で、一人の患者さんの病 状が急変しました。五〇歳ぐらいの男性の患者さんでしたが、突然、痙攣を起こして意識 を失い、呼吸も止まってしまったのです。 段 ちょうど、その場に内科の教授が居合わせました。私は、その教授の講義を受けたり、 へまたいろいろな人から教授の人柄なども聞いており、人間的にもたいへん尊敬していまし 外 そしてそのとき、私たち学生は、その教授がどう行動するのか、じっと見つめていたの 第です。