松本 - みる会図書館


検索対象: 医者が末期がん患者になってわかったこと
14件見つかりました。

1. 医者が末期がん患者になってわかったこと

0 ーーー四月四日 ( 金曜日 ) 泉山 Dr に、「先生は様子がおかしいーと言われた。泉山 Dr は、本当に最近がん ばってくれ、そうでなければこちらは死んでいたかもしれない。夜、松本教授と話。 結局、一番、顔に泥を塗られるのは教授で ( 皆に助教授が教授の ope を信用して いないという評判になるのは決まっている ) 、本当に申し訳ないと思う。でも、本当 によくわかってもらえ、心配してくださっていることがわかった。五月下旬に仕事 に戻るように手配すると握手されたときには涙が出た。 四月三日、ついに私の直属の上司である昭和大学の松本教授に、慶応大学で手術を受け ることを打ち明けました。私は、字都宮病院に六年間勤務した後、神奈川県川崎市の市立 した結果を話した。また悪性脳腫瘍の可能性大で、うちの大学で恥をさらしたくな い由を話した。 痛 河瀬教授もかなり詳細に話をしてくれたようである。松本教授は、「うちの他の科← の教授たちが、自分たちのことを信用していないと思うのは、おまえのためにもよ くない と言ってくれた。右耳介後部のリンパ消失。 headache 減少

2. 医者が末期がん患者になってわかったこと

そこで松本教授に相談したのですが、教授は、次のようにアドバイスしてくれました。 「何も説明もせずに、急にいなくなった形になっているから、それはまずい。また仕事 に復帰するにしても、そのままだと、みんなついてこない。ちゃんと大学に出てきて、み んなに事清を話して手伝ってもらいなから、少しずつでもいいから復帰を目指したらどう だ。第一線を退いたっていいじゃないか、後進の指導に当たってもいいじゃないか。手術 するだけが脳外科医じゃない。外来の診療も大切じゃないかー 実際、松本教授には、すいぶんかばってもらっていました。 「今の職場を大切にしなさい」「一人で苦しんでいないで、みんなに話したほうがいい」、 あるいは「同僚に守ってもらうのも手だよ」と、アドバイスももらっていました。 また、その一方で私に目標を与えようということで、いろいろ仕事の指示も出してくれ ていたのです。しかし、そのときの私にとっては、それすらも重荷に感じられたのです。 また私には、完全な形で職場復帰するという夢もありました。だから、どうしても、み んなに知られたくないと思いつめていたのです。実際に病気と闘っていると、患者はどう しても視野が狭くなりがちです。私も、そんな精神状態になっていたのです。 ところで、非常に光栄なことなのですが、昭和大のほうで、私が診ていた患者さんたち から、岩田先生はどうしたんだという問い合わせがものすごくあったらしいのです。事実、

3. 医者が末期がん患者になってわかったこと

第五章運命の日 すごく楽観的なことの幅がありすぎて、本 ) ところはどうなのか、なかなか理解できな かったということのようです。医師とはい、自分のこととなると、なかなか冷静に説明 できないとい、つことなのでしよ、つ。 しかし、執刀医を交えての説明で、おおのことは理解できた。少なくとも、とりあ ないらしいと、納得できたとい、つのです。 えず、この手術ですぐにど、つこ、つとい、つこ 医師のインフォームド・コンセントが、串だけでなく、患者の家族にとっても、いか に大切なものであるかということがわかり 患者になってわかった不快感 度 Ⅲ 度 阜ーーー四月一六日 ( 水曜日 ) 悪 元気。昨日は pm5 【 30 ころ帰室した だ。 deficit 、嗅覚障害も含めまったくなし。 河瀬教授、松本教授から te 一あり。予どおり、全摘できたと。ただし、残念なが部 ら、 grade= であった。あと五年か : : 。悔しいが、自分の診断能力はたいしたもの欠 だ。昨日、母と規子に説明したとおなった。点滴とバルーンがつらい 737

4. 医者が末期がん患者になってわかったこと

■・・ーー六月九日 ( 月曜日 ) L90 毎朝家を出るのがとてもつらい。まるで屠殺場へひかれていく牛のような感 じ ( フォ 1 クソングにあった ) 。自分一人ではめげてしま、つ。闘病という言葉がまさ にふさわしいが、家族の支えがなければとても続かない。夜、規子と松本教授宅へ。 結論的には、医局員に病名および radiation をやっている事実を自分から話をし、医 局員に応援してもらいながら、できるところから復帰していくしかないということ になった。 私が倒れて、自分の病気が自分でわかったとき、友人たちは、みんな紳士ですから、 「大丈夫だよ、おまえ。助けられることがあったらなんでもやってやるから、言ってく れ」 と言ってくれたものでした。 そんな中でも一番うれしかったのは、お花の師匠をやっている方で、かって私の患者さ ルんだった吉弘さんからの励ましでした。彼女は、こう言って励ましてくれました。 復帰への努力 765

5. 医者が末期がん患者になってわかったこと

第三章巡の日々 つまでも私の、いに残るものでした。 患者というものは、慰めの言葉にどれほどカづけられるものか、そのときまで私も知ら なかったよ、つな気がします。 もちろん、理屈のうえでは、慰めや励ましが大切であることはわかっているつもりでし たし、学生たちにも事あるごとにそ、つ教えてきました。しかし、自分が言われる立場に なって初めて、人が人を慰めることの《効果》を本当に実感できたのです。 私は医師です。自然科学者です。自分の病気が慰めで治るわけではないことは、百も承 知しています。しかし、それでも慰めかいかに大切なものであるか、、いに触れる温かい言 葉がどれほど人を不安から救い出してくれるかということを実感せずにはいられませんで した。 まして、自分が助けた患者さんたちが、自分を助けてくれるというのです。私は胸が いつばいになる思いでした。 0 ・ーーー四月三日 ( 木曜日 ) 午前中、教授回診のあと、今日 3 【 00 、松本教授から込み入った話があるとのこと で、慶応大の河瀬教授が来るが、おまえのことかと聞かれ、先週土曜に MR 一を撮影

6. 医者が末期がん患者になってわかったこと

悪平等の日本医療 学会、入院の準備をする。小柴さんがお見舞いに来てくれた。夕方、松本教授に te 一して、 ope やることを話すと、「大丈夫だよ」と、慰めてくださった。 夕食は家族 ( 四人 ) でステ 1 キを食べにいく。腹一杯食べられた。ここまで食べ られるようになったのに、残念。明日以降は目の回るような忙しさになり、自宅で ゆっくり眠れるのは、これが最後かも : : : ああ・ : 神様 : 私が医師になって二〇年以上になりますが、その間に感じた、医学に対するフイロソ フィー ( 哲学 ) について触れておきたいと思います。 私自身、外国に留学したこともありますが、そのとき、医療に対する考え方が外国と日 本ではずいぶん違うということを感じたものです。 まず、日本人は水と空気と医療と安全はタダという考え方がありますが、その点が欧米 諸国とは根本的に違っています。外国の場合、いわゆる契約医療が発達しており、自分が 病気になったときには、まずホームドクター ( 家庭医 ) に診てもら い、どんな病気になっ 230

7. 医者が末期がん患者になってわかったこと

L12 。 pm3 】 00 ころ、一人で大学へ。医局長と、今後の復帰はどうするかを話す。 とりあえす木曜日のカンファレンスに出席。火曜に阿部 Dr の外来 ( 本来は自分の 外来 ) を見学する。六か月を越えると休職となるので、七月ぐらいからと思ってい 出 る。中央棟の ICU 、脳外病棟を見学。知り合いの看護婦に会うと気恥ずかしい。医 = 局に座っていても、元気なころは何も感じなかったが、巨大なエネルギ 1 を感じ、 その exposure は強烈。 ■・ーーー六月一一日 ( 水曜日 ) L11 。夕方、春山 Dr 来宅。自分のやりたいことをやるしかない。第一にいかに食 べていくかであって、大きな施設なら、これが可能。ただし、現在の状態では外来 をやるのは無理ではないかと。春山 Dr に、「松本教授の定年退職後、自分がいられ る可能性がないので : : : 」と言ったところ、「おまえ、そんなに生きられたらいい じゃないか」と言われてしまった。 768

8. 医者が末期がん患者になってわかったこと

0 ーーー七月ニ日 ( 水曜日 ) L26 。 10 【 00 ころ、規子と二人で帰宅。午後は松本教授が手配してくれたクリニッ 院長が糖尿病と白内障の ope のため入院してしまったため、代診をと クの手伝い。 いうことである。規子に勧められ、カッラをつけて付き添ってもらって、病院へ 柏駅前の喫茶店で待ち合わせ。帰りに高島屋で帽子と食品を購入。しかし、本日は どういうわけか、味覚障害が一番強い何も食えない 準・・ー・・・・・・ー・七月三日 ( 木曜日 ) L27 。本日は L 一 nac を午後にしてもらい、午前中は大学のカンファレンスに出る。 病院における医局員の反応が、最近あわれみの目に変わった。今までどおりのカン ファレンスなのに、学会の話などはすでにまったくわからす、浦島太郎の雰囲気で、 かなりのアセリを感じる。 radio surgery カ ope なのかなどという回り道はしたくな いろいろなものをタ食で食べてみて、ほとんど食べられるものがない。体力は落 ちる一方。 784

9. 医者が末期がん患者になってわかったこと

岩田さんとの取材場所を決めるときに、彼は編者である私の事務所を希望した。自宅で は綾乃ちゃんもいて、なかなか落ち着いて時間がとれないことも一つの理由だったが、そ れ以上に、規子夫人が岩田さんを外に連れ出すための方法だったような気もする。 そして、初めて会った日の一週間後から、毎週日曜日にはわざわざ御茶ノ水まで足を運 んでくれたのだった。 そんなある日、私は取材後の片付けを済ませ、事務所を出て駅に向かう途中、ゆっくり と歩いている夫婦の後ろ姿を見た。すでに二人が事務所を出てから三〇分以上は過ぎてい た。規子夫人は、岩田さんの手を引いて、ゆっくりゆっくり歩いていた。 私は、その姿を見たときに、つい声をかけそびれてしまった。 過ぎ、シャワーに入れてもらっていたら、昭和大の医局員が皆さんで来てくれた。こ れが、これまで夫が指導してきて、これから昭和大の脳外科を背負って立っ先生 たちかと思うと胸が詰まる。夫は彼らに対してはしつかりと話ができた。午後、私 が出かけたあと、松本教授も来てくださったらしい 246

10. 医者が末期がん患者になってわかったこと

オ哲 0 ーーーー五月ニ六日 ( 月曜日 ) イ「 。瘍腫 n60 、河瀬教授より MT 。先週の MR 一の結果、とりあえすは tumor の recurrence = 細 なし。河瀬教授の ope は予想と同じくパーフェクトに近い。しかし、いずれにして者経 患 :z 神 も敵は GIiobIastoma0 今度、 recurrence したら、そのときは終わりだ。方針としては 「 ad 一 a ( 一 on を外来レベルで行うこととなった。それとともに、できる範囲で昭和大に医こ ラト テン .9 復帰。これは松本教授と相談しなければならない。 ンセ 6 療 ムン。治 = コ発線 }—・再射 ト = 放 それにしても、折に触れて思うのは、仕事に復帰したいということでした。自分自身の 命が残り少ないということは十分に覚唐しているにもかかわらず、仕事に戻りたいという 気持ちが強く湧くのは、なんとも不思議なことのような気もしたものでした。 ■ーーー五月ニ七日 ( 火曜日 ) 本日退院。これから 60G radiation のため、三〇回の通院。脳外科、精神科、眼 科の通院。自分としては、 rad 一 at 一 on のことを考えると、少なくとも一〇回ぐらいは ているものと思われる。 754