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検索対象: 医者が末期がん患者になってわかったこと
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1. 医者が末期がん患者になってわかったこと

0 ーーー三月九日 ( 日曜日 ) 慶応大の河瀬教授に私の病気のことをお願いしたが、彼も忙しそうで、三月下旬 5 四月上旬検査ということにした。ただし、知り合いの病院に MRI が入ったので、 Dr にお願いをして早く MRI をしたほうがよいかとも思っている。河瀬教授は「健康 第一としたほうがよいし、一年以内のものであれば復帰できる」と言ってくれた。 住ーーー三月一一日 ( 火曜日 ) 外来、いつもより、一〇人ほど少なかったにもかかわらす結局二時ぐらいになっ てしまった。「ハイ、薬」で終わる患者がいないので、どうにもならない。夜は河瀬 教授に f = m を見せにいき、その足で春山、堀内 Dr に会う予定。人生最大、または 最後のこの危機をどう乗り切るのか。優秀なパイロットが最後まで努力するのと同 じように、パニックにならないように、客観的に bestway を考えねば。 簟ーーーー三月一一一日 ( 水曜日 ) 河瀬教授に三 m を見ていただく。彼は自分でも体の危機があったことがあるらし 。このときは休みをとり、奥さんと休養をとったという。また「一年以内に回復

2. 医者が末期がん患者になってわかったこと

第七章再発 0 ーーー一〇月七日 ( 火曜日 ) 外来。神保 Dr に手伝ってもらう。来る患者全員に、病欠していた由を説明しなけ ればならないが、ほとんどの人が顔をのぞき込むようにして、「お若くなられました ね」「やせましたか」「病気は何だったんですか」と聞いてくる。「悪いものがすべて 。この本が出れば、みんな「読 吹き出しまして」と言っても、納得してもらえない みましたよ」と言ってくれるだろう。自分が ope あるいは再 ope したい患者がいる けれど、今のところど、つしよ、つもない pm3 】 00 ごろより慶応にて MRI 。時間をかけ数方向から撮っていたので、悪い所 見でも出たのか ? 今度再発したら、それこそ、家族をはじめ、友人、知人と本当に数か月でさよう ならだ。でも、今はどっこい生きている ■ーーー一 0 月一六日 ( 木曜日 ) 本日より、臓器移植法案が施行される。にもかかわらず、 TV では心肺同時移植

3. 医者が末期がん患者になってわかったこと

第七章再発 棟の横の中華料理屋でビ 1 フンとギョウザ。 MRI の結果が気になるが、夕方、規子 から、「結果が悪ければ、今ごろ te 一があって、別の時間に来るようにという電話が あるわよ」と。最大の慰めである。 とにかく、患者にとって慰めの言葉は大切なものです。私が脳外科医で、どこの誰より も自分の病状について客観的な判断が下せるとしても、それは同じことでした。 大学から帰った私は、布団をかぶって悶々としていました。もし、腫瘍の再々発、また 増大があれば、希望はほとんどありません。 そんな私に、規子は、「電話がこないのは、結果がよかったからよ」と言ってくれまし それが、慰めであることは十分わかっていました。おそらく、規子自身も、そう思うこ とで、耐えていたに違いありません。しかし、そのときの私は、そんな規子の慰めがとて もうれしく、そして励ましになりました。 」 0 幻 3

4. 医者が末期がん患者になってわかったこと

第七章再発 いの子供と父兄がおり、何がなんだかよくわからない。もう少し運営を考えたほう 力しいと思うが、綾乃は最初、中学生の男の子と当たったが二連勝。その後、二連 敗。子供会のお母さんと待っている間、二局打ったが、左にパッと打たれると見逃 すことあり。 第・ー・ー・七月一四日 ( 月曜日 ) 午前一 0 】一 0 より、慶応にて MRIO 9 】 00 に到着し、検査を受ける。何方向にも撮っ ているためか、時間がかかる。いすれにせよ、明日、ご沙汰が下るのであるが、今 まで MRI をやって、いい結果が出たことがないので、かなりの不安がある 午後、小達さんとへキサの山田さんが新しいカッラができたと来宅してくれた。 よくできており、違和感なし。まったくありがたいことである。疲労感強いが、な んとか食べねばならぬ。タは外苑焼肉へ。 197

5. 医者が末期がん患者になってわかったこと

す。 血腫周囲の edema ではなかった。小さな病院で MRI をやるか ? 知人のいる病院 という手もある。綾乃にひなまつりのプレゼントを買う。 自分の脳の中にあるものが本当に腫瘍なのかどうかを見極めるには、実際に開けてみる のが一番早く、それ以外の手としては、で経過を見るしかありません。 この日私は、二月一七日に続いて二度目の検査を受けました。 その結果、血腫は少し小さくなっていましたが、小さくなった分、腫瘍つほい部分が多 く見えるようになっており、それが袋状にいくつかに見える、嚢胞になっていたのです。 しかも嚢胞の直径は , ハセンチほどの大きさになっていました。ますます悪性の腫瘍である 可能性が大きくなってきました。 そして、その夜、私は規子にありのままを話しました。 「これを見てごらん」 そう言って、—の写真も見せました。 『なにか人相の悪いものが写っている』ということは、素人目にもすぐわかったようで 規子は、それまで私が激しい頭痛に襲われていたことは知っていましたし、それがただ * edema= 浮腫。

6. 医者が末期がん患者になってわかったこと

よ 簟ーーー・・・一一一月ニ四日 ( 月曜日 ) 本来、今日から一週間休み。しかし、山のような雑用のため大学へ。本当は家族ス とともに sk 一に行く予定であったのにー 6 気 o 磁 C 核 ■ーーー・三月ニ七日 ( 木曜日 ) 午前中のカンファレンスはつらかった。夕方、友人の病院へ、 MRI ( 自費 ) の牛、 イス会 レ検 お願いする アの フ者 カる はたして本当に腫瘍があるのかどうかを調べるには、造影 ( エンハンス ) 検査を やらなければなりません。注射をして、腫瘍の部分の影を濃く出して詳しく見てみる必要 があるわけです。しかし、もし悪性腫瘍という結果が出た場合、過去二回を受けた 病院はうちの科カノ ゞヾックアップしているので、その事実がアッという間に大学中に知れ 渡ってしま、つ可能性がありました。 この段階で、私はまだ大学の仲間には知られたくないと思っていたので、東京のある病 「かわいそうに」と思われたくない ノ、れ /

7. 医者が末期がん患者になってわかったこと

再々手術 阜ーーー一〇月一七日 ( 金曜日 ) 慶応脳外外来へ。一昨日の MRI の結果を聞きにいく。河瀬教授からいきなり、「手 伝うから、最後まで病気と闘ってくれないかーと言われた。右 pa ュ eta 一深部に再発 しており、結局一〇月二四日 ope ( 三回目 ) ということになった。なんということ * だ。神は私を見捨てた。みなさんさようなら。規子、よくやってくれた。綾乃、 い子に育てよー 学会等のスケジュ 1 ルのため、段取りを早くつけなければ。それにしても、統計 というのは正直なものだ。例外を許さない。 二日前の一五日にをやり、その結果をこの日に聞いたわけですが、これまでずつ と手術をやってくれた河瀬教授から、こういう言い方をされました。 「岩田、おまえ、ここまでやってきたんだから、最後まで病気と闘ってくれるか。俺も できる限り援助するから」 その瞬間、これはまた手術しなければならない所見が出たなと、わかりました。そして、 226

8. 医者が末期がん患者になってわかったこと

このころ、肉体的にはずいぶん回復していたのですが、毎日の放射線治療で悶々として いました。ふっと電車に飛び込みたくなるような、そんな日々を送っていたのです。です から、規子はそんな私から一瞬も目を離そうとしませんでした。 そんなときに見つかった怪しい影 : : : 。精神的なダメージはとても大きなものでした。 ーーーー六月ニ七日 ( 金曜日 ) 造 に放射線科と脳外外来で午前中が 0 ぶれる。七月一四日 MRI 、その後「え一。一 surgery ということに結論的になった ( 場合によっては ope ) 。しかし、こうなると今射 放 5 それよりも命の問題ではあるが、こうなると右 の職場での復帰は hopeless に近い。 後頭部の ring enhancement が消失するのを祈るしかない。河瀬教授は、六か月まで 病欠できるのであれば、あわてないほうがよいと。結局、復職の書類は出せぬこと となった ( 診断書もらえす ) 。 「さあ、おまえどうする」と言われたとき、私には二つの選択肢が残されていました。 一つは、一回やったのだから、もう一度取ってしまうという ope の選択。そしてもう一 つは、ラジオサージェリーという方法でした。

9. 医者が末期がん患者になってわかったこと

第四章想者になって初めてわかったこと 準ーー四月九日 ( 水曜日 ) 4F に病室移動。三万円 / 日。午後 MRI 、 CTO 夕、名古屋より母、上京。女親は し経 本当にありがたい。河瀬教授も自信がなければ引き受けないのだから。逆にい、 験をしたと思えば。できるならば代わってやりたい。どんな形でも生きていてほし いこと。義母は、これでいい医者になる。規子、これで良い夫になる。綾乃が手紙 をくれた。知らぬ間にちゃんと書けるようになっている。岩尾 Dr も来てくれた。春 山 Dr も。昼には崎原、堀内 Dr わざわざ来院。今は、一時間、一時間が恐い 母や義母、そして規子の励ましが心に染みました。 「先生は手術に成功する自信があるからこそ、引き受けてくれたのよ。だから大丈夫よ」 「脳外科医のおまえ自身が、脳の手術を受けるのだから、 しし糸男になるわよ」 そう言ったかと思、つと、 「できるなら代わってやりたい」「どんな形ででも生きていてほしいー そういう母も、もう七三歳です。なんとなく申し訳ないような気になってしまいました。 そして義母は しい医者になれますよ」 「この体験で、

10. 医者が末期がん患者になってわかったこと

抗 本日も多忙。 Ope 、臨床講義、コンピューター ( 外来 ) 講習会。今夜、医局員の 、言田 半分は北海道へ Sk 一旅行。今日から念のため A 一 ev 一 a ( 一 n200 /d 服用することとした。 ア Side effec ( 等はわからない。三月三日に MRI で手術を決定しなければならない。とレ ア もかく、午前中、まったく元気が出す。来年、この日記を書き続けていくことがで = ö きるか ん < カ この段階でも、私はまだ具体的な手を打とうとはしていませんでした。じつは、心の中 に自分の病気を大学の仲間に知られたくないという気持ちがあったのです。 これは、大学の仲間を信用している、信用していないというレベルの問題ではありませ ん。ふつうの会社に勤めている人にも、この気持ちはわかってもらえると思いますが、今、 自分が身を置いている組織における地位とか活動とかを考えると、病気になんてなってい られないという状況があります。 やはり男にとって、どんな仕事を任せられるかとか、どんな地位につくかということは 重要な意味をもっています。社会の中で実績や地位を積み上げていくことが、自分自身や 家族にとって、非常に重要な価値だと信じ込んでいたのです。