母 - みる会図書館


検索対象: お母さんの手、だいすき!
173件見つかりました。

1. お母さんの手、だいすき!

らほとんど出ないタイプの人といろいろいるのて、私はてつきり母は後者なのだと勝手に 思いこんてし 、た。自分が妊娠したとわかったときも、母に「お母さんは母乳が出ないほう たったから、私も母乳出ないかもなあ」なんて言っていた。しかし、自然に出なかったの げんいん てはなく、 私の出産のときのショックが原因て出なくなってしまっていたなんて、これつ ばっちも知らなかった。母も今まて何も一言わなかったから。私に気をつかっていたのだろ ふうちょう - フか母孚がいちばんだのミルクカししオ 、、。、、ごのと時代によって風潮かいろいろだから、母の ときはどんなだったかは知らよ、 オしが、自分の乳て子どもが大きくなるのはとてもうれし、 ものだ。それかてきなかった母。つらかったにちかいなし 五本指にはならない そんななかて、両親の子育ては始まった。 毎日、にしくしながらも右手を見るたび、右 手をつかう私を見るたびに、原因にむ当たりがない母は悲しく胼しい田 5 いをした。そして しようかい けいせいげ 私が三か月のころ初めて私を連れて産院の院長の紹介て、ある大学病院の形成外科へ出向 しゅじゅっ いていった。当時の父や母の気持ちとしては、手術さえすれば私の右手の形が少しは五本 しゅじ の指に近づくにちがいないという期待、祈りにも似たものだった。主冶医となった形成外 にんしん いそカ くや かって 4

2. お母さんの手、だいすき!

さわると医師に止められていたため、母は私の右手の事実を三日後になって初めて知らさ田 かいしん すがた かっこう れる。その三日目の夜、回診を終えた院長は、セーター姿のくつろいだ格好て、いかにも ぶらっと立ち寄ったというふうに病室に入ってきて母に事実を告げた。 「実はあなたの赤ちゃん、手がちょっとおかしいんだよ」 と。そして母を安心させようと田 5 ってか、 しようかい しゅじゅっ 「いい病院を知っているから紹介しますよ。なに、手術をすればどうにてもなる と言ったそうだ。母は頭が真っ白になったらしい。手術って何 ? 右手がおかしい、攵し てどういうこと ? 院長のなぐさめの言葉は反対に母を苦しめた。生まれたばかりの赤ん ばうをまだ見せても抱かせてももらえす、三日たってやっと、と思えば「手術」の一言。 こ、つい 産後、生まれたばかりのわが子を抱きしめるという行為が、母親の気持ちを大きく喜びへ と変化させる。そして、母親はわが子をしげしげとながめ、親になった実感、子育てへの しゅんかんゆる とまどいを自ら考えながら「親」となるのご。 オたが、私の母は私を抱くその瞬間を許され なかった。医師は私の出生体重が少ないため、少し様子をみると言って産後の母から私を しばらく遠ざけた。 私の右手の事実を知らされながらも、すぐには自分の目て確かめられないもどかしさと、 いし たし

3. お母さんの手、だいすき!

つくつご。、、 オこ近所のお母さんたちは、すてに私の右手のことをなんとなく感づいていたか : くらい田 5 われていたカ もしかしたらまいちゃんの手、何かあるのかしら : しゅじゅっ もね、と母は言う。そして、母が手術をした手のことを話すと、「そうだったの」と自然に あんどかん しき 受けとめてくれたことが母のむに安堵感をもたらしてくれた。私はとくに意識せずに何て もまねてみて、てきるものはもちろん一人ぞやる、てきないことが見つかると友達に頼ん て手伝ってもらう。友達も当然のように手を貸してくれる。そんな幼なじみに出会え、 い関係をつくれたことて、わが家のアルバムには右手が堂々と写った私の写真がどんどん 増えていった。時に「親バカ」と言われるくらいに 母にとっても、私の右手をオープン そんざい に受けとめてくれたお母さんたちや子どもたちがありがたい存在だったという。お母さん たちはかわり、はんこに子 どもたちを見ながら買い物に出か。オ ナ ' 」り、立ち話をしたりしてい すなば たらしい。そんななかぞ目の前の中学の校庭の砂場や、じゃり道てままごとしたり、鬼ごっ こーしこり気ゴムし」びーレわ」、り・ いっしょようちえん その友達のほとんどと緒に幼隹園に行けたのも、私や母にとってはむ強いものだっこ。 しかし、母がつくってくれた安全地帯からもう一つ大きな空間〈。む強い反面、少々の不 安もかくせないていたと思う。 おさな おに たの

4. お母さんの手、だいすき!

げつしゃ は考えられないほどの安い月謝て教えてくれていた。ここがまた楽しかった。一一時間の授 業のうち落ち着いて習字を書いている時間なんてほんの三十分ぐらいぞ、あとの一時間半 ごり、部屋のなかて鬼ごっこをしたり、ときにはおねたりしてア は先生をからかって遊んオ ふしぎ イスクリームを買ってもらったり。そのくせ不思議と級はどんどん上がり、四、五年の門 こうひっ に毛筆六段、硬筆四段になっていた。これもやめられない理由だった。 母はずっと書道を続け 書道塾が週一回、そのほかに私は家て母にも習字を習っていた しはん ていた経験があり師範になれるほどの実力だったのて、私にも習字をやらせたかったのだ しどう こっちは書道塾と違い、かなり指導がきびしかった。母は夕方ご飯のしたくをしながら私 の字を見ているのだが、集中力がとぎれた私がズルをして左手てチャラチャラっと書き、 「てきたよ」と声をかけても「左手て書いたてしよ、そんなことをしちゃだめつ」ときび おこ した力すぐにわかってしまった。 しく怒る。母にはどちらの手て書、 字の迫力てわかるら た字のほうがずっといいわ」と言っていた。 母はよく「右手て書い ガ えんびつ ン しい。母は小さく横に書く名前の文字も右手て書かせようとしたが、鉛筆と同じぐらいの の かげん 太さの小筆はカの加減がむすかしい手がプルプルと震えてしまってどうしても一つひとれ リだけは左手て書いていた。当時は、なんてそんなに つの文字が大きくなってしまう。名前 おに ふる

5. お母さんの手、だいすき!

たってから母は、 ぎしゅ 「麻衣子が欲しいのならいいわ。急いているんだったらどれくらいて義手がてきあがるの か聞いてみてあげるから 、つら」 と言った。とても静かな返事だった。私の気持ちは複雑だった。どこかて親を裏切ってし まったような、ても本当に義手が欲しいような。そして母の返事が意外だった。心の奧て は、恥ずかしい手じゃないのよ、と叱ってほしかった気持ちも本当だった。もし、本当に 義手がてきてきたらどうしよう、と現実になっていくのかどこかてこわい 母が本当に義手のことを問い合わせたかどうかはわからない。オ よぜなら、私がその後義 手のことを口にしなくなったからだ。義手が欲しい、 というのは私から両親への一種の裏 」 , フい はん」、つ 切り行為だった。そして当時の精いつばいの反抗だった。おそらくきっかけとなれば義手 てなくとも他のなんてもよかったのだと思う。その一言を母に告げたことて私の気持ちは みよう 吹っ切れた。そして、嘘ても母が私の気持ちに沿ったところを見せたことが、妙に私を落 ち着かせた ぶたい めずら 舞台本番。「堂々として良かった」と学校の友達が声をかけてくれた。クラスの男子も珍 おそ しく冷やかしながら誉めてくれた。今ビデオて見ると恐ろしく恥ずかしく、てもどこかま うそ しか ふくざっ / 30

6. お母さんの手、だいすき!

ぎい そん 番好きになっていた 右手だけは私の体だけてなく心のなかてもちょっと特別に好きな存 しゅじゅっ たんじよう 在だったのだ。それなのにこの右手かこの世に誕生したときの写真がない。手術を受ける まての約一年半の写真のなかに右手がいない。あんなに私に、右手を好きだって言ってく れてた父や母が、私の右手を避けていたなんて。切り取れば笑っていられるの ? 記録と して残さないことがせめてもの幸せだったの ? 私の頭のなかをたくさんの思いがかけめぐった。私はこの事実に今気がついてよかった、 と田 5 った。おとなになって、母親になってからてよかった。子どものころに気がついてい きず たらもっとショックだったと思うから。もっと傷ついていたと思うから。母親になった今 さっ なら、当時の私の母や父の気持ちをわすかながら察することがてきる。私は、母にそっと きんちょう てもちょっと緊張してい 聞いてみた。なるべくなにげなく、さりげなく聞こうと田 5 った。、 たから、声が大きく早口になってしまった。自然と間いつめるような聞き方になってしまっ ひにカーれ . ない。 「なんて、生まれてしばらく、右手を写真にとらなかったの ? ーと私。母は、 「本当に申しわけないことをしたわね」 とひとこと言った。とっくに母のなかても乗り越えていることだとは田 5 うけれど、やはり こ

7. お母さんの手、だいすき!

がう所へ行ってしまったため、それまてのようには遊べなくなってしまったのがとても残 念ごっこ。 手袋を取った母 たからもの 私はひとりつ子なのて、そんな近所の友達が宝物だった。私が生まれてから約一年の間 ちよくし てぶくろ 私の右手を直視することがてきず、手袋をかぶせ、写真に残すこともてきなかった母。幼 じき すばら 児期の私にこの友達との素晴しい空間と時間を与えてくれたのは、その母だった。母は手 じゅっ せつこう 術を一つのきっかけとして、石膏がとれたと同時に私にかぶせていた手袋を取る決心をし た。「よしーと心を決め、初めて娘の手のことを近所のお母さんたちに打ち明けたときの母 の気持ちはどんなだったのだろう。 いつまても隠し通せるものてはないし、本人が一歳て ちが すてにうっとうしがっていた形の違う右手をさらけ出すのは勇気のいることごっごが、 のが ここて取らなければタイミングを逃してしまうかもしれない。手術ぞ五本の指に近づくか て もしれないとい - フ 期待も、字の手を見たときにはっきりと吹っ切らなければいけなかつけ た。きっと不安ていつよいだったにちがいなしがその小さな「よしという勇気が、母袋 むすめ のなかにも他のお母さんたちと同じように、安心して自分の娘を見守っていられる場所をワ あた よ、フ しゅ

8. お母さんの手、だいすき!

が ス。年長はこの三クラスがキリン組、こぐま組、りす組と動物の名前になり、クラス替え はなく先生 とともに進級する。私とアキちゃんのクラスはすみれ組のけいこ先生。マュは かみ チューリップ且ご。け、 しこ先生は髪の毛と目が茶色いのが印象的な明るい先生て、母も私 オオ今てもナ 。いこ先生ぞ本当によかったね、と話すことかある ( いこ先生が大好きごっ ' 」。 母のサポート しよう力い どもとの集団生活。障害があるにしてもないにしても、親元から離 初めての知らない子 れるのは親としては不安てもあり楽しみてもある。毎日ちゃんと行ってくれるだろうか : 。私の娘もじきに幼稚園な 泣きはしないか、友達はてきるか、先生はどんな人だろう : のてその気持ちはよくわかる。私の場合、近所の友達が一緒とはいえ、親から離れて一人 になる時間がてきるのだから、母としては右手のことを幼稚園側に何と説明し、私にどう かんたん 教えようかと考えた。そもそも本太幼稚園を選んだ理由は簡単だ。知っている友達の多い 習 の ところへ入園させたいということだけ。 母はまず、入園前の書類に右手のことを書いた カ ン めんせつ オカこちらの不安をよそにあまり架ゲ その書類をもとに母と私と園長先生が面接をする。ご、、 : くは聞かれることもなく、右手の説明と今まてどう育ててきたかを話すと、園長は「そう はな 0

9. お母さんの手、だいすき!

長塚麻衣子 ( ながつか・まいこ ) 1972 年埼玉県生まれ。生まれつき右手に障 害をもつが、それを自然のことと受けとめ、 小学校ではバトン、中学では剣道、高校から は民族踊に熱中して過ごす。和光大学卒 業後、社会人生活を経て結婚。現在は 2 児の 母として子育てに忙しい日々を送っている。 母・野辺明子さんらが共同制作した同じ障害 をもつ女の子を描いた絵本「さっちゃんのま ほうのて」 ( 偕成社 ) は、 50 万部を超すべス トセラー。本書は、その読者に本当にお母さ んになった「さっちゃん」の姿を知ってほしい という思いから執筆された。

10. お母さんの手、だいすき!

方へ蹴る間の恥ずかしさ。何時間もさらし者になっているような気持ち。やっとゴー もんく た私に彼らは、真っ先に「何やってんだよー、おれらがんばったのに」「あーあ . と文句を はん・けき ぶつけてくる。反撃する元気はとっくの昔になくなっていた。 にぎ げんかん 毎朝私は、母に玄関てキュッと両手を握ってもらって登校していた。「明日はもう学校に ・け・んかい 母が「かんばれ」と手を握る。しばらくの間は もう限界だ」と位きつくと、 行かれない、 ふだん 普段は それが朝の日課だった。見かねた母はときどき「麻衣子、休む ? , と私に聞いた。 めったに私に逃げ道をつくってくれない母たかこのときばかりはとうとうそれを口にし なんど カんばったのてはない。 一日て た。ても、結局何度も休もうかと思ったか休めなかった。、、、 も六年二組に存在していないと、自分のいない間にたくさん悪口を言われちゃうんじゃな いカ、かばってくれている友達も「野辺とはしゃべるな」などと命令されちゃうんじゃな だ。小さなこともいちいち気にするむ配生の私に い力と、亜いことばかり / んてしま - フの た 家て気にするくらいだったらいやても学校に行っていじめられるほ は耐えられなかった。 しりつ 中学という新しい世界にワクワクと思いをはせる時期、私の毎日は灰色だった。私立の いじめも続くかもしれないとクョクョ 中学を受験する以外はみな地元の中学に進学する。 そんぎい