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検索対象: アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官
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1. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

かいしゅうあ さい′」う さかもとりようま たず 海舟に会ってしばらくののち、西郷のところに坂本竜馬という土佐脱藩の浪士が訪ねて かれかいしゅうもんか かいぐんそうれんじよじゅくとう かつやく 。彼は海舟の門下となり、海軍操練所の塾頭として活躍していた。海舟に勧められて はなしき 話を聞きにきたのだという。 さい」う いんしよ、フ かえ かいしゅうつ りようまゆうめい ことば このときの西郷の印象を、帰ってから海舟に告げた竜馬の有名な言葉がある。 さい」、つ じんぶっちい ひび おお おお ひびつ 「西郷という人物は小さくたたけば小さく響き、大きくたたけば大きく響く釣り鐘のよう り・」、つ はば とほ、フ 。りこ、つおと」 だ。馬鹿でもその幅がどれほどの大馬鹿か、利ロなら途方もなく利ロな男だろう」 さいごうりようまであ うんめいてき あ ぐうぜん 西郷と竜馬の出会いも運命的だが、それは偶然ではなく、このふたりを会わせておこう かっかいしゅう ごじっ ふせき かいしゅう やくしよくはくだっ と勝海舟がうった後日への布石というものだった。海舟はまもなく役職を剥奪されて江戸 かいぐんそうれんじよへいさ ほんぼうばくふひはん に呼びもどされ、海軍操練所も閉鎖となる。奔放な幕府批判によるもので、彼もそのこと りようまみカらさい′」うたく を予知して竜馬の身柄を西郷に託すつもりだったのだ。 さいごうかいしゅうりようまわ 西郷・海舟・竜馬の輪のなかにはいってきたのが、ア 1 ネスト・サトウである。 よ よち カ おおばか とさだつばんろうし かいしゅうすす がね 113

2. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

たかすぎしんさく かいぐんそうとく 高杉晋作は海軍総督に任じられ、下関にいた。 なのかばくふ ぐんかんおおしまぐんほうげき まつやまはんべい ぜんとうせんりよう 七日、幕府の軍艦が大島郡を砲撃し、松山藩兵が全島を占領してしまった。 どくだん へいいんまるかれながさき たかすぎ ぐんかんへいいんまるの おおしまぐん 高杉はただちに軍艦丙寅丸に乗り、大島郡にむかう。この丙寅丸は彼が長崎から独断で ふね 買ってきた、まさにその船である。 ばくかん へいいんまるつ おおしまおきていはく 大島沖に停泊していた幕艦のあいだに、丙寅丸を突っこませ、自在に走りまわりながら、 ほうげ・き 砲撃をくわえた。 おおあば ばくへいちょうしゅうかいぐんらいしゅう 陸上にいた幕兵も長州の海軍が来襲したというので大混乱におちいった。大暴れに大砲 しまじようりく ちょうしゅうだい いきお きへいたい へいいんまる を撃ちつくして、丙寅丸がひきあげたあと、勢いづいた長州の第二奇兵隊が島に上陸し、 ばくぐんげきたい おおしまぐちたたか 幕軍を撃退して大島ロの戦いは終わる。 げいしゅうぐちせきしゅうぐちせんとう ぜんご 前後して芸州ロ、石州ロでも戦闘がはじまった。 ちょうしゅうゆうこうてきつわの おおむらますじろう かんじようたいせんにん せいろく ぶしだんへんせい 世禄の武士団で編成した干城隊千人をひきいた大村益二郎は、長州に友好的な津和野 はんりようとお はまだはんりようせ こうみようせんじゅっきしゅうはまだりようはんべいげきは 藩領を通りぬけ、浜田藩領に攻めこみ、巧妙な戦術で紀州・浜田両藩兵を撃破した。 しゆりよく ばくぐん ひこねはんべい ゅうげきたい げいしゅうぐち いわくにはんべい こっきようおぜがわ 芸州ロでは岩国藩兵と遊撃隊が、国境の小瀬川をはさんで彦根藩兵を主力とする幕軍と たいじ 対峙した。 ちゅうりってきたいど ひろしま ひろしまはんりようお せんせいこうげき 先制攻撃をかけて広島藩領に追いこみ激戦をくりかえしたが、中立的な態度をとる広島 カ 、つ りくじよう にん お しものせき げきせん だいこんらん じざい たいほう 9- 8

3. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こうしゅ、つにい りよこうす にほんかんこうめいしょ むらまちしぜんあい サトウは、旅行が好きだった。日本の観光名所から、村や町や自然を愛した。甲州・新 きようと がたなら たび 潟・奈良・京都はじめ、ずいぶんあちこちを旅している。 たび かれ きよ、つへんよこはま かいへいたいたいえきしようこう サトウはよくイギリス海兵隊の退役将校ホウズと旅をした。彼との共編で横浜のケリー しようかい しゆっぱん ちゅうぶほくりくにほんりよこうあんない 商会から出版した『中部・北陸日本旅行案内』は本格的なガイドブックである。 はこね あたみ 箱根、熱海、小田原周遊 さいたまりよこう 埼玉旅行 よこすか みうらあんじんはかほうもん 横須賀の三浦按針の墓訪問 しまさんさく かまくらえ 鎌倉、江ノ島散策 みやじまおのみち さい′」くりよこ、つこうべ しものせきやまぐちしこく 西国旅行 ( 神戸・下関・山口・四国・宮島・尾道その他 ) せいなんせんそうぜんや 西南戦争前夜の鹿児島視察 ジャパン・タイムズ おだわらしゅうゆう かごしましさっ ほんかくてき た 101

4. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

す 薩摩と長州 日本にきたサトウにとって、真っ先に印象づけられたのは、薩摩・長州の存在だった。 ちゃくにんそうそうなまむぎじけんさつまはん ゅ、つこ、つかんけい まずは着任早々の生麦事件で薩摩藩とは戦火までまじえるほどになり、はやくも友好関係 をむすんでいる。 ちょうしゅうはん そんのうじようい じよういせん また尊王攘夷のメッカとして、関門海峡での攘夷戦をはじめた長州藩とは、これから接 しよく 力いこくじゅうじゅんひとびと にほんじん 触するのだが、ゝ カねて聞いていた外国に従順な人々とは、まったくちがう日本人がそこに 住んでいるらしい ちょうしゅうはんまず かん 長州藩は貧しい国だったが、改革をすすめていまは幕府が脅威を感ずるまでに力をつ けてきている。 ちょうしゅうはん 力い」、つ たいど ちゅうおうせいきよく はじめ長州藩はペリー来航以来、開港をめぐって揺れうごく中央政局には態度をはっき ゅ たいど りさせず、成り行きを静観していた。つまりは日和見の態度である。 よしだしよ、ついん がくしゃ ひはんてき あんせい 藩内では吉田松陰という学者が、これまでの幕府の政治に批判的で、ついに安政の大獄 はんない さつまちょうしゅう にほん な き せいかん らいこ、ついらい ま かいかく かんもんかいきよう さき せんか いんしよう ひょりみ ばくふ ゅ ばくふ きょ , つい さつまちょうしゅうそんざい ちから たい」く せつ 2 -4

5. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

きゅうしんは ゅうのうじんざい 藩全体からみれば、急進派は、ひとにぎりの人々でしかないが、有能な人材をあつめて じつけん ぶんきゅうねんかん かれ じよういせんはいぼくきようとついほう 文久年間から藩政の実権をにぎってきた彼らも、攘夷戦の敗北、京都追放という失政を ぞくろんとう くきよう げんじよ、つ ぞくろんとう しゆくせい 「俗論党」から衝かれて、やや苦境におちいっているのが現状だった。俗論党による粛清が きゅうしんはつぎつぎとうごく はじまり、急進派は次々と投獄されていった。 おやす 親を捨て国を去って天涯に向かう こころよし ひっきよう 必竟この心、世知るなし にんげんひつぎおお いにしえより人間棺を蓋うて定まる こうぜっも ちょうぎふせ あにロ舌を持って朝議を防がんや とうよういちきようせいたかすぎしんさく 東洋一狂生高杉晋作 たかすぎしんさくきょへい 高杉晋作挙兵 はんぜんたい っ はんせい てん力い む さだ ひとびと おやす とお に 親を捨て、国を捨てて遠いところに逃げていく。 くる 、」ツ」ろ りかい 苦しいわたしの心をだれも理解してくれない。 にんげんかち むかしから人間の価値は さだ 死んでから定まるというではないか。 こうどうせいぎ いずれ行動で正義をつらぬいてみせるぞ。 し くにす しっせい 0 8

6. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

しようぐんよしのぶ 将軍慶喜 じちょうしゅうせいばつばくぐんすうまん てい」、つ ちょうしゅうぐん 第二次長州征伐の幕軍数万が、必死に抵抗する長州軍をもてあまし敗色濃厚となった變 おう ねんがつはつかしようぐんいえもちおおさかびようし 応二 ( 一八六六 ) 年七月二十日、将軍家茂が大阪で病死した。 だいしようぐんこうほ てきとうおも じんぶつよしのぶ こ ,. で十五代将軍の候補に適当と思われる人物は慶喜をおいてほかになかった。 よしのぶみと とくがわけ みとはん ひとつばしけようし みとはんゅうめい 慶喜は水戸の徳川家 ( 水戸藩 ) から一橋家の養子にはいった人である。水戸藩は有名な みとこうもんみとみつくに そんのうせいしんでんとう そんじようは 水戸黄門 ( 水戸光圀 ) の尊王精神を伝統としてうけ継ぐ家柄で、家臣から尊攘派のサムライ おおだ を多く出している。 しゆけ めいわく そんじようかつどう かれ がいこくじんさっしようじけん 主家に迷惑をかけないために浪人となり尊攘活動をした彼らは、外国人殺傷事件もしば お しば起こしている。 そんじよううんどう かれ A つ、は′、 しようめつ ただ彼らの尊攘運動が「討幕」に行きつくと、とたんにエネルギ 1 が消滅するのは水戸 とくがわ′」さんけ しゆくめいせお 家が徳川御三家のひとつであるという宿命を背負っていたからである。 ちょうていあっ しようぐん みとけしゆっしんひとつばしよしのぶ しせん 朝廷に熱いまなざしを送る水戸家出身の一橋慶喜が、将軍になることに、屈折した視線 たい おく ろ、つにん ひっし いえカら ひと かしん はいしよくのうこう くっせつ みと 8 9-

7. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

かまくらじけん っ ( 鎌倉事件 ) が終了したのである。 あんさっしやにく にほんじんたちば この暗殺者を憎まずにはおれないが、しかし日本人の立場になってこの事件を見ると、 しようじき あき そこく えいゅうてききしつ おとこ 正直なところわたしはなんとしても、この明らかに英雄的な気質をもった男が、祖国を しゆだん しん しんねん こんな手段ですくうことができると信ずるまでにあやまった信念をいだくようになった いかん のを遺撼とせずにはいられなかった。 にほんあんさっしややいばたお 力いこくじんち ほ、つふ′、 しよけい ひとびと しかし日本の暗殺者の刃に仆れた外国人の血も、またその報復として処刑された人々 せいめい こうねん み じゅもくしよう だいち こっかさいせい ひょくちから の生命も、やがて後年その実をむすんで、国家再生の樹木を生ぜさせた大地に肥沃のカ をあたえたのであった。 ちょいちがいこうかんみ めいじ しんさかたせいいちゃく ( ア 1 ネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』坂田精一訳 ) ことば かんどうてき ししん 力いこくじんたいざい サトウのこの言葉は感動的だ。幕末激動期の日本には多くの使臣をはじめ外国人が滞在 ことば して、ものも多く書きのこしているが、こんな言葉を吐いた外国人はいない。 きしどうせいしん ぶしどう きようかん しんにち 日本文化の理解者であり、ヨ 1 ロッパの騎士道精神につうずる武士道にも共感する親日 ヤ」と・は イギリス人サトウだからこそ発せられた言葉だった。 にほんぶんか じん おおか りかいしゃ しゅうりよ、つ はっ ばくまっげきどうき にほ , ル は おお 力いこくじん じけんみ

8. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

とだった。 力いこうかん ベキン へんれき サトウは、外交官としてバンコク、モンテヴィデオ、タンジ 1 ル、北京を遍歴、そして きヤ」′、 えいこく しゅう いんせい イギリスに帰国し、英国デヴォンシャイア州オタリー・セント・メリーに隠棲したが、そ とうきようかぞく けいざいてきしおく のあいだ東京の家族への経済的な仕送りはずっとつづけた。 こ こころ きよういく しじ ちょうなんえいたろう ふたりの子どもの教育にも心をくばった。二十歳になった長男栄太郎はサトウの指示に ちゅうえいこうしはやしただしどうこう よこはましゆっこう より、ロンドンに赴任する駐英公使・林董に同行するかたちで横浜を出航した。サトウは かれ たいカくまな けつかく はっぴょう 彼をケンプリッジ大学で学ばせるつもりだったが、結核を発病したので、アメリカに渡り、 のうじようせいよう 農場で静養させることにした。 えいたろうみま おうふく えいたろう 栄太郎を見舞うためアメリカ回りで日本とイギリスを往復したりもした。栄太郎はルー じよせいけっこん かえ しようわがん シーというアメリカ女性と結婚したが、日本には一度も帰らないまま、昭和元 ( 一九二六 ) ねん さいびようぼっ 年、四十六歳で病没した。サトウが、オタリー・セント・メリーで死ぬ三年まえのことで ある。 じなんひさよしちち ぶんつう 次男久吉と父との文通は、サトウがタンジ 1 ルにいる九歳のときからはじまっている。 じなんひさよしあ つう サトウが次男の久吉に宛てた手紙は、七十八通のこっている。 ふにん てがみ まわ にほん 、に一は , ル さい いちど し ねん わた 168

9. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こうしかんばくふ こうぎしよおく さっしようこうい せきにん 公使館は幕府に抗議書を送りつけた。殺傷行為を幕府が野放しにしていることの責任を ついきゅうしゃざいじようばいしようきんまん ようきゅう こほん 追求し、謝罪状と賠償金十万ポンドを要求した。十万ポンドは、四十四万ドル、印本のお かね まんせん りようにぶにしゅ ばくふ たいきん 金にして、二十六万九千六十六両二分二朱にあたる。むろん幕府にとっては大金である。 ばくふ ばいしよう ひつよう たたか きようこ、フろん 幕府でも賠償する必要はない、ただ戦うのみであるという強硬論をとなえる者がいる。 かれ ようきゅうり おう きょひ しかし一方では彼らの要求は理のあるところで応じなければならないだろう、拒否して戦 ひっしようき ふかのう 争になっても必勝を期することは不可能であるとする意見もある。 けつきよく がわようきゅうしたが たすういけん ばいしようきんまん しはら 結局、イギリス側の要求に従うという多数意見により、賠償金十万ポンドを支払って、 じけんけっちゃく さっえいかんこう やっと事件の決着をみた。しかしこれはイギリスと幕府とのあいだのことで、薩英間の交 しよう 渉はこれからである。 さつま つぎ ようきゅう 薩摩に対しては、次のように要求した。 おそ くびは 一、リチャードソンらを襲った者らを捕らえ、イギリス海軍士官のまえで、首を刎ねる こと。 ころ さつがい 二、殺された者の親族、および殺害をのがれた三人に分与するため二万五千ポンドを支 はら 払一つこと。 きようこ、フしょち おう これを拒めば強硬な処置をとるだろうと威嚇したが、薩摩はまったく応じようとしない。 そう いつぼう たい ものしんぞく もの ばくふ にんぶんよ まん しーん さつま かいぐんしかん のばな まんせん まん もの せん

10. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

しようぐんざ けて将軍の座についた。 じじよ、フ ア 1 ネスト・サトウはそうした幕府の事情をちゃんとっかんでおり、これから先どうな ちゅうい せいきよくへんか つよきようみおぼ るのだろうと、強い興味を覚えながら政局の変化に注意していた。 ばくふ さき 100