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検索対象: アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官
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1. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

さつまじゅうしんよしいこうすけともざね きよ、つとはんてい さいごうかいしゅうあ 西郷が海舟に会ったのは、京都藩邸にいる薩摩の重臣吉井幸輔 ( 友実 ) らにすすめられて じんぶつ のことだが、この人物にたちまち惚れこんでしまい、しかも時代を見る目を大きくひらか された。 さいしよう そうろうところじつおどろいそうろうじんぶつ かつうじはじ めんかい 「勝氏へ初めて面会っかまつり候処、実に驚き入り候人物にて、最初は打ちたたくつも も、っそ、つろ、つ ちりやく こそうろうところ あたまさ りにて差し越し候処、とんと頭を下げ申し候。どれだけ智略のあるやら知れぬあんばいに あ てがみ もうそうろうさい′フおおくぼ みう 見受け申し候」 ( 西郷が大久保に宛てた手紙 ) ことば かいしゅうくち ばくふ つうれつひはん ばくしん なによりも幕臣である海舟の口から、幕府を痛烈に批判する言葉がばんばん飛び出すの におどろいた。 だめ がいこくれんごうかんたいちょうしゅうこうげき ばくふ 「幕府はもう駄目だねえ」などという。外国連合艦隊が長州を攻撃しようとしているのを ていきよう やくにん かんもんかいきようちず ふうみ ばくふ 幕府は傍観している。むしろよろこんでいる風に見え、関門海峡の地図など提供する役人 もいるとい一つことに。 にほん きゅうそくへんか かいしゅうあ さいごうしせい 幕府に対する西郷の姿勢は、海舟に会ってから急速に変化した。それは日本という国を ちょうしゅうにく こんぽんてきもんだい このまま幕府にまかせてよいのかという根本的な問題にもかかわっている。また長州憎し しこう も み れいせい かいめつねが とばかりその壊滅を願うことが、薩摩にとってどのような意味を持つかという冷静な思考 さい」うきようちゅうめば が西郷の胸中に芽生えるときでもあった。 ばくふ ぼうかん さ ばくふ さつま じだい み め し おお だ 112

2. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

ろんぎ と、つばくしよし かんてつ じゅうだいかいぎ とのえ、あくまで討幕の初志を貫徹するかを論議する重大な会議だった。 ま、も あやま しゃざいきようじゅんろん はんしゆたかちか ばくふ 藩主敬親は、ひたすら幕府に謝って身を守ろうとする「謝罪恭順」論をしりぞけて、幕 したが ぶそ一つ とうばくきかいねら ぶびきようじゅん 府に従うふりをしながら武装して討幕の機会を狙う「武備恭順」とし、あくまでも幕府へ けってい たいこうしせい の対抗姿勢をとる決定をくだした。 じゅう よるきゅうしんは いのうえもんた しかく おそ ところがその夜、急進派の井上聞多が刺客に襲われ瀕死の重傷を負わされた。さらに重 はんなん じさっ しんすふまさのすけ せきにん 臣の周布政之助が、藩難をまねいた責任をとって自殺してしまった。 ぞくろんとう じつけん じようきよういっぺん 状況は一変して、保守派の「俗論党」が実権をにぎることになったのである。 むくなしとうた ぞくろんとうしゆかいあくじ ちゅうしんじんぶつ 「俗論党の首魁 ( 悪事の中心人物 ) 」といわれた椋梨藤太のもとに、およそ二千人にのばる はんし けっしゅう 藩士のほとんどが結集している。 ほうけんかしんだん ふる この封建家臣団は、古くからあたえられている特権身分にしがみついており、要するに ぶしきゅうりよう はんじぶんじしんあんたい 藩と自分自身の安泰だけを願っている世禄 ( 代々もらっている武士の給料 ) のサムライた ちだった。 ふ ほしゅは ねが せいろくだいだい み とつけんみぶん ひんしじゅうしようお せんにん よう ばくふ ばく 9

3. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

みとはんそんのうじよういろん くにふくざっ 幕府の親戚のような水戸藩が尊王攘夷論をかかげているところに、日本という国の複雑 おそ さがあるが、とにかくこのころ日本にやってくる外国人にとって、もっとも恐ろしいのは きけん じよ - フいしゅぎ かれ 長州と水戸のサムライたちだった。とくに水戸浪士が危険だ。攘夷主義の彼らが、外国 じん ころ みと じよういろ、つし 人を狙っているからだった。すでに何人かのイギリス人が、水戸の攘夷浪士に斬り殺され ているのだ。 そとで じゅうぶんき ちゅうい 「外に出るときは、充分、気をつけるように」と、注意された。 よこはまじようりく ぶんきゅう ねんがっ むいかご サトウが横浜に上陸した文久二 ( 一八六一 l) 年八月十五日から六日後には、さっそく横浜 こうがいなまむぎ しようにんざんさっ じけんお 郊外の生麦で、イギリス商人が斬殺される事件が起こった。 さわ お ちょうしゅう みと さつま 騒ぎを起こしたのは、長州でも水戸でもない薩摩のサムライである。 うまの しようにん ぶしゅうかながわけんなまむぎむらかいどうとお その日、馬に乗って散策中のイギリス商人たちが、武州 ( 神奈川県 ) 生麦村の街道を通り しまづひさみっさつまはんしゅしまづただよしちち ぎようれつみだ ひさみつはんべいせんにん かかった薩摩の島津久光 ( 薩摩藩主島津忠義の父 ) の行列を乱した。久光は藩兵千人をひ 当、よ、つと ともがしらならはらきぎえもん じんぶ きつれて江戸から京都にむかうところだった。供頭の奈良原喜左衛門らがイギリス人の おこ ざんさっ きずお 礼を怒って、リチャードソンを斬殺し、ほかのふたりに傷を負わせた。 かながわぶぎよう じけんきゅうめい ぎようれつ ようきゅ、つ 神奈川奉行は、薩摩藩に下手人のひき渡しと、事件糾明のため行列のひきとめを要求し ろうにんてい おかのしんすけ あしがる たが、浪人体のものが襲ったとし、また外人を斬った岡野新助という足軽はそのままげ ちょうしゅ、つみと じんねら ばくふ ひ さつま しんせき さつまはんげしゅにん さんさくちゅう おそ にほ , ル なんにん 力いじんき わた みとろうし 力いこくじん にち にほん 力い」′、 よこはま 2 っ】

4. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

きよ、つときゅうてい 「京都で宮廷クーデターが成功したらしい」 じよ、つほうこうしかん そんな情報が公使館にとびこんできたのは、八月十八日の午後である。 しゅう あ ひ そうちょういつばつごうおん こ , フきよそらひび さつまへい その日の早朝、一発の轟音がまだ明けやらぬ皇居の空に響きわたった。薩摩兵たちの集 ′、、つほ、つ けつお じゅんび 結が終わり、すべての準備がととのったことを知らせる空砲である。 いいたたけじろ、つ さかいまちもんけいえいちょうしゅうはんべい ちょうどそのころ堺町門警衛の長州藩兵がやってきた。藩士飯田竹次郎らが、門をはい ろうとすると、 ちよくじようてんのうめいれい 「勅諚 ( 天皇の命令 ) により入衛を許さず」 た たけじろ、つ いそはんてい さつまへいおおごえはっ と、薩摩兵が大声を発し、銃を構えて立ちはだかった。おどろいた竹次郎らは急ぎ藩邸に き はんてい きんちょう ほ、っせい 駆けもどった。藩邸でも砲声を聞いてようやく目覚め、何事かと緊張していると「ろだっ かろうますだえもんのすけけらい 家老益田右衛門介は家来に命じてようすをさぐらせる一方、藩邸内にいる四百の兵を武 そ、つ へん 装させて変にそなえた。 そんじようはし しんばくは ちょうしゅうはんがわ 長州藩側はこのときになり、はじめて宮廷を支配した親幕派によって尊攘派が閉め出 されたことを知るのである。 ちょ、フしゅうはん にんきようと ついほう さんじようさねとみちょうしゅう 長州藩および三条実美ら長州よりの公家七人は京都から追放された。 し じゅうかま せいこう にゆうえいゆる きゅ、フていしはい し めざ がっ なにごと にちごご いつぼうはんていない はんし ひやくへい もん 6 -4

5. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

ぶみ はんし こうし さいねんしようざいにちがいこくししん ねんかんちゅう 新任のパ 1 クス公使は三十七歳、最年少の在日外国使臣として、これから十八年間を駐 こ、フし 日イギリス公使として、敏腕をふるうことになる。 つうやくかん 。かんカカ 通訳官のサトウとは、ゝ 力ならずしも考え方が一致しなかったが、それでもサトウの意見 かつやく にはよく耳をかたむけたので、ふたりはコンビを組んで活躍した。 つうやくかんしようしん つうやくせい その年六月、サトウは通訳生から通訳官に昇進した。 しようきゅう ねんぼうひやく にほんかへし それで年俸二百ポンドから四百ポンドに昇給した。そのころの日本の貨幣に換算すると、 せんりよう 四百ポンドは、およそ千両にあたる。 げんだい けいさんしかた いっせんまんえん これを現代にあてはめると、計算の仕方にもよるが年収およそ一千万円というところだ。 さい たと、フ みならいきかんお つうやくかん 見習期間を終えたばかり二十二歳の通訳官なら妥当というところだろう。 」、つし ねんぼう ちなみに公使の年俸は二千ポンドである。 」っし としわかつうやくかん しんにんえ ノ サトウは年若い通訳官としては、めざましいはたらきぶりで、 1 クス公使の信任を得 こうわだんばんつうやく ちょうしゅうはんじゅうよ、つかつどう れんごうかんたいしものせきこうげき た。連合艦隊の下関攻撃では講和談判の通訳をつとめ、長州藩で重要な活動をしている いのうえもんた おおくらきようがいむきよう いのうえかおる とうしゅんすけしょだいそうりだいじんいとうひろ 藩士の井上聞多 ( のちの大蔵卿・外務卿の井上馨 ) や、伊藤俊輔 ( 初代総理大臣・伊藤博 こうゆうふか おおぜいひとし 文 ) らとの交友を深め、そのほか大勢の人と知りあった。 ざいにちがいこくじん さいこうにほんつう なによりもサトウは、在日の外国人のなかでは最高の日本通として有名になっている。 にち しんにん ひやく としがっ みみ びんわん せん ひやく いっち ねんしゅう ゅうめい かんさん いけん

6. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

鳥羽・伏見の敗戦を見て諸侯の幕府離れが相次いだ。もはやどう足掻きようもないこと しようぐん さい′」 きゅうざかか とくがわよしのぶ を知ったあとの徳川慶喜は、急坂を駆けおりるように逃げを打ちはじめた。最後の将軍ら かれのぞ しようへい せんじようさんげ しく将兵たちと戦場に散華するといった覇気は、彼に望むべくもなかった。 がっとおかあかっき よしのぶの 力いよ、つまる きしゅうおおしまおきぼうふうふ おおさかじようだっしゆっ 大阪城を脱出した慶喜を乗せた開陽丸は、紀州大島沖で暴風に吹かれ、一月十日の暁に ゅうこく かんしゅてん 、つらカこ、つ はちじようじまおきただよ かぜ は八丈島の沖を漂った。ようやく風がおさまったので艦首を転じ、夕刻になって浦賀港に はまごてんじようりく にちみめい しながわおき はいることができた。それから品川沖に至り、十二日の未明、浜御殿に上陸した。 くわなりようはんしゅしようさい あいづ りくぐんそうさい かっかいしゅうはまかいぐんしよか 陸軍総裁・勝海舟が浜の海軍所に駆けつけ、会津・桑名両藩主に詳細をたずねようとし くち 力いりやくき いたくらかくろ、つ かおっちけいろ たが、ふたりとも顔を土気色にして口をきかない。やっと板倉閣老から概略を聞くことが えどじよう えどじよう かれ よしのぶきば ごぜん できた。午前十一時すぎ慶喜は騎馬で江戸城にはいる。彼にとっては、はじめての江戸城 」っ一」 0 しんげん しゃざいきようじゅん よしのぶ かっかいしゅうかいけいそうさい おおくぼいちおう 勝海舟と会計総裁・大久保一翁らは、慶喜にひたすら謝罪恭順するほかないことを進言 しゅうまく し ふしみ はいせんみ じ しょこうばくふばな いた 、つ あが 134

7. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

せわ りようま いっちゅうや ねつべん てにふらなかった。竜馬はあきらめない。熱弁をふるって五卿を説きふせるのに一昼夜か りろん りようまねつい ごきようせいろんじきよくたい かった。ようやく竜馬の熱意にほだされた五卿は正論 ( 時局に対する正しい理論 ) として さっちょうれんごうさんせい の薩長連合に賛成する。 りようまばくふ たたか はなし こんなんもんだい 話がまとまるまでには、なお困難な問題があったが、竜馬は幕府と戦うための小銃をほ ちょうしゅう ちゅうかい ながさき さつま しがっている長州のために薩摩を仲介として、長崎のイギリス商人グラバ 1 から三千挺を きようと さい′」う かつらかいけん きゅうそくさっちょうりようはんちか 世話したりした。急速に薩長両藩を近づけ、ついに京都での西郷と桂の会見にまで、こぎ つけたのである。 けいおうねん しゅ、つし た 終始ライバルとして長州藩のまえに立ちはだかった薩摩藩は、慶応二年というぎりぎり せいじりよくちょうしゅうじん と , つばくじんえいうつ のときになって、討幕の陣営に移ってきた。はやいかわり身と、その政治力は長州人をは しんじぎよ一つせいこう るかにしのぐものだが、やはり薩摩なくしては維新事業の成功はなかっただろう。 きようとさつまはんてい かつらこごろうみよしぐんたろうしながわやじろう ちょうしゅういっこ、つ 長州の一行ーー桂小五郎・三好軍太郎・品川弥二郎ーーが京都薩摩藩邸にはいったの ねんがつようか としあ けいお、つ は、年が明けて慶応二 ( 一八六六 ) 年一月八日である。 はなあ ふんいき さかもとりようま 坂本竜馬もかけつけて、むずかしい雰囲気もなごみ、たがいに腹をわっての話し合いが すす 進んだ。 ちょうていたい たいこうう へいりよくきようとしゅうへんはいち ばくちょうせんかいし 「幕長戦が開始されれば、薩摩は幕府に対抗し得る兵力を京都周辺に配置し、朝廷に対し ちょうしゅうはん さつま さつま ばくふ さつまはん やこきよ、つと み しようにん はら ただ しようじゅう ぜんちょう 8

8. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

ごう ぐんかん じこくしようせんおそ がつついたちごぜんじ 六月一日午前十時。アメリカの軍艦ワイオミング号が、自国の商船を襲われたことへの よゝまく じよ、つい ちんぼっ ほうふくらいしゅう ちょうしゅうはんぐんかんせきたしー 報復に来襲した。この海戦では長州藩の軍艦三隻が大破、沈没という敗北をきっし、攘夷 こころざし せんようそう 戦の様相は、こと志とちがう方向にかわってきた。 力し 力いかん、つ 五月中におこなわれた三回にわたる外艦撃ち払いは、戦いというほどのものではなく、 に かれ 不意を襲われて彼らが逃げ去るというものでしかなかった。 ちょうしゅうぐんれっせいおお きゅうしきへいき ほんかくてきこうせん 本格的な交戦となると、旧式兵器しか持たない長州軍の劣勢は覆うべくもなかった。皮 てんの、つほうちよく ひちょうしゅうはんじよういじっこ、ったい 肉にも、この日は長州藩の攘夷実行に対する天皇の褒勅がくだり、意気がおおいにあがろ やさきはいせん うとする矢先の敗戦だった。 せきほうふくらいしゅうまえだほうだい がついっかそうちょう 六月五日早朝。フランスの軍艦セミラミス、タンクレードの二隻が報復来襲、前田砲台 おも ちんもく じようりくふきんむらせんりようや りくせんたい を沈黙させたうえで陸戦隊が上陸、付近の村を占領し焼き払ってひきあげるという思わぬ さんじよう れんごうかんたい ふうせっちょうしゅうはんおび 惨状となった。やがて連合艦隊が来襲するという風説が長州藩を脅えさせた。 ぐんじりよく ほ * よ、つ はんめい がつむいか たかすぎしんさく しものせきか 六月六日は高杉晋作が藩命によって下関に駆けつけ、正規の軍事力を補強する新しい民 れんごうかんたい こうせん ぺいそしき きへいたい けっせい 兵組織としての奇兵隊を結成。きたるべき連合艦隊との交戦にそなえて、フランス軍に破 しよう しゅうふく へいき 、力し ほうだい げいげきたいせい 壊された砲台の修復など迎撃態勢をととのえる。しかし使用する兵器は、いぜんとして貧 しんこくききかんたか じゃく 弱なものでしかなく、ようやく深刻な危機感が高まってきた。 ふ がっちゅう おそ かいせん さ ぐんかん ほ , っ」、つ らいしゅう も はら たたか せいき はら あたら ぐんは ひ みん ひん

9. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

りよこうき ろん か ひきうけて最初のころは日本国内の旅行記など書いていたが、そのうち政治を論じてみ よっきゅう おも たいと思うようになった。ほとんどおさえがたい欲求だった。 ゆる ふごうり ばくふ ろんぶん さんぶつ ふねよこはまこ、つ その論文は、産物を積んだ薩摩の船が横浜港にはいるのを幕府が許さないという不合理 カ にほんかくめい かたひはん なやり方を批判することから書き出しているが、ついに日本の革命をうながすほどの、き げきろん わどい激論となったのである。 つうやくかん ひはん こうしかんづ せいじろんぶんこうひょう こうぜんばくふ しかしイギリス公使館付き通訳官として、公然と幕府を批判する政治論文を公表するの もんだい とノ、めい ふくむきてい 」、つい は、むろん服務規定に反する行為である。匿名にしてもいずれは、ばれて問題になるかも しれない。 「そんなことは、ど一つでもよい」 はっぴょう おも おも と、サトウは思った。これを発表せずにいられようかと思った。 げ・んこう むだい むしよめい けいおうねんがっ せいれき サトウの原稿は、無題・無署名で慶応二年二月に ( 西暦一八六六年三月十六日から五月 にち ぶんさい 十九日にかけて三回 ) 「ジャパン・タイムス」に分載された。 。カ ひょう おも イギリス人のあいだでは「だれか知らぬが、よく思いきったことを書いたものだ」と評 よ ばん えいじしんぶん 判になったが、英字新聞なので日本人でそれを読める人はほとんどいない。 しようぐんばくふ ろうじゅう サトウは将軍や幕府の老中にこそ、そしてとくに薩摩、長州をはじめ日本人のすべてに じん さいしょ はん っ にほんこくない さつま にほんじん だ し さつまちょうしゅう ひと ねんがっ にほんじん せいじ にち がっ 103

10. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

ぶ かん さいあくじよ、つきよう けいせいぎやくてん せんりよう 部を占領されるなど最悪の状況になると、形勢は逆転した。 すき ばくふがわた さつま きょ一フとはば あいづぼうりやく その隙をとらえて幕府側に立っ薩摩と会津の謀略によって、それまで京都で幅をきかせ ちょうしゅうはん いっそう ていた長州藩は、一掃されてしまった。 はち きよ、つと」しよきゅ、ってい むけっ この京都御所 ( 宮廷 ) での無血クーデターは、文久三年八月十八日だったので、八・一 はちせいへんよ 八政変と呼ばれる。 そんのうは ちょうしゅうはんじようい 「尊王派にとっては大打撃だ。長州藩の攘夷もこれで、やむかもしれない」 こうしかん ひといき イギリス公使館は、ほっと一息ついたかたちである。 あんしん しものせきかいがんほうだい だが、まだ安心はできない。下関海岸の砲台はそのままだ。フランス軍から壊されたの しゅうふく つぎたたか かんもんかいきようじゅ、つつうこうほしよう を修復して次の戦いにそなえているというから、関門海峡の自由通航が保証されたわけで 、まよ ) 0 オし 」、つし にちえいぼうえき ちょうしゅうはんかいきようふうさだげき しず ながさき 長崎の日英貿易は、長州藩の海峡封鎖で打撃をうけて沈みかえっている。イギリス公使 こうしふざい 館ま、 ) 、 しせんとしてオルコック公使不在のままだ。 よこはま しようきぼ ながさきこうぼ , フえき ひょうご 長崎港の貿易は、横浜にくらべれば小規模なものだが、対日貿易の二〇 % を占め、兵庫 とうじ 力い」、つ じゅうよ、つぼうえきまどぐち ( 神戸 ) 、大阪がまだ開港されていない当時にあっては、西日本における重要な貿易の窓口 であることにかわりないのである 」、つべ おおさか ぶんきゅうねんがっ にしにほん たいにちぼうえき にち ぐん こわ し 0