あし たず つうやく よこはま こうしかん ぐんかん力いよ、つ 力いこくじんきよ、つかん の軍艦「開陽」の外国人教官のことで、横浜の公使館にパークスを訪ねたとき、通訳した のがサトウだった。それ以来のつきあいである。 ちょうしゅうきなし あ きよ、つ ークスさんと長州の木梨さんが会いました」 「ムフ日、 ちょうしゅうはんし きなし とうかいどうせいとうぐんさんぼう しんせいふ サトウがいった。木梨とは新政府の東海道征討軍参謀などをつとめた長州藩士である。 ちょうしゅうきなしあ 「ほう、長州の木梨が会いに行ったのですか」 よこはまかれよ 「いや、 ノ 1 クスさんが、横浜に彼を呼んだのです」 はなし 「どんな話をしておりましたか」 かいしゅうみ 海舟が身をのり出した。 きよう 「パークスさんが、勝さんに知らせておけといいましたので、今日やってきたのです。あ はなし なたたちにとって、わるい話ではありません」 にほんじんがわ えどそうこうげきえんき サトウは笑いながら江戸総攻撃が延期になるかもしれないので、日本人の側もしつかり こうし ことば った 足がためをしてもらいたいというパークス公使の言葉を伝えた。 よこはまきよりゅうちあんぜんおびや ヤ」、つ・け・き ークスは政府軍が江戸を攻撃して戦争になったとき、横浜居留地の安全が脅かされる とくがわよしのぶきようじゅんたいど けねんきなしった のではないかという懸念を木梨に伝え、徳川慶喜が恭順の態度を見せているのに、これを ばんこくこうほう とうばっ 討伐するのは『万国公法』にもそむくことになるといっているという。 わら せいふぐんえど だ かっ し せんそう み 151
こうし けいおう ぐんかん こ、つか′」しま 慶応二 ( 一八六六 ) 年八月、イギリス公使パ 1 クスは、軍艦アーガス号で鹿児島にむかっ さつまはんしゆただよしかいだん ただよしちちひさみつ ツ」 / 、ふ た。薩摩藩主・忠義と会談するためである。それまでは忠義の父久光が国父として独裁権 こうぶがったいさくすす おとろ かきゅうぶししゆっしんさい をにぎって公武合体策を進めていたが、幕府の権威が衰えたころから、下級武士出身の西 ちゅうしん 郷らが中心となって薩摩をうごかしている。 ヤ」、フし はんしゆただよしほうもん ークス公使は表むき藩主の忠義を訪問するが、実の相手は西郷である。彼とならぶ大 はんてい さい′」う かいだん 物の大久保は江戸の藩邸にいるので、西郷との会談となった。 レ J 、つツ」、つ かごしまゆ つうやくかん ークスの鹿児島行きには、もちろん通訳官としてサトウが同行する。 けいおうねんがっ ちょうしゅうぐんゅうい じちょうしゅうせいばつばくぐんちょうしゅうぐんせんとう 慶応二年八月といえば、第二次長州征伐の幕軍と長州軍の戦闘が、長州軍優位のうちに しゅうけっ さつま あんしん ちょうばくせんそうみまも 終結をむかえているころである。長幕戦争を見守っていた薩摩がひと安心しているところ こ、つし ほ , つもん 力い」、つ に公使が訪問するというのも、イギリスらしい外交である。 さっえいせんそういらい しんこうふか じゅうだいじき 薩英戦争以来イギリスと薩摩は、親交を深めている。重大な時期、さらに友好を確かめ ものおおくぼ であ さまざまな出会い えど おもて さつま ねんがっ たい さつま ばくふ けんい じつあいて さいこ、フ かれ ゅうこうたし どくさいけん おお 114
こうしおそ ークス公使襲われる えのもとたけあきしん 鳥羽・伏見の戦いからはじまった戊辰戦争は、北に戦線をのばしていく。榎本武揚は新 ばくぐん はこだて。こりよ、つかく せんぐみざんとう 選組の残党はじめ幕軍をまとめて箱館五稜郭にはいり、新政府に抵抗している。 イギリス、アメリカ、オランダ、フランス、イタリア、プロシアの六カ国が、局外中 りっせんげん 立を宣言した。 さっちょう しゅどう けんせい これはパ 1 クスの主導によるもので、フランスを牽制する意味もふくんでいる。薩長を じよ、つきよう イギリス、幕府をフランスがあとおしする状況ははやくからのものだったが、幕府の旗色 そ、つとうこし がわるくなってからはフランスも相当に腰がひけてきた。 えいこくさくろん あおじゃしん さっちょうちゅうしん 薩長を中心とする新政府ができあがるとなれば、サトウが『英国策論』に描いた青写真 どおりに事ははこんだわけだ。 も、フで ぐんしきんていきよう とくがわよしのぶ 武器や軍資金は提供すると申し出て、徳川慶喜からことわられもしているフランスが、 やっかい このうえおかしなうごきをしてくれても厄介だ。 と ぶき 0 、 ふしみ こと ばくふ たたか しんせいふ ぼしんせんそう きたせんせん しんせいふ み ていこ、つ えが ばくふ きよく力いちゅ、つ はたいろ 143
こうべじけんせきにん びぜんはんかろうひきたてわきかしんたきぜんざぶろう 神戸事件の責任は、備前藩家老・日置帯刀の家臣・滝善三郎にあるとし、彼に切腹させ たきたいちょう じゅうげきめい ることになった。滝は隊長として銃撃を命じたのだという。 たき こうし つみふく じよめい ねがで 「滝はいさぎよく罪に服すといっている。イギリス公使から助命を願い出てもらえるなら、 かれし 彼は死をまぬがれることになるが」 というのである。 たいど ぐんひ力い ノ ークスはそうしてやってもよいという態度を見せた。イギリス軍の被害はないのだし、 けんりよくきそ さっちょ , ついこ、フ おも まもなく権力の基礎をかためる薩長の意向にそっておくのがよいのではないかと思う。 ころ もん ざいりゅうがいこくじん 「それはいけません。殺されたのがイギリス人でなくても、これは在留外国人すべての問 こんご せきにんしやげんじゅうしよばっ ひつよう 題です。今後のこともあるので、見せしめとしても責任者を厳重に処罰する必要がありま いけん どうりようつうやくかん だま そのサトウの意見に、同僚の通訳官ミッドフォ 1 ドも賛成したが、パ 1 クスは黙ってい こうし もんだい ろんぎ しょち 力いこくこうし しゅちょう 問題は外国公使のあいだで論議された。その席でもパークス公使は寛大な処置を主張し かいぎ じかん しつこう けつろんたっ せんこく たが、会議は三時間もかかって、宣告どおりに執行するという結論に達した。 じゅんび たきぜんざぶろうせつぶく 準備はととのっていたので、滝善三郎の切腹はその夜のうちにおこなわれることになり、 み じん せき み よる さんせい かんだい かれせつぶく 139
学カカ こうしかん ている。イギリス公使館には、絶対必要な人だ」 「承服できません」 つうやくかん しよきかんしよ、つかく ちゅうおうこうしかんきんむ 「どうして通訳官から書記官に昇格して、中央の公使館に勤務するのが不服なのか、ばく には、きみの気持ちがわからない」 じよお、つへいか 力いこ、つかん さいしょ きぼう 「わたしは女王陛下の外交官になりたいのです。最初からその希望を抱いて、日本にやっ りようじじよおうへいか ) 。に , ん にほんごしよきかんしよく じよおうへいか てきたのです。領事は女王陛下の委任をうけるのに、日本語書記官の職は、女王陛下の委 ぞんじ 力いこ , つかん 任をうけた外交官ではありません。そのことはご存知のはずです」 力いむしよ、フ じようしんしょていしゆっ 「そうかね、では外務省にそのことを書いた上申書を提出したまえ」 」、つし ふきげん いた ークス公使はひどく不機嫌になったが、サトウから痛いところをつかれて、なにもい つうやくかん つうやくかんいじようしごと えなくなった。パ 1 クスはそれまでサトウが通訳官としてそばにいて、通訳官以上の仕事 をしてくれるので、たすかっていたのだ。そばを離れられてはこまるのである。 りよ、つじしよく しようにんようきゅ、つ じようしんしょていしゆっ サトウは領事職への昇任を要求する上申書を提出した。しかしそのうちに鳥羽・伏見の せんか がいこくきよりゅうみんあんぜんおか 戦いがはじまり、戦火のために外国居留民の安全が侵されないようにしなければならない。 ほんそう まいにち こうしかんじんじ 1 クスもサトウも、しばらくは奔走する毎日で、公使館の人事などにかまってはいられ なくなった。 にん しようふく ぜったいひつようひと はな ふふく と にほ。ん ふしみ 126
さいこっ かいしゅ , つりようま 西郷・海舟・竜馬とサトウ にほんかつやく さいったかもりかっかいしゅ、フさかもとりようま かつらこごろう 幕末の日本で活躍した三傑とえば、西郷隆盛・勝海舟・坂本竜馬だろうか。桂小五郎 おおづ えどかいじよ一フ さい′」うかいしゅ一フう もはいるかもしれないが、いよよ大詰めの江戸開城となると西郷と海舟が浮かびあがっ てくる。 こうし それにイギリス公使のハリー・ ークス、そしてアーネスト・サトウである。そこでは ひとひと であ 人と人との出会いというものが、さまざまにからんで複雑な政局をうごかしたのだ。 かいしゅうしんげん ばくふ かいぐんそうれんじよそうせつ ぶんきゅう ねんがっ 海舟の進言により、幕府が神戸に海軍操練所を創設したのは、文久三 ( 一八六一一 l) 年四月 よくげんじがんねんがっ きんもんへん そうれんじよたてものかんせい だった。翌元治元年五月、つまり禁門の変の二カ月まえには操練所の建物も完成し、近代 てきかいぐん 力いしゅうナゝ、 ーしカくき′」、つ かれ 的海軍をつくりあげようという海舟の計画は軌道にのりつつあった。 , 。 彼まあらためて軍艦 ぶぎようめい 奉行を命じられている。 じんぶつあ ばくまつじようせいてんかい れきしてきかいこ、フおも そのころ勝海舟は大阪である人物と会った。幕末の情勢を展開させる歴史的な邂逅 ( 思 あ さいごうかっかいしゅう であ いがけなくめぐり会う ) ともいうべき西郷と勝海舟との出会いである。 ばくまっ かっかいしゅうおおさか さんけっ こうべ しゝし ) ふくざっせいきよく ぐんかん きんだい 111
よ おも 読ませたいと思った。 えいぶんげんこうわやく あ 英文の原稿を和訳することにして、正確を期するため知り合いの徳島藩の家臣・沼田寅 さぶろ、フきよ、つりよくたの 三郎に協力を頼んだ。 ぬまた さくろん ないよ、つ やはり題をつけることにして、沼田は『策論』がよかろうという。たしかにそれは内容 にふさわしい題だった。 さくろん せんじ ろんぶん はんしゅはちすかもち できあがった『策論』は、約六千字にのばる論文だった。沼田はそれを藩主の蜂須賀茂 りようしよう あきみ もちあき かんしん きようかん 韶に見せたいという。サトウは了承した。茂韶はおどろいたがひどく感心し、共感して、 しやほん かいらん ひそかに写本をつくり親しい大名に送った。それが回覧され、しだいに流布されていく。 いんさっ おおさかきようとしょてんう やがてそれを印刷したものが大阪・京都の書店で売りに出されるということになってし ちよしゃ ちょ えいこくしかん ゅ しぜんな まった。しかも著者が「英国士官サトウ著」となっているのも、自然な成り行きだろう。 よ イングリッシュポリシイ ろんぶん えいこくじん えいこくせいさくろん サトウのその論文は、 English Po = cy と呼ばれ、英国人サトウの『英国政策論』という よ えいこくさくろん みふめいだい のを、略して『英国策論』と、ちょっと意味不明な題になってひろく読まれ、サトウの名 さレ」、フ よ にほんじんか おも が知られるようになった。サトウを「佐藤」と読んで、どこかの日本人が書いたのだと思 う人もいた。 」、つし よ えいこくさくろん かれたんき おおごえ ークス公使も『英国策論』は読んでいるはずだった。彼は短気でよく大声でどなりつ し ひと りやく たい 十ーし した だいみようおく せいかくき し ぬまた とくしまはんかしんぬまたとら るふ 104
こ、つつ′」う かっこくちゅうりったちば このさいは各国が中立の立場をとってくれるのがイギリスとしては好都合だった。そう A 」′、い ゅうのうじよしゅ せいじこうさく した政治工作はパークスの得意とするところだが、そこはサトウという有能な助手がいて うまくはこんだのである。 かれりよ、つじしよくしようかく てもと つうやくかん 彼の領事職昇格をはばんで、いつまでも通訳官にしておくというのも、サトウを手許か かた らはなすまいとするパークスのずるいやり方だった。 ぜっみよう 力いこ、つかん ノ ークスとサトウは、いわば絶妙のコンビを組むイギリスの外交官として幕末の日本で かつやく にんげんかんけい 活躍したのだが、 ふたりの人間関係はしだいに冷えきったものになっていった。 ぼしんせんそう けいおうねんがっ にち にちせいれきがっ きようと物こしょてんのう 戊辰戦争たけなわのころの慶応四年二月三十日 ( 西暦三月二十三日 ) 、京都御所で天皇が りようこうし りようじえつけん イギリス・フランス両公使とオランダ領事と謁見しようという。 ていこ、フせいりよくさわ せいじたいせい 、力い」′、 抵抗勢力は騒いでいるが、新しい政治体制はととのっていることを外国にしめそうとい うのだろう。 ひ こ、つし にほんごしよきかん きよ、つと その日、例によってサトウは日本語書記官としてパークス公使に付添い、京都に行き宿 しゃちおんいん 舎の知恩院にはいっこ。 こうし がいこうじむかん いっこ、つ フランス公使のロッシュとオランダの外交事務官ポルスプルックの一行が皇居にむかっ こうし しゆっぱっさいご しゆっぱっ ひか あ てんのうめんぜんあんない て出発、最後にイギリス公使が出発した。控えの間でおち合い、天皇の面前に案内される あたら ひ ま つきそ ばくまっ こ、つきょ にほ・ん しゆく 144
ちじよく もくてき・しゅうげ・き りつばせつぶく 目的で襲撃をおこなったサムライには、自分の手で立派に切腹することを許さずに、恥辱 ほ、つりつ てきぎんしゆけい ・カ りきせつ 的な斬首の刑を課すような法律をつくらなければならないと力説した。 こうきよさんだい しよ、つだく みつかご てんのうえつけん じけんかいけっ 事件が解決したので、 ークスは天皇に謁見することを承諾し、三日後、皇居に参内し えんどうけいかい ぎようれつかんそ た。この日の行列は簡素なものとなり、沿道の警戒はものものしいものだった。 えいきゅうふへん りよ、つこくこうさい きこくくんしゆけんざい ねが てんのう 天皇からは「貴国君主の健在を願う。両国の交際がますます親睦をくわえ、永久不変の いかん こうきよさんこうふししよう ふこうじけんふか きぼう ものとなることを希望する。皇居参向の節、生じた不幸な事件を深く遺憾とする」という こと◆は 意味の言葉があった。 こうし きへいか じよおうへいか これに対してパークス公使は「陛下、女王陛下は健在でおられます。貴陛下のおたずね おお ほ、つヤ」′、 ゅうぎ ゅうじよう と友誼 ( 友情 ) の保証をわが政府に報告することは、わたくしの大いなるよろこびとする しゅうげき へいかすす ものであります。本月十三日、わたくしに対しておこなわれた襲撃について、陛下が進ん ほんじっ きおく げんきゅう たいど かんめい で言及された態度に深く感銘するものであります。これに関する記億は、陛下が本日、わ さ こた ていちょうおうせつ たくしにあたえられた丁重な応接によって、ぬぐい去られるでありましよう」と答えた。 にちしよけい やまとじようれんじそうさえぐさしげる 捕らえられた大和浄蓮寺の僧・三枝蓊は、二十七日に処刑された。 げつご しんぶん しゅうげきじけん このパ 1 クス襲撃事件は、三カ月後、フランスの新聞「ル・モンド・イリュストレ」に、 ちゅうもく せかい さし絵つきで大きく報じられ、世界じゅうの注目をあびた。 いみ AJ え ひ たい おお ほんげつ ほしよう ほ , っ ふか にち せいふ へいか じぶんて たい けんざい かん しんぼく ゆる へいか 149
とばぐち じゅうたいせんにん さつまぐんゅうせい せんとうすす 鳥羽ロでははじめ薩摩軍が優勢に戦闘を進め、草むらにかくれていた銃隊千人のいっせ こんらん しやげき さつま たいおそ い射撃をうけて、混乱する幕兵に薩摩の斬りこみ隊が襲いかかった。 も たたか たぜい あいづ いきお はくへいせんせつきん しかしすぐに会津の精鋭が勢いを盛り返し、白兵戦 ( 接近しての戦い ) になると多勢に さつまぐんあらて ちょうしゅうぐんきへいたし くせん おしまくられて苦戦におちいった。そこへ長州軍の奇兵隊が駆けつけ、また薩摩軍の新手 もうしゃ きよ、つ・け・き ばくぐんそう じゅうたい の銃隊があらわれて猛射をあびせた。挾撃されて幕軍は総くずれになる。 けんかくささきたださぶろう きよ、つとしし おそ さかもとりようまあんさっげしゅにん 京都で志士たちを怖れさせ、坂本竜馬暗殺の下手人とも疑われる剣客佐々木只三郎は、 たんしんさつまぐんじゅうたいとっげき そうれっせんし 単身薩摩軍の銃隊に突撃して壮烈な戦死をとげた。 じんか じゅうほうげきせんか しがいせん 伏見では市街戦になり、燃えあがる人家のなかで銃・砲撃戦を交わし、また白兵戦をま せいさんたたか じえた凄惨な戦いだった。 ふしみ たたか こ、つしかん こうべきよりゅうちりようじかん ークスとサト 伏見の戦いのあいだイギリス公使館を、神戸居留地の領事館において、 せんきよう ウはそこにひそみ、戦況をうかがっていた。 はなあ しよるい ぐんかん 戦火がひろがってくるなら、書類を沖にいる軍艦にはこぶことなども話し合っていたが、 しんしきへいき せいきょ , っちょう へいいん そこまでのことはなかった。兵員はすくなかったが、新式の兵器と訓練を積んだ精強な長 ばくぐんはいそ、つ しゅうしょたいさつまぐん いきお 堵隊と薩摩軍の勢いにおされて幕軍は敗走する。 さい」 あいづへい ふしみ ふんじん ぶぎようやしきた 伏見で最後まで奮迅したのは、奉行屋敷に立てこもる会津兵や新選組など数百名である。 ふしみ せんか せいえい も おき き かえ くさ うたが しんせんぐみ くんれんっ すうひやくめい は く せ ん 131